北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

吉村事務所の、、、

2014-10-01 16:22:43 | 日記
行って来ました、模型のアルバイト、1974年頃の話、、。指定された場所は、赤坂一ツ木

通りのTBSの横の坂道を、(たしか極東ボクシングジム発見、ボクシング好きだったもの

で、、、でも吉村先生とボクシングの組み合わせがなんか変、、、)登りつめたあたりの

左側、今のTBSビッグハットの場所?。砂利と雑草?の原っぱの奥に、なにか怪しげな敗戦

後の「焼けビル」(と言っても若い人は判らないだろうが、戦災で焼けたビルが東京中あ

ちこちあったの、、、内幸町とか神田のあたりとか、、、)のようで、何だか中華風の、

東亜書院とでも言うか、ヘンテコな、だけどそんなに大きくはない瓦屋根(だったかな?)

RCの建物。向かって左側の、人研研ぎ出しの手摺り(だったかなー?)の狭い階段を4階まで

上がると狭い踊り場。(もちろんエレベーターなんてない。)ドアを開けると、そこは別世

界。吉村順三設計事務所。もとは講堂か何かだったらしく(このあたりは御茶ノ水の文化

学院みたいな感じ。)、屋根なりの天井は中央がかなり高くなっていてコンクリートの

太い登り梁ごと、コルク粒入りのアイボリー色のVPが全面吹き付けられている、、、。

その天井高のある中央部分が、木造で2層になっていて、狭い階段あがった上が模型製作

のアルバイトスペース。見下ろすと、幾多の大先輩達が吉村先生の図面を書いた製図版が

ずらり、、、。圧巻。吉村先生の部屋はというと、何もない屋上テラスかなにかの上に後

から木造で増築したらしき一部屋、、、。質素。(たしか、後からの増築だからか、床が

一段上がっていたような、、、。)で、作った模型は熱海の某F観光のマンション。担当は

今でも顎にひげがあるらしい藤井章さん。何日かして最後は徹夜で完成。朝早く、「どれ

どれ」って感じで、吉村先生と藤井さんが階段上がってきた、、、。一緒に模型作ってい

た同級生のM君に「おい!順ちゃんだよ!」お二人が何を話されていたか、今は全然覚え

ていません、、、。(でも、その模型が今でもどこかにあれば、模型の裏側に僕とM君の

名前と日付があるはずなんですけど、、、。)

何年かして、その頃住んでいた早稲田から江古田のある設計事務所のアルバイトの帰り、

目白の住宅街を散歩よろしく歩いていたら、住宅街の角地に、なにやら入り口のアプロー

チと玄関廻りが、ただならぬ、尋常ではない、物凄くセンスの良い建物を発見。さりげな

い入り方、塀と古い樹木の組み合わせ、少し巾の広いスチールドアには、シャープなディ

ティールのガラスのスリット。ドアのレバーハンドルは堀商店、、、。(確か、、、、。)

ただものではない、、、こんな設計の上手な人がいたんだ、、、、。それからは毎日、帰

りは、その建物の前でため息、、、。よっぽど、そのドアを開けて、「すいません。こち

らの建物の設計者の方はどなたですか?」聞こうと思ったが、果たせず、、。ところが、

ある時、その、さりげない塀に、さらにさりげなく付いている、目立たない表札に気付

く、、、。吉村順三設計事務所。知らなかった、、、、赤坂から目白に引っ越していた

なんて、、、、。





    


     http://blogs.yahoo.co.jp/wattojunkyard/25439802.html

     東京 街歩き 街で見かけた建築  より転載させていただきました。



     (当時、表札は写真の位置ではなく、アプローチを玄関ドアの方に入って

      行って右側の塀に、さりげなく付いていた様に記憶しているのですが、

      違っていたかなぁ、、、? むかって左の樹の幹も、こんなには太くなく

      て、コンクリートの塀との間にも隙間があったような気がするんですけ

      ど、、、。今なら喰い込んでしまっている感じ、、、。)



      




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京オリンピックの頃

2014-10-01 03:25:11 | 日記
昭和39年当時、木造住宅の坪単価は坪五万円前後だったか、、、40坪なら200万円くら

い、、、確か、現代教養文庫と言う文庫シリーズの中の、吉家光夫さんと言う名前の著者

の、「住まいの設計」と言う本が何故か家にあって、夏休みなんか子供の癖に飽きもせず

に何度も何度も読んでいた、、、。「小卓のある住宅」とか「和室ばかり六部屋の住宅」

とか言うタイトルが付いて、いろいろな小住宅が紹介されていた。だけど、平面プラン

だけで写真は一切なし、設計者の名前も紹介されず、その代わり住んでいる人の短いコメ

ントだけが付いていた、、、。今の住宅雑誌でも、実際に住んでいる人のコメントなんて

ほとんど載っていない、、、。別冊新建築の日本現代建築家シリーズ⑦の吉村順三先生の

号の巻末に、矢吹さん、柳田さんなどの実際の住まい手のお話が載っているのを読んで、

久しぶりに嬉しくなったのを覚えている。我が家には、もう一冊、こちらは主婦の友社か

どこかの、確か「今日の住宅38集」とか言うタイトルの、文字通り38軒の住宅が紹介され

ている本があって、こちらも擦り切れるほど読んだ。小田原(板橋)の長谷川如是閑さん

の家(八旬荘)とか、東大総長の茅誠司さんの家などが紹介されていて(茅誠司さんの家の

設計者の金沢庸冶さんが、後で自分の大先輩になるとわかったのは後々のこと、とても良い

プランの家でした)、中には、白井晟一さんの「姉妹の家」も紹介されていて、これには非

常に良いパースが付いていて、38軒の中では群を抜いていると感じた。(「姉妹の家」は

秋田出身の姉妹の家を、秋田の大工さんが、湯沢かな?、秋田の材料で、世田谷か何処か

に建てた家で、今は移築されているようですが、白井晟一さんらしい、完成された小住

宅です。)しかし、この38集の38軒の家は、いま考えると玉石混合と言うか、現在で言う

と、建築家向けの住宅専門誌の住宅と一般読者向けの普通雑誌の住宅が、「ごちゃまぜ」

になっている印象で、当時は今のような「不思議な」建築ジャーナリズムは、世の中

に無かったのですね、、、。そのあと、清水一さんと言う方を知って(清水さんなのに何

故か大成建設、ホテルニューオータニを設計された方。)、「すまい今昔」とか「すま

ひ読本 人の子にねぐらあり」などの著書を読み、西山荘がどうした、浄瑠璃寺の馬酔木

がどうだの、「厠」がどうだのになっていったのですが、今の若い人は、こんな本は読ま

ないんだろうな、、、、、、。(でも、日本人で住宅を設計するんなら是非!)



追記  白井晟一さんの「姉妹の家」が紹介されているサイトを見つけました。

    『探し・残す 白井晟一』というサイトで、

    http://www.city-yuzawa.jp/shirai/architecture3.htm

    「姉妹の家」ではなく「試作小住宅」の名前で紹介されています。

    クリックして写真を見て下さい。



    



     



    下の三畳の部屋、大好きです。玄関までのアプローチのコーナーの窓ですね。

    何方か、件のパースをインターネットに載せてくれないかな、、、。



      .



   追記  湯沢市役所のホームページで紹介されています。台所を増築したような、、、?

       (たしかに、当時の白井住宅には、台所の猛烈に狭いのが何軒かある、、、。)

        南北もチョッと違うような、、、、?


       





 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする