Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

各国料理

2011-04-03 22:49:12 | Weblog
本日2度目のupですが、今の気持ちを忘れないうちに書きつけておこうっと。

色々な国の料理を食べてみたいなあとは前から思っていたんですが、きのうテレビでノルウェーを紹介する番組が放送されていたのを見て、ああ北欧料理もいいよなあ、と思って検索してみたら、どうやら東京にあるみたいですね。で、他の国の料理も色々とあるようです。

↓で東京にある世界各国の料理店について知ることができます。
http://www.e-food.jp/rest/index.html

スイス料理なんかは、値段もまあまあ手軽でよいのではないかと。目安は4000円なので。日本にとってはマイナーな国の料理を是非食べてみたいですね。しかしノルウェーも捨てがたいな。ポーランドのダイニング・バーが渋谷にあるらしいですけど、どんなお店なのかな。HP見てもよく分からん。北欧、中欧、東欧あたりがいいなあ。あるいはアイスランド料理とか。アラスカ料理店なんてのも噂ではあるらしいのですが・・・気になる。う~む、行きたいな・・・

少年少女

2011-04-03 16:06:49 | 音楽
「今まさにヒットを放った
4番バッターのあいつは
一年後の冬に
飲酒運転で事故って死んだ
そのとき誰もが
あまりの空っぽに立ちつくしていた
母さんが汚れたバットを
抱きながら泣き叫んでいた」


amazarashiは、過去や思い出を否定するというか拒絶する歌をよく歌いますけども、この『少年少女』という歌を聴いていると、その理由がよく分かるような気がします。


「思い出なんて消えてしまえ
どうせ明日が続くなら
思い出なんていらねえよ
この足を重くするだけの感傷ならどぶ川に蹴り捨てた
それでも それでも
涙が涸れることはないから
せめてぼくは笑いながら泣いた」


過去と現実との断絶。あの4番バッターの笑顔、はしゃぐ姿が、1年後には冷たく凍りついて、嗚咽と慟哭を誘うばかりになっている。この、断絶。このエピソードが象徴的にその深淵の存在を物語っていますが、困難な現在と格闘する今、思い出はただ苦しみを増すだけなのか。人を癒し、慰め、元気づけてくれるものなのではなく、現実を一層重苦しくするだけなのか。

思い出に頼って生きる人も、思い出を振り切って生きる人も、共に過去と現実との相克に悩む人です。現実に傷ついている人です。たとえ生き方は違っても、両者は深いところで繋がっている。ぼくは過去にすがる傾向がありますが、でもだからこそ、amazarashiの歌詞にも共鳴するのかもしれません。

闇夜の黒牛

2011-04-03 00:58:16 | Weblog
昔読んだとんちの漫画に、こんな話がありました。

宿屋で男が休んでいると、そこへ画家だと名乗る別の男がやってきた。最初の男は負けじと自分も画家だと言ってしまう。では描いた絵を見せ合うことにしようという話になり、本物の画家は水浴びの情景を描いて男に見せる。彼はそれをもっともらしく批評する。それではあなたの絵を見せてもらいましょう、と画家が男に要求すると、彼は墨で真っ黒に塗りつぶした一枚の紙を示しただけ。
「これは一体なんですか」
「闇夜の黒牛ですよ」

闇夜の黒牛。
なるほど、それでは確かに紙一面が黒で塗りつぶされていて当然。おもしろいとんち話ですね。

ところで、ロトチェンコというロシアの画家/デザイナーは、20世紀初めに「黒の上の黒」という絵を展覧会に出品しました。これは、やはりロシアの画家マレーヴィチの「白の上の白い四角形」をパロディにしたものだとされますが、要するに、一面白ないし一面黒の絵です。彼らの試みはロシア・アヴァンギャルドと名付けられていますが、それは絵画の根源を探求し、絵画の存在自体を問うものでした。

いわば「絵画の死」を実践してみせたマレーヴィチの「絵画」は、かなり大きな問題系を孕んでいることは疑いなく、その実験精神はやはり20世紀前半にロシアで見られた「物語の死」あるいは「物語ることの不可能性」を実践した作家らにも受け継がれていると見るべきでしょう。

ところがぼくは思うのですが、そのような壮大な実験にもかかわらず、彼らの作品はある意味で「闇夜の黒牛」であったとは言えないのでしょうか。つまり、「とんち」の域内にある、滑稽な試みだったと。激動の時代を背景にして、そしてマレーヴィチの絵画に対する探究心の果てに辿り着いた境地であることは理解しているつもりですが、真面目くさって「絵画の死」を論じることに、ぼくは少し抵抗を感じてしまう。これは、ちょっと滑稽な絵画なのではないか。笑いと真面目とが紙一重になっているこの現象は、とても興味深い。

アヴァンギャルド芸術を理解できていないことを百も承知で言うならば、アヴァンギャルド芸術には幾許かの滑稽味があるように思えてなりません。それを理論武装して鹿爪らしく論じるところに、ぼくは何となく違和感を覚えてしまう。構成主義にしても、未来派の絵画にしても、笑っちゃう表現が幾つも目につきます。ぼくの芸術への決定的な無理解のせいなのか。それとも、「闇夜の黒牛」なのか。
「これは一体なんですか」