Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

複数性としてのamazarashi

2011-04-13 01:59:17 | 音楽
amazarashiの話題が多くてどうもアレですが、気にせず書きます。

このバンドのヴォーカル秋田ひろむさんの特色として、まず地声による一続きの歌唱があり、第二に高音(裏声)の美声があり、第三に張りつめたシャウトがあるように思います。そしてそれらの個々の特色が、それぞれBUMPや尾崎に対応しているため、このバンドが彼らと比較されうる要因になっているのでしょう。しかしながら、端的に言えば、秋田さんは3つの異なる声を持っており、そしてこの3種の総合にこそamazarashiのamazarashiたる由縁があるように思います。彼はその声を歌によって当然使い分けており、したがって歌によってそれらの要素の比重は大きく変わります。例えば「光、再考」は第一の声、「真っ白な世界」は第二の声、「無題」は第三の声、というふうに大まかな分類が可能でしょう。もちろん、「隅田川」や「少年少女」のように複数の種類の声が溶け合った歌も多く存在しますし、たった一種類の声のみで歌われた歌を探すのは困難です。

このように、歌声を個性だとするならば、秋田さんには複数の個性が備わっているとみなすことができます。ここで興味深いのは、バンドのPVないしMVとして映像化された幾つかの映像作品に、ほぼ共通して現われる「てるてる坊主」です。彼は三つの目だけの顔、蛸の足としての顔、花としての顔などなどを秘めており、いわば複面の謎の存在です。顔が個性の比喩であるとしたら、この個性の複数性は、そのまま秋田さんの歌声の複数性とリンクしています。

もう一つ興味深いのは、このバンドの歌詞です。多くが背徳的で悲劇的、残酷な詩ですが(そして一方では優しいメロディラインに乗った切ない別れの詩もあるのですが)、そこには引用が非常に多い。「雨にも負けて風にも負けて」、「ハックルベリー」、「殺人を夕陽のせいにする」などの文学的引用から、「さくら」、「隅田川」などの題名の音楽的引用、「カラシニコフ」や「通り魔」などの時事的引用がしばしば見られます。amazarashiは、果たして自らの言葉で歌を歌っているのか?これは、ぼくの当初からの疑問でありました。様々な引用をパッチワークのように繋ぎ合わせて、それを卓越した歌の技術でうまく織り上げているのではないか、そのように感じることもあったのです。

しかし、これはamazarashiらしい「外在化」ないし「表面化」なのでしょう。つまり、人間というものが複数の個性の束に過ぎないということ、一貫した個性などは幻想であり、他者の引用によって織り上げられている布なのだということを、外在化ないし表面化させているのではないでしょうか。引用の多さは、確かに自らの内部で生じた感覚を自らの言葉に託していないのではないか、という誤解を招きがちですが、しかしその自らの言葉という概念が幻想に過ぎないのだとしたら。あるいは、ぼくはこうも考えます、それでもamazarashiは自己というものを信じており、それゆえにこそ、自己が複数に分解してしまうことに抗い続けているのだと。自らの声で歌いたいと必死になって複数の引用から成る歌詞を複数の声で歌う。この逆説がamazarashiの格闘の凄まじさを照射しているようにも思うのです。

amazarashiが自己の複数性というものに自覚的であるかどうか、それは分かりません。しかし、このバンドの持つ複数性の刻印はもはや消し去り難く、彼らが「薄弱なアイデンティティ」と歌うとき、自らの存在に苦悩する人間の姿が暗闇にほんのりと浮かび上がる気がするのです。新しい時代の人間像というのは、パッチワークとしての自我たらざるをえないときがありますが、しかし秋田さんの声を聞いていると、そうして出来上がった自我がまるで一続きの自我、一貫した単一の完結的自我として十分に通用するものになっているのを感じます。いずれにしろ、ぼくはamazarashiの歌を「闘う自我の歌」として聴くときがあるのは、こうした必然があってのことなのかもしれません。