Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

感じたことなど

2011-04-07 00:53:33 | Weblog
自分で書いた論文が自分でよく理解できないというのはどういうことなんだろう、と思う。そこは接続詞入れろよ、とか、その接続詞間違ってるよ、とか、文脈がよく分からん、とか、論理がぶっ飛びすぎだよ、とか、突っ込みどころがたくさんあるのはどうしてなんでしょう。当時はもう訂正するところなんてありえないというつもりで書いたはずなのに。これ以上明晰で簡潔な論文はないような気がして恥ずかしくさえ思っていたのに、後から読むと、やたら難解でまどろっこしくて論理がじぐざぐで、なんてことが往々にしてあります。ブログなんかではそういうことは少ないのですが、論文ではなぜこんなことが起こるんだ?う~む。

震災被害に対して、自分は何をやったのだろうなあ、と考えて少し落ち込む。自分には何ができ、そして実際に何をやったのだろう、と。ぼくはそう体力もないし(筋力がない)、しょちゅうお腹が痛くなるので被災地で肉体労働のボランティアという仕事はかえって迷惑だろうなあ。では援助物資を送ったかというと、そんなことはしていないです。何もやってないじゃないか・・・!落ち着こう、今は節電だ、と自分に言い聞かせていただけで、被災地のためになることは何もしていない・・・。う~む。

人間性がしっかりしていないのだなあ、と思いましたね。少なくとも立派な人間ではないですね、ぼくは。これまで自分では、取り立てて大きくいびつな人間的欠陥はないだろう、と漠然と自分のことをみなしていたわけですが(多くの人はそうですよね?)、震災があってからは、その判断も揺るがざるをえませんでした。でも、待てよ。ぼくは嫉妬することもあるし、異常に無気力だし、受動的だし、人見知りだし・・・と様々な欠点はこれまでも自覚していたなあ。いや、しかし、それくらいは皆同じだろうくらいに考えていたんですよね。ところが今回のことがあって、行動している人はちゃんといるんだということが分かり、ぼくは正直驚いたわけです。皆同じじゃないではないか!ぼくは自分のことをまあまあバランスが取れていると感じているのですが(突出した能力がないということ、また普通の庶民だということをポジティブに言うとこうなる)、実はかなり小さくまとまっているだけなんじゃないか、と今回のことで思い知らされました。石ころみたいなもんですよ、ぼくは。ところがいざ周りを見回してみると、そこにはごつごつの岩山もあるし、ダイヤモンドもサファイアもあるし、隕石だってあったわけです。「あっ」と思いましたね。皆こんな立派だったのか、と。

自分のやるべきことをやればいいのだ、とよく分からずに唱えていましたが、学生が家でぼんやりと本を読んだりネットで遊んだりしているのが何の役に立つのでしょう。ただ自分の無為を正当化するためだけだったのではないでしょうか。もっと行動を起こすべきではないのでしょうか。でも、何を?ぼくは自分が何をすべきなのかさえ分かっていない!

なんて小っぽけな人間なんだろう。これほど無力な、あるいは無力と決めつけている、ぼくの卑小さ。論文を書いたり、書くための準備をしたり、そのことで悩んだりしている場合なんだろうか。これが自分のなすべきことだとしたら、ぼくという存在は一体なんなんだろう。いずれ人文学の力が求められるようになるとしても、ぼくはその一助となりうるだろうか。そのために今は研鑽すべきなんだろうか。人間性を磨くことが先決ではないのか。いやそれらは同時に行うべきなのか。

自分が何者にもなりえていないということを、ぼくは今日まで楽観視していました。でも今は初めてそのことに焦りを感じる。なぜぼくは未だ何者にもなりえていないのか。そしていずれなりえるのだろうか。もしなりえないとしたら、ぼくは一生を小っぽけな人間として過ごすことになるでしょう。それでいい、と思っていました。でも今は、いいのかな、と疑念が頭をもたげます。現に立派な人がいるのに、お前はただ逃げているだけではないか、と。ああ、震災は人間性を炙り出す。