Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

複数性としてのamazarashi

2011-04-13 01:59:17 | 音楽
amazarashiの話題が多くてどうもアレですが、気にせず書きます。

このバンドのヴォーカル秋田ひろむさんの特色として、まず地声による一続きの歌唱があり、第二に高音(裏声)の美声があり、第三に張りつめたシャウトがあるように思います。そしてそれらの個々の特色が、それぞれBUMPや尾崎に対応しているため、このバンドが彼らと比較されうる要因になっているのでしょう。しかしながら、端的に言えば、秋田さんは3つの異なる声を持っており、そしてこの3種の総合にこそamazarashiのamazarashiたる由縁があるように思います。彼はその声を歌によって当然使い分けており、したがって歌によってそれらの要素の比重は大きく変わります。例えば「光、再考」は第一の声、「真っ白な世界」は第二の声、「無題」は第三の声、というふうに大まかな分類が可能でしょう。もちろん、「隅田川」や「少年少女」のように複数の種類の声が溶け合った歌も多く存在しますし、たった一種類の声のみで歌われた歌を探すのは困難です。

このように、歌声を個性だとするならば、秋田さんには複数の個性が備わっているとみなすことができます。ここで興味深いのは、バンドのPVないしMVとして映像化された幾つかの映像作品に、ほぼ共通して現われる「てるてる坊主」です。彼は三つの目だけの顔、蛸の足としての顔、花としての顔などなどを秘めており、いわば複面の謎の存在です。顔が個性の比喩であるとしたら、この個性の複数性は、そのまま秋田さんの歌声の複数性とリンクしています。

もう一つ興味深いのは、このバンドの歌詞です。多くが背徳的で悲劇的、残酷な詩ですが(そして一方では優しいメロディラインに乗った切ない別れの詩もあるのですが)、そこには引用が非常に多い。「雨にも負けて風にも負けて」、「ハックルベリー」、「殺人を夕陽のせいにする」などの文学的引用から、「さくら」、「隅田川」などの題名の音楽的引用、「カラシニコフ」や「通り魔」などの時事的引用がしばしば見られます。amazarashiは、果たして自らの言葉で歌を歌っているのか?これは、ぼくの当初からの疑問でありました。様々な引用をパッチワークのように繋ぎ合わせて、それを卓越した歌の技術でうまく織り上げているのではないか、そのように感じることもあったのです。

しかし、これはamazarashiらしい「外在化」ないし「表面化」なのでしょう。つまり、人間というものが複数の個性の束に過ぎないということ、一貫した個性などは幻想であり、他者の引用によって織り上げられている布なのだということを、外在化ないし表面化させているのではないでしょうか。引用の多さは、確かに自らの内部で生じた感覚を自らの言葉に託していないのではないか、という誤解を招きがちですが、しかしその自らの言葉という概念が幻想に過ぎないのだとしたら。あるいは、ぼくはこうも考えます、それでもamazarashiは自己というものを信じており、それゆえにこそ、自己が複数に分解してしまうことに抗い続けているのだと。自らの声で歌いたいと必死になって複数の引用から成る歌詞を複数の声で歌う。この逆説がamazarashiの格闘の凄まじさを照射しているようにも思うのです。

amazarashiが自己の複数性というものに自覚的であるかどうか、それは分かりません。しかし、このバンドの持つ複数性の刻印はもはや消し去り難く、彼らが「薄弱なアイデンティティ」と歌うとき、自らの存在に苦悩する人間の姿が暗闇にほんのりと浮かび上がる気がするのです。新しい時代の人間像というのは、パッチワークとしての自我たらざるをえないときがありますが、しかし秋田さんの声を聞いていると、そうして出来上がった自我がまるで一続きの自我、一貫した単一の完結的自我として十分に通用するものになっているのを感じます。いずれにしろ、ぼくはamazarashiの歌を「闘う自我の歌」として聴くときがあるのは、こうした必然があってのことなのかもしれません。

動画upテスト

2011-04-12 14:48:59 | アニメーション
FACT - 'Behind A Smile'


さっき、動画をうまく埋め込めなかったので、テストです。
アフロサムライのスタッフが作ったというPVをupしてみました。

あ、ちゃんといつも通りできてました。
ということは、さっきの動画はブログなどに埋め込んではいけないやつだったのか。公式の動画なんですけどね。
でも再生ボタンを押してもらえればYouTubeに飛ぶようになっているので、問題ないです。

元気の出る動画

2011-04-12 14:41:07 | Weblog
BEN*JAMMIN - "Spring"


元気の出る動画です。
1年ちょっと前にメディア芸術祭で観て、それ以来のこの動画のファン。
ただ、おかしいな、何度試してもこのブログ内で動画が以前のように見れるようにならないのですが・・・。いずれにしろ再生を押してもらえればYouTubeで視聴できるようになりますが。

ロシア語を勉強しよう

2011-04-09 17:01:45 | お仕事・勉強など
前に、最近はロシア語の学習書の種類が増えた、というようなことを書いたような気がします。自分が勉強を始めた頃はこんなになかったのに、とちょっと恨みがましく書いたのですが、ちょっと待てよ。今から勉強すればいいじゃないか!

そうだ、いつの間にかこんなに参考書が出ているのだから、今からやればいいじゃないか。もったいないじゃないか。ぼくがこれらの参考書を使わずに、誰が使うのだ、というくらいぼくにはこうした教材が必要なんじゃないのか。

実際にロシア語の文献を読むことによって力が付いてゆくものなのだよ、とよく言われますが、しかしなかなか読む習慣は続かないし、会話力もつかないし、単語は覚えられないし、こういう実践的な勉強法は自分には向いていないんじゃないかと密かに思っていました。だから、一方で単語や例文を覚え、一方で実践的に文献を読んでゆく、というふうにすればいいんじゃないのか。そうだよ、そうだよ、とは前々からやはり密かに思っていましたが、なんとなく無気力なぼくは何も行動を起こしませんでした。ロシア語学習の古典『ロシア語を話しましょう』は身につかなかったけど、今風の参考書だったら、楽しく勉強できちゃうかもしれないよ。そうだよ、きっとそうだよ。

よし、近いうちに紀伊国屋とかでロシア語の参考書を漁ってこよう。

よくよく考えてみると、ぼくがロシア語を話せないのは、そういう勉強をしたことがないからですよ、きっと。そうだ、確かに一度も会話の例文みたいなのを覚えたことがないぞ。まあ会話の授業には出てたけど・・・いやでもそれは週1だしな!あんまり効果ないんだよ、きっと。
単語力がないのは、『ロシア語重要単語2200』から前に進んでないからだよ、きっと。これは覚えたけど、あとは自覚的に単語を覚えようと努力したことないじゃないか、お前さん!

というわけで、ロシア人が何を言ってるのかはよく理解できないけど、少なくとも自分の最低限の主張は聞いてもらえるように、会話に使える例文や単語をちょっとずつ覚えていこうと思います。聞き取りの訓練は・・・そうだ、ぼくが聞き取りが苦手なのは、CDで練習していたのはたった1カ月だったからじゃないのかな。もっとやらなきゃだめだよな。いくらなんでも、1カ月でできるようにならないから諦めるのって早すぎるよな。

1か月聞き取りの練習して、でも成果が見えなくて、ああ自分には才能がないと思って投げやりになって・・・これはダメ人間もいいとこだな!そうだよ、自分ではけっこう勉強した気になってたけど、よく考えたら何もやってないに等しいじゃないか。確かにぼくと同じことをやってるのにもかかわらずやたらできる人はいますよ。ええ、それは認めましょう。でも、その人が凄すぎるだけなんだよ、きっと。そういう連中はほっときましょう。

あとは、この「にわかやる気」がいつまで続くか・・・というのが問題。経験的には、今日の20時くらいまでかな・・・

後塵を拝して

2011-04-08 17:01:44 | 文学
名前は出さないでおきますが、1年ほど前、いつも拝見しているブログのテーマは、いつも自分が遅れてやってくることについて、でした。今日再びその記事を見、当時のぼく自身のコメントを読む返してみると、そのテーマがぼくにとっても非常に身近で、切実なものであったことが窺われます。でも、ぼくには本当のことが分かっていなかったのだ、と自分の些か楽観的なコメントを読みながら心の中で赤面するのです。

ぼくはいつも遅れてやってくる。

これまでぼくは専門というものを持たず、そのとき興味のあったものを気儘に研究対象としてきて、卒業論文なり修士論文なりに仕上げていました。いちおうその中心にロシア文学というものが鎮座していたとはいえ、取り上げた領域は幅広く、ゴーゴリやバルザックからロシア・アヴァンギャルドやソローキン、更にはシュルレアリスム、ミメーシスから読者反応理論、翻訳論に反復論に笑いの理論、といったふうに、ほとんど雑多なほどでした。その過程で日本のロシア文学翻訳の歴史を勉強したし、日本における風刺文学の位置づけについて本を読んだりと、ロシア文学というよりは日本文学の勉強に重きを置いていた時期もありました。ところが博士課程に進学するに当たり、自分も人並みに専門領域を持つことに決め、20世紀前半を生きたロシア人作家を対象に定めました。ぼくの苦悩は、思えばここに始まったのかもしれません。あるいは、ぼくの自覚は。

最初に端的に言えば、専門性の欠如にぼくは悩むようになりました。時代からして、ロシア・アヴァンギャルドについてぼくは詳しく知らなければならないはずなのですが、あまりにも知識が不足しているのです。確かに若干は勉強の経験もありますが、到底ドクターに要求されるレベルは下回っています。だからぼくはこれから大量の文献を読まなければならないのです。しかし、ここで幾つもの問題が浮上しました。例えば「日本語の専門書を読む時間を十分に確保できないこと(つまりロシア語の勉強/読書等に時間を回したい)」、「体調不良による読書時間の削減が避けられないこと」、「その作家に関する専門書を読むのに時間を使いたい」などに集約される諸問題なのですが、このうちの一つに、「後追いの苦悩」がありました。

なぜ今更ぼくはこんな初歩的なことを勉強しているのだろう?こんなことは、学部生だって常識で知っているんだぜ?ドクターにもなってお前は何をやっているんだ?こうした疑心に苛まれるようになりました。『ロシア・アヴァンギャルド』という8巻本をご存知の方は多いでしょうが、ぼくはあのシリーズを読破していないし、今後も読破することはできないでしょう。でも、読破している人は確実にいるし、そういう人たちの後をぼくは死ぬまで追い続けなければならないのです。確かに、仮に読破したところで、半分以上の内容は忘れ去ってしまうでしょう。けれども、全体的な見取り図は頭の中に出来上がるはずだし、膨大な量であればそれだけ忘れる量が多いとしても、定着する量も多いのです。礎石が不安定な家の住人のように、ぼくは常に不安に怯え、何かの拍子に僅かな知識が暴露してしまうことを極度に恐れます。

では読破すればいいではないか、と人は言うでしょう。しかし今のぼくの体調ないし心持ちではそれはまず不可能であり、先ほど書いたようにそうするだけの時間もなく、第一、それをしたところで、既読の人たちが更に更に先へと進んでいってしまうのが怖いのです。ぼくは一生彼らに追いつけない。

遅れていることを知りながら、追いつけないことを知りながら、頑張って走り続けることは可能なのでしょうか。己の分を知っている人ならば、自らのペースを守り続けて、走ってゆくことができるのかもしれません。でも、それは「落後者」ではないですか。この残酷な表現を使うことに、かなり躊躇いがあるのは事実ですが、しかしトップランナーとそれ以外の人たちがいるというこの現実世界で、「それ以外の人たち」は、もしもトップランナーたちと同じレースに参加しているのであれば、落後者に他ならない気がします。違うレースであれば、いいのです。でもぼくは、彼らと同じレースを走っているのです。その中で、自分のペースで走り通すこと、これはすなわち自らの負けを受け入れ、敗残の姿を衆目に晒すことなのではないか。「ロシア・アヴァンギャルド時代の研究」というこのレースで、ぼくは確実に誰よりも遅れて走っている。そして追いつける見込みもない。ぼくは、ぼく自身のレースに参加したいのに。ぼく一人だけの、ぼくだけに用意された、ぼくだけが走るレース。でもいつの間にかぼくは応援すら途絶えた道路を、大勢の足跡だけを辿って、ひたすら走らされている。こんなこと、望んではいなかった。知らなかった。なぜなんだ?いきなり放り出された場所が、最後尾だったなんて!

ぼくは常に既に遅れている。だからぼくはこのレースから折りを見て抜け出そうと思うのだ。抜け道が幾つかあるのをぼくは知っている。勝てないレースを笑いながら走ってやるほどぼくはお人よしじゃあない。そうだ、ぼくはぼくだけのレースを走る。

「人間は霧のなかを進む者である」

2011-04-08 00:04:20 | 文学
まず、引用します。

「人間は霧のなかを進む者である。しかしうしろを振り返って過去の人びとを裁こうとするときには、途中にどんな霧も見えない。かつて過去の人びとの遠い未来だった現在から見ると、彼らの道はまったく明るく、その広がりがすっかり見渡せるように思える。人間がうしろを振り返ると、道が見え、そこを進んでくる人びとが見え、彼らの誤りが見えるが、そこにはもはや霧はなくなっているのだ。しかしながらハイデガー、マヤコフスキイ、アラゴン、エズラ・パウンド……みんなが霧のなかを歩いていたのである。そこでひとはこう自問してもいい。いったいだれの眼のほうが見えないのだろうか、と。レーニンについての詩を書きながら、レーニン主義がどこにひとを導くのか知らなかったマヤコフスキイだろうか?それとも、数十年の隔たりを置いて彼を裁き、彼を包んでいた霧が見えないわたしたちのほうなのだろうか?
マヤコフスキイの迷盲は、永遠に変わらぬ人間の条件の一部である。
マヤコフスキイの途上に霧を見ないこと、それは人間のなんたるかを忘れることであり、わたしたち自身のなんたるかを忘れることなのだ。」
(ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』)

桑野隆『夢みる権利』の最後から2ページ目を読んでいたら、突然この文章と出会いました。したがって引用はクンデラから直接引いたものではなく、この本からの孫引きです。

まさに、蒙を啓かされた。ぼくには霧が見えていなかった。いや正確に言うなら、眼前の霧しか見えておらず、過去の霧を忘れ去っていた。

次のことは、親しい人の間でしか話したことのない、けれども非常に率直なぼくの思いなのですけれども、ぼくはアヴァンギャルド時代を専門領域としてカヴァーしなければならないのにもかかわらず、アヴァンギャルド文化が好きになれないでいました。例えばマレーヴィチの絵画はぼくには意味不明でときに荒唐無稽に見えたし、マヤコフスキイの詩はあまりにも無邪気に革命を賛美しすぎているように思えました。大勢の芸術家たちが政治の革命を挙って称賛し、そしてその革命の帰結として弾圧され、殺されました。なぜなのだ?なぜ彼らには分からなかったのだ?ぼくには不思議で仕方なかった。アヴァンギャルド芸術が政治に利用されたのであれ、それとも全く理不尽に弾圧されたのであれ、それともアヴァンギャルド芸術の延長線上に死が待ち受けていたのであれ、あれほど熱狂的に革命を受け入れ、「ぼくの革命」とまでみなしたマヤコフスキイたちの純情と情熱が、ぼくには理解できなかった。

でも、彼らもぼくらと同じだったのだ。同じように、霧のなかを進んでいたのだ。
アヴァンギャルドのみならず、ぼくらが過去の人々を断罪するのは容易い。なぜあんなことをしたのか。どうしてその道に進んだのか。ああすればよかったのに、こうすれば正しい道に進めたのに・・・。悪路だと知っていてその道をあえて歩む人はもちろんいるでしょう。でも大多数の人たちは、そうではない。霧の中を歩んでいるのです。どちらが正解かなんて、分かるはずがないんです。

過去の人々の業績を振り返って、あの人はすばらしい、あの人は愚かだ、とぼくらは何の反省もなく言葉にする。でも、その境目は一体なんですか。霧の中を正確に見通す眼を持っている人なんて、いやしないのです。称賛するのも貶下するのも、ぼくらの傲慢に過ぎません。彼らは彼らなりの道をただ進んでいただけなのです。それを論う資格などぼくにはありません。

いま、マヤコフスキイの情熱がぼくの目に眩しい。いずれ革命に裏切られることを知らない、彼の狂おしい熱意!彼の革命翼賛的な創作を笑うことはもちろん、手放しで褒め称えることもぼくにはできない。ただ、その純粋で燃えたぎる情熱が眩しい。ひょっとすると、この熱情にほだされて、この時代の文化を研究する人もいるのではないでしょうか。

霧の中を自由奔放に駆け巡り、文字通り懸命に生きた人たちの群像。ああそうか、生きるというのはこういうことなのか。

このブログを書いているとき、東京でまた大きな地震がありました。宮城県で震度6強を観測したという情報だけ得ました。この先日本がどのような道を進むのか、正直ぼくには分かりません。文明の岐路なのかどうかも、多くの人とは違ってぼくには判断できません。ただ、先行きは霧の中だけれども、マヤコフスキイのように命を燃焼させよう、と思うのです。いま歩んでいる道が正解かどうか、劣悪な死に向かうのかどうか、それとも幸福への近道なのかどうか、まるで見当もつかないのですが、どの道を選んだとて、それがぼく自身の命を燃焼させた結果であれば、誰にも断罪できるものではない!では、どのように命を燃焼させるか――まさにその答えを探し続けるところに、ぼくは命の燃焼を見るのです。

感じたことなど

2011-04-07 00:53:33 | Weblog
自分で書いた論文が自分でよく理解できないというのはどういうことなんだろう、と思う。そこは接続詞入れろよ、とか、その接続詞間違ってるよ、とか、文脈がよく分からん、とか、論理がぶっ飛びすぎだよ、とか、突っ込みどころがたくさんあるのはどうしてなんでしょう。当時はもう訂正するところなんてありえないというつもりで書いたはずなのに。これ以上明晰で簡潔な論文はないような気がして恥ずかしくさえ思っていたのに、後から読むと、やたら難解でまどろっこしくて論理がじぐざぐで、なんてことが往々にしてあります。ブログなんかではそういうことは少ないのですが、論文ではなぜこんなことが起こるんだ?う~む。

震災被害に対して、自分は何をやったのだろうなあ、と考えて少し落ち込む。自分には何ができ、そして実際に何をやったのだろう、と。ぼくはそう体力もないし(筋力がない)、しょちゅうお腹が痛くなるので被災地で肉体労働のボランティアという仕事はかえって迷惑だろうなあ。では援助物資を送ったかというと、そんなことはしていないです。何もやってないじゃないか・・・!落ち着こう、今は節電だ、と自分に言い聞かせていただけで、被災地のためになることは何もしていない・・・。う~む。

人間性がしっかりしていないのだなあ、と思いましたね。少なくとも立派な人間ではないですね、ぼくは。これまで自分では、取り立てて大きくいびつな人間的欠陥はないだろう、と漠然と自分のことをみなしていたわけですが(多くの人はそうですよね?)、震災があってからは、その判断も揺るがざるをえませんでした。でも、待てよ。ぼくは嫉妬することもあるし、異常に無気力だし、受動的だし、人見知りだし・・・と様々な欠点はこれまでも自覚していたなあ。いや、しかし、それくらいは皆同じだろうくらいに考えていたんですよね。ところが今回のことがあって、行動している人はちゃんといるんだということが分かり、ぼくは正直驚いたわけです。皆同じじゃないではないか!ぼくは自分のことをまあまあバランスが取れていると感じているのですが(突出した能力がないということ、また普通の庶民だということをポジティブに言うとこうなる)、実はかなり小さくまとまっているだけなんじゃないか、と今回のことで思い知らされました。石ころみたいなもんですよ、ぼくは。ところがいざ周りを見回してみると、そこにはごつごつの岩山もあるし、ダイヤモンドもサファイアもあるし、隕石だってあったわけです。「あっ」と思いましたね。皆こんな立派だったのか、と。

自分のやるべきことをやればいいのだ、とよく分からずに唱えていましたが、学生が家でぼんやりと本を読んだりネットで遊んだりしているのが何の役に立つのでしょう。ただ自分の無為を正当化するためだけだったのではないでしょうか。もっと行動を起こすべきではないのでしょうか。でも、何を?ぼくは自分が何をすべきなのかさえ分かっていない!

なんて小っぽけな人間なんだろう。これほど無力な、あるいは無力と決めつけている、ぼくの卑小さ。論文を書いたり、書くための準備をしたり、そのことで悩んだりしている場合なんだろうか。これが自分のなすべきことだとしたら、ぼくという存在は一体なんなんだろう。いずれ人文学の力が求められるようになるとしても、ぼくはその一助となりうるだろうか。そのために今は研鑽すべきなんだろうか。人間性を磨くことが先決ではないのか。いやそれらは同時に行うべきなのか。

自分が何者にもなりえていないということを、ぼくは今日まで楽観視していました。でも今は初めてそのことに焦りを感じる。なぜぼくは未だ何者にもなりえていないのか。そしていずれなりえるのだろうか。もしなりえないとしたら、ぼくは一生を小っぽけな人間として過ごすことになるでしょう。それでいい、と思っていました。でも今は、いいのかな、と疑念が頭をもたげます。現に立派な人がいるのに、お前はただ逃げているだけではないか、と。ああ、震災は人間性を炙り出す。

最近買った本と買わなかった本

2011-04-05 23:37:22 | 本一般
イリフ+ペトロフ『十二の椅子』(500円)
シュペルヴィエル『海に住む少女』(300円)
ジイド『ソヴェト旅行記』(300円)
ギンズブルグ『明るい夜 暗い昼』(100円)
今村太平『漫画映画論』(300円)

以上、買った本でした。『十二の椅子』ってもっと希少価値が高いと思っていたんですが、意外と安く手に入ってよかった。まあ既読ですけど。ギンズブルグの本は、続編があると知らずに買ってしまった。なんだ、これ第一部だったのか。ものを知らないというのは恐ろしいことですね。まあ100円ですけど。続編も集英社文庫から出ていますか。出ていたら買おう。

ブリューソフ『南十字星共和国』(5000円)
ピリニャーク『機械と狼』(3000円)
シャガールの絵画(1995円)

以上、買わなかった本でした。上の2冊は既読だし、けっこう高いし。シャガールは迷いましたが、かなり大きな本で、場所を取りそうなことがネックになった。

なんか、単純に安い本ばかり購入しているような気もしますが・・・いま気が付いた。うむ、本当にその通りですね。なんだそういうことだったのか。

そういえば、ロシア関係が多いな。珍しい。

赤糸で縫いとじられた物語

2011-04-04 23:49:37 | 文学
『寺山修司メルヘン全集1』を読みました。
なおこの本、作品発表時の原稿を一部訂正しているらしい。いかなる理由があれ、そういうことはしてもらいたくないと思うのでした。

さて、12篇の「メルヘン」が収められているのですが、どれもおもしろい。奇想に富み、残酷で、美しい。例えば「壜の中の鳥」という作品では、町中の人々が鳥になってしまう、という現象が小さなエピソードの羅列という形式で綴られています。セーラー服の女学生9人がエレベーターの1階から屋上に行くまでの間に9人とも鳥になってしまうし、鳥語の分析をしていた言語学者も鳥になってしまいます。数々のエピソードの最後に用意されているのが、ムギとサキという少年少女の哀しい物語。鳥になってしまったムギと同じように自分も鳥になりたいと、サキは「二度神」という二度だけ願いを叶えることができる神様にお祈りします。その願いを叶えられ、サキは鳥になります。しかしそれと同時に、ムギもまた二度神に願をかけ、人間の姿に戻ってしまったのでした。

ちょっと強引な気もする「すれちがいの恋」ですが、一方でこれは「ひとり」という名の寂しい鳥の話でもあって、言葉遊びのユーモアも漂っているようです。ただ、残酷な恋の悲劇ですけどね。同類の物語はこの本の中にも収録されていますが、シェイクスピアをはじめとしてしばしば見られる恋の物語の類型ではあります。が、「二度神」を急に持ち出してくるあたり、また次々と人が鳥に変わりながら、その現象が決着しないストーリーの運びなど、通常考えられる「小説のいろは」をぶち壊しており、ただの「ひとり」=「寂しい鳥」という一種の言語ゲームを成立させるためだけの小説であるかのような感すら与えています。しかしそれにしては、一瞬のすれちがいが読者の期待を切り裂き、どん底へと落下させるその鮮烈な悲劇性は余りに痛烈で、無慈悲に過ぎる。その意味で、この作品はその物語以上にその存在自体が残酷であると言えるかもしれません。

他には、「かくれんぼの塔」という作品の中の「エンドレス・ゲーム」という章がおもしろかったですね。人生の様々な局面でかくれんぼを繰り返す若い男と年老いた男。

この本には色々な小説のアイデアが鏤められているので、頭脳が活性化させられたような気になります。ぼくの「小説脳」をびしびし刺激してくる。

各国料理

2011-04-03 22:49:12 | Weblog
本日2度目のupですが、今の気持ちを忘れないうちに書きつけておこうっと。

色々な国の料理を食べてみたいなあとは前から思っていたんですが、きのうテレビでノルウェーを紹介する番組が放送されていたのを見て、ああ北欧料理もいいよなあ、と思って検索してみたら、どうやら東京にあるみたいですね。で、他の国の料理も色々とあるようです。

↓で東京にある世界各国の料理店について知ることができます。
http://www.e-food.jp/rest/index.html

スイス料理なんかは、値段もまあまあ手軽でよいのではないかと。目安は4000円なので。日本にとってはマイナーな国の料理を是非食べてみたいですね。しかしノルウェーも捨てがたいな。ポーランドのダイニング・バーが渋谷にあるらしいですけど、どんなお店なのかな。HP見てもよく分からん。北欧、中欧、東欧あたりがいいなあ。あるいはアイスランド料理とか。アラスカ料理店なんてのも噂ではあるらしいのですが・・・気になる。う~む、行きたいな・・・

少年少女

2011-04-03 16:06:49 | 音楽
「今まさにヒットを放った
4番バッターのあいつは
一年後の冬に
飲酒運転で事故って死んだ
そのとき誰もが
あまりの空っぽに立ちつくしていた
母さんが汚れたバットを
抱きながら泣き叫んでいた」


amazarashiは、過去や思い出を否定するというか拒絶する歌をよく歌いますけども、この『少年少女』という歌を聴いていると、その理由がよく分かるような気がします。


「思い出なんて消えてしまえ
どうせ明日が続くなら
思い出なんていらねえよ
この足を重くするだけの感傷ならどぶ川に蹴り捨てた
それでも それでも
涙が涸れることはないから
せめてぼくは笑いながら泣いた」


過去と現実との断絶。あの4番バッターの笑顔、はしゃぐ姿が、1年後には冷たく凍りついて、嗚咽と慟哭を誘うばかりになっている。この、断絶。このエピソードが象徴的にその深淵の存在を物語っていますが、困難な現在と格闘する今、思い出はただ苦しみを増すだけなのか。人を癒し、慰め、元気づけてくれるものなのではなく、現実を一層重苦しくするだけなのか。

思い出に頼って生きる人も、思い出を振り切って生きる人も、共に過去と現実との相克に悩む人です。現実に傷ついている人です。たとえ生き方は違っても、両者は深いところで繋がっている。ぼくは過去にすがる傾向がありますが、でもだからこそ、amazarashiの歌詞にも共鳴するのかもしれません。

闇夜の黒牛

2011-04-03 00:58:16 | Weblog
昔読んだとんちの漫画に、こんな話がありました。

宿屋で男が休んでいると、そこへ画家だと名乗る別の男がやってきた。最初の男は負けじと自分も画家だと言ってしまう。では描いた絵を見せ合うことにしようという話になり、本物の画家は水浴びの情景を描いて男に見せる。彼はそれをもっともらしく批評する。それではあなたの絵を見せてもらいましょう、と画家が男に要求すると、彼は墨で真っ黒に塗りつぶした一枚の紙を示しただけ。
「これは一体なんですか」
「闇夜の黒牛ですよ」

闇夜の黒牛。
なるほど、それでは確かに紙一面が黒で塗りつぶされていて当然。おもしろいとんち話ですね。

ところで、ロトチェンコというロシアの画家/デザイナーは、20世紀初めに「黒の上の黒」という絵を展覧会に出品しました。これは、やはりロシアの画家マレーヴィチの「白の上の白い四角形」をパロディにしたものだとされますが、要するに、一面白ないし一面黒の絵です。彼らの試みはロシア・アヴァンギャルドと名付けられていますが、それは絵画の根源を探求し、絵画の存在自体を問うものでした。

いわば「絵画の死」を実践してみせたマレーヴィチの「絵画」は、かなり大きな問題系を孕んでいることは疑いなく、その実験精神はやはり20世紀前半にロシアで見られた「物語の死」あるいは「物語ることの不可能性」を実践した作家らにも受け継がれていると見るべきでしょう。

ところがぼくは思うのですが、そのような壮大な実験にもかかわらず、彼らの作品はある意味で「闇夜の黒牛」であったとは言えないのでしょうか。つまり、「とんち」の域内にある、滑稽な試みだったと。激動の時代を背景にして、そしてマレーヴィチの絵画に対する探究心の果てに辿り着いた境地であることは理解しているつもりですが、真面目くさって「絵画の死」を論じることに、ぼくは少し抵抗を感じてしまう。これは、ちょっと滑稽な絵画なのではないか。笑いと真面目とが紙一重になっているこの現象は、とても興味深い。

アヴァンギャルド芸術を理解できていないことを百も承知で言うならば、アヴァンギャルド芸術には幾許かの滑稽味があるように思えてなりません。それを理論武装して鹿爪らしく論じるところに、ぼくは何となく違和感を覚えてしまう。構成主義にしても、未来派の絵画にしても、笑っちゃう表現が幾つも目につきます。ぼくの芸術への決定的な無理解のせいなのか。それとも、「闇夜の黒牛」なのか。
「これは一体なんですか」

放浪息子がおもしろすぎた件について

2011-04-01 17:51:38 | アニメーション
ついに最終回を迎えた『放浪息子』。
第1話を見て感激して、それから毎話感激しつづけました。決して中だるみせず、ここまで突っ走ってきたTVアニメも珍しい。各話すばらしい出来で、木曜の夜は容易に寝付けないほど興奮したものです。もちろん昨日も。

いやあ、おもしろかったなあ。演出もキレていたし、繊細なキャラクター描写もよかった。背景も作画もよかった。高槻くんは綺麗でかっこいいし、千葉さんは怖くて綺麗だしね。いいなあ。

男の子になりたい女の子も、女の子になりたい男の子も、ちっとも特別ではなくて、そういうことを特別な問題としてだけ描くんじゃなくて、ありふれた思春期の、中学生の少年少女の問題として、ごく普通の男の子、女の子の問題として淡々と綴っていった様が本当によかった。

こういうすばらしい作品があるんだということに、なんだか勇気づけられる。笑いを爆発させたくなる。歓喜。歓喜。歓喜。

ぼくらは普通で特別で、特別で普通で。そういうことを、性差の問題に託して描いた、と言ったらなんだか身も蓋もないけれど、この切なくて、幸福感に包まれた、痛々しい日常の物語を、とにかく忘れないで生きていたいと思う。