2月5日、国際交流会館で開催されました多宗教セミナー、大変多くのご質問をいただきましたが、時間の関係ですべてに回答ができませんでした。 各宗教のパネリストの方にご回答を下記のとおりいただきました。
3. 仏教
Q1:
三宝印の「諸行無常」と「諸法無我」について。それを「心」で理解するためにはどのような取り組みが必要になるのでしょうか。 また「頭」ではなく「心」で理解できたときどのような心境の変化があったのでしょうか。
A1:
「心」で理解するための取り組みが、日本では各宗派の基礎となっていると思います。道元禅師は「頭」や「知識」での理解を避けるために「坐禅」を只管(ひたすら)行い、そのことで身心脱落=解脱=悟り=佛そのもの になると考えました。しかも、頭で悟りをイメージすることはできないし、そのイメージ獲得の手段として「坐禅」を捉えることを否定して、自らの体現と解脱そのもののの存在への絶対的肯定=信仰としています。私たち禅僧は、道元禅師の教えに従いひたすらに坐るだけです。同様に浄土系仏教では、阿弥陀仏の救済=本願を絶対的な前提と捉え、阿弥陀仏への信仰だけを依り所として、自分の行為を自分で斟酌していること自体を否定しています。
ちなみに、私は禅僧ですので、もし、身心脱落したら大宇宙の摂理と一体化できるかなと考えるのが精一杯で、あとは坐るだけです。
Q2:
聖書、コーランのように仏教では何を読めば教えの根本がわかるのですか。どんな生き方をすればいいと教えているのですか。
A2・
仏教にも原始仏教(小乗仏教)と大乗仏教の二つの大きな流れがあり、それぞれに様々な経典があります。その中で、選ぶのは難しいですが、大乗経典の代表である般若経六百巻のエッセンスとされる般若心経を何度も身体にしみこむまで、読んでみるのも良いんじゃないかと思います。
そこには、目の前にある、色んな苦しみも、悩みも、すべて単なる現象であり 永遠に続く実体ではない、だから、それに拘われず、自分も大自然の現象の一つとして生きているのだと感じて、拘り(=執着)から解放された人生に臨むべきだと書いてあります。
Q3:
どうして仏教は、一つの聖典お経にまとめられたかったのか。
A3:
釈迦は、仏陀即ち悟りを開いた後、自分の体現した真理を教え(法)として人に説く作業を続けました。しかも、自分の哲学を語るのではなく、相手に教えを説く形態で行脚をしながら布教を行ったため、相手によって説法の方法も変えています。時には比喩を用いて分かりやすく、時には深遠な哲学思想体系の形を取り、語りました。しかも、本人は哲学でなく真理に目覚め、それを広めて人々を救済する事を目的にしたため、著作を残しませんでした。残った弟子達が、教えを記録するため、記憶を頼りに経典を編纂したのですが、その形式や形態が多岐にわたり、しかも弟子の考え方にも幅があったため沢山の種類の経典が生まれました。更に、その地の伝統宗教との融合も加わり、それが宗派の起源と成っています。
逆に現在では、原始経典と呼ばれる阿含経などへの回帰運動も起こっています
日本では中村 元 教授の原始経典などの著述(サンスクリット語からの翻訳)も読まれています。
3. 仏教
Q1:
三宝印の「諸行無常」と「諸法無我」について。それを「心」で理解するためにはどのような取り組みが必要になるのでしょうか。 また「頭」ではなく「心」で理解できたときどのような心境の変化があったのでしょうか。
A1:
「心」で理解するための取り組みが、日本では各宗派の基礎となっていると思います。道元禅師は「頭」や「知識」での理解を避けるために「坐禅」を只管(ひたすら)行い、そのことで身心脱落=解脱=悟り=佛そのもの になると考えました。しかも、頭で悟りをイメージすることはできないし、そのイメージ獲得の手段として「坐禅」を捉えることを否定して、自らの体現と解脱そのもののの存在への絶対的肯定=信仰としています。私たち禅僧は、道元禅師の教えに従いひたすらに坐るだけです。同様に浄土系仏教では、阿弥陀仏の救済=本願を絶対的な前提と捉え、阿弥陀仏への信仰だけを依り所として、自分の行為を自分で斟酌していること自体を否定しています。
ちなみに、私は禅僧ですので、もし、身心脱落したら大宇宙の摂理と一体化できるかなと考えるのが精一杯で、あとは坐るだけです。
Q2:
聖書、コーランのように仏教では何を読めば教えの根本がわかるのですか。どんな生き方をすればいいと教えているのですか。
A2・
仏教にも原始仏教(小乗仏教)と大乗仏教の二つの大きな流れがあり、それぞれに様々な経典があります。その中で、選ぶのは難しいですが、大乗経典の代表である般若経六百巻のエッセンスとされる般若心経を何度も身体にしみこむまで、読んでみるのも良いんじゃないかと思います。
そこには、目の前にある、色んな苦しみも、悩みも、すべて単なる現象であり 永遠に続く実体ではない、だから、それに拘われず、自分も大自然の現象の一つとして生きているのだと感じて、拘り(=執着)から解放された人生に臨むべきだと書いてあります。
Q3:
どうして仏教は、一つの聖典お経にまとめられたかったのか。
A3:
釈迦は、仏陀即ち悟りを開いた後、自分の体現した真理を教え(法)として人に説く作業を続けました。しかも、自分の哲学を語るのではなく、相手に教えを説く形態で行脚をしながら布教を行ったため、相手によって説法の方法も変えています。時には比喩を用いて分かりやすく、時には深遠な哲学思想体系の形を取り、語りました。しかも、本人は哲学でなく真理に目覚め、それを広めて人々を救済する事を目的にしたため、著作を残しませんでした。残った弟子達が、教えを記録するため、記憶を頼りに経典を編纂したのですが、その形式や形態が多岐にわたり、しかも弟子の考え方にも幅があったため沢山の種類の経典が生まれました。更に、その地の伝統宗教との融合も加わり、それが宗派の起源と成っています。
逆に現在では、原始経典と呼ばれる阿含経などへの回帰運動も起こっています
日本では中村 元 教授の原始経典などの著述(サンスクリット語からの翻訳)も読まれています。