きふブロ!KIF・熊本市国際交流振興事業団のブログ

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多宗教 Q&A 2

2011-03-06 16:29:24 | KIF EVENT SHOT
2月5日、国際交流会館で開催されました多宗教セミナー、大変多くのご質問をいただきましたが、時間の関係ですべてに回答ができませんでした。 各宗教のパネリストの方にご回答を下記のとおりいただきました。

2. キリスト教

Q1:
宗教、心境を持つことは「絶対」を持つことだと思いますが、他宗教と共生していくということは、「相対」化することになると思います。この矛盾をクリアするためには、どのようにすればよいと考えられますか。

A 1:
 キリスト教における“絶対“と言うことは ”愛“の絶対です。イエス は言われた: 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコによる福音書、12、29-31)。ですから、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎むものがいれば、それは偽りものです。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(ヨハネの手紙: 第一 4、20-21) それで、神に対する愛(宗教)は、いつもほかの人間に対する愛に結びつける必要があります。この ”ほかの人間に対する愛“は、もちろん、その人々の自由(良心と宗教の自由も)を尊敬することを含みます。
 

Q2:
現在の日本は宗教アレルギーにあると思いますがそうした人々が宗教を認める(信教をもつではなく)ために語りかけるものをお持ちであれは教えてください。 

A 2:
まず、相手を尊敬して、その アレルギーをも認めて、それについて
対話してみたいのです。 “どうして?...そうですか?...そうでもないかもしれません...一緒に考えましょう、勉強しましょう...”
これが「対話」の方法です。
 

Q3:
世界平和と愛を説く宗教がなぜ身内同士の争い:聖戦と称する不慈悲なことをやめないのか。

A 3:
まず、宗教者は人間であるからです。 そして、その宗教の純粋な教えにしたがってそうするではなく、その宗教の純粋な教えに従っていないからです。 ただ、宗教は皆同じでもありません。それぞれの教えの中でも大きい違いがあります。



Q4:
個人レベルの平和には信仰が必要であることは認めるが、地球レベルでは災いの源になっている状況を講師の方はどう割り切っているのか。

A4:
まず、この「災い」を、一つ一つを取り上げて、調べたいのです。人を訴える時と同じ。まず、訴えをまじめに調べる必要があります。 そして、間違っている何かがあれば、それを認めて、やり直すべきです。人間には 「理性」の裁判があります。ただし、それは 「一緒に」 しなければならないのです。 対話の中で。 宗教は心の中でのことだけではありません。 人間は 「本質的に」 社会的な者であるからです。


Q5:
一神教のいうworship(崇拝)には思考停止の要素が非常に強いと思う。meditation(沈思する)という要素が薄いと思うがどうか。

A 5 :
「-神教」といっても、一神教のそれぞれの宗教は違います。 キリスト教の伝統の中で 「meditation:瞑想、念頭、沈黙、黙想、観想生活など」がとても大事にされています。 観想生活修道会も多い。 日本にも。 「Silence」と言う映画をみましたか?

Q6:
道徳規範は他律的に自立的要素がない。自分は倫理規範が人道に一番必要と思うがどうか。

A6:
はい。そう思います。ただ、人間は「自力」ではなく、「他力」に導かれ救われると思います。「他力」と言うのは、キリスト教によると、神の働き、神の恵み、と言うことです。人間は神様から理性をいただいています。それにもとずいて、一人一人の良心があります。それは心の中での聞こえる神様の声です。 それに、キリスト教によりますと、神様の啓示もあります。 イエス様はその啓示の最後の御ことばです。


Q7:
イスラム教のコーランの祈りの言葉、お経の声、聖教、皆それそれにすばらしいのに平和にはまだ時間がたくさんいるのでしょうか?

A 7 :
 (このQは...共通のQではなくて、イスラームへのQではないかと思います。)とにかく、私の考えでは、イスラームの中で原理主義の人もいますし、モデレート と言う人も多いだと思います。 「対話」によって、このモデレートのムスリームと協力して、一日も早く 原理主義の人々の影響を減らすようにしましょう。

Q8:
When 20 Christian people sere killed by a terror accident in church in Alexndria(Egypt), the pop of Vatikan talk to media about how to protect Christians people in Egypt and midleast..
In contrast, more than 200 people(most of them are muslims were killed by a police in the protest movement against political) system during last 10 days, but, we did not hear any thing from him, why?

A8:
When 25 Christians were killed and about 100 were wounded by terrorists on January 1st, 2011, at the Church of Saints Peter and Mark in Alexandria (Egypt) the Holy Father Benedict XVI expressed his deep sorrow and disapproval of this attack carried out on peaceful people who had gathered to pray in their Church. It was an attack on religion, and on the freedom of religion. The victims of the violent response by the police to the demonstrations which took place later on in Egypt, were of a completely different nature. As you yourself write, these demonstrations were carried out against the “political system”, and therefore were of a political nature. The Holy Father, as a religious leader, usually refrains from interfering in political matters as such. However, on February 11th, he publically prayed that the situation in Egypt may find a peaceful and just solution for the good of all, and of the whole nation.


Q9:
十字架にかけられたイエス・キリストを信仰するのは、なぜか。キリストとは、どういう方なのでしょうか。

A9:
イエス キリスト は 「御父と聖霊とともに唯一の」神でありながら、人間となられた方です。真の神でありながら、真の人間です。二人ではなく、一人の方です。その証をたてて、私たち、人間、の救いのために死を受けて、死に打ち勝たれたのです。三日目に復活されて私たちに永遠の命への門をお開きになりました。キリストの死をいつもその復活と一緒に考えなければなりません。
      “キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは 主 である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。”(聖パウロのフィリッピの信徒への手紙 2、6-11)







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