9月24日(月)朝、漁港の水門を通って駅に向かうことが多い。
水門ですれ違う老夫婦いる。
奥さんとは互いに会釈するが旦那とはしない。
いつの頃か記憶にないが真っ白になった髪を染めもせず、
こぎれいだった装いもフリースの上下になった奥さん。
奥さんはマンションの商店街で軽印刷のお店を開いた。
旦那さんは一流大学の建築学科を出て会社勤め後、独立して銀座に建築設計事務所開いた。
軽印刷のお店は近辺のショッピングセンター、商店、会社。マンション自治会から
チラシ等の印刷物を受注して忙しかった。
私も30年前独立したての頃、FAXを有料で送受信、説明書、のしがみを依頼した。
店内はインテリア雑誌にも掲載される程、ウッドの壁が張り付けられていた。
旦那さんの仕事もゴルフ場のクラブハウスの設計を主に景気良かった。
軽印刷はタイプ印刷だった。
しかし、ワープロが出現して苦境になったが、奥さんはワープロ技術を
勉強して乗り越えた。
まもなく、パソコンが出回り職場、家庭にまで普及した。
カラー印刷も出来るようになり、印刷物の受注は途絶えた。
旦那さんのクラブハウスの設計はバブル崩壊
リーマンショックにより設計の仕事は無くなった。
苦境を脱すべきマンション経営に乗り出し、マンションの部屋を
幾つもローンで購入した。
しかし賃貸募集したが入居は無く、ローンだけが残った。
マンションの裏にあった割合大きな戸建ては競売にかけられた。
全てを失い漁港を渡ったマンションに引っ越した。
サラリーマンで労組書記長だった時
イノベーションとワードプロフェッサーという労働講座に通った。
当時、講師は必ず日本にも消滅する業種がやって来ると言った。
欧米はアルファベットなので急速に広まり大量の失業者が出た。
日本の漢字とひらがなも、まもなくワープロで文字変換が可能だと言われた。
今では 写植、版下、製版の業種は殆ど無くなった。
漁港の船溜まり水門を歩く老夫婦の後ろ姿は痛々しい。
その労働講座で学んだもう一つは
事業の継続年数は10年を超えない。
破壊は一瞬、建設は死闘。