馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

改竄より悪質 捏造の被害者。

2018-03-21 14:41:10 | 日記

公文書改竄発覚で国会審議は、知っちゃかめっちゃか!

愚民そっちのけで責任のなすりあい。

醜態さらすトップリーダーから、

それにおもねる平議員達。

 

改竄なんて民間企業では、ビジネス取引では日常茶飯事。

下請けに圧力かけて、請求書、条件を改竄。

でもね、国政を司る国会審議で

国民納税者を欺く犯罪。

 

だが、私なんて、改竄ではなく、文書を捏造された被害者。

 

サラリーマン辞めて数年後、起業して悪戦苦闘の日々。

 

情報がもたらされた。

私が労組書記長時代、経営側労務課長と密約(交渉員メモ)を作成。

賞与支給額を、秋1.5カ月、春2,5カ月とする

書面を交わした。

そのため、組合要求が不可能になった。

中央執行委員会で発表された。

 

看過できない、名誉と人権の棄損である。

即、本社に戻った当事者であった労務課長に問い質した。

「そのようなことはしていない」

 

昭和54秋闘にて、長い行き詰まる交渉を経て

秋 賞与2,5カ月、春 3,5カ月にて合意した。

組合速報を全国の組合支部に送る準備をしていた。

すると、労務課長より電話が入る。

「前の書記長より引き継いでいるはずだが、了解納得しているよな」

労務課長と会うと、一枚の紙きれを見せられた。

 

労務課長の直筆と実印で記載。

前書記長は、ゴム印と三文判で作成された書面。

賞与支給額を、秋1.5カ月、春2,5カ月とする

呆然と見つめた。

 

まさか まさかである。

前書記長に問い質して無理無駄。

彼の名誉のためにも廃棄しなければ

数日、サンシャインホテルに籠り

窓外から、昼夜ぼんやり眼下の街並みを見続けた。

 

考えがまとまらなかったが

管理部長と会談した。

 

私は言った。

「密約書面は、分かった」。

「秋闘で合意したが、前執行部と経営側にて

交渉員メモがあり、止もう得ず

メモに記載された賞与にて支給される

メモを写真で組合速報に掲載する。

その条件で良いか」

管理部長の顔色が青ざめた。

これにて、メモは廃棄され密約は消失した。

前書記長の名誉も守られた。

 

これにて解決した。

その労務課長は本社に戻った。

 

それから退社後、突然として前述の捏造事件が起きた。

 

馴れ合いになった労使関係は、互いに背負う責任を回避すべき

私が、次の労務課長と密約した偽造文書を作成したのだ。

 

法の下、労働協約を逸脱した刑法に抵触する犯罪である。

企業内組合員を欺く不法行為。

 

私は関係先に更に真相を確かめるべき探った。

労組委員長は、隠蔽しようと企んだ。

捏造を吹聴した組合役員は当初は得意満面であったが

捏造であることが判明。

 

突然 夜9時、私の自宅にやって来た。

池袋からタクシーに乗り

船橋まで運転手に路を調べさせてたのだ

形相は、髪を振り乱し、憔悴した顔相。

近くの居酒屋にて釈明する。

謝罪条件として、関係先担当者に謝罪と捏造であった旨の

書面を書留にて郵送をさせた。

愚かな男の詳細はブログにて。

 

この男は、その後昇進することはなかった。

組合委員長は、私の後輩役員と結婚したが

陰湿と嫉妬深さに気付き

35日間で女房は家を逃げた。

その後、出世もせず、独身のまま定年退職。

 

では、経営側労務課長はどうなったか?

社内不倫の女に貢ぐ金を捻出するために

会社の金を横領して懲戒免職になった。

 

「死人に口なし」

これを目論んだが藪蛇。

 

近畿財務局の一般職員が自殺された。

一職員が改竄など出来る訳はない。

財務省の佐川国税庁長官が指示したとしても

更にその上の国家権力が暗黙の指示以外の何者でもない。

 

いつも犠牲者は、真面目な下の人。

自殺してはいけない。

死人に口なし。

ホッ とした上層部。

 

この世は修羅の社会。

醜い争いが絶え間なく生じている。

悪意さえなければ貧乏でも生きられる。

 

組織社会は、羨望と嫉妬の地上戦。

 

 私をバックアップしたのは

純粋な女性組合役員の方々。

 

沢直樹のように倍返しをするのだとの執念を持つこと。

 

 阿ンポンタン首相と麻ホウ財務相は

愚民を馬鹿にしているが、馬鹿かもしれない。

 

 

中国の諺
幼き時、物事知らず
老いては白髪老人、体弱く
若い頃 青春は一瞬の光芒か

若い頃 人間が体苛め
老いては 体が人間苛める。

残るは 残影のみ!

 

 


2日間連続 ブログ閲覧数 急上昇。

2018-03-19 10:45:36 | 日記

3月19日(月)朝9時

私のブログを開き 暫し!?

何だい こりゃあ?

ブログ閲覧数

17日 3,160件

18日 5,574件

 

私のブログは人気ブログではない

訪問者数は、120~350の間を上下。

 

2日間続けての異常急上昇。

特定の方が見られているのでしょう。

以前も、閲覧数が、1日で1万件を超えたことがあった。

その後、九段スズキ本店長野夫婦のブログが2件公開停止になった。

 

今回も推測するには

馬鹿も一心の氏素性を調べ、弱点を探るためにしているのでしょう。

 

ブログ開設から3,023日

2009年からですか、全て読み切るのは容易ではない。

相当のパワーがと根負けします。

 

探索の方へ。

頑張ってください。

真実は書いても嘘は書いておりません。 


トランス組み立て作業中 66年前の記憶が現れる。

2018-03-15 23:11:07 | 日記

3月15日(木)

本日は桜上水事務所に行かず

自宅にて、トランス組み立て作業の一部

コア(鉄芯)をボビンに挿入する練習。

 

廃業した工場の昭和54年製の工具を使う。

長らく使用していなかったのだろう

油と埃がこびりついて、表面をカッターナイフで

削り落とす。

 

妻は、絶縁テープと銅線をジョイントする作業。

 

トランス組み立て作業1

私が、コアを挿入するが、なかなかうまくいかない。

手こずっている。

 

トランス組み立て作業2

突然だった。

「鉄芯が空から落ちて来る」

脳が遠い記憶を導いた。

 

今 Eの形をした薄い鉄片が

5歳の時まで遡ったのだ。

現在71歳

 

昭和27年 5歳の保育園児の時。

寺に併設された保育園。

園の裏にお墓があり木々が墓石と墓石の境界になった。

園児たちは、怪しげな小道に入り込んで遊んだ。

草むらに骸骨があった。

まだ幼かったので、気持ち悪いとは感じたが

怖くはなかった。

その小道に、今作業机にある、Eの鉄芯が落ちていたのだ。

その不思議な形、まだ、文字も知らず

Eなどいうこともわからなかった。

一緒にいた園児が

空から飛んでくると言った。

 

Eの形を投げてみた。

大事な宝物で家に持ち帰った。

次の日、林に一人入り

空を見上げてEが落ちて来るのを待った。

又次の日も林に分け入り待った。

でも、落ちて来なかった。

いつの間にか忘れた。

今、あの住まい近辺を思い浮かべた。

小さい工場があったような気がする。

親父は戦後直ぐに、多摩川べりににあった

米軍が接収した軍需工場で働いていた。

今で言う下請け工場があったのだろう。

Eの鉄芯は捨てられたのだ。

71歳になり、トランス(「変圧器」と出会わなかったら

5歳の空想は蘇ることはなかった。

 

唯、保育園5歳から20歳まで付き合った女の子の

想い出はずっと途絶えていた。

ある日、突然の電話から蘇った。

 

 

トランス組み立て作業2

宇宙解明のホーキング博士が亡くなられた。

博士に過去に戻れる方法を教えて欲しかった。

トランス製造

 

 


3月11日(日)防災訓練。

2018-03-12 23:22:26 | 日記

3月11日(日)

住まいマンション 午前中

消防署による避難訓練があった。

20階から消防士が、ロープで下りる。

これは、一般人では出来ない。

 

大学山岳部時代はロッククライミングもしたが

娑婆の人工物からは、全てリアル感があるので

とてもじゃないが 無理だ。

 

防災訓練1

東日本大震災の夜

柳橋事務所から、隅田川が逆流して川底が見えて光景は忘れること出来ない。

 

防災訓練2

 

防災訓練3

地震災害伝言板

 


懐かしき台湾パイナップルケーキ 。

2018-03-12 10:44:37 | 日記

3月9日(金)

午前10時、仕事に出かけようとした時

荷物が届いた。

開くと、台湾のパイナップルケーキ。

 

学校同期の夫妻が、台湾旅行に行くので

ケニーを紹介したのだ。

3月3日 台北のリージェントホテルに

出向き。

その夜、林森北路の梅子で

台湾料理で晩餐。

 

ラインで食事中の写真と

最高の晩餐 感謝ですのコメントがきた。

 

パイナップルケーキを桜上水事務所に持参。

皆で食べた。

グレードの高いパイナップルケーキで

78歳の女性が、「ぎゅっと詰まったパイナップルの味がします」。

好評だった。

 

台北に行った最後は4年前

友人の息子が台湾留学をする手伝いに出かけた。

 

友人のラインメールでは、ケニーから

私の懐かしい台北での話を聞いた

既に25年前だ。

 

起業して行き詰まり

サラリーマン時代の後輩が

台北在住していたので

頼ったのがきっかけだった。

  

当時 1年に12回も台湾に渡った。

 

 

孤独だった。

台北の歓楽街を一人で食事、クラブで飲み

彷徨いぐでんぐでんになり小さなホテルで酔いつぶれた。

 

 

 

ケニーも独身だった。

今では、息子が大学生。

 

パイナップルケーキには、苦闘の時代と

懐かしき想い出がぎゅっと詰まっている。