日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

文字のエネルギー

2017-08-26 22:27:30 | ものの見方 考え方
こんばんは。
今日は概ね曇っておりましたけれど、その分日中はかなり涼しく感じられました。
吹く風が生ぬるくない(笑)。
もうこれだけで随分と違いますね。
ですが、昨夜は寝る前も、もうどうにもこうにも出来んくらいにムシムシでした;。
夜中に雨が降っていたようで、それで少し涼しくなったのかもしれませんね。
そんな今朝は、此方。
曇っておりました。


                                


夢をよく見る、というよりも皆さんも必ずご覧になっておられると思うのですが、起きた途端、あっさりスッパリ忘れてしまうこともしばしば
なのではと感じております。
自分もそんな中?の一人でして。
昨夜も、どうも夢の中にどなたかご出演なさって下さったのですけれど、思い出せません;。
それもかなりの豪華キャストだった気がする;。
あ~、この人出てるわ~、なんでぇ?とか夢うつつで感じていたようなのですけれどね。
どうやら明け方くらいに、そんな夢を見てもう一度眠ったらしく、二度目に起きた時にはしっかりスッパリ忘れ去られておりました;。

いずれ、そんな夢の中で感じた面白い話など、もし覚えていてしかも自分が書き出した文字が判読出来るようでしたら(起きぬけにノートに書き
記していると、後でそれを見返しても書いた自分ですら読めません;)ご披露したいと思います。
って、出来るんかいな。


                                                                           

上の写真は、今日のものではありません、あしからず。
かなり以前、日没少し手前位に東の空に虹と思しき色味が、ほんの少し見えたのを撮ったものです。
ちょうど奥の山の上くらいに見えておりましたけれど、普通の虹とは少し違う感じがしたのを覚えております。
それとも消えかかっていた虹をたまたま見かけたのでしょうか、ちょっとわかりませんね。


そんな話とは全く関係なく;、今日は別のことについて書いてみようと思います。
今日はかなり涼しくもあり、最近は暑さだけでバテておりましたので何にもする気が起こらなかったのですけれど、今朝は少し本でも読んで
みようかと本を引っ張り出して読んでみました。
というよりも、大体寝る前に何がしかの本を読みながら寝るのが習慣になっており、昨夜は枕元にあった本に手を伸ばした次第です。
その本は、
 
            坂本政道氏著
          高次意識トートが語る ベールを脱いだ日本古代史

という著書です。
ご存知の方もおられるでしょうけれど、この坂本さんという方は、ヘミシンクという分野で日本での第一人者という定義付けをされておられる
方ですね。
そも、そのヘミシンクとは『ヘミシンクは、モンロー研究所によって特許取得されたオーディオ・ガイダンス技術』を使い、特定のサウンド
パターンにより、『深くリラックスした状態、睡眠、瞑想、知覚の拡大した状態、至高体験など、通常とは異なる意識状態』になっていくもの
とされております。
詳しくは検索してみられるのがわかりやすいかと思います。
その坂本さんご自身がこのヘミシンクにより高次の意識体との交信により、これまでの日本史とは違う見方で解釈しておられる著書といえる
かと思います。
その中で、日本書紀や古事記という「記紀」といわれている中には出てこない「ニギハヤヒ」について述べられております。
この著書を買って後、何度か目を通しているのですけれど、その度に自分自身がその書かれている内容のどこに興味を感じるのか、その時々で
不思議と違ってきております。
最初は、この中にも書かれております「大物主大神」と「大国主大神」との関連性についてかなり興味がわいたのですけれど、今回は今でも謎と
されている「ニギハヤヒ」に心惹かれました。
ただ、申し訳ないのですけれど、今回この本題とは少し離れた視点から、この「ニギハヤヒ」を感じてみることにしました。
いわば此処まではかなり長い前置き、前振りみたいなものですね;。
申し訳ありません、もしこの著書についての興味がおありのようでしたらば、ご自身でこちらもまた検索してみられて下さい。
ただし、アマゾン等のレビューにあるように、あちらの世界?に興味や関心のない方にとっては、こんな出まかせの本なんて、とかなりの酷評が
あるのも事実です。
ですけれど、ちょっと向こうの世界やらに興味がある方でしたらば、随分と目からうろこの情報がてんこ盛りかと思います。
その点では、自分もこの中で述べられております箸墓古墳についての長年の謎が解けた思いがしたのも、また事実です。

さてその「ニギハヤヒ」何がどうしたかというとですね、この名前そのものについて、一体どのような意味合いがあるのだろうかと、これまたい
つもの如く、ふと感じたわけです。
「ニギハヤヒ」という言葉の持つ音そのものは、どういう意味があるのだろうと考えたのです。
以前にも少し書かせて頂いたかと思いますけれど、一字一字の文字には固有の意味、また波動、波長があるとされております。
その部分から観ると、どう解釈出来るのかと考えて少し調べてみました。

今回、その一文字毎にエネルギーが宿っているとして、これもまた古代の「カタカムナ」文字の研究をされておられる方の著書を参考にさせて
頂きました。

         吉野信子氏著
       カタカムナ 言霊の超法則

という著書です。
カタカムナも、これまた説明しますとこれだけでかなりの文章となってしまいそうですので、これもまた申し訳ございませんが、詳しくはこの
著書をお読み頂ければ、と存じます。
かなり説明を端折っておりますけれど、申すようにこの「ニギハヤヒ」の言葉そのものを、カタカムナで云われている一文字ずつに当てはめて
考えてみました。

「ニ」  圧力
「ギ」  内なるエネルギー 気(この場合は氣かとも感じます) 濁音がつくと内なるという意味が加わる
「ハ」  引き合う
「ヤ」  飽和する
「ヒ」  根源から出る、(入る)

という意味となります。
これを上から順番に繋げてみると
    
 圧力のある、或いはかかった内なるエネルギーが引き合い、やがて飽和し、その根源から出て行く、(または入ってくる)

と考えられるのかな、と感じます。
元々、このカタカムナという文字自体、円と線の組み合わせで出来た記号のような文字です。
ですけれど、書かれてある文字をずっと眺めていると、二次元上の半円が描かれているにもかかわらず、いつの間にかそれが球であり、それを
二次元で見た時、平面で表した時の形状で書かれているのだなと感じるようになりました。
この事は、この著書の中でも既に既成の事実として述べられており、多くの研究者によっても同様に云われていることです。
後は自分がその文字を観て、頭の中でそれを球に置き換えられるかどうかだと思います。
そのようにして文字を考え、手っ取り早くには図にして書いてみると、その文字の成り立ちそのものが急に広大な広がりを感じさせるように
思えてきます。
自分で図を、絵を描きながら拙い頭を振り絞りながら考えると、最初の「ニ」の文字の圧力という意味が相当なものに感じられてきます。
圧力をかけた「ギ」の文字、内なるエネルギー、すなわち氣は更に凝縮され濃くなっていくようです。
それが今度は離れたそのような氣、エネルギー同士が「ハ」の音で引き合い、「ヤ」やがて次第に飽和状態となり「ヒ」、その根源から出て行く
そのように感じられます。
自分で絵を描いてイマジネーションを膨らませると、物凄く凝縮されたエネルギー同士が引き合いながら調和し、それがやがて溢れる程に飽和状
態となり、耐え切れずにその大元から溢れ出す、このような事が感じ取れました。
少し自分が変わっているのだろうと思いながらも(そこのところは否めない事実ですけれど;)、この想像だけで、本当に頭がクラクラしそう
でした。

                                                                                                   

こんなエネルギーに溢れた名前をもった人物、もし彼が歴史の表舞台に出て来ていたとするならば、その名前だけで十分に活躍が期待できそうです。
しかしながら、この表舞台にはその名前は殆ど記されていないとされております。
案外、そのような名前のエネルギーを知らず知らずに感じ、記紀の編纂時には敢えてこの人物を遠ざけたのでしょうか、主役となる部分に重きを
置きたいが為に。
真相は当然ながら、知る由もありません。
ですけれど名前一つとっても、その言葉の響きの大きさ、重さに改めて感じ入った次第です。


                                 


オバサンの取るに足らない、今日の考察でございました;。
また何か書いとるな~、と思っておいて頂ければ、と思います。
お粗末さまで御座いました。


こんな今日のブログ、お付き合い頂きました皆さん、有難うございました。
感謝申し上げます。
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ああ、やっちゃった;

2017-08-15 22:15:36 | ものの見方 考え方
こんばんは。
昼から所用で出かけており、建物から出ると外はかなり降った後がありました。
短時間にさながらゲリラ豪雨?のようにして降ったのでしょうか、見ていないのでなんともいえませんけれど、朝には昨夜の雨も止んでいたので
降りきらなかった雨がまた落ちたのかもしれませんね。
そんな日の朝は、此方。
どんよりと曇っておりました。


                                 

実は街中へ行き、まずはお金を下ろそうとして財布からキャッシュカードを、カードを、・・・え?無いですけど;;??
とかなり焦りまして、座れる場所を探してゴソゴソと財布の中と鞄の中を探し始めました。
おっかしいなぁ、此処へ入れてるはずだけどなぁ;、無いわけないけどなぁ;とかなり念入りに探しましたが、出てきません。
その時、あ、と思いました。
この銀行ではカードと通帳を一緒にATMへ入れないと現金が出てこない仕組みになっております。
前回、引き下ろした際、「面倒くさいなぁ、どっちか一方でいいじゃんねぇ。そうしてるところもあるのに」と心の中で思いながら、その操作を
しておりました。
どうやら、この時に自分お得意?の「飛ばす」行為をしてしまったのかもしれません;。
う~ん、そうかぁ;、でもこれだけは勘弁してほしいです;、そう思ったのですけれどね。
どこかで落としたのか、或いは今申したごとく物の間に挟ませたか、はたまた別の次元に飛ばしたか、いずれにせよ物が物だけに大変な事態では
あります。
どうするかなぁ、と思いつつもこれまたどうしてだか今度はさほど焦りもせず、多分出てくるけどなぁ、とまたもやのんびりと考えながらとりあえ
ずは少し歩くか、と歩き出しました。
結局は、やはり昼から友人と久々に会って食事して来ると言っていた息子に連絡を取ると、お互いにさほど遠く無い場所へおり、今回は息子から『福
沢諭吉』さんをお一人借り受けまして、支払いするところへお出まし頂きました。
自分の財布には、その時『野口英世』さんが三名ほどご在宅?でしたが、用を足すには不足でして;。
まぁ、なんとか最低限の所用のみ済ませることが出来、安堵した次第です。
なんだかね、な話ではありますね;。
家へ戻り、このことを書きながらそれでもと思い、別の通帳を置いてある場所を見ると、・・・ありました;。
え~、なんで~~??と我ながら声が出てしまいましたけれど、どうやら件の通帳へ、無くなったと考えていたカードを挟んでしまっていたようです。
この前、使った折にATMの自分の後ろで待っておられる方が結構ありましたので、急いで通帳を鞄にしまおうとカードも一緒にしてしまっていた
のでした。
今日出掛ける際に、カードだけがどうやら通帳から抜け落ちていたようです。
話のおちとしては、単なる自分の不注意ということになりますが、どうにも困ったものではありますね;。
今後、一層気をつけたいと思います。


                                  


昨夜、いつになく二回目の更新をしたのですけれど、その際、自分の欲しい車について綴っておりました。
書いたからといって、すぐどうこうでもない、とも申しておりましたけれど、今日も今日とて、その車、同じ車種を見かけました。
たまたまバスの一番前の席に座ったのですけれど、当然周りもよく見えます。
「お、見たねぇ」と思っていると、すぐまた一台。
あ、まただ、と思うとこれまた立て続けに、二台。
嬉しいねぇ、でも色は白じゃなくて、深い青なんだよねぇ、と考えておりますと
「あら、ドンピシャリなのが来たよ」とバスの窓からその車が走ってくるのが見えたのでした。
なんだか本当に面白くて、でも内心
「見させて貰えてますけど、今のところはこの位のものなんですかねぇ」とも考えたのでした。
そういう、少しだけネガティブ?なことを思っていると、先に書いたような「カードどこ行きました;?困るんですけど;事件」に遭遇したという
わけでした。
とはいえ、事の運びとしては手助けが入り支払いも滞りなく済ませることが出来、帰宅するとカード自体がそれほど探すこともなく出て来たという
形で決着しましたので、物事は危うそうに見えて、なんとかではありますけれど、案外とスムーズに流れるのではないのかな、とも思えました。


                                  


物事、なんでも考えようと申しますけれど、悪いように解釈しようとすれば、いくらでも出来るものだと思います。
同様に、一見悪いように見えたとしても、でも結果オーライだったじゃん、良かった良かった、と良い方向へ向けて捉えると、これもまたその後の
ベクトルは、良い方向へ向けて伸びていくのではと感じます。
起こった出来事は同じでも、その後の考え方次第で如何様にもなるものなのでは、と思います。


                                  


実は、出たついでに読みたいと思っていた本がありまして。
つい先日本屋さんに行った時には、まだ入荷すらしておらずネットでは先行して予約販売しておったのですけれど、自分自身、本はどうしても本屋
さんで、まずは自分の手にとって確かめてから買いたい方なので、先だっても盆明けでないと入らないかもしれないと言われていたのを、あれでも
と思い覗いて見ると、市内の大手の本屋さんには既に何冊も平積みされてありました。
おお、やったね!と内心小躍りし、でも財布の中身ほぼスッカラカン;と思いながらも立ち読みならぬ椅子に座っての座り読み;させて頂いてき
ました。
どうするかねぇ、これ買って帰るかねぇ、でも買っちゃうと英世さんともおさらばだなぁ;、と考えて、いやぁ、まずは今夜の腹ごしらえだべ、と
煩悩には抗えず、バスを待つ間に近くのデパ地下へと足が向いたのでした。
結果的には、ご飯炊いてないし、ということで何割引かになった巻き寿司と、普段なら一個がウン百円もするパンなんて買えますかいな、とんでも
ないと頭を振る自分が、デパ地下マジック?、一つウン百円のそのパンを二個も買い、嬉々としてバスを待ったのでした。

本の内容自体が、なんというか変に我慢してお金回さないより回したほうが自分に返ってくるし、エネルギーも回りますよみたいなことが書かれて
おり、これをまた良いように解釈する自分は;、よしそれならば、と少人数の英世さんにお出まし頂いて買い物をして帰ったわけでした。

因みにその本、

ヒカルランド
まるの日圭作
『読むだけでめぐりめぐるエネルギー循環・物質化のしくみ 人・物・お金の流れは太くなる』

という著書です。
自分自身、この方のブログで幾度か質問させて頂いたことがあり、そのお答えもいつも紳士かつ真摯に対応して下さっております。
当然、ブログも毎日拝読させて頂いておりまして、その生き方が一見飄々としつつも着実かつ堅実で、今の自分の一つの指針となるような方と捉えて
おります。
機会がありましたらば、こちらのブログ、また著書も覗いて見られたら、と存じます。
自分なんぞより、当然遥かにためになること、請け合いです。


                                     
                                 



今日のオバサンブログ、お付き合い頂きました皆さん、いつも本当に有難うございます。
感謝申し上げます。  
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その後の世界は

2017-08-04 22:01:49 | ものの見方 考え方
こんばんは。
台風の影響でしょうか、モクモク雲があちこちにわいて来て、見るからに暑い一日でした、いえまだ暑い;;です。
この後、この台風がどのように進路を取るのか、いずれにしてもあちこちに被害をもたらさないように願いたいものです。
そんな朝は、こちら。
見るからに、暑そうに輝いております。


                                



ですが、やはり台風の影響か午後からはこんな感じの雲があったりもしました。


                                 


なんとも不穏な空気を感じさせる雲行きですが、ずっとそうばかりでもないのが台風の読めないところ。
迷走台風といわれているこの台風5号、太平洋の海水温そのものが高いために進もうにも進めず、そこで留まる感じになるためいつまでもノロノロと
しているようですね。
先日、相当な豪雨による災害のあった九州に、またもや試練のようにして勢力の強い台風が来るのはどうしてなんだろうと考えてしまいます。
これ以上、被害が出ないことを願うばかりです。

                                  


それにしても、ここ最近、物事が急激に変化してきているように感じられます。
言ってみれば、やはりアメリカのトランプ大統領当選の頃からでしょうか。
それまでは、世界的にみてもどことなく予定調和的に事は進むもの、と誰しもが考え思っていたことだと感じます。
ですが、あの大統領就任というニュースが全世界に流れるや、それこそ蜂の巣をつついたように上を下への大騒ぎとなったのは周知の通りです。
就任は今年の1月20日でしたが、感覚的には既に2年程も経ってしまっているようにも感じられます。
アメリカ人ではありませんので、その支持率そのもの、また本国では実のところ、どのように捉えられているのかわかりませんが、ニュース等で
聞けば、その信任の無さにむべなるかなと思わざるを得ません。

ですが、そのニュースそのものが果たして真実を全てそのまま伝えているかといえば、それもまたどうなのか、というところなのでしょうね。
それを知っているからなのか、大統領自身が報道の在り方そのものに対して懐疑的であり、ともすればツィッターでつぶやいているのもそういう
ことがあるからなのか、とも受け止められますが、あれはあれで、どんなもんかいな、とも感じております。

そう考えて、よい方へ捉えてみると、彼の出現により、本当の、本来の自分達の進むべき方向を見出すべきだ、ということを教えるためにわざわざ
大統領という立場を取って出てきてくれたのではないのか、そうも思います。
要するに、ある意味反面教師なのかもしれません。
そのように思えば、これまでの大統領としての職務もこれまた反面教師のそれと思えば、ああなるほどね、と感じてしまう気もします。
ですが、彼は大統領になってやっと半年が過ぎたばかりです。
この後、彼がその職を通して自国のアメリカを、また世界をどのように方向付けて行くのか、やはりその動向が気になるところではあります。


                                  


これもまたよく言われることですが、物事が良くなる前には、これまでの悪い面が何もかも浮き上がってくるようにして出て来、一見悪くなって
いくばかりのように感じられることがあるといいます。
確かに、世界ではテロが場所を問わず勃発し、それまでの平和な街が一瞬で破壊されるという悲惨な出来事も起こっています。
テロばかりではなく、まだまだ紛争地帯でのゴタゴタ、或いは難民キャンプ等で不自由な生活を強いられている多くの人々。
大国という元にあっても、どこかで監視の目がある国家。
日本とて例外ではなく、ここ最近、危険を危険とも思わない国からの挑発的とも取れる飛翔体に悩まされ続けています。
一体この先、本当に良くなっていくのか、だんだんと不穏になっていくばかりではないのか、そんな不安にも駆られます。

ですが、そのように感じて物事が片方の極に達するようになると、これはどうしてだか不思議ともう片方の極へと移行していくもののようです。
とはいえ、それならばどこまで行けばその極に達するのか、これで達しているのかまだまだなのか、これは皆目見当が付きません。
未だにその過渡期、その真っ最中なのかもしれません。


                                  


結局はどのような時代に生きていても、その最中にいる自分達は混沌とした中を生きているように感じるのかも知れない、そう思います。
ならば、その最中を自分の悔いのないよう、精一杯生きること、そうすることこそ混迷を乗り切って行く一番の手立てになるのかもしれない、
そうも感じます。
そしてまた、すぐ隣にいる人と共に、たとえそれが言葉が通じぬ人であったとしても、出ている虹を見て同じように素敵と思えるかどうか、
綺麗な花を見て美しいと共感出来るかどうか。
出来るのならば、どうか皆が笑い会える世界であってほしい、そう思います。

                                  


上手く結論付けなど出来ようもないのに、つい調子に乗って書くとこの有り様です;。
お恥ずかしい限りです。
ですけれど、やはり世界は穏やかであってほしい、そのことだけは願い、思っております。


こんな今日のブログへのお付き合い、有難うございました。


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思えば叶う

2017-07-23 22:12:19 | ものの見方 考え方
こんばんは。
今日は、暑いは暑いでも、案外曇り空でしたので、そこまでがんがんに暑さは感じませんでしたね。
というより、これまでが暑すぎた?
とはいえ、今日は暦の上では大暑、これから八月七日の立秋を迎えるまでは一年で一番暑い時期といわれているようです。
その暑さもですけれど、先日九州で豪雨災害があり、まだ大変なころというのに、今度は秋田等の東北で同じような酷い被害が出ているようです。
何故、このように日本を地震や豪雨が襲うのか、なんとも心が痛む思いです。
早く収束してほしい、そう願います。

そんな今朝は、こんな感じのお日様、どことなく電柱にぶら下がっているようにも見えますね。

                                
                                 


最近、いえ前からそうなのかもしれませんけれど、思っていることは直に現実化するというのが、自分自身が感じていることです。
以前にも同じようなことを書いたかと思いますが、思ったり、或いはその思いを口にすることで、そのことが実際にそうなるということです。
しかも、その速度、感じる度合いが段々と早くなってきているように思います。
自分の場合は、良いにせよ悪いにせよ、何かの事について考えると、同時に頭の中でその事自体を映像化もしているように思います。
こうなればいいのに、ということばかりを考えていればいいのですけれど、どうも自分の場合、ともすれば、こうなるとどうしょう、とつい
悪い方へ考えてしまうことが多いようで、それも後で考えると、あれ、これってこんなことになると困るなと思ってたよな、ということが結構あるように感じます。
いけませんね;。
これもかなり以前の話ですけれど、自分が車を乗る際に、どうも事故りそうだな、と頭の片隅で考える時がありました。
その時は、今思うと、こうなったら嫌だとか大変だというその状況そのものを先取りするようにして、いわばシミュレーションするように頭の中でその事を作り出していたのでした。
つまり、車に乗るたびに、あれ、危ないな、どうかな、と自分で自分に無意識に自己暗示を掛けてしまい、結果的にはそのような現実そのものを自分で引き寄せていたように思います。
そうなった後で、ああやっぱり自分の思っていたようにアクシデントは起こるんだ、もしかして自分には予知能力があるのか?などとおかしな方向へ自分の考えを引っ張っていき、自分で自分のことを秘かに、これはすごいぞなどと自画自賛していたのでした。
はっきり言って、馬鹿です。
なんのことはない、そうなるように自分で自分を仕向けていたに過ぎません。
自分の思いを現実化しただけの事でした。
こんな例を挙げるときりがないくらい、出てきそうです。
                                 

そうかと思うと、良い方へ事を思っていると、それはやはりそのように叶うということも自分で感じております。
こちらは、また古い例を挙げてみると、自分でもどうかいな;な話なのですけれど、振り返ってみて面白いことでしたので、書いてみたいと思いす。
それこそ、結婚して間なしの頃のことですけれど、この頃から夏になると暑いねぇ、といいながらよく夜にあちこちをドライブしておりました。
そう、以前も申しましたが、何かにつけ夫婦で車に乗ってはフラフラしておったわけです;。(子供出来てからじゃなく、前からでした;)
そんな頃、よく行っていたのが、まだ広島空港が観音にあった頃、駐機している飛行機を見るのが何故だか面白く、元はといえば主人が乗り物全般
が何でも好きな性質だったようで、暑さにことかけては、毎晩のようにその辺りまでうろついていたのでした。
そんなある晩、いつもは飛行機を眺めては、特になにがあるわけでもなく帰るのですが、その時はふと自分が柵の向こうに停まっているその飛行機を見ながら、その柵にしがみついて
「飛行機、乗りたいーーーっ!!」
とまるで子供みたいに叫んでおりました。
まぁ、話はそれだけのことなのですけれど;。
その姿を隣で煙草を燻らせながら見ていた主人は、コイツ大丈夫か?と、呆れていたようでした。
しかし、そんな風にして叫んで後、それこそあんなバカなことをしていたのも忘れた頃に、急に仕事で飛行機に乗る仕事が舞い込みました。
その頃、お腹には息子がいたのですけれど、搭乗出来なくなる八ヶ月かもう少し前くらいまで、月に一度か二度の頻度で飛行機に乗っておりました。
後々、その頃の事を思うと、あの乗りたいーーっと叫んだ時は、心底自分がそう思っておりましたし(ふざけてなんてなかったんですよ、本気でした;)、ですけれど、一回だけそうした後はそんなこともコロッと忘れて日々を過ごしていたのでした。

思いを実現化するには、自分でそのことを現実のように思い描いて、そして次にはそのことを忘れること、そういわれます。
やがて、それは現実として自分の目の前に現れるとされています。
確かにそうだ、とそう感じております。

もう一つ、これも恥ずかしい話ではありますが、別の例を挙げてみます。
結婚する前、ある会社に就職し、その研修として一日だけ、その当時の所長と共に新幹線で本社へ出向きました。
中途採用ということで、研修といってもその本社をぐるりと見て回る程度で済み、夕方にはまた新幹線で広島へ戻って来ました。
その帰路の車内で、どうしたものか、本当ならば今日見て回ってきた本社のことに思いを馳せてもよかろうものを、車窓から景色を眺めながら、自分はひと様の役に立たせて頂ける者になりたい、必ずそうさせて頂きたい、そうなれる人間になりたい、と不思議なほどのこみ上げるような気持ちが沸いてきて、一人座ったそのシートで涙まで出てきていたのでした。
何故、その時にそのような心境になったのか自分でも不可解なほどですし、たまたま所長とは離れて座っていたので、そんな人目も憚らぬように泣いている自分を見られることも幸いにしてなく、結果的には良かったのですけれど、本当にどうしてそんな風に思ったのか今でもわかりません;。
その会社であっても社会貢献は出来るわけですし、そのように考える方がむしろ当然なのですが、その会社での自分ではなく、もっと大きな視点での自分の行いのようなものを、その時には感じていたように思います。
結局、その二年後には今の主人と知り合い結婚し、今の神主という仕事に就くことになったわけですから、もしかするとこの時の自分の心から湧き出たような思いが、引き寄せた結果だったのかもしれません。
ただし、これはあくまでも自分がそのように思ったまでの事ではありますが。


                                  

こう書いてきながら、案外自分で思いを現実化させてきていたんだと、今また感じております。
ただし、それには本気で、心底その事のみを思うこと、実現しないんじゃないかとかのマイナスな思いは一ミリも持たないこと、そうして思った後はそのことは一旦、心の中から忘れ去っておくこと、これが大事なのでは、とも思います。
反芻するようにして思い続けることも大事かもしれません、ですけれど、そうすると今度はそこへ色々な別の思いも付加価値?のようにしてくっつけることになってしまい、最初の純粋なこうしたい、こうありたい、の気持ちや姿からは少し離れてしまうのかもしれない、そうも思います。

思うことは、はっきり言って自由です、誰にも邪魔されません、第一お金も一切かかりません、なんせ自分の頭の中、或いは心の中の事なのですから。
ならば思いっきり、自分のなりたいような自分になりきってみること、それが一番なのでは、とも思います。

               
                                  

フフフ;、どうやら自分が文章を書くと最後はどうにも演説モード?になるのでしょうか;。
力説してますね、毎度ながらすみません。
それでも、こんなブログへのお付き合い、いつもありがとうございます。
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仕事のその先は

2017-07-22 21:27:32 | ものの見方 考え方
こんばんは。
寝苦しい晩でしたが、明けてもやはり暑い一日でした。
日中、いきなり雷がガラゴロと鳴り出して、すわっ雷雨か?!と期待したのですけれど、多少はポツパラ来たものの殆ど降る事もなく、むしろ蒸し暑さ
が増したような、そんな日となりました。
日が落ちて今の時間、また雲が出てきたようですが、さてこれで降ってくれるかどうか。
それでも朝は暑い始まりを思わせる、こんなお日様でしたよ。

                                 

世の中の仕事って、物を作っていく方面と、物ではない事に携わる方向と大まかにいえば、この二通りになるのではと考えます。
大概は、皆自分で何がしかに従事して、自分の求めるものを手に入れるがために仕事というものをしていると思います。
まずその一番が、なんといっても食べること、殆どの方がここ抜きにはできない部分だと思います。
自給自足だとしても、まず自分で畑を耕すなりして、物を作らねば自分の口には入りませんね。
食べることが出来て初めて、次のことを考えられるようになると思います。
ただ、ふと思うのですけれど、この「食べる」という行為そのものが自分たち自身がしなくてもよいとなると、どうなのでしょうか。
世界の大半が、この「食」そのものに大きな力を入れていると思うと、その部分がすっぽり抜けてしまうとすれば、これまでそこに注がれていたエネ
ルギーの大半、相当量なものが不必要となるということで、そう考えると一体どれほどの仕事量が減るのだろうかと思ってしまいます。

とはいえ、「食」を考えると、まず先ほど挙げたように、最初は種を植えることから始まるのではと思います。
家畜を育てるとしても、その家畜にも餌を与えなくてはいけません、そうなるとその餌、飼料そのものもまずは育てるところから始まります。
その飼料となるものは、まず種であり、これも今の社会の大きな産業の一部となっているようです(この部分は、ご存じのように結構色々あるようです
ので今回は割愛致します)
その次に、その育った飼料となる穀物等を刈り取る機械も必要となります。
ここで、餌そのものの周辺にもそれに付随する機械を作るという、一つの仕事、産業が必要になるのだと思います。
次に、その飼料を運ばねばなりませんね、そうするとそれを運搬するもの、車のようなものが必要となります。
これもまた、車という機械が必要であり、それを作る産業も発展してきているのは周知の事実です。
ですけれど、ただ作っても人に知られなければ、その餌も無駄になることもあるでしょうし、そうするとそこでこれを売るために宣伝もしなければなら
なくなります。
となると、ここでその飼料なりを売り込むセールスマンや、あるいは商業的に宣伝をするのに、何がしかの媒体を通じてコマーシャルをせねばならず、
その部分を担う人たちの手も借りねばなりません。
そうして、その飼料がやっと先に申した家畜のところに届いて、初めて彼らもその飼料、餌を口にすることが出来るのでは、と思います。
ここまではしかし、まだ自分達の食料となる前の段階ですので、本来はそれ以上にまだ様々な多岐に渡る事柄が複雑に入り組んでくるものと思います。

と、ここまでは、自分のオバカな頭を捻りながら、なんとなくこんなもんかなぁ、と考えてみたものです。
本来はこんなこととは全く違うことかもしれません、いえ違うと思います。
ですけれど、自分たちの口に入る食べ物一つ取ってみても、自分の元へ届くまでには相当な人々の仕事がその間には入り込んでおり、そのうちの一つ
が欠けても、決して上手くは運ばないだろうなと思えます。

                                  

食に限らず、何事に於いても、今目の前でこうして自分が文字を打って使っているパソコンにしても、その部品一つ欠けても当然使えないわけ
ですし、その部品一つを作る原材料を考えると、これはもうどこから考え始めたらよいのか検討も尽きません。
そのようにして考えると、世の中の、あるいはこの地球のどこか知らない人であったとしても、もしかすると今自分が使っている何がしかの製品やら
または食べ物は、その人たちがその原材料調達の行程の一部なり、製造過程なり、或いは生産そのものに携わっているのかもしれません。
地球の裏側のブラジルで採れたコーヒーを飲んでいたり、或いは、これは少し突飛な例かもしれませんけれど女性の貴女がしているネックレスのそのダイアモンドは、元はアフリカの鉱山で露天掘りをされたものが、今その胸に光っているのかもしれません。
自分の乗っている車でも、その一つ一つの部品、例えばネジ一個を取ってみても、元は世界のどこかで採れた石油から作られた製品かもしれません。

こんな風にして考えると、全く知らない人なのに、どこかで誰かが何かに携わっているように感じます。
全く関係ないようなのに、何かが関連している。
そう思うと、見知らぬ誰かが自分に何らかの形で関係しているようで、少し不思議な思いがすると共に、知らない自分に関連してくれて、どうも有り難う、とそんな風に思えてきたりもします。

                                 


本当は、全然別のことを書かせて頂こうと考えていたのですが、書いていくうちにこんな感じになってしまいました;。
ですけれど、知らないようでもどこかで誰かが、自分に関係してくれているのかもしれない、そう思えることはとても素敵な事に感じられた、今日の
ブログとなりました。


こんなブログへのお付き合い、本日もありがとうございました。


ご相談等、承っております。
 
 kimikimiblue13@gmail.com

此方の方へお知らせ頂ければと存じます。
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