こんにちは。
今日は皐月に相応しい、そんなお天気(昨日もおんなじこと、書いてたような?)
ともあれ、風爽やかなこどもの日となっています。
五月は、先日もお話したように神棚を祀っておられるお宅へ出向いて、御祓いをさせて頂くと書いておりましたね。
その神棚へお祀り致しております神様ですが、数え方をご存知でしょうか。
神様の数え方などと、ちょっと不遜な物言いのようにも感じますが、すみませんです。
自分自身、神様って、どのように数えればよいのか全く存じませんでした、これまた失礼な話ですけども。
ご存知の方は、それこそ知っての通り、一柱、二柱(ひとはしら、ふたはしら)と数えて参ります。
でも、なぜこのように「柱」という数え方なのか、これもまたいつかのように、そりゃ昔からそう決まっているから
そういうんだ、としか言い様がないのですけれど。
そんな自分がこの仕事を始めてすぐの頃、不思議な感覚を覚えたことがありました。
それこそ右も左もわからぬどころか、言われるままの所作動作でぎこちなくお祭をご奉仕させて頂き、その祭が終わる際、
有難うございました、と心で祈念しながら平伏(へいふく)いわば正座したまま身体を折っていた時、頭上から物凄く
眩しい光が降り注ぎ、うわぁ眩しい、と目を閉じようとすると既に目は閉じている状態だったことに気づきました。
なんとも感じたことのないほどの圧倒されるような光に、その時は思えたのでした。
あれは一体なんだったのだろうと感じながらも、その時点では自分の錯覚のようにしか思わず、誰にも話すことなどなく
そのまま過ぎていました。
それから、かなり経ってから、前述のように神様の数え方は、一柱二柱だったなと自分で考えていた時、ふと、この見ては
いないのにとても眩しく感じた光を思い出しました。
その時、神様はこの光のことを言い表したのではないのか、と鈍い自分もようやっと気づいた気がしました。
光の柱、そうあの時感じたのは、まぎれもなく強い眩い光そのものでした。
目で見てはいないけれど、強烈に感じたあの光、あの光そのものがまさしく神様なのではないか、と。
そうだとすると、神様を数えようとしたならば、その光を一つの柱として捉えるが故に、このような数え方に
なったのではないのかな、そう思いました。
実際にそうであるかどうかは、自分自身、全くあずかり知らぬ世界の事です。
しかし、古の人々が神様を感じたのは、この光を自分の身をもって経験したからではないのかな、そう思います。
さて、その神様ですけれど、多くの神社で祀られておられる御祭神と、家庭でお祀りなさいます神様はどこか
違うのでしょうか。
いってしまえば、全く変わりはない神様そのものです。
大元の神様は、一柱です。
これをテレビやラジオ、或いは今ならスマホに例えるとわかりやすいかもしれません。
発信元は一箇所でも、受け取る側は、それこそ、そのテレビやスマホの台数だけ存在するということです。
同じ映像や文字や音声が皆さんの所に同様に届いていますね。
それと同じように、神様も一柱ではありますが、皆さんのご家庭の神棚にも同様に坐します(おわします)と
いうことです。
そう考えると、ご家庭で、神棚をお祀りするということは、その家に光の柱を下ろすろいうことと同様の
ことではないのかな、と感じます。
目には見えない光ではありますけれど、いつも温かく見守って下さっている光がそこにある、そんな風に
捉えて頂ければな、と思います。
神棚をお祀りされる方も、最近は少なくなってきました。
ですけれど、自分の家にも光がいつも降り注いでいる、そう考えると、神棚って、ちょっと素敵だと思いませんか。
今日は皐月に相応しい、そんなお天気(昨日もおんなじこと、書いてたような?)
ともあれ、風爽やかなこどもの日となっています。
五月は、先日もお話したように神棚を祀っておられるお宅へ出向いて、御祓いをさせて頂くと書いておりましたね。
その神棚へお祀り致しております神様ですが、数え方をご存知でしょうか。
神様の数え方などと、ちょっと不遜な物言いのようにも感じますが、すみませんです。
自分自身、神様って、どのように数えればよいのか全く存じませんでした、これまた失礼な話ですけども。
ご存知の方は、それこそ知っての通り、一柱、二柱(ひとはしら、ふたはしら)と数えて参ります。
でも、なぜこのように「柱」という数え方なのか、これもまたいつかのように、そりゃ昔からそう決まっているから
そういうんだ、としか言い様がないのですけれど。
そんな自分がこの仕事を始めてすぐの頃、不思議な感覚を覚えたことがありました。
それこそ右も左もわからぬどころか、言われるままの所作動作でぎこちなくお祭をご奉仕させて頂き、その祭が終わる際、
有難うございました、と心で祈念しながら平伏(へいふく)いわば正座したまま身体を折っていた時、頭上から物凄く
眩しい光が降り注ぎ、うわぁ眩しい、と目を閉じようとすると既に目は閉じている状態だったことに気づきました。
なんとも感じたことのないほどの圧倒されるような光に、その時は思えたのでした。
あれは一体なんだったのだろうと感じながらも、その時点では自分の錯覚のようにしか思わず、誰にも話すことなどなく
そのまま過ぎていました。
それから、かなり経ってから、前述のように神様の数え方は、一柱二柱だったなと自分で考えていた時、ふと、この見ては
いないのにとても眩しく感じた光を思い出しました。
その時、神様はこの光のことを言い表したのではないのか、と鈍い自分もようやっと気づいた気がしました。
光の柱、そうあの時感じたのは、まぎれもなく強い眩い光そのものでした。
目で見てはいないけれど、強烈に感じたあの光、あの光そのものがまさしく神様なのではないか、と。
そうだとすると、神様を数えようとしたならば、その光を一つの柱として捉えるが故に、このような数え方に
なったのではないのかな、そう思いました。
実際にそうであるかどうかは、自分自身、全くあずかり知らぬ世界の事です。
しかし、古の人々が神様を感じたのは、この光を自分の身をもって経験したからではないのかな、そう思います。
さて、その神様ですけれど、多くの神社で祀られておられる御祭神と、家庭でお祀りなさいます神様はどこか
違うのでしょうか。
いってしまえば、全く変わりはない神様そのものです。
大元の神様は、一柱です。
これをテレビやラジオ、或いは今ならスマホに例えるとわかりやすいかもしれません。
発信元は一箇所でも、受け取る側は、それこそ、そのテレビやスマホの台数だけ存在するということです。
同じ映像や文字や音声が皆さんの所に同様に届いていますね。
それと同じように、神様も一柱ではありますが、皆さんのご家庭の神棚にも同様に坐します(おわします)と
いうことです。
そう考えると、ご家庭で、神棚をお祀りするということは、その家に光の柱を下ろすろいうことと同様の
ことではないのかな、と感じます。
目には見えない光ではありますけれど、いつも温かく見守って下さっている光がそこにある、そんな風に
捉えて頂ければな、と思います。
神棚をお祀りされる方も、最近は少なくなってきました。
ですけれど、自分の家にも光がいつも降り注いでいる、そう考えると、神棚って、ちょっと素敵だと思いませんか。