こんばんは。
今日は朝から良いお天気でした。
明日は午後から崩れるとの事、今週は降ることむなくもったように思います。
昨日は義姉の前夜祭、俗に言う通夜でしたが、夜は皆で集うことも無く、此処で記しておりましたように私は祭詞等を奏上した後は
自宅へ戻りました。
これも申しておりましたように義姉の遺体は葬儀社で安置してもらい、義姉の家族、と言っても娘さん夫婦とその子供らだけの
少人数で義姉の家で過ごしたのだと思います。
明けて今日は本来は本葬ですが、その祭詞も昨日のうちに奏上したことはお伝えした通りです。
ですので今日は午後に火葬場にて落ち合うようにしておりました。
葬儀と言えば通夜に続いてなんだか慌ただしく、そのまま悲しみに沈んでいる感じですが、今回はおそらく私が知らないだけで
しょうけれど、娘であるH子さんが泣きはらす姿は見ておりませんし、それは家族も同様です。
ただ義姉の孫娘に当たるMちゃんは、お母さん、此処来るまで散々泣いてたもんなと話しておりました。
まぁ皆さんそんなものだと思います。
此処に至るまでがしんどかったでしょうしね。
ところで自分は今日も神職の恰好をしてその場へ臨みました。
火葬場にて最後の祭詞を申し述べる為です。
棺が霊柩車から降ろされ炉の前まで運ばれ、これで本当に最後のお別れとなるその時、5分ほどではありますがその折に短い祭詞を
ご遺体の御前にて奏上致します。
その前に本来なら葬儀場を発つ前に棺の縁を神職の持っております杓(しゃく)にてカンッと一打ちし、お発ちー!と声を発します。
そしてそれまでは忍び手(しのびて)という音を立てない柏手を打つのですが、最後の柏手のみ、パンッ!と音を立てます。
永久(とわ)の旅立ちをする者へ、もう二度とこの身体へ戻ってくることはないようにとの思いを込めて致すものです。
この最後の杓での一打ちが出来ておりませんでしたので炉の前での祭詞奏上後、柏手の後に棺を一打ちし、お発ちーっの一声を
出させて頂きました。
死に化粧を施された義姉の顔はいまにも目を開けそうな穏やかな顔をしておりましたが、このお顔もこれで見納め、そう思うと
胸に迫る思いはありますね。
炉に入れられた後はなんともやるせない思いが致しました。
午後からの出棺としたのは午前中ですと火葬場が一番混み合う時間帯だからだそうです。
その時間を外して、して頂いたようですが、それでも自分達が待合室でお待ちくださいと通された広いロビーのような場所では
その後に結構な人数の他の葬儀のご家族方が次々とお越しになっておられました。
自分達は総勢で5名、なんともこじんまりとした本当に家族葬でした。
先にも書いたように普通はもう少ししんみりとして話をするのでしょうが、何故かしら;笑いが出ており、それは義姉自身が元々
大阪の出ということも関係していたのでしょうか。
殊にH子さんは本人が意識して笑わせようとしている訳ではありませんが、どうにも笑いを誘ってしまうようで皆してついつい
笑い声を立てておりました。
悲しみにくれるのは当然かもしれませんが、このようにして笑って送ってほしい、義姉自身がもしかするとそのように願っていた
のかもしれません。
そんな風にして時間を過ごしておりました。
アナウンスがあり、再び炉まで参りました。
主人同様、まるで病気のデパートみたいなおばあちゃんだったよねとMちゃんが言うような話もしておりましたので果たして遺骨
自体が何処まで残っているだろうかと案じておりました。
戻ってきた骨は思っていたように足はほぼ焼け落ちて無く、俗に言うあばら骨も無い状態でした。
年代的に骨粗鬆症の方が多いと言われますし、思い返せば主人もそんな感じだったよなと考えておりました。
その代わりではありませんが体内には大腿骨へ入れた人工骨頭や頭に入れた何かのクリップ等は焼けずに残っておりました。
様々な病気と闘うような人生でもあったよなと改めて感じてもおりました。
義姉自身、生前から亡くなれば自分の遺骨は出雲大社へ永代祭祀して欲しいと常々話しておりましたので向こうへ持って参る用の
物と、分骨して此方へ置いておく用の小さなもの、二つへそれぞれ納めました。
人間、焼けてしまうとこんなにも脆くて小さかったかなと感じるものでもありますね。
そんなことも思う義姉の遺骨でした。
最後は火葬場を出た所で私が皆様を祓弊にてお祓いし、終了とさせて頂きました。
家に戻られた際、清めの塩等でまずはご自分方を祓い清めて入られるのが本義ですが、塩を忘れてしまったと言われますので
そのようにさせて頂きました。
尚、これも本来ならばご家族が家に戻った後に帰家祭と称する祭りを致すのですが、それも省略致しました。
今回、結構省略したことの方が多いような葬儀ではありましたが、ご家族が一番納得出来る形で、また故人もそれを望んでおり
ましたし、これで良かったと感じます。
短いような、けれど思い返せば案外ギュッと凝縮した中にも皆の思いの詰まった、そんな葬儀であったように思います。
終わってみれば穏やかな二日間でもあり、今夜は色々な意味で特別な満月の日とも聞いております。
もしかするとこの満月を見ながら、たまにはわたいのことを思い出してや、そんなことを義姉は伝えたかったのでしょうか。
最後の最後まで何処かしら茶目っ気のある、ちょっと厳しいけれど楽しい、そんなご本人だったように思います。
享年82歳、永い人生の一区切りとなられました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
今日は朝から良いお天気でした。
明日は午後から崩れるとの事、今週は降ることむなくもったように思います。
昨日は義姉の前夜祭、俗に言う通夜でしたが、夜は皆で集うことも無く、此処で記しておりましたように私は祭詞等を奏上した後は
自宅へ戻りました。
これも申しておりましたように義姉の遺体は葬儀社で安置してもらい、義姉の家族、と言っても娘さん夫婦とその子供らだけの
少人数で義姉の家で過ごしたのだと思います。
明けて今日は本来は本葬ですが、その祭詞も昨日のうちに奏上したことはお伝えした通りです。
ですので今日は午後に火葬場にて落ち合うようにしておりました。
葬儀と言えば通夜に続いてなんだか慌ただしく、そのまま悲しみに沈んでいる感じですが、今回はおそらく私が知らないだけで
しょうけれど、娘であるH子さんが泣きはらす姿は見ておりませんし、それは家族も同様です。
ただ義姉の孫娘に当たるMちゃんは、お母さん、此処来るまで散々泣いてたもんなと話しておりました。
まぁ皆さんそんなものだと思います。
此処に至るまでがしんどかったでしょうしね。
ところで自分は今日も神職の恰好をしてその場へ臨みました。
火葬場にて最後の祭詞を申し述べる為です。
棺が霊柩車から降ろされ炉の前まで運ばれ、これで本当に最後のお別れとなるその時、5分ほどではありますがその折に短い祭詞を
ご遺体の御前にて奏上致します。
その前に本来なら葬儀場を発つ前に棺の縁を神職の持っております杓(しゃく)にてカンッと一打ちし、お発ちー!と声を発します。
そしてそれまでは忍び手(しのびて)という音を立てない柏手を打つのですが、最後の柏手のみ、パンッ!と音を立てます。
永久(とわ)の旅立ちをする者へ、もう二度とこの身体へ戻ってくることはないようにとの思いを込めて致すものです。
この最後の杓での一打ちが出来ておりませんでしたので炉の前での祭詞奏上後、柏手の後に棺を一打ちし、お発ちーっの一声を
出させて頂きました。
死に化粧を施された義姉の顔はいまにも目を開けそうな穏やかな顔をしておりましたが、このお顔もこれで見納め、そう思うと
胸に迫る思いはありますね。
炉に入れられた後はなんともやるせない思いが致しました。
午後からの出棺としたのは午前中ですと火葬場が一番混み合う時間帯だからだそうです。
その時間を外して、して頂いたようですが、それでも自分達が待合室でお待ちくださいと通された広いロビーのような場所では
その後に結構な人数の他の葬儀のご家族方が次々とお越しになっておられました。
自分達は総勢で5名、なんともこじんまりとした本当に家族葬でした。
先にも書いたように普通はもう少ししんみりとして話をするのでしょうが、何故かしら;笑いが出ており、それは義姉自身が元々
大阪の出ということも関係していたのでしょうか。
殊にH子さんは本人が意識して笑わせようとしている訳ではありませんが、どうにも笑いを誘ってしまうようで皆してついつい
笑い声を立てておりました。
悲しみにくれるのは当然かもしれませんが、このようにして笑って送ってほしい、義姉自身がもしかするとそのように願っていた
のかもしれません。
そんな風にして時間を過ごしておりました。
アナウンスがあり、再び炉まで参りました。
主人同様、まるで病気のデパートみたいなおばあちゃんだったよねとMちゃんが言うような話もしておりましたので果たして遺骨
自体が何処まで残っているだろうかと案じておりました。
戻ってきた骨は思っていたように足はほぼ焼け落ちて無く、俗に言うあばら骨も無い状態でした。
年代的に骨粗鬆症の方が多いと言われますし、思い返せば主人もそんな感じだったよなと考えておりました。
その代わりではありませんが体内には大腿骨へ入れた人工骨頭や頭に入れた何かのクリップ等は焼けずに残っておりました。
様々な病気と闘うような人生でもあったよなと改めて感じてもおりました。
義姉自身、生前から亡くなれば自分の遺骨は出雲大社へ永代祭祀して欲しいと常々話しておりましたので向こうへ持って参る用の
物と、分骨して此方へ置いておく用の小さなもの、二つへそれぞれ納めました。
人間、焼けてしまうとこんなにも脆くて小さかったかなと感じるものでもありますね。
そんなことも思う義姉の遺骨でした。
最後は火葬場を出た所で私が皆様を祓弊にてお祓いし、終了とさせて頂きました。
家に戻られた際、清めの塩等でまずはご自分方を祓い清めて入られるのが本義ですが、塩を忘れてしまったと言われますので
そのようにさせて頂きました。
尚、これも本来ならばご家族が家に戻った後に帰家祭と称する祭りを致すのですが、それも省略致しました。
今回、結構省略したことの方が多いような葬儀ではありましたが、ご家族が一番納得出来る形で、また故人もそれを望んでおり
ましたし、これで良かったと感じます。
短いような、けれど思い返せば案外ギュッと凝縮した中にも皆の思いの詰まった、そんな葬儀であったように思います。
終わってみれば穏やかな二日間でもあり、今夜は色々な意味で特別な満月の日とも聞いております。
もしかするとこの満月を見ながら、たまにはわたいのことを思い出してや、そんなことを義姉は伝えたかったのでしょうか。
最後の最後まで何処かしら茶目っ気のある、ちょっと厳しいけれど楽しい、そんなご本人だったように思います。
享年82歳、永い人生の一区切りとなられました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。