2024.02.16
アウディーイウカ南部の防衛ラインが崩壊、街の入口にもロシア国旗が掲げられる
https://grandfleet.info/war-situation-in-ukraine/the-southern-defense-line-of-audiiuka-collapses-and-the-russian-flag-is-raised-at-the-entrance-to-the-city/
※大雑把な流れは書いた通りです。
Foebesの記事から見るアウデイーイウカ市街の戦況<ウクライナ紛争2024.2.16
https://blog.goo.ne.jp/kitanoyamajirou/e/157dbbd54cf559537d558797f86c4173
アウデイーイウカ市街の攻防を詳しくチェック<ウクライナ紛争2024.2.15
https://blog.goo.ne.jp/kitanoyamajirou/e/ba0572c0a5398b03c8f4d725d32fab05
※市街地を防衛していたウクライナ軍の第110機械化旅団と他若干の部隊の主力は、市外に撤退したようです。
しかし全部の部隊が組織的に撤退することは出来なかったようで市内に取り残された一部の部隊もいるようです。
通信手段のある部隊と通信手段を失った部隊があったのであろうと思います。
それくらいロシア軍の市街北部から西への進撃は急速でした。その速度から推測すると市街北部のウクライナ軍の部隊は戦闘力を失い撃破されたのであろうと思います。それも無理からぬところで市内を守っていたのは、第110機械化旅団と他若干の部隊だけでした。当然、数は減っていますので全部合わせても2000人もいなかったのではないかと思います。半分いても1000人です。攻撃したロシア軍はその5倍以上の兵力を一気に集中したのだろうと思います。
市街西の郊外まで突き抜けたロシア軍は、市内への主要補給路を完全に占領し郊外西に急速に占領地を拡大しつつあります。
戦闘地域は拡大し西の郊外のジェベルネ(Sjeverne)と市街地を結ぶ脇道にまで及びました。つまり市内への連絡路は封鎖されつつあります。(まだ通行は可能かもしれませんが、補給は不可能だと思います)
そして市街南1.6kmほどの位置にあるウクライナ軍の強力な陣地であった「ゼニト」(旧防空基地)の守備隊も撤退しました。その結果、市街南部の防衛ラインは完全に崩壊しロシア軍は、南部の占領地も急激に拡大しました。「ゼニト」(旧防空基地)の守備隊も撤退したのか撤退できずに包囲されたのかは、不明です。
市街南部と東側で守備に当たっていた部隊は撤退する時間的余裕はなかったと思います。そしてウクライナ軍の混乱によりその地域の部隊に、おそらく撤退命令が出ていなかったのではないか・と思います。
実態は、市街北部の防衛部隊が敗走したために事態の変化が急激すぎて「ゼニト」(旧防空基地)の守備隊に撤退命令を出した後に(これも撤退命令が出たのか出ていないのかは不明です)、市街に残っていた守備部隊は取り残されてしまったのであろうと思います。
予め予定されていた計画では市街東部の部隊が先に撤退し、それから「ゼニト」(旧防空基地)の守備隊が撤退し、最後に南部と北部の部隊が撤退する予定だったと思います。市街の地図を見ると、その順番にしないと取り残される部隊が出てしまいます。
しかし最後まで撤退する部隊を掩護する予定の市街北部の部隊が撃破されたため、予定されていたであろう撤退の順番が狂ってしまったのであろうと思います。
ウクライナ軍の作戦本部の考え方もおかしく、市街の守備部隊の撤退を援護するために第3独立強襲旅団を送り込んだのなら、ジェベルネ(Sjeverne)方面から援護しなければなりません。
実際に第3独立強襲旅団入ったのは、市街地と切り離された郊外のコークス工場です。そのため市街地には何の行動も出来ません。第3独立強襲旅団がコークス工場に入った段階では、まだ辛うじて市街との交通は可能だった時期です。そのため配置位置を間違えてしまいました。
ロシア軍の攻撃意図を現地部隊が完全に判断間違いをしたために市街北部とコークス工場の分断が起きたと思います。しかしこれが悪いとは、言えません。そもそも市街を守備する兵士の数が足りな過ぎたのです。
それを放置していたタブリア作戦軍司令部と参謀本部の無能・無策が、この敗走ともいえる退却を生み出したと言えます。
結果論を言うならもっと早い段階で(市内への連絡路がしっかり確保されているうちに)撤退計画を立て撤退するべきであったと思います。
撤退作戦の実行が遅すぎたために、結果として撤退作戦ではなく敗走になってしまいました。
こうなってしまえば、戦闘力のある増援の第3独立強襲旅団が戦って撤退を援護するしかありませんが市街と切り離されたコークス工場にいます。
市街に取り残された残りの守備部隊の撤退は、非常に困難であるように見えます。残された道は全滅か降伏しかないように見えます。戦況図を見る限りでは、撤退が可能かどうかは不明です。かなり困難では、あると思います。
ウクライナ人ジャーナリストのブトゥソフ氏は
「兵士らが直面している状況を作り出したのはゼレンスキー大統領、シルスキー総司令官、ウメロフ国防相のような指導者だ」を糾弾しています。
しかし、それは違うと思います。
シルシキー大将が総司令官に任命されたのが、2月8日です。
もうこの段階でロシア軍は市街北部を西に進撃中で急速に支配地を西に拡大し始めた時期です。
何らかの対応は、既にその時期でする必要があります。
そして現地の守備部隊も混乱していて戦場の現状を正確に把握することは困難であったと思います。
だから一番の原因は、そうなるまで何もせず放置したザルジニー氏の無策と無能によると思います。
シルシキー総司令官が現地視察に訪れ現地に指示を出し応援部隊の派遣を決定したのが2月13日です。
引継ぎや現状把握に必要な時間を考えても、これが最短だと思います。しかし現地の戦況はその間にも急速に悪化し増援の第3独立強襲旅団の配置についた位置が、市街との連絡を失ってしまったと言うことです。
シルスキー総司令官とウメロフ国防相は、その時点で出来ることは速やかに全てやったと思います。残念なことに市街北部の戦況の悪化が急速すぎて半分、間に合わなかったということです。
当時の総司令官のザルジニー氏が、2月の早い段階で同じ命令を出していたなら、最低限秩序だった撤退は可能だったと思います。
1週間遅かったということであろうと思います。
そしてアウデイーイウカ市街地では、このような困難な状況が続いていたのに何の対応もせず放置していた方面軍であるタブリア作戦軍司令部と当時のザルジニー最高司令官は無能で無責任で怠慢です。
批判するならザルジニーとタブリア作戦軍司令官タルナウスキー准将を、大いに批判するべきだと思います。
※ここでもザルジニー批判を封じる言論統制を感じます。だれが一番ダメ❓
これまで最高司令官であった、ザルジニーに決まっているでしょう❓
※一連の流れを見ると明らかなことは❓
シルスキー総司令官とウメロフ国防相は、ただちに増援部隊を派遣しました。そして現地を視察して現地の指揮官に撤退作戦の実行許可を出しました。その時点で出来ることは全部やっています。
ザルジニーは最高司令官の職責にありながら、ゼレンスキー氏・ウメロフ国防相と対立し何もしないで放置していました。職務放棄と同じことをしていました。
いい悪いではなく、犯罪的職務怠慢だと思います。
それを批判できないウクライナ国内のジャーナリスト❓
何が問題なのかは、明らかだと思います。
ウクライナ軍の組織的なサボタージュ体質です。
戦争より自分たちの組織の温存(腐敗・汚職体質)を優先しています。
その目的にかなう軍人は良い軍人です。(⇒ザルジニー)
組織の温存に反する職務に忠実な軍人は悪い軍人です。(⇒シルスキー)
これをウクライナ国内で言うのは、タブーのようです。
それだけウクライナ軍の国内統制がまだ強いと言うことだろうと思います。
※関連日記
Foebesの記事から見るアウデイーイウカ市街の戦況<ウクライナ紛争2024.2.16
https://blog.goo.ne.jp/kitanoyamajirou/e/157dbbd54cf559537d558797f86c4173
※関連記事目次
「中立の視点で見るウクライナ紛争」の目次②
https://blog.goo.ne.jp/kitanoyamajirou/e/e2c67e9b59ec09731a1b86a632f91b27