「待つ身が辛いかね。待たれる身が辛いかね」
檀一雄と熱海で豪遊し使い果たした金の算段に行ったまま戻らぬ太宰治を、ようやく捕らえて詰め寄る壇に、太宰が言った言葉だそうだ。
昨夜、「待つ」という凧さんの日記を読んだすぐ後に見た新聞で、こんな言葉で始まる哲学者鷲田清一さんの文章があって、ちょっと驚いた。
タイトルは「待たれる身」
待たれているというのは、いいかえれば、じぶんがだれかに何かを期待されていること。何かを強く、あるいは静かにうながされていることである。ふつうわたしたちは、中身はともあれ、みななんらかの希望を抱き、それに向かって邁進することで身を保っている。ある事態の到来を待ち望む。それが希望ということである。祈りということである。どんな惨めな状態にあっても、ひとは一条の光明ともいうべきこの希望、祈りによって、かろうじて身をつなぐ。
が、ひとには別の身の保ち方というものがある。ひとに期待されていると感じることで、身を奮い起こすということがある。じっさい、他人からの評価や賞賛が身を支えてくれることを、わたしたちは日々経験している。それを励みにがんばっている。ひとはこのように、何かを待ち望むことによってではなく待たれている者としてみずからをとらえなおすことで身を保ちもしている。
鷲田清一
北海道新聞夕刊『夢のもつれ』から(一部)
ああやっぱりそうなのだなぁと思った。
この10年間そうではなく生きてきたわたしの、
これからの課題のようなもの。
待たれる身でいるという。
評価や賞賛ほどのものでなくてもきっといい。
そのことで少しでも身を保って行けたらばいいなと思う。