「逝く夏、時への反証」
すっかり青みをました空を見あげて、いままさに逝く時の川を目の当たりにしているような、厳かな心もちになったりするのも、年というよりは秋のせいなのか。にしても、新しいものにはとんと心がうごかないのに、なにも告げずにしずかに逝くもの、すぎさっていく影、ことわりもなく消えてゆく気配に、このごろは妙に胸がさわぐ。
( 辺見庸 水の透視画法より 道新 9,24)
私の悩ましいのも秋のせいかもしれない。
いやでもそれ以上に年のせいな気がするこの頃。
しずかに逝くもの。
すぎさっていく影。
ことわりもなく消えてゆく気配…
ほんとうに。
「どこまでも優しく、断定的で、明示的で、うそだらけの言葉」ではない言葉。
いつも響いてくる辺見さんの言葉は
わたしに刺激的だ。
「形影相弔う」は、
孤独のきわみ、
自分自身という手に負えない生き物とそれが投げる影とが、たがいにようすをたずねあうという漢詩なのだそう。
今日のどこまでも高い空も寂しくて不安だな。
すっかり青みをました空を見あげて、いままさに逝く時の川を目の当たりにしているような、厳かな心もちになったりするのも、年というよりは秋のせいなのか。にしても、新しいものにはとんと心がうごかないのに、なにも告げずにしずかに逝くもの、すぎさっていく影、ことわりもなく消えてゆく気配に、このごろは妙に胸がさわぐ。
( 辺見庸 水の透視画法より 道新 9,24)
私の悩ましいのも秋のせいかもしれない。
いやでもそれ以上に年のせいな気がするこの頃。
しずかに逝くもの。
すぎさっていく影。
ことわりもなく消えてゆく気配…
ほんとうに。
「どこまでも優しく、断定的で、明示的で、うそだらけの言葉」ではない言葉。
いつも響いてくる辺見さんの言葉は
わたしに刺激的だ。
「形影相弔う」は、
孤独のきわみ、
自分自身という手に負えない生き物とそれが投げる影とが、たがいにようすをたずねあうという漢詩なのだそう。
今日のどこまでも高い空も寂しくて不安だな。