今夏に行われる参議院選挙の公約にも加えられるとされる、憲法第96条の改正。この事から、憲法改正が大きく注目される様になり、民法やNHK等が憲法改正に関する報道を行っているが、一般の人にも注目している人は多く存在しているみたいだ。
そして一般の人々が強く意識しているのが現憲法と自民党草案の対比。現憲法では、「公共の福祉」が活用されているが自民党草案では「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に書き換えたと批判する人が多い。書き換える事により、国民が憲法により国家を縛るのでは無く、憲法改正により国民が国に縛られる逆の立場となるのではないかと強く批判している。
それにより人権の束縛が行われるのではないか、自由な表現と行動は制限されるのではないかとしている。
また、現憲法及び自民党草案とも「公共の福祉」、「公益および公の秩序」は第三章「国民の権利及び義務」に綴られている。故に、文言の変更は人権に関わる事と意識する人が多く出ているのだろうか。
「公共の福祉」は国家では無く国民の人権を優越するものであり、「公益及び公の秩序」は逆に国民の人権では無く国家を優越する者だと主張する人々が多い。そして共通して多く論じられている事が、「公益及び公の秩序」により、これから国がどの様に作っていくのだろうかという事だろうか。
憲法改正により「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に置き換えられれば、国民の基本的人権は削除される様になり、国民は国に何も反論できなくなり、国は公益や公の秩序に反するとして国民を簡単に処罰できるのではないか。
それにより日本社会は民主主義では無く、全体主義などになるのではないのかと強い批判が上がっている。
例えば、戦争が勃発しそれに反する行動を行えば、公の秩序に反するとして処罰されるだろうし、国の定める事に従わなければ同じく公の秩序に反するとして処罰される。故に、日本は民主主義では無くなると主張されている。
そして「公共の福祉」に関しても共通の現憲法で人権を守る文言だとする意見が多くあるが、「公共の福祉」には複数の論がある。Wikipediaの「公共の福祉」では、まず「現行憲法では「公共の福祉に反する場合」国民の基本的人権(言論・結社・身体の自由等)を制限できるので、極めて重要である」と書かれている。
そして、一元的外在制約説、二元的内在外在制約説、宮澤俊義が主張した事から現憲法の通説とされている一元内在制約説などに関し記されている。多くの人はこの説を簡素に記しているが、個人には平等の人権が存在している筈だが、個人の行動などによる接触から夫々の人権は向かい合う事になる。
どちらかの人権が優越される事になり、片側がそれに屈しなければならない。この人権の不平等な衝突を調整し平等とする、実質的公平の原理と主張されている。
他の人々はこの「公共の福祉」による人権の平等と保障は的確では無く、非常に曖昧な表現によって説明されていると思えてならない。人権の衝突があれば調整により平等とするとあるが、何を用いて調整し平等とするのだろうか。
同じくWikipediaの「公共の福祉」に「公共の福祉による人権制約は法令によってのみ行われ、法令による規制が合理的であるかどうかは違憲立法審査によって行われる。法令以外によっての公共の福祉による人権制約は許されない。例えば契約書や約款・就業規則等の規定が公共の福祉の根拠となることはない。なぜなら民法90条「公序良俗に反する契約は無効」とは全く異なる概念であるからである。」と書かれてある。
「公共の福祉」の人権の制約は法令のみで行われるとある。法の規律によって、衝突する人権は調整され平等とされるとなっているのだろう。だが、法令以外による人権制約は許されないとされているのではないか。
それにより「契約書や約款・就業規則等の規定が公共の福祉の根拠とはならない」とされている。であれば、「公共の福祉」による人権では社会の秩序を維持する為の全ての行動が決して定められているとはいえないのではないだろうか。
人権の制約とは何かと考えれば、人権を完全に自由な状態とすれば、全ての行為・行動が許される事となってしまう。暴力や、あらゆる犯罪行為など。また内閣を構成する政治家も基本的には国民の一員だ。全ての国民の行動は社会の秩序を乱す事の無い様に、「公共の福祉」でも法の規律により制約されていると思われる。法の規律に従わない場合に限り。
故に、この様な事が発生しない様に、「公共の福祉」では法律による個人の行動の制約が行われているのではないか。
「公共の福祉」が人権を尊重していると主張する人々は、人権の衝突を調整し平等とする実質的人権の原理である「公共の福祉」により賄われているとしている。
だが、実質的に人権の衝突を調整しているのはこれまでに成立されてきた法律だろう。法律には多くの物がある。
日本国憲法が最高法規とされているが、これまでに成立された多くの法律には、公の秩序の維持と公共の福祉の進化を記している物が存在していると思われる。現憲法の段階でも、国民は社会の秩序を乱してはならない、守らなければならないとされている事は間違い無いだろう。
よって、公の秩序は「公共の福祉」においても示されていた事だと思われる。更に法には、任意規定と強行規定があるが、「公共の福祉」は強行規定も任意規定も存在していないのではないか。存在しているのは、あくまでも法律の規律のみで、人権の衝突の調整と平等を行っているのではないか。
故に、決して国民全体の人権と社会の秩序を保障しているとは思われない。
衆議院憲法調査事務局による「公共の福祉(特に、表現の自由や学問の調整)」に関する基礎的資料では、現憲法の通説となっている「公共の福祉」に対する論述が記されている。「「一元的内在制説は、人権が本来互いに矛盾・衝突するものであって、それを調整する為に公共の福祉に従って制約せざるをえないものとするが、そこには、およそ人は自ずから好む事は何であれこれをなしうる天賦の「人権」を有するという前提がある」がそう捉えると、人権の中には、害悪を与える自由も含まれることになってしまう。しかし、このよう日本国憲法の源となっている社会契約論の理念からいっても人々に保障されているとは考えにくいばかりでなく、「「人権」を本来無制約とする考え方は公共の福祉を名目とする国家による規制をも無制約とする危険をはら」む。」と。
法律の強行規定と任意規定の違いは何なのだろうか。強行法規とはWikipediaの「強行法規」に「契約の双方当事者の立場の強さの違いに基づいて、弱者保護のために用意された規定については、それに反する合意を当事者間が行うことを認めるならば保護規定を置いた意味が減殺されてしまうことから、通常、強行法規として理解される。
当事者間の合意を補完する目的で用意されている規定であって一般には、公益保護を目的とした規定は強行法規であることが多く、そうでない場合には任意規定の場合が多いといわれる。」と、されている。
民法は私法であり近代私法の三大原則が存在している様だ。
権利能力平等の原則、私的所有権絶対の原則、私的自治の原則。そして民法の原則とされる私的自治の原則はコトバンクに「個人は,自分のかかわる私法関係すなわち私的な権利・義務関係を,その意思によって自由に決定し規律することが最も妥当であるとする原則で,近代私法の基本的原則である。この原則は,近代資本主義体制を育成し発展させた〈個人は万物の尺度である〉とする思想を背景としたレッセ・フェール(自由放任主義)を法的に表現したものである。」と書かれている。
故に、「公序良俗」ともされる民法90条「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」により定められており、公の秩序は国家社会の一般秩序を示し、善良の風俗は社会の一般的道徳観念を示すとされるが、これに反しない契約など行えば双方の同意が優先され任意規定とされるが、反する行為を行った契約などは強行規定により無効とされる。
強行規定の例として挙げられるのが、人倫に関する行為(愛人契約その他)、正義の観念に反する行為(賭博や覚せい剤取引など)、個人の自由を極度に制限する行為(借金の返済などに娘などが強制的に芸娼妓契約されたり、人格の尊厳または自由を害する社会的倫理を害する行為その他)そして、債務者が違法行為を犯した時に債権者が不当な違約金などを要求する暴利行為などが公序良俗に反する行為とされているらしい。
こうした公序良俗に反した行為がされた時に、故意に相手側に害をもたらす者は犯罪行為を行ったとされる。
更に「任意規定と異なる意思表示」とされる民法91条では「法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う。」とあるが、民法以外にも任意規定と定められている部分が多くある様だが、任意規定と異なる意思表示したとしても、当事者同時による合意が行われているとすれば任意規定よりも優先されと認めるとされ、「任意規定とされる慣習」とされる民法92条「法令中の公の秩序に関しない規定と異なる慣習がある場合において、法律行為の当事者がその慣習による意思を有しているものと認められるときは、その慣習に従う。」でも任意規定とは異なる慣習、或いは社会的認識があり、その慣習を当事者が有しているとすれば、法の任意規定よりも観衆が優先されるとされている。
これらは、個人の人権に関わる「私法関係すなわち私的な権利・義務関係を,その意思によって自由に決定し規律することが最も妥当であるとする原則」とされるのではないか。「公共の福祉」では決して認められているとは思われない。
法には、私法に対する公法(内閣法、国家公務員法、国家行政組織法、地方自治法、行政事件訴訟法、財政法、消費税法、学校教育法その他80以上)が存在するが、国家・地方の行政も公の秩序により制約され、国民の為の安定した行政が行われる様になっているのではないのだろうか。
そしてもう一つ、批判の的とされている「公益」とは何だろう。
批判する人には単に国の利益や実態の不明瞭とする者もいるが、そうでは無く社会に暮らす人々の為の利益となるのではないか。
公益事業学会が公益事業の規約を示しているが、6条に「われわれの生活に日常不可欠な用役を提供する一連の事業のことであって、それには電気、ガス、水道、鉄道、軌道、自動車道、バス、定期船、定期航空、郵便、電信電話、放送等の諸事業が包括される」と書かれてある。
決して国の利益を求めているとは思われない。
「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」に共通している事は、法律の規定により個人の人権を完全に自由にするのでは無く、ある程度の制約を行い社会全体の調和を保とうとする事ではないのだろうか。
だが「公共の福祉」では法の規律だけでしか人権の平等及び社会の調和を保つ事はできない。
対し「公益及び公の秩序」には民法90条にある「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」などによる任意規定なども含まれると思われる。
それにより、憲法による人権に対する法は強行だけでは無く、任意規定なども加えられる事になり、個人の自由がより大きく認められる事になるのではないだろうか。
改めて書くが、現憲法を擁護し草案を批判する人々は、第三章・国民の権利と義務にある「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」を主に問題としている。
そして最も共通している事は、国権を拡大し人権を縮小する事により、基本的人権が崩壊されようとしているのではないかと思えるが。
だが草案11条「国民は全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、犯すことの出来ない永久の権利である」とし、14条「全て国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済又は社会的関係において、差別されない。」と書かれてある。
草案においても、決して基本気的人権が無視されているなどとは思えない。