蒲田耕二の発言

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バーチャルひばり

2019-12-08 | 音楽
世間では秋口から話題になっていたというAIひばりを、遅まきながら昨日、観た。奇妙な体験だった。

なるほど評判どおり、ひばりが生き返ったかのような迫真の歌である。ちょっと鼻に掛かった声、ギシッときしむような歪みの載った高音、深い陰影をおびた胸声、フレーズ間の粘っこいポルタメント……すべて生前のひばりそのままだ。

しかしそのひばりは、生きて呼吸している人ではない。コンピューター上のデータを消去すれば消えてしまう幻影でしかない。

一昔前なら奇蹟と呼ばれたはずのこの幻影を創り出して見せた技術の進歩を、頭は無論、驚嘆し称賛している。しかし、気持ちがついて行かない。

歌が歌われるとき、その歌にはナマであれ録音であれ、歌手が歌ったそのときの彼女ないし彼の気持ちの高揚、脳裡をよぎる思い、テンポやリズムや音程の一瞬の揺らぎ、等々が含まれる。そのごくごく微細な変数が、歌それぞれを独自のものにする。

ヴォーカルの魅力は声の美しさや表情の深みのほかに、こうした微妙な変数による部分が大きい。それがあるからこそ、歌を録音で聴いても我々は歌手と1対1で親しく対峙した気分になる。

言うまでもなく、AIヴォーカルにこうした変数はない。その歌は完璧に正しく、絶対に過たず、絶対に予測を裏切らない。AIひばりに頭で感心しながら心で違和感を覚えたのは、おそらくそのせいだ。

さらに、もっと大きな問題として、AIで創造された歌には歌い手本人の意思が投影されていない。それは他人の意思で歌わされた歌だ。

AIの技術を使えば、たとえばメトロポリタン歌劇場がマリア・カラスに歌わせようとして拒否された『魔笛』の夜の女王をカラスが歌うという、オペラ・ファンにとっての見果てぬ夢も実現されるかも知れない。

いや、それこそ「川の流れのように」をカラスに歌わせることだって不可能じゃない。だが、生前のカラスが「川の流れ~」の譜面を見て、歌いたいと言っただろうか。

実現したところで、それはカラスの歌であってカラスの歌ではない。「あれから」がひばりの歌であってひばりの歌ではないように。

AIひばりで得られたものは好奇心の満足であり、音楽的感動とは違っていた。感心しつつ、虚しかった。
もしも生前のひばりがこの歌を聴いたら、こんな心のこもってない歌、あたしの歌じゃないよと激怒したかも知れない。

エジソンが蓄音機を発明するまで、ナマの音楽しか聴いたことのなかった人々がレコードに対して抱いたのも、こういう感想だったかもしれないが。

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