マリア・カラスの生誕100周年記念に、カラスのライブ中最も声価の高い録音のリマスタLPが発売された。ヨーロッパ(ドイツ?)の the Lost Recordings という聞いたこともないレーベル。Discogs で300ユーロ前後の高価なレコードだが、値切ったら240ユーロまで負けてくれた(しかし、円安とインフレの相乗効果で送料が高くなって閉口)。
鮮明な写真入りの分厚いブックレットやらCDスペック(16ビット/44.1kHz)のデジタル・ファイルのダウンロード権やらが付属していて、かなり気合の入った造り。レコードも分厚く艶やかな盤面で、丁寧なカッティングだと分かる。レコードのベテランになると、その辺の違いが一目で分かります。
録音自体はよく知られたもので、日本でもLP時代から繰り返し発売されてきた。
今度のリマスタLP(メンドくさいから、以下「赤箱、写真左」)の売りは、放送局音源からのダイレクト・マスタリング。ドイツの放送局の倉庫をかき回していて偶然マスター・テープを発見した云々と、芝居じみた説明をブックレットに載せているが、放送局マスターから制作されたLPは何もこれが初めてではない。
この録音を世界に初めて紹介した米プライベート・レーベルの the Limited Editions 盤(白箱、中央)がそれ。解説書も何もなく、簡素な作りのボックスにレコードを入れてあるだけの無愛想なセットだが、盤自体はサーフェス・ノイズのほとんどない高品質で、何よりも音質の良さがショッキングだった。カラスのライブ録音はその前から何点もレコード化されていたが、レコード会社の発売するスタジオ録音盤と比べて遜色のない音質のライブ盤は初めてだった。数年前に発売されたワーナー盤のCDと SACD は、多分このレコードから音を採っている。
ついでに言うと、大手レーベルから発売されたカラスやフルトヴェングラーのライブ盤は、大半がプライベート盤やそのコピーのマイナー・レーベル盤のコピーです。営利企業のレコード会社は、莫大なコストと時間をかけて真正のマスターを発掘する、もしくは所有者から買い取るなんて面倒な作業をやらない。
白箱に続いて発売された同じく米プライベート・レーベルの BJR 盤(右)は、何度もコピーを重ねたテープを音源に使用したらしく、音がザラザラ歪みっぽかった。使用するカートリッジによっては、狂乱の場のカデンツァでカラスの声が割れた。ステレオ・カートリッジで再生すると、例外なく割れた。
ところが、その後に発売されたLP(Cetra、ワルター協会ほか)とワーナー以外のCD(Melodram、EMIなど)はすべて BJR 盤から音を採ったらしく、軒並み高音が歪んで声が割れていた。
BJR はプライベート盤の中で音がいいとの定評があったレーベルなので、この盤さえ手に入れれば他の盤の音質を確かめる必要なしと考えたんと違うか。レコード会社が音楽を単なるビジネスとして取り扱っていて、愛情などはサラサラないことを端的に物語る事例だね。
くだんの赤箱『ルチーア』は、少なくとも音楽を、この演奏を愛し、リスペクトしていることが丁寧な制作姿勢からビンビン伝わってくる。その心根が、高いカネを出したことをユーザーに後悔させない。
ただし音質は、必ずしも白箱を上回るわけではない。オーケストラは、音が幾分こもりがちの白箱よりも鮮明だ。その代わり、声がやや痩せて険しくなっている。高音を持ち上げ、控えめとはいえデジタル・ノイズフィルターを適用した代償だろう。2幕大詰めのカラスの声など、老婆のようにしわがれている。全盛期の彼女の温かく豊麗な声は、白箱でしか聴けない。
オマケのデジタル・ファイルは声が歪みまくっていて、全然ダメ。
しかしまあ録音から68年後のレコード化、ノイズフィルターの使用は避けられなかったんだろうね。酸化鉄(鉄サビ)という不安定の代名詞みたいな物質を録音媒体に使うテープ録音は、録音直後から劣化が始まる。録音後17年目に制作された白箱に比べて赤箱が音質的に不利なのは、テープ録音の構造的欠陥から止むを得ないんだよね。
というようなことは、購入前から分かっていた。でもコレクターは買ってしまう。業(ごう)だね。