ああ、とうとうその時が来たか。長患いをしていた親が、臨終を迎えたような気分だ。
オレは評論家として、レコード芸術でデビューさせてもらった。さらに20年にわたってレコード評を同誌に書き続けた。レコード芸術はオレの生みの親であり、育ての親だった。
オレがデビューした70年代初めは、高度経済成長まっ盛りだった。金儲けとは比較的に縁の薄いクラシック音楽界も、むやみに活きがよかった。大木正興氏や高崎保男氏らの尖った批評が、時にレコード会社との軋轢を生み、その軋轢が読者の信用を獲得した。
レコード芸術に掲載される評論の数々が、キラキラと威勢のいい、もしくは鼻息の荒い言葉にあふれ、熱っぽい活力に沸いていた。
当時、音楽誌は他にもいくつか創刊されたが、レコード芸術の地位は不動だった。レギュラーの読者数がもっとも多く、したがって影響力のもっとも大きい雑誌の評価を保持し続けた。
事実、オレの担当したシャンソンでも、なまじのポピュラー音楽誌よりレコード芸術に書いた時の方が反響が大きかった。
だがバブルがはじけ、景気が停滞し始めると、レコード芸術はみるみる元気を失った。強気の評論は影をひそめ、圧のある輝きが紙面から消えた。あたかも体力が衰え、床に伏しがちになった老母のように。
そこへ、ネットの普及が追い討ちをかけた。レコードの復活が示唆するとおり、クラシック音楽ファンがいなくなったわけではない。紙に印刷された文字を読む、という従来の習慣がネットによって否定されたのだ。対価を払って評論を読む行為が、時代遅れになった。
時代は変わる。
オレの生物学的両親は、とっくに世を去った。オレ自身、自分がこの世での役割を終えたことを日々実感している。レコード芸術の休刊、というか事実上の廃刊は、ゆっくりとだが、たゆむことなく流れ下っていく時間の大河のごくごく小さな波しぶき、なのかもしれない。
そうではあっても、その小さなしぶきが日本の文化界に遺すシミは、この先も長く残るのではなかろうか。
オレは評論家として、レコード芸術でデビューさせてもらった。さらに20年にわたってレコード評を同誌に書き続けた。レコード芸術はオレの生みの親であり、育ての親だった。
オレがデビューした70年代初めは、高度経済成長まっ盛りだった。金儲けとは比較的に縁の薄いクラシック音楽界も、むやみに活きがよかった。大木正興氏や高崎保男氏らの尖った批評が、時にレコード会社との軋轢を生み、その軋轢が読者の信用を獲得した。
レコード芸術に掲載される評論の数々が、キラキラと威勢のいい、もしくは鼻息の荒い言葉にあふれ、熱っぽい活力に沸いていた。
当時、音楽誌は他にもいくつか創刊されたが、レコード芸術の地位は不動だった。レギュラーの読者数がもっとも多く、したがって影響力のもっとも大きい雑誌の評価を保持し続けた。
事実、オレの担当したシャンソンでも、なまじのポピュラー音楽誌よりレコード芸術に書いた時の方が反響が大きかった。
だがバブルがはじけ、景気が停滞し始めると、レコード芸術はみるみる元気を失った。強気の評論は影をひそめ、圧のある輝きが紙面から消えた。あたかも体力が衰え、床に伏しがちになった老母のように。
そこへ、ネットの普及が追い討ちをかけた。レコードの復活が示唆するとおり、クラシック音楽ファンがいなくなったわけではない。紙に印刷された文字を読む、という従来の習慣がネットによって否定されたのだ。対価を払って評論を読む行為が、時代遅れになった。
時代は変わる。
オレの生物学的両親は、とっくに世を去った。オレ自身、自分がこの世での役割を終えたことを日々実感している。レコード芸術の休刊、というか事実上の廃刊は、ゆっくりとだが、たゆむことなく流れ下っていく時間の大河のごくごく小さな波しぶき、なのかもしれない。
そうではあっても、その小さなしぶきが日本の文化界に遺すシミは、この先も長く残るのではなかろうか。