紘子さんは京都駅に戻ってきました。
季節は夏、京都の夏は暑いですね。
再び、一人バスに乗り、駅へ帰ってくる。かなり度胸がついてきて、駅近くのそば屋に入る。本当は、レストランに入ったこともない初心者なのに。京都名物にしんそばを食べたいが、化粧くずれを恐れて、冷たい京風そうめんにする。店員は全くの素知らぬ顔。どうして大丈夫なのかしらと、鏡の中の顔をみつめる。
自分にはすぐわかる男の笑顔がみえる。若くない、美人でないのがよいのかなと、やや寂しい納得をする。三千院にゆかなかった分、時間があまる。仕方がない。荷物をロッカーから出して、宿泊予約してある新ミヤコホテルヘゆこう。
チェックインの時間まで、ロビーの喫茶室に。大きくて立派なホテル。外は暑いが、ここは別天地の涼しさ。何故、こんなに暑い梅雨時の京都を女装して訪れる気になったのか。バカみたい。とにかく女性で通すしかない。ホテルの洗面室は、きれいで鏡も広い。化粧をチェックして、汗の臭い消しスプレーを使いに使う。
一時。更に十分待ってから、フロントヘ。「……絃子様ですね。ありがとうございます。御予約承っております。……」
と流れるようなサービス。心配していた女性としてのチェックインは、あっけなく解決。部屋はシングルだけれど、大きなソファもあって普通の二倍の広さはある。その上、一泊八○○○円は、東京とくらべると信じられない程、安い。空調もよく効く。思わずベッドの上に大の宇。
ああ疲れた,昨攻からめ繋張感は大変なもの。気楽な姿に戻りたくなるが、下着一枚男物は持ってこなかった。気おくれしても逃げ場のないように、断念したのだけれど、やっぱり苦しい。
スリップー枚で、鏡の前に立つ。「よくやるね、おまえは」と自分にむかって話しかける。顔もダメ、スタイルも悪い、若さもない。おまえは、一体何に狂っているのかい。ま、話せば長い。いいじゃないか。あと2日、頑張りましょう。
気をとり直して、シャワーを念入りに浴びる。それから、本格的に外出の化粧をはじめる。化粧には一種の魔力がある。自己流ながら、変貌してゆく過程にひきずりこまれる。女性の気持がわかる一瞬。
その時、電話が入る。偶然知り合った京都の男性(Oさんという)から。これから、鞍馬山ヘドライブにゆこうという。ドキッとするが、OKしてしまう。不安なくせして、どうしてこう度胸がよいのだ。えーい、女の子。やるときはやるのよ。
でも本当はドキドキがはじまる。何を着てゆこうかしら。
半袖のスーツに黒のハイヒール。ポリエステルの軽いスカートのすそを、くるくる廻してみる。何かの映画でみたような記憶がある。男性とのデートは、矢張りはじめて。妙に興奮するのだ。でもなかなかやってこない。一時間ちかくも、そわそわしながら待つ。待つ。うーん、待たせることにこれ程心理的効果があるとは、知らなかった。
あらためてみるOさんは、背の高いなかなかのハンサム。彼は私の正体を知っているにも拘らず、ソフトな女性扱いは変わらない。かなり、女性の敵みたい。
ダブルの洋服で、その上ベンツを運転してやってきた。なにか、あやしいな。でも、どういうわけか、話をしているうちに、こちらの方がわがままな女の子に変っていってしまう。こら、絃子。しっかり者が売り者のおまえにしては、おかしいじゃないか。
車は、祭でわいている街中を巧みにさけて、鞍馬山を目ざす。
日中の暑さが落ちついてきて、山中は冷気さえ感ぜられる。あちこち走って鞍馬寺の山門に歩を進めた時は、もうほの暗くなっていた。
山門から中に入ると、石段を登りながら、大声で声明を唱えている男性に出あう。ろうろうと響き渡る男声は素晴らしく心に沁みた。杉木立の間からわずかにダークブルーに変わりつつある空がみえる。夏には、写経の会が一般の人に開放されて行なわれる旨の表示があった。宗教が、 いや仏教が一般の人に密着していることを目にするのは、とても快い。さすが京都なのかしら。下りの階段に、ヒールをひっかけてよろけてしまう。と、腕が延びてきて、しっかりエスコートされる。
今は体温で暖かくなっている人工乳房がソフトにいつまでも圧迫されると、妙に 頭がしびれてきた。男性の腕にすがれるというのは、女の良さだナと思う。胸がズキンとする。
それから、貴船神社までは上の空の状態でよく覚えていない。貴船神社は、まっ暗になっていた。わずかな灯りで、それとわかるかえでの木の下で腕を組むと、とても幸せな気分になる。
一寸待て。うますぎるではないか。紘子はプレイ派ではない筈。いいのか絃子。
目をさませ。辛うじて帰りの車中で自分をとり戻す。それにしても、○さん、貴方はうますぎる。プロではないかと思ったら、恐くなって、目がさめてきた。ホテルまで送ってもらって、別れたけれど最後まで紳士を捨てなかった。新米女装者は自分にも恐くなった。心理的には、完全に女性になってしまうことがあるのだナー本当に。こわい。
本当に恐いのは明日の夜も会っていただけませんか、いいそうになった自分の心だ。男性に甘えられるということは、快くあまりに魅惑的なこと。化粧をおとし、シャワーをしっかり浴びても、顔が男に戻らない。私は大胆すぎる。
三日目。朝早くから目がさめる,昨夜は結局、祇園祭にはゆかなかった。今日 こそ出かけよう。
ホテルで朝食をとる。その為にも、又々シャワーを浴びて化粧しなくては。
昨夜の興奮がまだ尾をひいている。ボーイに導かれた席は、白人の外国人夫妻の隣。不思議なことに、英語で話す方が男女を意識しないですむ。しばらく京都や鞍馬の話のあとで、彼らは観光に出かけてゆく。
ボーイとウェイトレスのサービスが、とてもよい。何度も食後のコーヒーを注ぎにきてくれる。平然と彼らのサービスを受け入れている自分に、自分で驚いている。
半分、女性を意識しないで女性をしているのだから
新潟 紘子
出所 『くいーん』1992年4月号
まだ紘子さんの京都の旅は続きますが、引用はこのくらいにしておきますね。
私も仕事では何度も京都に行きましたが、駅前のビジネスホテルとクライアント事業所の往復で観光は全くしませんでした。
紘子さんの旅行記を読むと改めて観光しておけばよかったなと思います。
紘子さん
季節は夏、京都の夏は暑いですね。
再び、一人バスに乗り、駅へ帰ってくる。かなり度胸がついてきて、駅近くのそば屋に入る。本当は、レストランに入ったこともない初心者なのに。京都名物にしんそばを食べたいが、化粧くずれを恐れて、冷たい京風そうめんにする。店員は全くの素知らぬ顔。どうして大丈夫なのかしらと、鏡の中の顔をみつめる。
自分にはすぐわかる男の笑顔がみえる。若くない、美人でないのがよいのかなと、やや寂しい納得をする。三千院にゆかなかった分、時間があまる。仕方がない。荷物をロッカーから出して、宿泊予約してある新ミヤコホテルヘゆこう。
チェックインの時間まで、ロビーの喫茶室に。大きくて立派なホテル。外は暑いが、ここは別天地の涼しさ。何故、こんなに暑い梅雨時の京都を女装して訪れる気になったのか。バカみたい。とにかく女性で通すしかない。ホテルの洗面室は、きれいで鏡も広い。化粧をチェックして、汗の臭い消しスプレーを使いに使う。
一時。更に十分待ってから、フロントヘ。「……絃子様ですね。ありがとうございます。御予約承っております。……」
と流れるようなサービス。心配していた女性としてのチェックインは、あっけなく解決。部屋はシングルだけれど、大きなソファもあって普通の二倍の広さはある。その上、一泊八○○○円は、東京とくらべると信じられない程、安い。空調もよく効く。思わずベッドの上に大の宇。
ああ疲れた,昨攻からめ繋張感は大変なもの。気楽な姿に戻りたくなるが、下着一枚男物は持ってこなかった。気おくれしても逃げ場のないように、断念したのだけれど、やっぱり苦しい。
スリップー枚で、鏡の前に立つ。「よくやるね、おまえは」と自分にむかって話しかける。顔もダメ、スタイルも悪い、若さもない。おまえは、一体何に狂っているのかい。ま、話せば長い。いいじゃないか。あと2日、頑張りましょう。
気をとり直して、シャワーを念入りに浴びる。それから、本格的に外出の化粧をはじめる。化粧には一種の魔力がある。自己流ながら、変貌してゆく過程にひきずりこまれる。女性の気持がわかる一瞬。
その時、電話が入る。偶然知り合った京都の男性(Oさんという)から。これから、鞍馬山ヘドライブにゆこうという。ドキッとするが、OKしてしまう。不安なくせして、どうしてこう度胸がよいのだ。えーい、女の子。やるときはやるのよ。
でも本当はドキドキがはじまる。何を着てゆこうかしら。
半袖のスーツに黒のハイヒール。ポリエステルの軽いスカートのすそを、くるくる廻してみる。何かの映画でみたような記憶がある。男性とのデートは、矢張りはじめて。妙に興奮するのだ。でもなかなかやってこない。一時間ちかくも、そわそわしながら待つ。待つ。うーん、待たせることにこれ程心理的効果があるとは、知らなかった。
あらためてみるOさんは、背の高いなかなかのハンサム。彼は私の正体を知っているにも拘らず、ソフトな女性扱いは変わらない。かなり、女性の敵みたい。
ダブルの洋服で、その上ベンツを運転してやってきた。なにか、あやしいな。でも、どういうわけか、話をしているうちに、こちらの方がわがままな女の子に変っていってしまう。こら、絃子。しっかり者が売り者のおまえにしては、おかしいじゃないか。
車は、祭でわいている街中を巧みにさけて、鞍馬山を目ざす。
日中の暑さが落ちついてきて、山中は冷気さえ感ぜられる。あちこち走って鞍馬寺の山門に歩を進めた時は、もうほの暗くなっていた。
山門から中に入ると、石段を登りながら、大声で声明を唱えている男性に出あう。ろうろうと響き渡る男声は素晴らしく心に沁みた。杉木立の間からわずかにダークブルーに変わりつつある空がみえる。夏には、写経の会が一般の人に開放されて行なわれる旨の表示があった。宗教が、 いや仏教が一般の人に密着していることを目にするのは、とても快い。さすが京都なのかしら。下りの階段に、ヒールをひっかけてよろけてしまう。と、腕が延びてきて、しっかりエスコートされる。
今は体温で暖かくなっている人工乳房がソフトにいつまでも圧迫されると、妙に 頭がしびれてきた。男性の腕にすがれるというのは、女の良さだナと思う。胸がズキンとする。
それから、貴船神社までは上の空の状態でよく覚えていない。貴船神社は、まっ暗になっていた。わずかな灯りで、それとわかるかえでの木の下で腕を組むと、とても幸せな気分になる。
一寸待て。うますぎるではないか。紘子はプレイ派ではない筈。いいのか絃子。
目をさませ。辛うじて帰りの車中で自分をとり戻す。それにしても、○さん、貴方はうますぎる。プロではないかと思ったら、恐くなって、目がさめてきた。ホテルまで送ってもらって、別れたけれど最後まで紳士を捨てなかった。新米女装者は自分にも恐くなった。心理的には、完全に女性になってしまうことがあるのだナー本当に。こわい。
本当に恐いのは明日の夜も会っていただけませんか、いいそうになった自分の心だ。男性に甘えられるということは、快くあまりに魅惑的なこと。化粧をおとし、シャワーをしっかり浴びても、顔が男に戻らない。私は大胆すぎる。
三日目。朝早くから目がさめる,昨夜は結局、祇園祭にはゆかなかった。今日 こそ出かけよう。
ホテルで朝食をとる。その為にも、又々シャワーを浴びて化粧しなくては。
昨夜の興奮がまだ尾をひいている。ボーイに導かれた席は、白人の外国人夫妻の隣。不思議なことに、英語で話す方が男女を意識しないですむ。しばらく京都や鞍馬の話のあとで、彼らは観光に出かけてゆく。
ボーイとウェイトレスのサービスが、とてもよい。何度も食後のコーヒーを注ぎにきてくれる。平然と彼らのサービスを受け入れている自分に、自分で驚いている。
半分、女性を意識しないで女性をしているのだから
新潟 紘子
出所 『くいーん』1992年4月号
まだ紘子さんの京都の旅は続きますが、引用はこのくらいにしておきますね。
私も仕事では何度も京都に行きましたが、駅前のビジネスホテルとクライアント事業所の往復で観光は全くしませんでした。
紘子さんの旅行記を読むと改めて観光しておけばよかったなと思います。
紘子さん