阿修羅の仏像に大挙して押し寄せている人々。仏像に癒しを求める人々。
蚊帳の外に住民票がある(?)あたくしには一向に理解できない大勢の人々
の行動です。
仏教に、仏像に淫を感じるあたくしは仏像が好きではありません。
増してや、メディアに取り上げられ、有名人が誉めそやすと、ソレ~!
なんて、論外です。
インド誕生の仏教です。3億の宗教があるとも言われる、土着信仰と渾然一体
となった、動物を聖なるものとするヒンズー教の地で誕生した仏教に、様々な
その宗教のエッセンスが混入しなかったとは到底思えないのです。
およそ宗教の気色悪さは、その組織の最高権力者(の存在が信じられない)が
表向きは独身を通すことです。
異性を近付けない異常さが、かえって淫靡さを醸し出しているようにあたくし
には感じられるのです。母がいて、父がいてそして人が誕生するのです。SEXあっての
人の存在です。それを否定するそこにもう異常さを見ます。教義がどんなに崇高な
ものであろうとも、気色悪い生き方です。ですからある時、突然変異のように
性交は素晴らしいなんて、「立川流」という宗派が生まれるのです。・・・鳥肌
「仏作って魂入れず」って言葉が怖かったものです。「ん?じゃ、魂が入ってるの?」
お人形が嫌いでした。およそ人の形をしたものが今でもあまり好きではありません。
ペットを異常に擬人化するとか、生身の人より上段に位置付ける人以外の人型を、
動物を、愛する人が怖くさえあります。
そして、遮断する勇気をもたず、溢れ返る情報を求め疲れ、癒しを求める。
ああ、どうして「要らない!」って意思を持たないのでしょうか。
「要らない!」って、遮断するならストレスはかなり軽減する筈です。
貪欲は卑しいのです、卑しい=下品なのです。浅ましいのです。
挙句、疲れている現代人は癒しを求める?いっつも何かを求める。欲しい~~~!
「癒されますね~~」ですって?このお粗末さに唖然とするあたくしです。
どうして、誰も彼も癒しを求めるのでしょうか?なぜ、なぜ~~~~、
自分の欲張りの結果なのに。
なぜ癒してあげる人になろうとしないのでしょうか?
人を慰め、励まし、温める人になぜなろうとしないのでしょうか?いっつも要求
ばかり。この反吐が出そうな人の多い事におののきます。いっつもいっつも欲しい!
って、欲求不満の塊がこの文明社会に生きる人々なのです。
「ああ、ありがとう。でももう、充分です。これ以上のものは要らないのです」
って思えたら、言えたら、どんなにその人のお顔は優しく満ち足りたものになる
ことでしょう。「ありがとう、でも要りません」って言えたら、思えたら。
メディアに魂を、良心を、無垢を売り渡してはいけないのです。
大勢の人がする(言う)事には疑いを向けなくてはいけないのです。誰かに自分を
委ねてはいけないのです。見ず知らずの誰かさんの案内に付いて行ってはいけない
のです。そこから生まれる自分は不平不満の、いっつも周りをキョロキョロ見てい
る心貧しく卑しい、自分のようなそうではないような、不安定な自分に出会う
ばかりです。そして、癒しを求めるのです。無意味な堂堂巡り。
音楽が絵画が彫刻が、およそ藝術といわれるものが人の心に働きかけるのは事実
と思います。
癒されるなら、それはそれで素晴らしいことです。けれども、私は(俺)は誰かの
心を揺さぶる存在になってるだろうか?
私の(俺の)言葉が、しぐさが、誰かを励まし、慰めているだろうか?って考えて
みる事が現代人には必要じゃないかしら。不平不満がなぜ出るのでしょう。
振り返ってみれば、きっと今が一番いい!って思えるはずです。世界の頭脳が有益
や便利を、間接的ではありますが、様々な有形無形でプレゼントしてくれています。
お返し一つしていません。戴きっぱなしです、せめてありがとうございます、
それしかありません。大勢の人が行くから私も!は貧しすぎます。
癒しも何も、全て自分の心の中にあると、あたくしは思う、いえ、感じます。
その感性を高めるために全ての芸術は存在するって。誰かが高く評価するから
素晴らしいって錯覚するのではないでしょうか?乗り遅れたら大変とばかりに
上野詣でに電車を乗り継ぐって、貧しいですね~~~。
もう、求めるのは辞めません?
癒しも、楽しさも提供する側に居ようではありませんか。
「あなたと一緒に居ると元気をもらいます」って、よく言われます。
どうりで、最近ストックが減ってきてるみたい(笑)。ダメよ~~取りっぱなしは!
愚息その①のお店の常連さんのお一人も、私から元気を貰いたいって。言下に
「イヤよ!減るから」って笑います。
貰いたがる人は貰えないってあたくしには思えるのです。要らないって思ったら、
その時から本当に大事な必要なものが近づいてくるような気がするのです。
「求めよさらば与えられん」これは聖書の中の有名な句です。
望みなさい、そうすればそれは得られるって。そうかもしれません。けれど、その
求めるものは何か?深く示唆に富んだ言葉と思います。誰に?何に?神に?何を?
あたくしは、もう充分です、です。その辺に転がっているような、みんなが欲しがる
ものは要らないのです。誰かに何かに癒されたい?いいえ!
すべての答えは自身の内にあることを知ったあたくしなのですから。