新型コロナの馬鹿ゲタ騒動が始まって、夏以外の季節は温水プールで泳ぐことすら出来なくなっていて、山に登るだけで体調はイロイロと悪くなっていた。
ここに来て、やっとプールも規制解除になって、泳いだり柔軟しながら歩いたりが出来るようになって、仕事の疲れが取れるようになり、気持ちの悪い凝りからも解放された。
そうして海で泳ぐ、これが一番に健康には良い。
ガキの頃からの夏の過ごし方は、海や川で存分に泳ぐこと。
ゴーグルなんて面倒なモノなど持たず、裸眼で素潜りしたり自在に魚のように泳いで遊んでおった。
泳法も横泳ぎや背面バラフライや、立ち泳ぎだって学校で習う泳ぎなど幼稚な泳ぎはいっさいしない。
水に入れば勝手に身体が自在に動き、穏やかな波であれば仰向けに浮いたまんまで、心地よく居眠りすらしてしまう。
この季節は山よりも海に身体が向いているから、使う筋肉もぜんぜん違ってくる。
今年も普通に、ナニゴトもなく、悠々と沖へと泳ぐことが出来ている。
これで障害者手帳を持っている障害者だが、健常者の方が臆病なタコだろう。
それでもときどき山にも登っておかなければ、秋からの装備が重くなる本格的な山の季節に、対応できなくなる。
関節を緩めるのが泳ぐことで、関節に負荷をかけるのが山を歩くこと、両方やっておけばまだまだ大丈夫。
毎年の夏は、凝りからの解放になっているのは、そういうことなんだろう。
それにしても、この下らないコロナ騒動、人間の健康を損なう日々が狙いだとも言える。
ワクチンだって何度もうっている者ほど、何度もコロナにかかったり、おかしな病に倒れている。
俺の多くの関わり合いの中では、それが真実だ。
メディアを使ってワザと解り難くしてるだけの煽動報道とは、ぜんぜん違っている。
地球や宇宙から自然に多くの栄養をもらい、病に罹ったら自分で免疫を作る、これが生物の進化だが、それを人工的にワクチンでやること自体、キチガイ単細胞のやることだ。
傷を治すとき、痛くないように急いで治す弱っち~現代人らしい。
俺は、昔から時間をかけて痛みにも耐えて、じっくり自分の肉体の治癒能力を信じて治すのが常だ。
早く、痛くなく、その為に強い薬や強い影響を人体に与えて、おかしな無理をさせていることにはいっさい無関心。
俺はインフルエンザでもワクチンは怪しいと思い、うってない。
どんどん人工的な身体に飼育されて、豚舎の豚のように美味しく喰われるように管理されている。
一度自然な免疫を壊してしまうと、人工的な治療だけの輪廻に嵌ってしまうことには気が付かない。
そういうことだろうが、あんたらは手遅れになってしまってるだろう。
まず資本主義社会では組織という小さな括りで縛り上げ、組織のルールで管理し奴隷と育て、あとはそこにいたければ言うことを聞けと、投票やワクチン接種から趣味嗜好まで命令し従わせる、余暇ですら決められて管理されている。
なにが自由だ? なにが幸せだ?
大笑いだろう。
われわれ土着の日本人は、遠い過去には太陽を中心とした大自然を神とも捉え、高い山の頂には奥社の小さな祠を建て、神が降り立ち、死者が天に帰る場所として、神聖な目印を置いて暮らしていた。
これを高天が原と呼ぶこともあった。
頂に祠を建て、麓には社を建ててその地域に棲む人々の生活に密接に寄り添っていた。
大自然の猛威や、地震や噴火や津波といった大災害が常に起きる島国では、自然にそんな原始信仰が生まれていた。
金儲けとして存在していたわけではなく、誰ともなく寄進を繰り返して、その維持は成り立っていた。
海を生業とする民や、山を生業とする民や、狭い平地で農耕をして暮らす民やが、みなそれぞれに寄り添い信仰する神が、あちこちにあった。
これを八百万の神とも呼ぶ。
その根源は、人ではなく、先祖の霊でもなく、地球や宇宙という太陽を中心としたモノに、神を見ていた。
そうしてその神々に手を合わせ、祈願・御礼として寄進するものらがその神の居場所を維持して来た。
神社や寺の維持費というものは、信者の数や信者の富に比例していた。
苦行を続ける生きている人間が神になることはあったが、死者が霊として残り、神と呼ばれるようになったのは、金儲けとしての信仰が始まった頃からだ。
豪華絢爛な菩提所は、富と権力の証として、建てられるようになった。
決してそこに何者かの神が、存在する訳ではなかった。
単なるモノとして、生きている者の詭弁としてだけ存在するようになった。
つまらない話だ。
遠い昔から、険しい山の頂きであればあるほど、尊い神が降り立つとも考えられていた。
その頂からの景色は、この世のモノとも思えないほどの絶景がなければ、頂の格が落ちた。
その頂を足下にするためには苦行をモノともせずに、黙々と道なき山を登る者らが修験者や山伏の発祥でもあり、そこから行として確立されていったのは遥かに古い話となる。
雪解けの山の姿が、駒のように見えればその年は豊作になるとか、日本中にある駒ケ岳という山々の由来だが、その為にインチキしてでも駒に見えるようにしたいと、豪雪の雪山に登り帰らぬ人となった若者たちは多かった。
外国の勢力に染められ始めた明治の怪しい大転換時に、修験者や山伏は廃止となったが、いまだに登山と称して、レジャー・スポーツに紛れてそれを続けている者も多い。
根本的に山に登り歩く意味が違っているから、百名山・三百名山なんて間抜けな猿の遊びには、興味もない。
俺はガキの頃から地方を転々としたおかげで、あちこちの山や海で遊び惚けることが出来て、この島国の民の先祖について、身を持って感じるものがあった。
自分の短い生涯で、それを最初からやってみたかった。
だから延々と人のいない高い山を歩き、人のいない海で泳ぐ、これで半世紀以上も費やしてきた。
果たして神になれたのか?
自営の仕事も含めた日常生活では、常に社会や他人との関わり合いを一個人で増やし続け、出家してノホホンと生きる坊主や神主など見下して、決して群れにはならず、贅と欲に溺れる猿の社会にも背を向けたまんま、ひたすらに大汗をかいて遊び惚けて来た。
楽な遊びではないのは、言うまでもない。
いつ死んでも良い、そういう状況を日常生活では常に抱えておいて、遊び惚ける、だからこそ大笑いが出来る。
当たり前だが、借金・負債は個人でも経営する複数の会社でもびた一文持たず、貸し借りも作らない。
人生の行く先々で可愛いと想った利口な女を愛し子供を産んでもらい、10歳まではキチンとチンコロのように育て、不倫や浮気などというトボケタ自慰の延長ゴッコなど何処吹く風、その後もその爺婆までみな面倒を見て、今が在る。
この歳になってくると、人間社会の嘘はすべてが見抜けてしまえるようになり、ようやくに神の近くへと辿り着いたような、そんな可笑しさもある。
この島国の太古の時代に生きた民とおなじ心持ちを味わってみたい。
この島国で、今、味わうとどうなるのか?
可笑しいことだらけ、笑いは止まらなくなってしまう。
人間の送る生涯なんてものは、洗脳されて煽動されて、それをすべて一度粉々に破壊して、そこから自由自在に自分自身を作り上げて行く作業だとすれば、俺の完結は近くなっているさ。
さ~、人のいない奥山に登ろう、さ~、人のいない海で泳ごう、地球や宇宙と一体となれる幸せを、存分に味わって、人間の社会でまた現実を過ごす。
神は人に宿り、人は神に宿る。
そういう信仰こそ、本当の信仰ではある。
群れにならず、独りで、立つ。
悠々と笑い、小細工はしない。
そうありたいし、そうなってきていると想っている。
ありがたいことだろう。
なににも依らない自営でなければ味わえない、そんな境地に入っているようでもある。
阿呆くさいと言えばこれほど阿呆臭い場所もないが、人間で生まれた以上は、そこで自由を謳歌する。
命あるものはみな、笑って楽しく生きていたい、それだけのことさ。