大企業サラリーマンや公務員という個性の要らない猿回しの猿だけ優遇されてる職業に就いている人たちは、良い思いをさせてやってるんだからと口封じを先にされているようなもので、いずれ本人は誤魔化し誤魔化し生き伸びたとしても、子や孫の代ともなれば悪臭放つ生ゴミとして捨てられることすら気が付かず、刹那の良い思いに没頭して涎を垂らしている。
群れていれば安全? 少なくとも日本人の止まらない劣化の原因はそこにある。
目先の我欲に憑りつかれて大事な時間を浪費している現代人は、その生の終わりに味気の無い無味無臭でスローな時間の中で、ナニを想うのだろうか?
人為的に作られた飼育ペットの部屋で、医療だの介護だのとマニュアル漬けにされ、個性もナニもすべてを踏みにじられて、燃えるゴミとなるのを待っているだけ。
高齢の親や爺婆を病院や施設に預けて安心して、顔を出す事だけが孝行になってしまってる現代社会では、寂しさの中でボケや認知症となって表情も失われてしまった老人には、もはや自己主張の方法すらなくなって、目の前にたまにやって来る子や孫の乾いた自己満足の笑いに薄ら寒さすら覚えて、無表情に老いを演じるだけ。
思い出すのは子育てを貴方任せにして身勝手に過ごしていた自分の若い日のこと。
老いてそれを自らが経験するとは、溜息すら出ることもない絶望の終活、自由を奪われて拘束された軟禁部屋の窓から見える景色に、早く死にたいとばかり願う己の憐れさに呆然と過ごす。
もはや全てが手遅れの詰み、子を生むのが親の仕事、楽しく遊んで教えて見せて育てることは貴方任せ、そうして老いてくればまた心許す話相手すらおらずの貴方任せの日々、ただただ死を願うだけの自らを顧みて、自業自得の番号札を握りしめる。
これが日本だ、日本人の生の今だ、それで良いのか? すら、問い掛けは無い。
朝から深夜まで孤独な部屋で繰り返し襲われる愁傷感の中で、堂々巡りの後悔はいつもおなじ場所へと帰って行く。
・・・園の決まり事に従いなさい、先生の言う事を聞きなさい、学校の命令には服從しなさい、先生には無条件で平伏するんだ、決して逆らって孤立しないように・・・と、良い悪いではなくオオムのように繰り返すことが親の教育だと思っていた。
貴方任せにした悔いは、もっと我が子との時間を濃密にしてやれば良かった、もっと我が孫と遊んでやって生きる笑いを伝え、もっと個々の違いを育て守ってやれば良かったと、貴方任せの日常でぼんやり想うこと。
その後悔が自らの老いた身体に戻って来ているだけだと、死を待つだけの部屋で霞がかかって、じきに養豚場の豚のように順番を待っている自分すら忘れ果てている。
これが生きること? これが当たり前の人間の生? これでナニも問題はないの?
すでにそんな問い掛けすら、誰もかけてはくれず、自分の生きた時間の中身の無さに愕然とする思いすら、じきにすべて無感情な死への怖れだけに凝縮される。
なんか違うんじゃ~ないのか?
俺は自分の子供たちには、時間のある限り山や海で一緒に遊び呆けてこの手で育てあげ、老いた親や義理の親や他人の親でも、関わり合いのある高齢者たちならば最期まで笑いながら話しこんで、どんなに疲れ果てておっても顔を出して時間を作り、出掛けたり食べたりおなじ景色を見て笑ってやれる時間を作っている。
若い時分は親の世代に背中を向けて生きて居たが、今の高齢者たちとおなじことはせず、キチンとこう生きるんだと見せてやっている。
都会の現代社会では奇異なことだと言われても、生命の重さだけを背負う愉しみを、満喫したいと生きている。
ナニが大切なものなのか? それだけだろう。
だからと言って子や孫に世話になるつもりはない。
自分の終わり方は、すでに考え終わって準備も終わっているがな。
自分の生を満喫するために、こう生きて居る。
今日は90歳を前にした動けなくなりつつある高齢者にケアを付け、日常生活を一気に大転換させる打ち合わせを始めている。
それぞれの段通りや指示は俺がすべてやって、後は近い近親者に任せて現場を模様替えさせ、暮らし方を一気に変える。
高齢者世帯には、高齢者世帯に合った暮らし方というものがあり、その地域ごとに利用できるモノはすべて情報を集めて、その中から作り上げて行く。
もちろん、在宅で大往生させるのが目的で、そういった話も先に各々の携わってくれる人たちにはキチンと話してある。
手助けをお願いする形で、責任を負う主はあくまでも俺であったり近親者でという立場で笑いながら始めて行く。
高齢で、持病を持ち、激しい運動をしたこともない者が動けなくなると、一気に命の灯が怪しくなるから、その準備と覚悟もみなで共有しておく。
明日は早朝から88歳の山の手独り暮らしの婆様を送迎して、都内を抜けて眩暈の外来に連れて行き、帰路、89歳で元気いっぱいな俺んとこの婆様も拾って、なんか気分転換に昼飯を食うつもりでいる。
いつ、仕事をやっているのか? という、激しい日常がまた今年も始まってる。