爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

神になった義経が馬を守る

2021-07-15 14:39:51 | 日記
源義経といえば、波乱に富む人生を駆け抜けた源氏のヒーローとして、今でも人気が高い。

義経は平家との戦いで華々しく表舞台に登場するものの、兄である源頼朝の怒りをかい、逃亡の日々を送る事になる。

そして、最期は10代の日々を過ごした岩手県平泉に戻り、頼朝のさらなる圧力に屈して、みずからの命を絶ってしまう。

というのが、義経の最期だったと多くの歴史書は伝えている。

しかし、じつは平泉で自害したのは義経の影武者で、本人は蝦夷地(北海道)に逃れたのではないかという説もあるのだ。

それを裏付ける様に義経が上陸したとされる函館をはじめ、札幌など北海道の各地に義経にまつわる伝説がある。

日髙地方もその一つで、ここには義経神社があるのだ。

神社に残された史料によれば、北海道に逃れた義経一行は日髙ピラトリ(現平取町)のアイヌ集落に落ち着いた。

そして、義経は外敵からアイヌ民族を守りながら、農業や舟づくり、はた織りなどを教えたというのだ。

江戸時代になって北方探検家の近藤重蔵が北海道を訪れ、各地に義経伝説があるの知ると、江戸の仏師に義経の像を彫らせる。

その像を祀ったのが、義経神社なのである。

そして、崖をも馬で掛け降りた義経の武勇伝と、サラブレッドの産地である日髙地方のイメージを重ね合わせ、この神社は「競馬の神」となり「愛馬息災」を願う人々の聖地になっている。




空襲の延焼を止めたご神木

2021-07-15 07:57:03 | 日記
大阪市中央区安堂寺町の熊野街道のすぐ近く、石段の続く坂を上がった所に榎木(えのき)大明神は佇んでいる。

巨大なご神木が民家のすぐ脇に、不自然に思えるほど唐突にそびえ、その根本には小さな鳥居と祠がある。

大阪という大都市の中心部で、これだけの巨木が伐採もされずに残っているのは、一体どうした事なのか。

その理由の一つは、第二次世界大戦の大阪大空襲の時の驚く様な話である。

当時、大阪は火の海となり、このご神木の辺りまで猛火が迫ってきた。

だが、不思議な事に火は榎木大明神の手前でぴたりと止まったという。

おかげで榎木大明神から東側一帯は、危うく戦火を免れたというのだ。

ご神木の樹齢はおよそ650年。

鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将の楠木正成が植えたものといわれる由緒ある木だ。

祀られているのは白蛇で、地元の人は親しみを込めて蛇神を指す「巳さん」または「エノキさん」と呼んでいる。

この一帯の類焼を防いだのも、この榎木大明神の持つ霊験の一つだと、伝えられているのだ。

関西には、他にも巳さんを祀ったご神木が残るが、その多くに伐採しようとした人が急死を遂げるといった、謎めいた噂が囁かれている。

その為、大都市にあるにも関わらず
伐採を免れているご神木が少なくない。

人知を超えた霊験を持つご神木に対する地元の人々の信仰と畏怖が、都会の中の小さな聖地を守り続けているのである。




奈良県にある古墳

2021-07-15 00:01:35 | 日記
奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳は、日本最古級の大型前方後円墳だ。

その全長は約280mもある。

現在は木々が生い茂り、隣接する場所箸中大池からの景観は常にひっそりと静まり返っている。

2世紀後半に在位した第7代孝霊(こうれい)天皇の皇女・倭途途日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓として宮内庁が管理しているのだが、じつはこの被葬者については、ある説が物議をかもしている。

箸墓古墳に眠っているのは、邪馬台国の女王の卑弥呼ではないかというのだ。

卑弥呼は、中国の史書『魏志倭人伝』に「鬼道で衆を惑わした」などとも書かれているミステリアスな古代の女王である。

死亡したのは3世紀半ばとされ、その時には「径百余歩」もある大きな塚が造られたと記されている。

この径百余歩は現在の150mくらいなのだが、箸墓古墳の後円部の直径は156mで、極めて近い大きさなのだ。

ただ、箸墓古墳の築造は3世紀中期から後期までと研究者によって見解が分かれる。

もし、これが3世紀半ばごろの築造であると確定すれば、卑弥呼の死亡時期と合致するのだが。

そうした中で、これまで箸墓古墳への立ち入りを禁じてきた宮内庁が調査を認め、2013(平成25)年2月に日本考古学教会などの研究者らが初めて立ち入り調査を行なった。

邪馬台国の所在については九州説など諸説があり解明されていないが、今後、箸墓古墳の研究の進展とともに、古代の謎を解く新たな鍵が見つかるかも知れない。