三枚のカルタでやる賭博がある。
三枚の札の合計点で競うのだか、うっかり引いた三枚の合計が、二十点になると無得点になる。
つまり、八・九・三の組み合わせ最悪だった。
八・九・三から「やくざ」の言葉の生まれる。
それで、まともでない者、遊び人、博徒、盗人を指す様になった。しかし…。
桃山時代に釜ゆでになった盗人に、石川五右衛門がいる。
彼は大名屋敷で金を盗んでは、貧しい人や病人に金を配っていた。
やくざ者には違いないが、弱い人や困っている人を思いやる仁の心があった。
「民を利する所に因る」ー村民や困っている人を救う為に、勇気を出して行動するという意味だ。
国定忠治(1810~50)も農民たちを苦しめた悪代官を切った。
彼は言葉の穏やかな優しい人であった。
が、善良な農民たちの貧苦と、役人たちに屈従しているあわれな姿を、見てはいられなかったのだ。
そこにも仁義があった。
深作欣二監督は、思いやる心のない残酷無慈悲なやくざの暴力を「仁義なき戦い」といったが、義理と人情に生きた「やくざ」と、力だけで抗争する暴力団とは、一線を画さなくてはならないだろう。
暴力・暴行は許されないが、当時はそれ以外の方法が無かったのだ。
清水次郎長(1820~93)が、富士川の堤防工事に、罪人たちが足に鎖を付けられて石を運んでいる姿を見て、役人の武士に頼んだ。
「ごらんなせえ。足首から血が流れて、可愛そうだから、あの鎖を取ってくれ」「鎖を取れば、逃げる」「分かりました。一人でも逃げたら次郎長の首をはねてくれ」。
罪人たちは、次郎長に感謝して一人も逃げずに働いた。
結果は三倍の石を運んだのである。