私は小学一年の時に、世の中の厳しさをいやという程痛感した。
田舎にしては大きな商売をしていた父は、困っている人、貧しい人の面倒をとても良く見ていて、新聞にも「親切なお米屋さん」と写真入りで掲載されたりしていた。
しかし突然、その父が他界した。
その上詐欺に引っ掛かって、破産したという。
すると今までは、ニコニコ笑って親切にしてくれていた近所の子供たちが、急に威張りだした。
嫉妬が意地悪に変わると、恐ろしい。
土手を自転車に乗って走っていると、五、六人の友だちがワイワイやって来て、力を合わせて自転車をひっくり返し、自転車もろとも私を田んぼに突き落とした。
ブランコに乗せられ、みんなで力任せに振られ、頭から落とされた。
大きな石をぶつけられて、口も切れた。
貧しく惨めな身分になった時、初めて友だちの心の底が分かると思った。
貧乏になると、びくびく生きて行かなくてはならない。
元気な気持ちが腐ってくる。
やっぱりある程度までは、豊かに暮らしたい。
孔子は「貧と賤とは、これ人の悪む所なり」と、言っている。
人というものは、貧乏で生活に困ると、とかく他人から無礼を受け、何かと人を恨みがちになる。
「論語」というと、何となく貧に甘んじて生きる事が、わきまえの有る生き方の様に思っている人も多いが、実はそうではない。
「倉廩(そうりん・穀物を蓄える所)実ちて、則ち礼節を知る」。
これは管子(かんし)の言葉である。
倉の中に品物が豊富になり、経済生活が豊かに成ってくると、人は初めて礼節を知る…と。