恥ずかしい話である。
彼は若い頃、何とか自分の才能を、世の中の人に知って貰おうと思い、常に誇らしげに自慢をして、人からもてたい、誉めて貰いたいと彷徨い歩いていた。
人に認めて貰わないと、とても悲しかった、とても悔しかった。
いつも一番で居たかった。
人から見ると二番、三番どころか、最終ランナーで有ったにも関わらず、自分勝手で自分が一番だと思いたかった。
常に誰からも誉めて欲しかった。
誉めてさえ貰えれば、自分の貧弱な真価が判らないまま、益々驕り昂って他人を侮っていた。
若い頃の自分は、今から考えると「身の程知らず」で、我執高慢であった。
実力が無いくせに、他人に認められないと、すぐに腹が立って心が落ち込んだ。
孔子は、弟子たちにこう教えている。
「人の己れを知らざれるを思えず、己れの能(よ)くする事無きを思う」。
つまり、人が自分の事をよく評価してくれない事を恨み苦しむよりは、他人から高く評価される様な才能が、自分に無かった事を憂えて、自分の才能をしっかり磨く様にしなさい…と。
「明珠は掌にあり」ーこれは「碧厳録」にある禅語である。
私たちは小学一年生の頃から、他人の評価が良くなる様に、他人の評価に合わせて自分を改造しているうちに、自分の個性的な才能を見失ってしまっていた。
「明珠は掌にあり」とは、本当にキラキラ輝く宝の様な尊い才能は、自分自身の中にある、という意味だ。
自分の特性も宝である。
自分の健康も宝である。
自分の人柄も宝である。
他人の評価をあれこれ気にする前に、まず自分の宝を磨く。
脇目も振らず、まずは自分を完成していく事なのだが。