爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

大阪の鬼門を守る神社

2021-07-27 05:18:15 | 日記
大阪の枚方市にある片埜(かたの)神社は、朝廷から正式に認められていた由緒ある神社だ。

『日本書紀』に登場する勇猛な豪族の野見宿禰(のみのすくね)が、スサノウノ尊を祀ったのが始まりだという。

ここのご利益は方除けだ。

つまり、方位に関する災厄を取り除いて貰えるのである。

その為、引っ越しや旅行の前にお参りに訪れる人が多い。

ただし、方除けの神様として広く知られる様になったのは桃山時代からだ。

と言うのも、大阪城を築城する時、片埜神社には重大なミッションが与えられていた為である。

平安京や江戸が陰陽道の考え方に基づいて造られた事は有名だが、その際に町の守りとして特に注意を払ったのが鬼門である。

鬼門とは東北の方角を指す。

鬼門からは魔物や悪霊など、邪悪なものが入り込みやすいとされていた。

そうしたものを防ぐために、大きなパワーを持った神社や寺を鬼門方向に建てたのである。

平安京は比叡山延暦寺が、江戸は上野の寛永寺が鬼門を守った。

そして、大阪の鬼門封じを任されたのが片埜神社なのだ。

豊臣家はこの神社をたいへん信頼しており、秀吉が改修を行ったほか、息子の秀頼も大改造を命じている。

現在も目にする事ができる本殿や正門などは秀頼時代に造られたものである。

じつは、秀吉は大阪城を築いただけでなく、密かに遷都を計画していたとも言われている。

内裏や都の寺社を大阪に移そうと考えていたと言うのだ。

片埜神社に鬼門を封じさせて鉄壁の結界を作ろうとしたのも、新しい都づくりの一貫だったのかも知れない。



ハワイにも出雲大社

2021-07-26 12:36:41 | 日記
日本人に人気の海外のビーチリゾートと言えば、まず頭に浮かぶのがハワイだろう。

年間100万人以上の日本人がこの常夏の国を訪れている。

そのハワイに日本の聖地が存在する。

ホノルル市にあるハワイ出雲大社だ。

最近になってテレビで取り上げられる事もあり、観光ツアーに組み込まれる程の人気スポットとなった。

出雲大社の分社がハワイにあるという事実には、日本とハワイの友好的な歴史背景が深く関わっている。

1867(慶応3)年にハワイ王国が日本との国交を樹立してから、多くの日本人がハワイに移住した。

当時の二国間の親密ぶりは、カラカウア国王が明治天皇に提案したハワイと日本を連邦化するという驚く様な構想からも窺えるだろう。

連邦化こそ実現はしなかったが、その後も親密な関係は続いた。

1893(明治26)年に親米勢力のクーデターにより、政権が転覆した際も、明治政府は巡洋艦をハワイに派遣して王国政府の側につき、アメリカを牽制したのである。

結局、ハワイはアメリカの準州として併合され、ハワイ王国は消滅した。

しかし、ハワイには移民として多くの日本人が根を下ろしていたのだ。

異国の地で暮らすそれらの日本人の為に、1906(明治39)年に出雲大社はホノルル市アアラレーン周辺で布教を始めた。

そして翌年に神殿が竣工し、1919(大正8)年にはハワイ準州政府から、ハワイ出雲大社教団が法的に認められたのである。

神を祀り、祈る姿は異国でも変わらない。

ハワイ出雲大社はハワイの青い空の下、日本の神の力を感じられる稀有なスポットと言えるだろう。





お参りすると球技が上達する神社

2021-07-24 21:24:48 | 日記
毎年7月7日に京都の今出川にある白峯(しらみね)神宮は普段と違った賑やかな雰囲気に包まれる。

ここに祀られている精大明神(せいだいみょうじん)に奉納する蹴鞠(けまり)が行われるからだ。

蹴鞠は平安時代に貴族の間で流行った遊びだが、その始まりは飛鳥時代で、仏教とともに中国から渡来したと言われている。

『日本書紀』によると、蘇我入鹿の暗殺を企てた中大兄皇子と中臣鎌足とともに蹴鞠を楽しみながら親好を温めた。

それがきっかけになって打倒蘇我氏の機運が盛り上がり、クーデターの末大化の改新に至ったのだ。

もともと中国ではチーム対抗で勝ち負けを競う、サッカーの様な競技だったというが、日本ではリフティングとパスを繋げていく様なもので、勝ち負けも決めない、あくまで相手が蹴りやすい鞠を繰り上げて、楽しんで技術を競うのが日本の蹴鞠である。

しかし、なぜ白峯神宮で奉納蹴鞠が行われる様になったのか。

それは、境内には三つの社があり、その一つに蹴鞠の神様である精大明神が祀られているからだ。

この土地は蹴鞠の名手であり、蹴鞠道の家元でもある飛鳥井(あすかい)家のものであり、その飛鳥井家が代々祟めていたのが精大明神だった。

今から140年ほど前に創建された白峯神宮よりも長い歴史をここに刻んできたのだ。

そんな精大明神のもとにはプロ・アマを問わず、多くのスポーツ選手が上達祈願に訪れる。

辛口な批評で知られた清少納言にも「おもしろい」と言わしめた競技は、これからも歴史を重ねていく事だろう。



伏見稲荷の鳥居は何本

2021-07-24 12:43:06 | 日記
全国に3~4万もあると言われている、稲荷社のトップに立っているのが京都の伏見稲荷大社だ。

本殿の背後に広がる稲荷山がご神体で、山を歩きながら参拝する事を「お山する」という。

山には「お塚」と呼ばれる小さな祠が沢山あり、それぞれに信者がいる。

お塚のあまりの多さには圧倒されるが、それだけこの山が人々の信仰を集めていると言う事だろう。

そして、稲荷山への入り口で独特の雰囲気を漂わせているのが千本鳥居だ。

びっしりと並んだ赤い鳥居は、まさに神域への門の様である。

これらには「千本鳥居」という名が付いているが、ここには本当に1000本の鳥居が有るのだろうか。

じつは、正確な数をつかむのは非常に難しいと言わざるを得ない。と言うのも、鳥居は全国の信者から次々と奉納され、また古いものは撤去されるので、常に本数が変化しているからである。

好奇心旺盛な人が数えたところ、その時点では800と数十本だったらしい。

実際には1000本に届かなかった訳だが、千は沢山という意味で使われている様である。

ただし、稲荷山全体で見れば、その数は膨大に膨れ上がる。

大小さまざまな鳥居が至るところに奉納されている為だ。

神社によれば、参道にある鳥居は一万本になるという。

ちなみに、もともと存在する千本鳥居は大鳥居が一本有っただけで、現在の様な姿になったのは江戸時代の後半からだ。

信仰が広まるにつれて鳥居の数が次第に増えていき、今もなお新しい鳥居が奉納され続けているのである。



聖なる島で人減らし

2021-07-23 09:53:11 | 日記
沖縄県にある与那国島は、日本最西端の島として知られている。

沖縄本島よりも台湾の方がはるかに近いこの絶海の孤島は、16世紀に琉球王朝に組み込まれるまで、女酋長のサンアイイソバが治める独立した島だった。

その女酋長の碑が立つのがティンダハナタと呼ばれる岩山で、今でも島のパワースポットとして、神秘的なオーラを発している。

現在ののどかな島の様子からは想像しにくいが、この地にはかつてむごたらしい風習があった。

17世紀に琉球王朝は薩摩藩に支配された事によって「人頭税」が導入された。

人頭税とは個人の財産に関係なく、一人あたり一律の税が課せられるというものだ。

この過酷な税は小さな島に重くのしかかった。

そこで、行われたのが「人減らし」なのである。

人減らしは予告なしの合図で始まる。

その合図が鳴れば、島の男たちは一斉に決められた水田へと走る。

そして時間内にたどり着けなかった者は、そこで終わる。

主に体の弱い者や年寄りの命が、奪われていったのだ。

また、別の場所では岩場に出来た幅3~5m、深さ7~8mもある割れ目を妊婦に飛び越えさせるという人減らしも行われた。

どうにか飛び越えた者は生き残るが、その多くが流産したであろう事は容易に想像できる。

これらの場所はそれぞれ「人升田(トゥングダ)」「久部良(クブラ)バリ」という名で、今も島に残されている。

聖なる島に秘められた悲劇の場所は、過酷な税に苦しめられた島の歴史の生き証人なのだろう。