生きている意味など いまだ 分からないが
生きているという事実がある
事実にどんな意味づけをするのかは 各個にまかされる
意識は自由に選択できる
事実性がなんであれ
それをどう見るかは その視点は 選択出来る
それは人間の意識が与えられた特権ともいえる
亀のいう意識とは五感を含む
何を快と思うか感じるか何を不快と思うか感じるかを
言葉という道具を通して認識していく
本当のことというか 本質性というのは
あまりにも奥深くて計り知れない
なので人間意識が到達している認識には限界がある
なのであくまでも認識というのは仮説ということになる
それでも人間意識の特質は確信出来たり思い込めたり不信になったりという
意識のありようをとることが出来る
偶然が重なって 生命が生まれたり
その進化の過程で人間意識が生まれたというふうに考える事自体が
仮説として成立しがたいと亀には思える
にも関わらず
物理的な形態をとり 相互の関係の中で生きている
各個は各個の視線 視点 思い 気持をとうして生きる他ない
それぞれの事実性の中でこの地上で舞い踊る他ない
だれにもまね出来ない それぞれの舞を踊る
そのプロセスを生きることになる
物理的な個体としては違っているので
その時々に身近な自他の内外に起きる出来ごとに触発されて生きることになる
今ほとんどひきこもり状態の亀ではあるけれど
どこかで直接的にせよ間接的にせよ
他の人々 他の生き物 更には 目に見えないエネルギー存在との関わり合いの
中で生きているのだという思いがある
もちろん仮説だけれど
亀は亀がまのあたりにする事実性の中で
それが亀という意識にとって何であるのかというのは日々つきつけられる
亀は今の母の状態をまのあたりにして
自分の死を少し実感できるようになった
それと 今 亀の身体におきている不具合も含めて
生身の死は人ごととは思えない
もちろん 死というのは高校生のころから亀にとっては
身近な意識としてあったので
生身として今日死んでも明日死んでもいいのだが
今回の生身として もう少し楽しませてあげたい 楽しみたい
以前みたいに悟ろうとか魂をみがこうとかいうしゃちこばった思いが
落ちてしまったので どういえばいいのだろう
この生身である亀が感じるおもいを
他の生身とわかちあえるかぎりはわかちあいたいという思いがある
なんとなく思うのだが
自分が今を 瞬間瞬間に生きるということは 自分一人では
うまく成立しない
というのは確かなのではないかと思えている
亀は高校生のころ人間は滅んでしまえとマジで思っていた
その感覚というのは今はもうないけど
それでも他の生命に対しての人間的自己都合が前面にでてくる時
とても切なくなってしまう 哀しくなってしまう
今 この地球という生命の星で人間存在の動きによってどんなにでもなって
しまうという状況になっていると思える
自分はたまたまというか何らかの理由があって人間という存在として
生まれてきたのかもしれないが
なぜ 人間として生まれてきたのか いまいち 腑に落ちていない
それでも 今は人間なので人間としてというか
いまあるこの生身の意識としてふるまうほかない
少なくともこの地球上では人間という存在の動きが鍵になっているのは
間違いないと思う
地球はもうまにあわないのではないかという思い
人間が今全体的に到達している意識性ではまにあわないのではないかという
思いは消えないが
それでも
それでも
亀は思いのなかで
内外に何が起きようとも
そのままに そのままに
事実は事実として
思いは思いとして 受け入れていく
亀は一周遅れのランナー
とろいランナー
のろまなランナー
それは事実
この年になっても精神年齢10歳前後
あたふたあたふたしながら生きている
それが亀
だれがなんといおうと亀は亀
この世で通用するおもわくからあえてはずれて生きようとする亀
身近な人にはごめんなさいという他ない
それでも 時々
なぜか とても 人肌恋しい
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