生身は 体験しなければ わからないことがある
それは 突然襲ってきたり じょじょにやってきたりする
言葉でどう表現すれば 伝わるのかはわからない
そのまま伝えても 体験していない人には伝わりにくい
それでも 伝えていこうとする思いが
わかってもらいたいという思いが
分かち合いたいという思いが いろんな表現をとるのだと思う
自分の体験的な事実や真実は 自分にとっては 何の説明もいらないけど
他者にむけて表明する場合には そのままでは伝わりにくい
同じ体験 同じ思いをした人はいないのだから
共通項というのはあるのかもしれないけど
体験の仕方はどこまでも個人の思いに委ねられることになる
それはいいとか悪いとかではなく ある出来ごと ある事象があって
それをどう体験するのかは それぞれに委ねられることになる
例えば 日本人にとっては とてつもない3:11の出来ごとだったりにしても
同じような体験をしても そのときのそれぞれの体験仕方 状況によって違っている
いったい 生身はなにに たちあっているのかはそう簡単には計ることは出来ない
生き残った人のいろんなドラマをみていると
命はどこにむかっているのか どこにむかっていけばいいのかよくわからない
どんな宇宙の企みが今のこの地球にこの日本に人間に命にあるというのだろう
それでも生きている限りは どんな企みや予定がなされていようとも
今生きている命を精一杯生きてみる他ないのだと思える
それぞれの個人的な事情や思いやなんじゃらかんじゃらを含めて
今在る奇跡を体験し味わい繋がる他ないのだと思える
どこに繋がるかはそれぞれに任される
繋がりたくない人は繋がらなくていいし 繋がりたい人は繋がればいいし
それくらいの自由・裁量は与えられていると思うので
この亀の選択は繋がるぜっていうところに繋がっているぜっていう方向に
生きていくことになる
個々の肉体は孤独だけど思いも孤独だけど
それでも今ある奇跡は偶然じゃないと思うし
どのレベルで囚われているにせよ開かれているにせよ
プロセスであることに変わりはない
命はどんな状況でもどんなレベルでも精一杯生きるので
基本的になんでもありじゃんとなってしまう亀なのだ
人間という存在はこの地球上ではややもすれば大きな顔をしているけれど
果てしない宇宙の進化の中ではちょっとしたイベントにすぎないのかも知れないし
それはまだ何とも言えないけど時空を超えて在る今を
体験してみる他ないねと思うのだ
それぞれの今は人間だけに限らず他の動物も植物も鉱物も水も空気も光も
同じエネルギーとして意識するしないに関わらず
与えられた場所で条件の中で制限の中でそれぞれの役目を果たし
繋ごうとしているのだと思えてならない
そんな奇跡を地球という星はきっとどんな星よりも受け容れてやってきた
今もやっていると思う
どこか遠い星からやってきた魂もいるかもしれないし
この地球で生まれた魂もいるかもしれない
命というのは存在というのはいろんな形をとるので
どこまでも永遠の今を生きようねと言う他ない
庭に咲くつわぶきの花
(神もどきちゃん) 亀ちゃん!
(ちゃらんぽらん亀) ん?
(神もどきちゃん) 今日の落ちは?
(ちゃらんぽらん亀) 落ちがないとだめなんか
(神もどきちゃん) 落ちがない亀ちゃんなんていなくてもいいでしょ
(ちゃらんぽらん亀) ・・・・・・・・・・・・・・・・
(くろっぺ) 亀ちゃん落ちがあってもなくてもそのままでいいよ 大好き!
(ちゃらんぽらん亀) く、くろっぺ~~~~~