亀はもともとというか なんというか
他者に甘く自分に厳しいというか
だれもそんなふうに思ってくれなかったのだけど(身内の人には特に)
他者が自分で責任もつ必要のあるところというかなんというか
こちらが責任もちようがないぜって いうようなところまで
心的に引き受けてしまっていたりして
人の心の視点というか 問題というか そんなものも
無意識に引き受けて自分の問題としていたと思える
今の自分の心のありようの問題として誤認知していたように思う
自他に対する誤認知
今 亀はどんな事象であれ
亀の意識を仲立ちとして現れているということが
かなりはっきりしてきているので
自らの生身に起きている現象を含め
まず 自らを相対化する意識というか
内で起きる心的事実は心的事実として
外で起きる事実は事実として
ごちゃまぜにしないで
そのままに 受け入れるというか 認めるというか
そんなふうな 立ち位置を模索している
自分の中の主観的な価値観であるとか 評価であるとかを
出来るだけ横においてみようとしている
自分もそうだが ある何かに圧倒的に心奪われ
その思いや感覚や意識性のなかでは
そうとしか思えない 感じられない出来ごとが起きることがある
自他の内外に起きる
人は自分の今ある意識 感覚を通して内外をみる
自分の中にある色メガネをはずすってことは容易ではない
少なくとも自分が色メガネをかけて 内外を感受しているのだという認識が
なければ ありのままの世界はいろんなバリエーションでやってくる
だれが一体そんなことを可能ならしめているのか
自他の境目とは何か
いろんな現象にまつわる 人間の意識のありようは
生身としては 個々にまかされる
お好きにどうぞということになる
なので なので
それぞれの意識は
それぞれの思い感覚は
内外の事象を含め自由意思に委ねられていると思える
ある現象をどう思うか感じるは
お好みであると思っている
今の亀はだれにも媚を売らないし 恐れていない
こんな怖がりの亀が怖がりであると知りつつ
内外の出来ごとに立ち会わせてもらっている
亀が生身を賛歌してやまない ゆえんである
生身はどんなふうにでも 思い感じることを許されている
自由意思の現実的宝庫なのだと思う
それは 今の亀のこだわりである
好みである
なので 生身万歳という他ない