日向ぼっこ残日録

移り気そのままの「残日録」

出征の写真!

2008年06月22日 13時41分55秒 | 残日録
私が子供だったころ、戦争(第二次世界大戦)は、終わろうとしていた。

それでも、戦意高揚の意気は、国民の間に燃えていたようだ。30歳を悠に越えている父親にも「召集令状」が来た。もちろん、外国に出征する余裕がなく、内地召集(兵庫県の青野ヶ原)であった。写真は、召集を記念して、同時に召集された近所の人と記念写真の一枚である。昭和も19年5月のことである。両家とも赤ちゃんを抱いていることから、兵隊が足らなくなってきたのでしょう。
写真機は何処にもないから、プロの数少ない写真店(姫路郵便局本局北、横山写真館、電話663番とあるが、今では場所さえ不明)に写してもらったようだ。田舎では貴重なものであった。

広島や長崎に「原爆」が落とされ・・・・・国内が戦場となった。

翌年の8月には全面降伏の終戦となった。(玉音放送は知らない。ラジオはなかったし、聞いても理解できる年齢ではない。指をしゃぶっていたから。)

その写真が、父親の死亡(100歳)によって表に出てきた。虫食いや汚れによって相当痛んでいたので、デジタル画像で処理して、格子や着物は同じようなところのコピーを「つぎあて」する形で、5時間もかかったが、添付の写真まで回復できた。
その私も「老人会」の世話になっているから、「思えば遠くへ来たものだ」を実感している。

この家の前の「柿の木畑」に防空壕(地下壕)を掘って、姫路大空襲をも経験した。B29(当時のアメリカ最新鋭爆撃機)のエンジンやプロペラ音さえ恐ろしく震えながら聞いた。姫路の空が焼夷弾の爆撃で赤く燃え上がるのさえ見た。余裕のある「鬼畜アメリカ(当時の教育)」は、姫路城には爆弾を落としていない。周りの軍需工場が標的であった。昭和19年(写真)は、64年前の出来事であった。一番右の抱かれている男の子が「私」である。