野球は勝つことが目的ですが、それだけでは面白くありません。明らかな強さを持ったチームには「スーパースター」が必要です。日本球界でも同じでしょう。
1919年まで万年2部チームであった「ヤンキース」は、1920年、経営難に陥ったボストン・レッドソックスから「ベーブ・ルース」を12万5000ドルと30万ドルを超える負債の引き受けで譲渡を受けると、常勝軍団へと変貌した。次々とスーパースターを生み出して行った。
ベーブ・ルースは、1916年は、23勝12敗、9完封、防御率1.75、でワールドシリーズを制覇。1917年も、24勝13敗であったが、この年までは優秀な投手であった。しかし、打席でも非凡であることを示した。打率.325 安打数40のうち、11本は長打であった。1918年からは、外野手として出場することが多くなり、ヤンキースに移籍する前年の1919年は、出場130試合のうち17試合に登板しただけであった。打撃成績は、打率.322 114打点、29本塁打でホームラン王であった。レッドソックスは長い低迷を迎える(バンビーノ(ベイビーはベーブ・ルースのあだ名)の呪い:先年優勝するまで、85年も優勝できなかった)一方、ヤンキースタジアムは、「ベーブ・ルースの家」と言われた。
そして、ヤンキース移籍初年度1920年は、打率.376 137打点、150四死球、54本塁打。1921年は、打率.376 171打点、59本塁打と当時としては、驚くべき数字を残した。それは、薬物使用の選手に破られただけで、今でも追いつけないような数字のようだ。そして、ヤンキースは黄金時代を迎えた。
「ベーブ・ルース」(1895/02/06~1948/08/16)の生涯成績
投手 94勝46敗、17完封、107完投。
打者 打数8399、安打2873、本塁打714、打点2213、三振1330、打率.342
そして、チェーンのようにスーパースターが現れた。
「ルー・ゲーリック」(生涯ヤンキース)筋萎縮症で引退し、37歳で死亡。生涯2164試合に出場するも、なんと、そのうち2130試合は連続出場である。
ルー・ゲーリック(1903/06/19~1941/06/02)の生涯成績
打数8001、安打2721、本塁打493、打点1995、打率はなんと.340
「ジョー・ディマジオ」(生涯ヤンキース)56試合連続安打は今もメジャー記録。マリリンモンローと結婚。二人で来日。離婚するも、その死後も墓参りを続けたエピソードは有名。
ジョー・ディマジオ(1914/11/25~1999/03/08)の生涯成績
打数6821、安打2214、本塁打361、打点1537、打率.325
「ミッキー・マントル」(生涯ヤンキース)ジョー・ディマジオが引退すると、翌年からセンターを守った。スイッチヒッター。最高の飛距離と綺麗な放物線を画いた。
ミッキー・マントル(1931/10/20~1995/08/13)の生涯成績
打数8102、安打2415、本塁打536、打点1509、打率.298
ヤンキースからスーパースターが姿を消すと、長い長い低迷期が訪れる。1965年から1994ねんまでの実に30年間に5回しかプレーオフに進出できなかった。そして、ジョー・トーレ監督の采配とデレク・ジーターに代表される、勝負強さで再び黄金期を迎えたが・・・。次々とFAの4番打者を迎えたが・・・スーパースターはいなかった。出でよ!スーパースター!(日本プロ野球でも、黄金期には煌めくごとくスーパースターがいた。沢村(大リーグを完封)がいて・・・川上(赤バット)、大下(青バット)、藤村(物干し竿)、西沢、別当・・・長嶋、王、村山、江夏・・・)ヤンキースの歴史はスーパースター抜きに語れない。次のスーパースターを待ち望んでいる。松井秀喜はホームランを打たねばならない。歴史に1ページを残すために。
参考:ヤンキースの欠番達
1 ビリー・マーチン 監督
3 ベーブ・ルース 外野手
4 ルー・ゲーリック 1塁手
5 ジョー・ディマジオ 外野手
7 ミッキー・マントル 外野手
8 ビル・ディッキー 捕手
8 ヨギ・ベラ 捕手 (欠番制度が取り入れられたときに、8番が二人になった)
9 ロジャー・マリス 外野手
10 フィル・リブトー 遊撃手
15 サーマン・マンソン 捕手
16 ホワイティ・フォード 投手
23 ドン・マッチングリー 1塁手
32 エルトン・ハワード 捕手
37 ケーシー・ステンゲル 監督、メッツでも37番で欠番
42 ジャッキー・ロビンソン 投手(黒人初の大リーガー、全チーム永久欠番)但し、1997年時点でつけていたヤンキースのマリアーノ・リベラは例外として認められている。
44 レジー・ジャクソン 2塁手、アスレチックスの9番も欠番
49 ロン・ギドリー 投手
1919年まで万年2部チームであった「ヤンキース」は、1920年、経営難に陥ったボストン・レッドソックスから「ベーブ・ルース」を12万5000ドルと30万ドルを超える負債の引き受けで譲渡を受けると、常勝軍団へと変貌した。次々とスーパースターを生み出して行った。
ベーブ・ルースは、1916年は、23勝12敗、9完封、防御率1.75、でワールドシリーズを制覇。1917年も、24勝13敗であったが、この年までは優秀な投手であった。しかし、打席でも非凡であることを示した。打率.325 安打数40のうち、11本は長打であった。1918年からは、外野手として出場することが多くなり、ヤンキースに移籍する前年の1919年は、出場130試合のうち17試合に登板しただけであった。打撃成績は、打率.322 114打点、29本塁打でホームラン王であった。レッドソックスは長い低迷を迎える(バンビーノ(ベイビーはベーブ・ルースのあだ名)の呪い:先年優勝するまで、85年も優勝できなかった)一方、ヤンキースタジアムは、「ベーブ・ルースの家」と言われた。
そして、ヤンキース移籍初年度1920年は、打率.376 137打点、150四死球、54本塁打。1921年は、打率.376 171打点、59本塁打と当時としては、驚くべき数字を残した。それは、薬物使用の選手に破られただけで、今でも追いつけないような数字のようだ。そして、ヤンキースは黄金時代を迎えた。
「ベーブ・ルース」(1895/02/06~1948/08/16)の生涯成績
投手 94勝46敗、17完封、107完投。
打者 打数8399、安打2873、本塁打714、打点2213、三振1330、打率.342
そして、チェーンのようにスーパースターが現れた。
「ルー・ゲーリック」(生涯ヤンキース)筋萎縮症で引退し、37歳で死亡。生涯2164試合に出場するも、なんと、そのうち2130試合は連続出場である。
ルー・ゲーリック(1903/06/19~1941/06/02)の生涯成績
打数8001、安打2721、本塁打493、打点1995、打率はなんと.340
「ジョー・ディマジオ」(生涯ヤンキース)56試合連続安打は今もメジャー記録。マリリンモンローと結婚。二人で来日。離婚するも、その死後も墓参りを続けたエピソードは有名。
ジョー・ディマジオ(1914/11/25~1999/03/08)の生涯成績
打数6821、安打2214、本塁打361、打点1537、打率.325
「ミッキー・マントル」(生涯ヤンキース)ジョー・ディマジオが引退すると、翌年からセンターを守った。スイッチヒッター。最高の飛距離と綺麗な放物線を画いた。
ミッキー・マントル(1931/10/20~1995/08/13)の生涯成績
打数8102、安打2415、本塁打536、打点1509、打率.298
ヤンキースからスーパースターが姿を消すと、長い長い低迷期が訪れる。1965年から1994ねんまでの実に30年間に5回しかプレーオフに進出できなかった。そして、ジョー・トーレ監督の采配とデレク・ジーターに代表される、勝負強さで再び黄金期を迎えたが・・・。次々とFAの4番打者を迎えたが・・・スーパースターはいなかった。出でよ!スーパースター!(日本プロ野球でも、黄金期には煌めくごとくスーパースターがいた。沢村(大リーグを完封)がいて・・・川上(赤バット)、大下(青バット)、藤村(物干し竿)、西沢、別当・・・長嶋、王、村山、江夏・・・)ヤンキースの歴史はスーパースター抜きに語れない。次のスーパースターを待ち望んでいる。松井秀喜はホームランを打たねばならない。歴史に1ページを残すために。
参考:ヤンキースの欠番達
1 ビリー・マーチン 監督
3 ベーブ・ルース 外野手
4 ルー・ゲーリック 1塁手
5 ジョー・ディマジオ 外野手
7 ミッキー・マントル 外野手
8 ビル・ディッキー 捕手
8 ヨギ・ベラ 捕手 (欠番制度が取り入れられたときに、8番が二人になった)
9 ロジャー・マリス 外野手
10 フィル・リブトー 遊撃手
15 サーマン・マンソン 捕手
16 ホワイティ・フォード 投手
23 ドン・マッチングリー 1塁手
32 エルトン・ハワード 捕手
37 ケーシー・ステンゲル 監督、メッツでも37番で欠番
42 ジャッキー・ロビンソン 投手(黒人初の大リーガー、全チーム永久欠番)但し、1997年時点でつけていたヤンキースのマリアーノ・リベラは例外として認められている。
44 レジー・ジャクソン 2塁手、アスレチックスの9番も欠番
49 ロン・ギドリー 投手