ビスクドール・雛人形店・オーディオ販売 佐久市 ヤナギダ店長ブログ

ビスクドール64体他お節句雛人形をフランスへ輸出128年、軽井沢方面がお店の場所。

心で喋る人には 心で聞け

2023年03月01日 12時19分05秒 | owarai
“言葉で喋る人には
     耳で聞け
 心で喋る人には
     心で聞け“

常に相手の立場、置かれて
いる状況を忘れず、測り、
想像しながら、耳を傾け、
話をしなさいという意味
です。

相手が今聞く状態になって
いないとき、こっちだけが
夢中になって話したって、

それはまったく音であるとい
うこと、耳に入ってそのまま
反対側の耳から出ていってし
まうのです。

“あっ、今は時期じゃない“
と気づいたら話の内容を変え
るとか、

また違った受入れ姿勢のある
ときにお話しをするというふ
うに心がけるとよいのです。

サザエさんの漫画ではないで
すが、

玄関先に野球のバットとグロ
ーブを持ったお友達が迎えに
来ているのに、小学生のカツオ
に“宿題はどうなってい
るの“といっても聞く耳を
持っているはずがありません。


お友達と野球の約束をしてし
まう前か、いっそ遊んで帰っ
てきた後に、じっくりとお話
しするほうがいいわけです。

仕事が山積みになっている恋人
や旦那さまに、重い内容のお
話をしても逃げられ、嫌がら
れるだけ。

相手の方の心の声を聞いてあげ、
想像してあげてください。

過保護の野菜

2023年03月01日 12時17分27秒 | owarai
『肥料を与えすぎると野菜
の味が落ちていく』

白菜の原産国は中国で、
日本に輸入されたのは
明治以降のこと。

白菜以外の野菜にしても、
外国からはるばるやって
きたものが多い。

たとえば、トマトの原産国
は南アメリカでアンデス
地方。

ホウレンソウはペルシャ
地方で食べられていたも
の。

これらの三つの例をひいた
のは、いずれも乾燥した
土地が原産地。

日本ではこれら痩せた乾燥
原産地の野菜に水・肥料
をたっぷりあたえ、害虫や

冷害から徹底的に守る過
保護で生産してきた。

そのため、味も姿形も、本来
のそれからはかなりかけ離れ
野菜本来の味を失い、

ブロイラー化した”土の味”が
無くなってしまった、野菜を
食べているワケ


ダイエット

2023年03月01日 12時15分11秒 | owarai
【コラム:赤い色の下着
を着るとダイエットに失
敗する】

色と食欲には深い相関
関係が認められている。

たとえば”赤”色は食欲
を昂進させるといいう。
ショートケーキのイチゴ
がよい例。

逆に”黄”色は食欲を減退
させる。

黄色のテーブルクロスや
ナプキン、取り皿などは
ほとんどみかけないはず
だ。


陽に濡れて駅まで歩く吾と君の近づきすぎて遠ざかるもの

2023年03月01日 12時07分18秒 | owarai
彼女一人に愛情をそそ
ぐ男が、結果、いちばん
モテる。
新しく出会った女から
「彼女はいるの?」と聞か
れた時に、いるのに

「いない」と言っているよう
ではダメ。
ほとんどの男は、勘違いしてる。

勘のイイ女は、目の泳ぎを
見て判断している。
瞳は、ウソをつけない。

好きだからつきあいたいと
いう気持ちは、
恋人がいるとか、
いないとは、別の話です。

なんせ、イイ男には
女がいるものだもの



心中の前に爪切ることなどとを君に教えし小春日の部屋

2023年03月01日 12時03分15秒 | owarai
心中とは、愛し合う者が一緒に
死ぬこと、つまり情死である。が、
本来は、愛情が本物である証拠を
示し合うという意味だった。江戸
時代の遊里では、その手段として、
放爪(ほうそう/爪をはぐ)、誓紙、
断髪、入れ墨、指切りなどを行っ
たという。

肉体的苦痛に耐えることによって、
愛情の深さを示したわけで、その
究極が「死」だった。

 歌の「心中」は、死を意味する
ものだが、死ぬ前に爪を切る習慣
があった。たとえば、切腹に作法
があるように・・・・。

かなり熱心にあれこれと文献をあ
ってみた。
誓いを書く料紙には熊野の牛生(
ごおう)を使用するとか、血判は
男は左、女は右の、中指または
くすり指で、血をしぼって名前の
上に落とすのだか、爪のはぎかた
や髪の切り方にもいろいろあるの
だとか、入れ墨には「誰サマ命」
と入れるのが一般的だとか、指切
は介錯人(かいしゃくにん)に
頼み、「つぶ切り」と「そぎ切」
とがあるのだとか。そういう興
味深い記述に出会った。

一般的に解釈すれば、爪を切ると
いうのは、死ぬ前に体をきれいに
して、という意味なのだろう。
残された人への形見として、とい
ったこともあるのかもしれない。

「心中」でだいぶ寄り道をしてし
まったが、歌は、上記にあげた
ような恐ろしい手段に訴えるこ
ととは無縁の若者の恋の歌。

小春日の部屋という舞台。季節
は初冬だが、ぬくぬくとした日
差しに包まれている二人。
「あのねえ、心中するときには
ねえ、こんなふうにするのよ」
— ちょっと大人びた口調で語り
かける彼女。彼はその言葉にド
キッとしただろう。口にした本
人も、ドキドキしたことと思う。
けれど、そのドキッやドキドキ
は、言葉の刺激を楽しむ範囲に
過ぎない。

仮に、もしこの二人が、生きる
死ぬのというどろどろした恋愛
をしているとしたら、こんな会
話はありえないはずだ。

「あの世で一緒になるかもしれ
ない」と思いつめるほどの障害
は、現代ではあまり見当たらな
い。そんな激しさに慣れる気分
がある。が、もちろんそれは、
現状への不満や苛立ちなどでは
ない。満たされているからこそ、
心中という語がスパイスとして
生きるのだ。