「一郎くんとは、結婚できない。
ほかに好きな人ができたの」
「だったらどうして?」
僕は彼女に詰め寄った。結婚
できないと言われたことよりも、
今、ふたりが裸でベットのなか
にいる、ということの方がショ
ックだった気がする。指輪も受け
取って、ついさっきまであんなに
情熱的に僕を求めておきながら、
どうして?ほかに好きな男がいる
なら、どうして、僕とこんなこと
したんだ?
「最後の思い出をつくろうと思っ
て」
彼女がそう言った時、僕ははっ
きりと悟った。結局、僕らはなん
にも、何ひとつ、分かり合えてな
どいなかったのだ、と。
そこまで思い出して、はっと
我に返った。
※
祈りの甲斐もなく、出てきた。女だ。
しかも一番出てきて欲しくない女だ。
「十杯目ですね」
バーテンダーがそう言って、僕の目
の前にカクテルグラスを差し出すの
と同時に、彼女は姿を現した。
「えっ、十杯目?もうそんなに飲ん
でます?」
信じられない。信じたくない。そう
だった、十年前だった。あれは今から
ちょうど十年前の出来事だった。十
年前の出来事だった。十年前に、僕
は彼女に・・・・・
そこまで思い出してから僕は「ああ
っ」と声を上げた。「おお」だったか
もしれない。待てよ、あては今から
十年前のきょうの出来事ではなかった
か。十月の第二月曜日。体育の日。
ハッピーマンデイなる制度が実施され
て、日本は祝日だった。
間違いない。
その日、僕は成田を飛び立って、ニ
ューヨークに向かう飛行機に乗ってい
た。旅行鞄は煉瓦が十個くらいはいる
のかと思えほど重たかったが、体は妙
に軽かった。なぜなら、僕の胸にぽっ
かりと、大きな穴があいていたからだ。
前の晩、彼女から別れを宣告されたば
かりだった。
そこまで思い出して、はっと
我に返った。
なんて馬鹿なんだ、僕は。なんて
間抜けな男なんだ。おまえは。ど
うしようもないことばかり思い出
して、ものすごく大事な人のこと
を、すっかり忘れてしまっていた
じゃないか。
十杯も酒を飲んでいるとは思え
ないほど、思考回路はクリアーだ。
電話に出た相手に、僕は声を弾ま
せていった。
「もしもし、素敵なベイビーに、
デートのお誘いです。実はつい
さっき、クライアントから連絡
が入って、夕方のアポイントメ
ントがひとつ、急にキャンセル
になってね」
ああ、なんてことだ。きょうは
僕たち夫婦の重要な記念日じゃ
ないか。
ニューヨークに向かう飛行機
のなかで、僕の隣に座っていた
人。どちらからともなく自己紹
介をし合って、世間話をして、
それから映画が始まって・・・
その映画は、逆立っちしたっ
てうまく感情移入することので
きない、他愛ない動物ものだっ
たのだが、熱心に見ているふり
をして、僕はだらだら涙を流し
ていた。くやし涙だ。ひと晩た
ってもまだ情けなくて、みじめ
だった。
映画が終わってふと隣を見る
とそこには、柔らかな、あたた
かな、春の女神のようなパーフ
ェクトな笑顔があった。のちの僕
の妻となる人、恵美のハッピース
マイル。
ありがとう。恩に着るぜ。信号
待ちの交差点で、思わず天を仰い
で、昔の彼女にお礼を言った。
そうなのだ。僕は彼女に感謝しな
くちゃならない。なぜなら、彼女
が僕をふってくれたから、僕は
恵美と一緒になれたんだ。
バスターミナルが近づいてきた。
入り口近くに花屋のワゴンが停ま
っている。つかつかと歩み寄って
いくと、僕は迷うことなく、無数
の花のなかから深紅の薔薇を一輪
だけ抜き取って、買い求めた。
今夜は愛一本で勝負するつもりだ。
ほかに好きな人ができたの」
「だったらどうして?」
僕は彼女に詰め寄った。結婚
できないと言われたことよりも、
今、ふたりが裸でベットのなか
にいる、ということの方がショ
ックだった気がする。指輪も受け
取って、ついさっきまであんなに
情熱的に僕を求めておきながら、
どうして?ほかに好きな男がいる
なら、どうして、僕とこんなこと
したんだ?
「最後の思い出をつくろうと思っ
て」
彼女がそう言った時、僕ははっ
きりと悟った。結局、僕らはなん
にも、何ひとつ、分かり合えてな
どいなかったのだ、と。
そこまで思い出して、はっと
我に返った。
※
祈りの甲斐もなく、出てきた。女だ。
しかも一番出てきて欲しくない女だ。
「十杯目ですね」
バーテンダーがそう言って、僕の目
の前にカクテルグラスを差し出すの
と同時に、彼女は姿を現した。
「えっ、十杯目?もうそんなに飲ん
でます?」
信じられない。信じたくない。そう
だった、十年前だった。あれは今から
ちょうど十年前の出来事だった。十
年前の出来事だった。十年前に、僕
は彼女に・・・・・
そこまで思い出してから僕は「ああ
っ」と声を上げた。「おお」だったか
もしれない。待てよ、あては今から
十年前のきょうの出来事ではなかった
か。十月の第二月曜日。体育の日。
ハッピーマンデイなる制度が実施され
て、日本は祝日だった。
間違いない。
その日、僕は成田を飛び立って、ニ
ューヨークに向かう飛行機に乗ってい
た。旅行鞄は煉瓦が十個くらいはいる
のかと思えほど重たかったが、体は妙
に軽かった。なぜなら、僕の胸にぽっ
かりと、大きな穴があいていたからだ。
前の晩、彼女から別れを宣告されたば
かりだった。
そこまで思い出して、はっと
我に返った。
なんて馬鹿なんだ、僕は。なんて
間抜けな男なんだ。おまえは。ど
うしようもないことばかり思い出
して、ものすごく大事な人のこと
を、すっかり忘れてしまっていた
じゃないか。
十杯も酒を飲んでいるとは思え
ないほど、思考回路はクリアーだ。
電話に出た相手に、僕は声を弾ま
せていった。
「もしもし、素敵なベイビーに、
デートのお誘いです。実はつい
さっき、クライアントから連絡
が入って、夕方のアポイントメ
ントがひとつ、急にキャンセル
になってね」
ああ、なんてことだ。きょうは
僕たち夫婦の重要な記念日じゃ
ないか。
ニューヨークに向かう飛行機
のなかで、僕の隣に座っていた
人。どちらからともなく自己紹
介をし合って、世間話をして、
それから映画が始まって・・・
その映画は、逆立っちしたっ
てうまく感情移入することので
きない、他愛ない動物ものだっ
たのだが、熱心に見ているふり
をして、僕はだらだら涙を流し
ていた。くやし涙だ。ひと晩た
ってもまだ情けなくて、みじめ
だった。
映画が終わってふと隣を見る
とそこには、柔らかな、あたた
かな、春の女神のようなパーフ
ェクトな笑顔があった。のちの僕
の妻となる人、恵美のハッピース
マイル。
ありがとう。恩に着るぜ。信号
待ちの交差点で、思わず天を仰い
で、昔の彼女にお礼を言った。
そうなのだ。僕は彼女に感謝しな
くちゃならない。なぜなら、彼女
が僕をふってくれたから、僕は
恵美と一緒になれたんだ。
バスターミナルが近づいてきた。
入り口近くに花屋のワゴンが停ま
っている。つかつかと歩み寄って
いくと、僕は迷うことなく、無数
の花のなかから深紅の薔薇を一輪
だけ抜き取って、買い求めた。
今夜は愛一本で勝負するつもりだ。