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先日、9月11日にASKAの新曲「幸せの黄色い風船」が配信シングルとして
リリースされました。
すごいなぁ、こんなにポップな曲つくってしまう。
かと思えば、来週はロック、再来週はバラードと連続リリースします。
本当にこの人の音楽的な幅の広さはハンパないですね。
ASKA『幸せの黄色い風船』(Audio Teaser)
でね、この曲を聴いてて思ったんですよ。
ASKAってリズムに言葉を載せるのがうまいなって。
今日の「歌詞を考える」はちょっと趣向を変えて、歌詞の意味ではなく
歌詞そのものの言葉のチョイスに目を向けてみたいと思います。
最近、ASKAは自身のホームページのブログで制作過程を惜しみなく教えてくれます。
今回の3週連続リリースの曲についても、その様子を教えてくれています。
「幸せの黄色い風船」については、まずレゲエ調の曲ができたことが伝えられ、その後に
歌詞ができたという流れで曲の制作過程が伝えられました。
この流れからわかる通り、ASKAの楽曲制作は曲先(メロディーを作って、歌詞をのせる)で
進められることがほとんどのようです。
要は、言葉はあとなんですよね。
そう考えたときに、ASKAの歌詞というのはリズムにのってるなって
感じることがあるんですよね。
例えば新曲「幸せの黄色い風船」のようなレゲエ調の曲、「I’m busy」。
レゲエ調だけあって、全体的に跳ねたリズムなのですが、歌詞が絶妙にリズムに乗って
いるんですよね。
特に感じるのは
【僕はピアノを叩きながら】
という歌詞。
一般的には「ピアノを弾きながら」という歌詞にしそうなところを「叩きながら」という
歌詞をのせています。
ここがね、個人的にツボでして。
「弾きながら」だと「ひーきーながらー」というせっかくの跳ねたリズム感の良さが
伝わりづらくなってしまうと思うのです。
一方で「叩きながら」だと「たったーきながらー」と歌えるため、レゲエ調の跳ねたリズムと
促音である「っ」の詰まる感じが、うまくリズムに乗り、一体感をもって耳に届きます。
「ひっきーながらー」って歌えばいいじゃんと思ったそこのあなた、それはそう、そうだと思う。
でもこの二つの言葉を並べたときに、よりリズム感を伝えるのは「たったきーながらー」だと
感じませんか?
促音の音が伝わりやすいのは後者だと思うんですよね。(語呂の問題もあるかと思いますが)
結果的にそうなっただけということかもしれませんけどね。
ただ、僕はそう感じた。
なんで「叩きながら」という言葉を選んだのだろうって。
他にも探せばいくらでもありそうです。
「今夜ちょっとさ」の【今夜ちょっとさ】の、「ちょっとさ」もレゲエ調の跳ねたリズムに
うまく乗せて、世界観を伝えてるなーと思うし、レゲエ調の曲じゃないところだと
「いろんな人が歌ってきたように」の出だし【そろそろねー】なんて、この言葉以外に
このメロディーとリズム何をマッチさせるのだろう?
と感じてしまうものもあり、なんか勝手に感服してしまうのです。
最終的に「メロディー」と「リズム」と「歌詞」とが三位一体になったところを目指して
制作されるだろうことをイメージしながら聴いていると、やっぱりトータル的にバランスが
良いのは言うまでもなく。
「メロディー」と「リズム」と「歌詞」のいずれかが、どれかの良さを殺してしまうような
楽曲はあんまりないんですよね。
だから耳触りが良いのでしょうし、気持ち良いんだと思います。
果たして本人がそこまで緻密な計算をして作っているかというと、定かではありませんが、
出来上がったものをこうやって紐解いていくと、今回のテーマとした「リズム感」以外でも
造り手の想いがとても感じられます。
アーテイストの方々が適当に曲を作っているなんて決して思いませんが、
これだけ長い間、自分自身の心を虜にするアーティストには、何かそういった気持ちいい音楽を
制作するエッセンスのようなものがあるんだろうなと、いつも感じています。
そして、聴いている曲に対する、自分自身の愛情の深さも同様に感じてしまいます。
結構、自分勝手な推測や見解を並べましたが、
好きなものが好きである理由を考えるきっかけになったので、とても面白く感じ
ブログに備忘録を兼ねて載せてみました。
ここに記した捉え方は僕自身にしか適用されないものかもしれませんが、
なんか共感してくれそうな人はいそうだなと思っています。
ちなみに、今回の「幸せの黄色い風船」では【一斉のせっ!】の部分がリズムにはまって
ポップな曲調を殺さず、楽曲の雰囲気づくりに一躍買っているなと感じました。
これがきっかけでしたね、今回の考察は。
ま、何が言いたいかというと、いい曲だからみんな聴いてね
ってことなのかもしれません。
長文、お付き合いありがとうございました。
久しぶりの歌詞考察。
4か月も開いてしまったのですね。
当ブログで、実はこの歌詞を考えるシリーズはなかなか人気のようでして
定期的にいろんな方に見ていただいているようです。
ありがとうございます。
さて、今回考察するのはこの曲。
柴田淳さんの「人魚の声」。
この「人魚の声」は2007年にリリースされた「月夜の雨」という
アルバムに収録されている曲です。
実はずっと前から、この曲のことを書きたいと思っていました。
柴田淳さんではこの「月夜の雨」は本当に僕の中で傑作でして、
以前歌詞考察をした「HIROMI」もこのアルバムに収録されたシングル曲です。
歌詞を考える 柴田淳 『HIROMI』
それでは、始めましょうか。
歌詞はこちらでご確認ください。
しかし、柴田淳という女性は本当にこういう歌を歌わせると天才的です。
女の情念や寂しさ、切なさ、儚さ、どうしようもなさ、男の僕にまで伝わってきます。
中でもこの「人魚の声」は、もう凄いとしか言えない。
こういう歌詞は男には書けないですよ。
「愛されたい」と一心に思う女性が主人公であるこの歌は、
冒頭からサビを迎えます。
「愛されていないって 思いたくない
あなたを失うのはこわいの
これ以上 それ以上 期待していても
傷つくだけと知っても・・・」
もう、ここからつらいじゃないですか、染みるじゃないですか。
本当にね、この女性の彼氏に「もっと大事にしろよ」って言いたくなります。
Aメロ、Bメロはそんな彼氏のひどさが浮き彫りになります。
「どうしたの?って心配する
映画の恋人は優しい
そんな場面を見る度に
悲しくなったの」
「電話したって 私が一人
ただずっと喋っているだけ」
なにこれ、哀しい。
彼女も彼女です、そんな彼氏に対して素直になれないのです。
2番の歌詞にその気持ちの部分が色濃く表現されます。
「作り笑いを真に受けるし
「やだ」の「いいよ」もわからないなら
何も話さなくなった
私に気付いて・・・」
男からすれば、それは無理だよ、とついこぼしたくなる歌詞ですが、
僕はここにこそ女性の心理をとても強く感じます。
「やだ」の「いいよ」ここにこの歌の神髄がすべて込められている気がします。
男の僕なりに考えるのですが、
女性の心理には「見ていてほしい」という願いが込められている気がします。
自分から言って気づいてもらうのは、違うんです。
「ほしい」ものを「ほしい」と言わず気付いてほしいのです。
そこに、愛されているという確証を得るから。
「せめて ねえ 気付いてよ
いつもと違うって」
ここにもその心情が見て取れますね。
さて、この物語、僕はすでに恋は取り返しのつかないところに来ている気がします。
おそらく彼氏の心は彼女に向いてはいない、ひょっとするとほかの女性を思っているかも
しれません。
そこをちゃんとこの女性は気づいています。
だから、言えないのです、「愛して」って。
だって「愛して」って言ったら、「もう君を愛せない」と言われてしまうから。
確かめることをしなければ、少なくともあなたを失う時間は少し先に延命できる。
その先に満たされることがないと知りつつも、切れないのです。
だって、かつては確かに「愛されていた」
「愛されていた」ことを知っているから。
「愛されなくなる」恐怖がそこにあるから。
少し盲目的になっている節もありますが、
だからこそ恋なんだと感じさせるのです。
読めば読むほど、空回りする女性の胸の音が聞こえてきそうですが、
バカだなとは思えないんです。
胸が締め付けられるんです。
誰だって愛してほしいに決まっています。
自分が愛した人に対してはなおさらです。
この女性はどこか、愛さなくちゃ愛されないくなるという義務になっています
冷静になれば、それが正常ではないこともわかるはずなのに、そうできない。
どうしようもない人だけど、ふとした時の笑顔を見て、ただそれだけで「好き」ってなる気持ち。
10のうち9つ外れても、たった1つ拠り所があればそれだけでいいんです、恋は。
だからそんなに簡単に割り切れない。
そもそもそんな理屈で愛してなんかない。
読み解けば読み解くほど、空しさではなく、
女性の強さを感じる歌詞です。
男がどんなに頑張ったって、こんな風に情念の微かな隙間に母性を感じさせる歌詞なんて
よっぽど書けないですよ。
だから、こういう歌詞をかけて、適度な温度感で歌えることが
本当に心から凄いと思うし、羨ましい。
このどこにも行けない恋は、どんな結末を迎えるのでしょう?
そんなに自分を追い詰めないでと手を差し伸べたくなりますが、無意味でしょう。
その手を彼女は求めていない。
求めているのは彼なのだから、それ以外は見えない。
次の愛を知るには、一度泡になり海の藻屑にならないといけないのかもしれませんね。
それこそ、果てしなく深い宇宙のような海底で。
こんにちは、ジニーです。
みきさんに随分まえにお勧めされていた「Topaz Love」。
ようやくちゃんと聴きまして、歌詞についても考えてみました。
(みきさん遅くなってごめんなさい)
歌詞はこちらからKinki Kids「Topaz Love」歌詞
以前みきさんにただいたコメントによると、この「Topaz Love」はキンキの20周年
イベントの時にデモとして披露された曲が、正式に制作されて発表されたという経緯があるようです。
ちょっと調べてみたのですが、最初に光一くんが作っている曲があるとデモの「ららら」の状態で
披露して、その次のイベントの時に剛くんが仮の歌詞を作ってきたという流れのようです。
その時披露されているものから、さらに作り込んだものが、リリースされた形のものです。
当時、剛くんは突発性難聴を患い、20周年のイベントも欠席せざるを得ない状況だったようで、
そういった背景や、その時の感情からイベントで披露されたデモは「突発Love」と呼ばれたようですね。
20周年のイベントで披露されたということから、ファンに向けた楽曲という
捉え方もあるみたいですが、今回は一つの楽曲として考えてみようと思いました。
しかし、剛くんの書く歌詞は一筋縄ではいかないですね。
読んで理解するというより、感覚に訴えかけるという感じがします。
そういった部分をできるだけ言語化しようとウンウン唸りながら
歌詞を読み、曲を聴きました。
僕なりの見解ということで見ていただけると幸いです。
まず、今回たどり着いた僕なりのこの歌の設定は「夜」です。
それと、「花火」、「片想い」。
冒頭の、
「夜空 弾く 華の灯が
弧を描いてそっと黙る」
というのは、花火をイメージするのが妥当かなと感じました。
しかし、センスが光る詞ですよね。
良い悪いのは話ではないのですが、花火を形容するのに
「パッと咲く」という表現をよく見ます。
花火の花が咲く瞬間をとらえた表現ですよね。
剛くんはこの歌では「弾く」という表現を使っていますが、それ以上に花火を印象づけているのは
「そっと黙る」だと思うのです。
花が咲いた時ではなく、花火が消えた瞬間にスポットを当てている。
これが以降の歌詞に効果的につながっていると感じます。
読み続けていきましょう。
「聴こえなくなった続きへ
耳を澄ます寂しい世界」
突発性難聴になったからこそ、こういう表現ができたのかもしれませんね。
静寂の意味というか、余韻の探り方というか。
重要なのは花火が散った後なんですよ。
聴こえなくなった続きに何を聴こうとしていたのか?
耳を澄ましています。
知らずに聴こえたのではありません、そこに何か「音」があることを知っているから
耳を澄まして聴こうとしていたのです。
答えは次の歌詞にあると感じました。
「気づかれ始めて高鳴る胸」
自分の鼓動。
恋する鼓動なのでしょう、胸の高鳴り。
主人公の女性はある男性に恋をしています。
自分自身の恋心に、男性は気づき始めています。
だから花火デートになんて行ったのでしょう。
それでもまだ恋人ではありません、「辿り着きそう、愛の人」という歌詞のとおり
まだその想いは伝えていないのです。
僕は、恋心に気付かれたと主人公が自覚したのは花火があがった瞬間ではないかと思っています。
「華の灯」という表現。
「火」ではなく「灯」なのです。
灯り、照らしたのは恋する自分の表情ではなっかたのか・・・と。
さて、サビに入ります。
「輝き暴れた宝石」ですって、暴れてますよ。
制御できないということでしょうね、「この恋心は止められない」という感じですね。
「恋の色彩(いろ)の宝石よ」。
トパーズにはいくつもの色が存在しています。
ブルー、インペリアル、ピンク、ブラウン・・・。
ここではそういう意味よりも、宝石としての本当の意味が生まれたと解釈するのが妥当かと
思いました。
「あなた目掛けるネオンが綺麗
泣き見惚れてる・・・大好きよ・・・」
ネオンを何が差しているのか、今回の考察では一番苦労しました。
悩んでしっくり来たのは、「人」を表しているという解釈。
1番では「あなたに恋するほかの女性」という捉え方がしっくりきました。
ただ、あなたに恋心を寄せる、もしくはあなたが恋している女性に対する劣等感ではないと思います。
「あんなにあたしは綺麗じゃない」という意味じゃなくて
「きっとあたしには振り向いてくれないという」感情が、ないものねだりに
彼の視線の先のものへの憧れとして綺麗に見せているのだと感じます。
あなたはあたしの恋心に気付きながらも、たぶん、ほかの女性に気持ちを寄せていると思われます。
(2番でそう感じました)
でも、そんなあなたが大好きなのです。
続いて2番に行きましょう。
「水の中を潜ったような
静寂へと難破したあたし
どこまでも続く孤独の
青い色に赤らむ唇」
ここでも病気の経験をプラスに活かしたかのような歌詞があります。
水の底に沈んでいくような静寂、孤独。
想いを成就していない恋は、胸に一抹の不安を抱えながらの日々になります。
何気ないことで届かぬ思いを実感する瞬間もあるでしょう。
例えば、今回のように自分以外の女性に思いを寄せている相手であれば、
「今頃・・・」と自分自身の作り出した想像の中で、どこまでも深い水の底へ
沈んでいってしまうのではないでしょうか?
そんな水の底の青色に、印象的な赤らむ唇。
これは自分の恋心の強さの象徴だと捉えました。
きっと、いままではそういう彼への想いを抑えながら、「諦めなきゃ」と考えて
いたのかもしれません。
それでも、1番のように、辿り着きたい場所だとはっきりしたのです。
そこへ行くために覚悟を決めたはずです。
「探し求めていた物語
辿り着きそう」
始まっていない物語を始めようとしています。
ここからも、この恋に生きようとする意志の強さを感じますね。
「希望が滲んだ宝石 火の虹打つ宝石よ」
1番で輝き暴れた宝石は、希望の色彩も含んでいます。
「灯の虹」とは環水平アークを意味するみたいですね。
橋のような虹ではなく、空に滲むような虹です。ときには丸い環を描くこともあるようです。
この虹は実に希少な現象をとらえたもので、そう滅多に見れるものではありません。
それを打つことができるほどの希望を持つ宝石、曲が進むにつれてあたしの恋への
強さは強いものへと変化していきます。
「誰かを愛するネオンが綺麗」
ここではあなたがネオンとなっています。
さっき誰かほかの女性に思いを寄せているというのは、ここで感じたのです。
ようやく片想いの状況が見えてきましたね。
そんな彼にも泣き見惚れています。
その視線の先があたしだったら、どんなに幸せだろう。
最後のサビで改めてあたしの恋心が描かれます。
「輝き暴れた宝石 恋の色彩(いろ)の宝石よ
あなた目掛けるネオンが綺麗
泣き見惚れては・・・サイレント・・・」
最後、サイレントです。
また静寂が訪れます。
でも、たぶん今までの静寂とは違う気がするのは僕だけでしょうか?
メロディーがそうイメージさせるのかもしれません。
僕は、このサイレントを、「息をのむ」、「時が止まる」と解釈しました。
多分、泣き見惚れてたあなたの横顔がこちらを向いて目が合ったんじゃないかと。
そこで、サイレント。
なんかそう捉えると、全体の歌詞がグッと感情を伴った短編映画のように見えてきます。
ここは、もう僕自身がそうであってほしいという願望だけでそう切り取りました。
さて、大サビです。
ふたりの掛け合いの真骨頂ですよね。
デュオだからできる手法。
「誰を好きになってもいいの
いちどきりのあなたを好きでいたいよ」
「結ばれることをどこかで怖がり
嘘ついて恋していいの?
廻り逢ったくせに 結ばれず夢の途中
覚めないあなたが痛いよ」
光一くんのパートでは、あたしの意思の強さが現れています。
あなたが誰を好きでも良い、ひとつひとつの瞬間のあなたが、すべて好き。
一方、剛くんのパートでは、
ずっとあなたを見てきたあたしだからこそ見えてみたあなたの本質。
誰とでも遊んでいるように見えて、本気の恋はどこか避けているのでしょう。
ずっと見てきたから、そういう一面が見えてきた。
いくつもある時代の、長い歴史のその中で、同じ時代に生まれ合った奇跡。
出逢ったことには、きっと意味があるはず。
これは僕の持論でもありますけど、人はその人にめぐり逢いたいと思うから、逢うのです。
じゃあ、あたしとあなたが出会った意味は・・・?
あなたを生涯愛せるのは、あたしであるという自負。
あたしを見てくれればきっと、本当の恋に覚めるはずという強い気持ちが描かれています。
両極端なメロディーに、両極端な気持ち。
恋に揺れるあたしの心情が、二つのメロディラインを同時に歌うことで、
絶妙に描かれていると思います。
不安もあるし、自信もある。
どちらも本当のあたしの気持ち。
そうやって揺れるのが恋心なんでしょうね。
ちなみにトパーズの石言葉は「誠実・友情・潔白」。
あなたへの誠実恋心という意味で考えれば、この宝石を選んだ意味も見えてきます。
「突発」からのイメージを受け継いだところも十分にあるような気もしますが。
この曲を通して、片想いの儚くも強いあたしの気持ちが浮かびました。
「銀色 暗号」といい「恋涙」といい、剛くんはこの手の、自分自身の内なる感情、恋心と対峙して
揺るぎない想いへと昇華させる恋の歌が得意ですよね。
愛とは求めるものではなく、与えるもの。
そういう想いが歌詞から感じられます。
女性からはこういう歌詞はどう映るのでしょうか?
ネットとかで感想を見る限り、絶大な共感を得ていますよね。
違う性別の歌詞で、ちゃんとその同性の共感を得られるって、並大抵の感性ではないと思います。
これがキンキにどっぷりとハマってしまう背景なのかもしれませんね。
例によって、ファンの方とは違う見解かもしれませんが、
こういう見方もありかもねっていう気持ちで読んでいただけると幸いです。
よろしければこちらも
【追記】歌詞を考える KinKi Kids 『恋涙』
歌詞を考える KinKi Kids 『銀色 暗号』
歌詞を考える Kinki Kids 「陽炎 〜Kagiroi」 - ジニーの、今日も気まぐれな感じで・・・
昨夜、ふと風の音で目が覚めました。
これまでとは違う経路の台風。
おかげで予定も狂ってしまいましたが、朝が来る前には過ぎて行ったようです。
さて、お久しぶりの歌詞の考察。
先日発表されたばかりのASKAの「憲兵も王様も居ない城」です。
3月から始まった、毎月配信の7月の新曲です。
歌詞はASKAのブログにもありますので、こちらからご確認ください。
「憲兵も王様も居ない城」 歌詞
また凄い曲を作ってきましたよASKAさん。
テーマは、「ここまで来たら、ずんと線を跨ぐ」だそうです。
曲全体から感じるのは意志の強さ。
イントロからしばらくは割と静かな感じで進んでいきます。
内に秘めた覚悟のような印象。
そこからサビに入るとガラッと雰囲気は変わり、魂のこもったシャウトで歌いあげます。
まさに「ずんと線を跨ぐ」感じです。
さて、歌詞を持て見ましょう。
まず冒頭。
「乗せ換えろよエンジンを 動かなくなるその前に
運命です 寿命ですって 誰にも言わせないように」
古くなった車であれば買い替えるほうが、きっと一般的でしょう。
でも、歌いだしからエンジンを乗せ換えろと言っています。
僕はここからASKAの覚悟を強く感じました。
車であれば買い替えることができますが、人間は、買い替えることはできません。
エンジンを乗せ換えることで、新たな動力を得ることしかできないのです。
ASKA自身、例の事件があって、一度は引退も考えたと言っています。
それでもここまでやってきました。
ついには11月からのオーケストラとともに行うコンサートも実現しました。
ここまでの躍進は、ASKAの運命にもあらがうような力強い一歩の
積み重ねによるものです。
この歌詞はそういったASKAの心情や背景を言葉に表現したように僕は映りました。
一度は走ることができないとまで感じた音楽人生。
スタッフやファンなどの声がきっかけとなり、やはりこの道を進もうと決意します。
しかし、その道はこれまでの道とはちがい、逆風の吹き荒れる
過酷な道にになっていました。
ASKAの言葉する「石の風が吹く道」。
そこを進むには、これまでのエンジンではダメだったのです。
もっともっと強い意志と覚悟を伴う、多少の批判にくじけることのない
強いエンジンが必要なのです。
立ち止まるときは、様々な甘い言葉に耳を傾けそうになります。
「ここまでの運命だったのだ」
「もう寿命だったのだ」
そういった言葉を振り切る強さも備えていなければ
その道をこれまで通りの顔で進むことは難しかったのでしょう。
決めたのは、自分です。
その決意に、誰の言葉も居れる余地を与えるつもりはないのです。
進めるところ進む。
まだ、たどり着きたい場所がある。
まだ、見たい景色がある。
まだ、乗せていきたい人がいる。
このたった2行に、僕はこれまでのASKAの集大成と確かな覚悟を強く感じました。
このように書くと、覚悟とともに、どこか悲壮感も感じてしまいますよね。
でもそうじゃないんです。
ASKAは今とても充実しています。
歩む道も、進み方も、目的地も、何もかも自分で決めているからでしょう。
その充実感も歌詞から読み取ることができます。
「逃げりゃ追いかけてくる 追いかけりゃ逃げてゆく
人生ってヤツは 愛らしい」
という部分。
思うようにいかない人生を愛らしく感じています。
むしろ思うようにいかない人生を、どのように思い通りにして見せようかという形で
とらえているのかもしれません。
そしてその覚悟を胸に、城を出て、次の目的地へ進みます。
振り返ると、これまでの自分が作り上げた大切な城が見えます。
城は様々なものの象徴です。
地位や名誉、居場所、もしかしたら財力も含まれるかもしれません。
ASKAはもうその城に戻る気はないのだと思います。
それらを持つ城がトランプで作られたようなお飾りの城に見えているので。
ここから、圧巻の場面転換です。
「ひまわりのような笑顔って お日様だけしかわからない
土の中 支えつづけるもの
遺書なら昔に書いてある 何枚書いても隠される
結局答えを「我慢」と言うんだろう」
これはもう、ASKAにしか書けない歌詞ですよ。
それもいまのASKAだからかけるもの。
本当にすごい。
いまのASKAはファン以外の人にはどのように映るのでしょうか?
大きな事件を起こしておきながら、ちゃっかり戻ってきた。
反省もせず音楽をやっている。
あんなことをしておきながらチャラチャラ音楽をやっている。
ここまでではないかもしれないし、これ以上のものかもしれません。
なんとでも言えばいいとファンは感じています。
ASKA自身も、そういった声を自身の活動で拭っていこうと考えています。
そういったファン以外の人の目線には映らない部分が実はあります。
いわゆる根の部分。
土の中で支えつづけるものがあるから、どんな風にも折れずにいられるのです。
はたから見ればただの笑顔も、その笑顔作るものが何かをしっかりと知るべきなのです。
そんな反骨の意思を垣間見ることのできる歌詞です。
一方で遺書という言葉が出てきます。
凄く色んな捉え方ができる歌詞だと感じました。
そのままの意味で捉えて、「まだ死ぬことはできない」という想いを
書いたとも考えられるし、何か別の意味が込められているようにも考えられます。
僕は、今のところ、次のように考えています。
まず前提は、ASKAが40年近くアーテイストとして生きてきていることがあります。
仮にASKAの死、音楽活動の終了を迎えたとき、どのようにASKAが語られるかと
言えば、やはりこれまでの楽曲を用いて語られるのだと思います。
大ヒットした曲、歌詞に惹かれるファンが多かった、簡単そうで実は難解なコード進行
つい口ずさんでしまいたくなるメロディー、などなど。
そう考えると、これまで作ってきたASKAの楽曲は一つの遺書のようにもとれます。
その時その時の全身全霊を傾てきたので、それくらいの重みももっていると思います。
常にASKAは歌詞にメッセージを込めてきました。
節目節目で名曲とファンから評価を埋める楽曲には特にそういった部分が
多く感じられていると思います。
いま、ASKAの楽曲はまだ世間的にはウェルカムではありません。
一時期に比べてだいぶ露出は増えてきましたが、それでもやっぱりなかったことにされるような
瞬間はまだまだ多いと感じます。
今だって、毎月新曲を配信していることを、ファン以外の人がどのくらい知っているのでしょうか?
ASKAは自身の音楽人生を全うしようと歩みを続ける一方で、現代とそしてこれからの
音楽業界をよくするための活動もたくさんしています。
アーティストファーストの配信サイト「Weare」の設立。
全盛期を過ぎたCDが終焉を迎えたあとの楽曲の存在の在り方。
時代が生み出す新しい文化との共存方法。
いろんな場面で、ASKAの口からはそういったものに対する言葉がこぼれてきます。
しかし世間一般的には、隠されたようになってしまっている部分は否めない。
とりかかっている物事の大きさからしても、すぐに結果が出るものではないとは思いますが、
メディアといった大きな情報が味方に付けば、追い風になる部分もあるでしょう、
言ってしまえば、まだ認められていないということ。
そういったものが追い風に変わるまでは、やはり我慢なのだろうと思います。
このサビの4行。
メロディーも相まって、ものすごいパワーを感じます。
まさにASKAの真骨頂です。
そして、そこに込めらえた歌詞には普段言えない想いを吐露したようにも感じられ
だからこそ一層、胸に迫るものがあります。
全体からヒシヒシと伝わる覚悟。
そして、「安定」ではなくあえて逆風を突き進むことで得る「成長」を選択しようという
そんな意思の表明。
いまのASKAだから書ける歌詞だと思います。
そういった意味でも、今後FELLOWSの中には深く根付いていく楽曲になると思います。
FELLOWSは知っています。
ここは旅の途中であるということ。
ここは途中だ、旅の何処かだ。
ひとつだけ多くても、ひとつなんか足りなくても 終わるもんじゃない
憲兵はなくとも、FELLOWSは共にあります。
ASKAがそうであるように、ファンにも見たい景色がある。
僕らファンも多くの心無い言葉に耐えて歩いてきました。
自分の信じてきたものを疑いたくなる瞬間もありました。
でも、ともに歩くことを決めました。
そんな簡単に折れる覚悟じゃないですよ。
我慢比べなら、どこまでも付き合おうじゃないですか。
それが人生です。
愛らしい人生です。
長々とお付き合いいただきありがとうございます。
youtubeで本楽曲のラフミックスが公開されています。
一度、こちらも聴いてみてください。
そして、気に入ったら是非購入しいてみてください。
骨太な人生を感じるさわやかな楽曲がここにありますよ。
憲兵も王様も居ない城(ラフミックス) ASKA 2018/7/25「Weare」より配信
購入はこちらから!
「憲兵も王様も居ない城」 Weare
お久しぶりの歌詞を考える。
今日は坂本真綾の「木登りと赤いスカート」。
2001年に発売された『LUCY』というアルバムの収録曲です。
彼女の本職は声優ですが、じつはアーティストとしても素晴らしい
実績を残していて、世界遺産の厳島神社でのライブなども行っています。
数多く作品をリリースしている彼女ですが、僕個人的には
この『LUCY』は常にベスト3に入り続ける名盤です。
さて、では歌詞について考えていきましょう。
歌詞はこちらです。坂本真綾 木登りと赤いスカート
詩を書いているのは岩里祐穂さん。
長年第一線で作詞家として活躍されている方ですね。
坂本真綾のデビューにも関わっており、いまでも彼女の代表曲の一つとして名高い「約束はいらない」を
書いています。
さて、そんな岩里さんが書く『木登りと赤いスカート』。
まずは、歌詞を一通り読んでもらえればと思うのですが、主な登場人物は天使と女の子。
天使の目線で歌詞は綴られていきます。
歌詞は天使の「ぼく」と女の子の「君」が出会うところから始まります。
ふたりは出会いをきっかけにいつもそばにいます。
歓びも悲しみもすべて分け合って生きていきます。
ハッとするのは最初のサビの歌詞。
「ぼくがむかし天使だった頃に
君にはすべての世界が見えた
すべてと話ができた」
ぼくは天使なのですが、それはむかしの話なのです。
では、今は?
改めて読んでみると、歌詞の構成は基本的に過去の邂逅なのです。
少女の変化とともに天使であるぼくには寂しさが生まれていきます。
やがて君にはぼくの声が聞こえなくなる。
君は大人になったのです。
幻想を真実として受け止める季節は過ぎてしまったのです。
結局、天使のぼくは君と同じ人間になることを選びます。
君のために「つばさを棄てて」、君の目に映る、声の届く、同じ人間になったのです。
大切な君をしあわせにするため、すべてから守る決意を秘めて。
こんな歌詞、僕には書けません。
一人の少女の成長を、天使の目線で書くなんて、どういうときに思いつくのでしょうか?
天使の目線で書くことによって、子供から大人になるという
「なにか大切なものをなくしてしまった喪失感」が何よりも効果的に感じられます。
まるで一つの小説、絵本を読んでいるようなときめきと余韻を覚えます。
また、こうして歌詞を読んでみるて改めてタイトルを考えると
女の子の無邪気さが伝わってきます。
無邪気で純真な子だったからこそ、天使と会えたのかもしれませんね。
この歌を聴くたび、歌詞を聴くたびに、自分の中のノスタルジーが
顔をのぞかせます。
自分にもこんな風に天使と遊んでいた時期があったかなと。
なんかね、切ないようなむず痒いようなそんな気持ちになります。
ASKAの言葉を借りるのであれば、野いちごが揺れるような甘酸っぱい香りを感じるのです。
ちなみに、この曲には当たり前ですがメロディーがあり、歌声があります。
そのすべてがこの歌詞の世界観を色鮮やかに彩っています。
坂本真綾ちゃんの歌声ほど、この世界簡に合うものはないでしょう。
大好きな歌です。
もし、興味を持ってもらえたら、一度『LUCY』を聴いてみてください。
天使がいないか、ふと空を見上げたくなるんあじゃないかと思います。
なんか、ただの曲紹介になっちゃいましたね。
#坂本真綾
#LUCY
#木登りと赤いスカート
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こんばんは、ジニーです。
今日は、1月1日。
堂本光一くんの誕生日と言うこともありますので、
Kinki Kidsの「恋涙」、考えてみました。
てか、「れんるい」っていうんですね。
「こいなみだ」だと思ってました。
さて、どういう形で考えていこうかな。
とりあえず歌詞は、こちらからご確認ください。
これは一人の女性が主人公になっていますね。
ある意味ふたりの共作の十八番な形です。
この歌は、解析がとても難しいです。
意味を紐解くという意味でもそうですが、それ以上に行間や
言葉の真意(と思われるもの)などを汲み取るのがとても難しいと
感じます。
上手く形容できないですけど、一編の小説のように一筋縄にはいかない
イメージですね。
とりあえず、頑張ります。
れんるい・・・恋涙に対する語りかけがこの曲の中心になっています。
「あたしが勝っても恨みっこなしよ」
いきなり躓きですよ。
恋の涙に対して、何を賭けているのか・・・。
しばらくここにこだわって止まっていましたが、歌詞の答えは歌詞の
中にあるという事ですね。
読んでいく中で何となくわかってきました。
おそらく、この勝ち負けは恋が続くこと、終わることを示しているの
ではないかと思います。
恋に涙はつきものです。
しかしその涙が、恋を成就させる物であることを強く望んでいます。
「死なせない」
強い意志です、何があってもこの恋をあきらめることはないという
意思表示がここにあります。
この主人公にとって、この恋は運ばれた命、つまり運命なのですから。
この恋は生きていることの、あたし自身の存在証明となっています。
だからこそ、生のイメージが詞を埋めていきます。
「血液が流れる」
「呼吸は続く」
あなたを愛するために生きているのです。
あなたを愛するために、あたしはこの命を死なせないのです。
情念ともとれそうなこの想い。
どこまでも深い愛を垣間見せます。
ただ、恋とは相手あってのものです。
いくら強烈に相手を想っても、必ずしも相手が同じ熱量で思いを
返してくれるとは限りません。
少しの油断で、恋の結び目はもろくもほころびます。
その死角に言いしれぬ恐怖を感じているのです。
「幸せすぎて怖い」という化石になりかけたフレーズを、
こういった表現で新しい命が吹き込まれた印象です。
一番は、自分が生きている意味であるあたなとの恋と、その幸せに
隠れて息を潜める「試練」の前触れを歌っています。
それを受けてのサビ。
これも難しいですね。
二度と帰らないでとするのは、やはり涙は出来るだけ流さないで
いたいという想いの表れに感じます。
しかしながら、堕ちないで銀河の星となって輝くことを望んでいます。
それはなぜだろう?
ここに言う涙って、言い涙ではないのだろうなって想ってます。
自ら夜を彩ることも出来ずに、夜にもたれるしか輝くすべを持たないのです
そこまで強い光とは思えません。
じゃあ、なんでそんな涙を銀河に輝かせたいのか、これについては最後に
述べたいと思います。
さて二番。
愛しの顔が曇った、試練が迫ってくる合図です。
一番のBメロで首をもたげていた予感が、訪れたわけです。
あなたがあたしを傷つけまいとついた優しい嘘(この手の男の持つ優しさ
の履き違え)は夜を越えて、朝を知らせる太陽となって
二人を照らします。
その太陽が作り出した陰に隠れて、あなたは秘密を重ねるわけです。
そんな二人を睨む太陽。
恋で泣かした人と、恋で泣かされた人の両方に同じ罪を振り分けるように。
そんなすべてを見透かしているあたしは、ただ激しく涙します。
縫って堕ちるというのは秀逸な表現ですね。
頬という大地を堕ちる涙は、取り乱す心と振り乱す身体に揺られ
ジグザグと縫うように流れます。
そして、涙は傷つきこわれそうな心を縫うように癒やしてもいるのではないかと
感じることも出来ます。
そして、自分自身に言い聞かせるように言うのです、大丈夫と。
喜びも悲しみも、その両方が愛を育むものだと。
そんな涙を、すべてうけとめようとします。
自分の物にすることで、やはり「死なせない」と綴るのです。
二番では、生まれた疑念と、それでも愛することをやめない強さが
歌われます。
全体を通して、浮かび上がるのは強く恋に生きる一人の女性です。
しかし、決して確固たる強さを持っているわけではありません。
むしろ、一陣の風に倒れてしまいそうな儚さを持ち合わせています。
それでも、命を賭けて愛すると決めた人が出来ました。
この恋を簡単に死なせるわけには生きません。
だからこそ、流す涙をなきものとはせず、銀河に飾り共にあらんと
するのです。
時につらい現実を目の当たりにする事もあります。
しかしそれらは恋をあきらめさせる要素にはなりません。
より一層強くなろうとする自分が生まれます。
僕はこの歌詞から感じたのは、
「死ぬほど愛している」
ではなく、その想いのさらに上を行く
「生きている限り愛している、愛しているから生き続ける」
という情念にも似た感情です。
だって運命の恋だと感じたから。
命として運ばれた恋に命を賭するのは、自然の摂理でしょう。
きっと、この主人公の女性はずっと恋の涙とともに行きながら
その都度、新しい強さを身にまとっていくのだと思います。
儚いメロディーに強い意志を感じるのは、そういう想いが込められて
いるからだと、そう感じます。
前回の「銀色 暗号」の時もそうですが、あくまでファンではない
一人の人間が、考えたものですので、ファンの方々の見解とは
大きく違う部分があるかと思います。
どうぞ大目に見てやって下さい。
初めてのリクエストに舞い上がって臨んでみましたが、
剛くんの歌詞は一筋縄にいきませんね。
時を経て、また違った景色を生み出していきそうな歌詞です。
いやぁ、すげえな。
この二人の共同作業はハンパないっすわ。
よろしければこちらも
歌詞を考える Kinki Kids 『Topaz Love』
歌詞を考える Kinki Kids 「陽炎 〜Kagiroi」 - ジニーの、今日も気まぐれな感じで・・・
おひさしぶりに、今夜は歌詞の解析をしてみようと思います。
今回は欅坂46の「二人セゾン」
歌詞はこちらから欅坂46 二人セゾン
個人的には、女性アイドルの歌の歌詞に意味を求めてはいけないと思ってたりします。
穿った見かたかもしれないですが、アイドルの歌は聴くものではなく、感じるものだと思うからです。
アイドルの歌の歌詞に投影されるのは、彼女たちの生き様やプライド、想い、葛藤、喜びで
歌という媒体を通して、ファンはアイドルとの共感を得るものだと思っています。
だけど、「二人セゾン」はそういう点でいえばとても異質に思えました。
歌詞を聴きたくなる。
なぜ、彼女たちがこの歌を歌うのかという意味を知りたくなる。
そんな曲でした。
二人セゾン。
セゾンは「季節」という意味です。
ふたりの季節と捉えればいいでしょうか。
曲はサビから始まります。
それは、春夏で表れて、秋冬で去っていく。
そして、「後悔はしてないか?」と聞きます。
誰が?誰に?
僕が感じる答えは、もう少し先で書こうと思います。
この曲の歌詞は1番も2番も情景描写が前半を占めています。
主人公は、生きることに輝きを見いだせていません。
原因は分かりません。
思春期のモラトリアムかもしれません。
何も楽しいと思えず、いつもどこかむなしい。
何のために生きているのか、どうすれば心に花が咲くのか。
いまやネットでなんでも知ることができる時代。
スマホさえあれば退屈な時間は埋めることができます。
しかし、なにか豊かさのようなものを失っているような気がするのも事実です。
常に満たされた状態が続くと、乾くという感覚が鈍るのだと思います。
結果、虚無感が心を占めてしまう。
この主人公もそうでしょう。
「道端咲いてる雑草にも
名前があるなんて忘れてた」
くらい、世界に興味を持てなくなっています。
でも「忘れてた」んです。
それに気づいている現在があります。
気づかせてくれたきっかけがあります。
もう一度Aメロに戻ってみましょう。
1番
「道端咲いてる雑草にも
名前があるなんて忘れてた
気付かれず踏まれても
悲鳴を上げない存在
誰かと話すのが面倒で
目を伏せて聴こえない振りしてた
君は突然
僕のイヤホン外した」
2番
「価値を吹き抜ける風の中
何かの香りがしてたのに
振り返る余裕とか
興味もなかった
自分の半径1m
見えないバリア張った別世界
そんな僕を
連れ出してくれたんだ」
見事に無関心と拒絶で埋め尽くされています。
それが主人公の今までだったのです。
そんな僕のイヤホンを外して
「What did you say now?」=今なんて言ったの?
そんな僕を連れ出して
「What made you do that?」=何をしたの?
と、
それぞれにあるきっかけが訪れます。
ここからのBメロが本当に秀逸です。
例えば1番
「太陽が戻ってくるまでに
大切な人にきっと出逢える
見過ごしちゃもったいない
愛を拒否しないで」
太陽が戻ってくるまでにというのは、朝が来るまでということ。
つまりこの主人公の心に伸びる夜が明ける頃ということでしょう。
その頃までに大切な人に出逢えるから愛を拒否しちゃいけない、受け入れろと
言っています。
続いて2番
「一瞬の光が重なって
折々の色が四季を作る
そのどれが欠けたって
永遠は生まれない」
些細なものであっても、一つ一つに意味があり、それらの共生が意味のある
ものを作り出している。
一人でいるのではなく誰かと過ごすことで永遠の意味が分かると説いています。
主人公にとって価値観を変えるパラダイムシフトが起こります。
ではその需要な価値観の変化、これを誰が誰に言ったのか?
僕は、自分なんだと感じています。
最初、歌詞を読んでいると、主人公と恋人がいて、恋人がBメロの言葉を
伝えているように感じたのですが、違和感がありました。
果たして恋人が「大切な人にきっと出逢える」と言うのだろうか?
それをきっかけに、恋人ではない誰かの言葉として改めて考えたとき
自分自身の内なる声ではないかと思ったのです。
これは、主人公の成長の歌であり、心の移り変わりを季節になぞれらえた、
いわば大人になるその瞬間を切り取った歌だと思ったのです。
最初から書いている通り、とにかく主人公は無関心と拒絶の塊でした。
それが、日々の流れの中で、頑なであったものが、ほどけていきます。
そしてあるタイミングで、ずっと秘めていた内なる素直な自分の声に
ちゃんと耳を貸せるようになったのだと思います。
頑なだった自分と、素直な自分。
ふたりはずっと一緒に、同じ季節を過ごしていていたのです。
それこそが二人セゾンの持つ意味に感じてなりません。
風の感触、雨の冷たさ、陽の暖かさ、夜の深さ、花の香り、人のぬくもり。
それらに目も向けたとき、生きていることを感じます。
理由はなくてもいいのです。
生きて、そこにいることが大事。
そこにいるからこそ、その周囲のものと関わっていくことが大事なんです。
何かに触れたとき、はじめて自分がそこにいることを感じる。
何も触れなければ、自分がいることさえわからない。
それはあまりにも空しいです。
だからこそ、その尊さを歌うこの歌には力があり、聴いてしまう。
そしてこれをアイドルである、主人公と同じ思いを持ち、共感できる年代の彼女たちが
歌うからこそ説得力が生まれる。
素晴らしいです。
完璧なまでに世界観を作り上げています。
やはり歌には大きな可能性と、力があります。
言葉で言われたって理解できないことを、なにか第6感で感じることができるから。
花のない冬のさくらに、春を感じることができるのは
想像することを与えられた人間のなせる業です。
夢見ることがちょっと恥ずかしく感じる現代だからこそ、夢見てみようじゃないですか。
心の中のセゾンの声に従って。
いい歌です。
欅坂46 『二人セゾン』
今日は歌詞を考えます。
いま、熱い『未来の勲章』を考えてみようと思います。
先日のMV公開収録で選ばれたこの曲。
なぜこの曲をMV公開収録に選んだのか、と考えたりもしました。
僕の勝手な考えではありますが、それなりの意味を持った歌では
ないかと思ったのです。
歌詞はこちらから『未来の勲章』
最初の一節から難解です。
「台の上の薄い一枚に 僕は細い一本の線を引く
明日になれば何かが変わってるさ とてもとても揺れてる道だけど」
比喩表現かと思って、いろいろと考えたのですが、しっくりくる答えが出ない。
もしかすると、これってASKAのレコーディングの時の作法なのかもしれませんね。
行き詰ったときに、譜面にその日の進行度合いを線で書き留めておく。
明日になれば今日見つからなかった答えが見つかるだろうというものなのかもしれません。
仕事をしてると、行き詰る瞬間は多かれ少なかれありますよね。
その日突き詰めて出てこない答えは、いっそ日を変えて、頭を切り替えたほうが
しっくりとした答えが出るものです。
こと曲作りにおいてはフィーリングやアプローチ方法など、リセットした頭のほうが
いいアイデアが浮かびそうなものです。
次に続く歌詞を見ましょう。
「この胸に貼り付けた 未来の勲章は
どんな嘘も真実も痛みも優しさも 抱きしめている」
僕はこの歌の真意がこの2行に込められている気がしてなりません。
これって、ASKAの今の心境を表したものだと感じるんです。
事件を起こして、離れた人もいれば、変わらずそばにいる人もいる。
すべてを知った顔で批判する者もいれば、都合のいいように言葉を繋げ
捻じ曲げた出来事を真実のように伝える者もいました。
そういったすべてを真摯に受け止めていこうと、そういう決意のように感じます。
ASKAは深く頭を下げることだけが本当の謝罪ではないと言いました。
自分のやるべきこと、音楽制作を通して謝罪の姿勢を見せるとも言っています。
ブログを開設したとき、ASKAはそこをオープンな場と位置しました。
批判も書いていいよ、と。
それらにも目を通し、ちゃんと受け止めていく、と。
その姿勢はずっと貫かれています。
ブログのコメントはちゃんと目を通し、時々コメントの中の気になることや
質問などにも答えています。
今回の企画、「ASKAのFellowsを、私が作ってみた」についても
アップされた動画にちゃんと目を通していることが窺い知れます。
歌の中で誓った覚悟、決意をちゃんと守っています。
それでもね、批判の声はやみませんし、咎める者は消えません。
それだけのことをしたし、そういうものだとASKA本人も深く自覚しているはずです。
事件からの3年は世間からすればたった3年であり、もっと反省する時間が
必要だという声はいまだ強いです。
だから、向き合わないといけないと思います。
だから、向き合っているのだと思います。
そういった姿勢が、少しずつ世間に認められ、反省として受け止めてもらえた時が
本当に「反省した」といえる時なのかもしれません。
僕の勝手な想像ですが、ASKAはその時が訪れるまで、この姿勢を崩すことは
ないのだと思います。
つらいと思いますよ。
ゴールが設定されているわけではないのですから。
だけど、きっとそれをやりきるのだと思います。
いまのASKAにはともに未来を向く仲間がいます。
仲間がいるからこそ見れる未来があります。
塞ぐのではなく、ASKAにしかできない償い方をすることに意味があるのかもしれません。
『SCRAMBLE』というアルバムの『僕の来た道』でこう歌っています。
「誰かが見ているなら ハンサムな道を歩きたい
弱さや不甲斐なさは 堂々と隠してね」
当時、この歌詞を「格好をつけていく」という解釈で聴いていました。
実際そうだったのかもしれません。
でもね、今は「堂々と隠す」というのは、「さらけ出す」と同義に感じるのです。
自分が決めたものを強い意志で貫くという、意味に感じるのです。
そう考えると、この2つの曲には何か双子のように通ずるものがあるような気さえしてきます。
ただの僕の深読みかもしれません。
でも、そう考えると「未来の勲章」という言葉がしっくりくるんです。
いまASKAの胸には勲章が貼り付いています。
それはまだ誰にも見えないものです。
ASKA自身が今回の事件の償いは3年程度では済むものではないと考えているのではないでしょうか?
真摯に音楽と向き合い、更生できることを証明する。
それを世間が認めてくれた時、勲章は初めて誰の目にも見えるように輝きだします。
いつかどこかの未来で輝く勲章、だから「未来の勲章」。
それを付けているのです。
いまASKAは実に堂々としています。
その姿が時に敵を作りがちですが、それでも信念を貫いています。
まだ誰にも見えない勲章を、ちゃんと輝かせるため、決めたことなんだと思います。
「叫びのような声が 五線紙を走って
手を合わせる祈る歌う運ばれる 運命を浴びる」
これはまさしくASKAですよ。
チャゲアスファンなら、この様子がすごくリアルに浮かぶんじゃないでしょかうか?
ASKAは音楽に対して、どこまでもまじめです。
妥協しません。
いつか足枷となってしまっていた音楽は、いまは翼になりました。
『未来の勲章』
僕はこのように解釈しました。
思い違いかもしれない。
あくまで僕の勝手な見解なので。
でも、似たような想いがこの歌にはきっと込められている。
だからファンの前で歌ったのではないかと感じます。
心に残る旅を、僕もともに歩んでいきたいと思います。
「何様っ!?」と感じるようなこと言って恐れ多いですが、これが僕の想いであり、決意。
僕自身が胸に貼り付けている「未来の勲章」です。