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気ままに出かけて 写真に残る植物や風景etcを 備忘録として足跡に残しています。

神奈川県川崎市のマンホール蓋(その2)王禅寺ふるさと公園

2023-08-31 23:26:23 | マンホール蓋

今回は、王禅寺ふるさと公園に設置されているマンホール蓋を整理します。
王禅寺ふるさと公園は、麻生区に位置する面積約11ヘクタールの広々とした公園で、川崎市制60周年記念事業として現況の地形、周りの林などを大切に守りながら、誰もが安心して遊べる水とみどりの公園として整備された、市内で4番目の総合公園となるようです。

以降のマンホール蓋の注釈は、以下の川崎市HPにまとめられている内容を書き写しています。
https://www.city.kawasaki.jp/asao/cmsfiles/contents/0000123/123722/manhole.pdf

こちらの公園には、麻生区の自然と歴史にちなんだモザイク絵がはめ込まれた「王禅寺ふるさと公園」にしかないマンホール蓋が30種類設置されています。絵にはグー、チョキ、パーのどれかと数字がついていますので、あなたのアイデアで楽しい遊び方を考えてくださいとの事です。ただ、はっきり読み取れる写真は少ないです。

1.ノスリ
 ワシやタカと同じ種に属する小型の猛禽類です。つばさの長さは35センチくらいで、ネズミやヘビ、カエJIなどを捕食します。早野や 
 黒川の山地の上空を、円を描いて飛んでいるのをたまに見かけます。安全な巣を作れる揚所とエサになる小動物 のいる山地が少なくなっ  てしまいました。ノスリやサシパのようなタカ科の猛禽類が住んでいるということは、自然が豊かであるという大事なめやすです。
 

2.イタチ
 麻生区は、「緑豊かな」と表現されてきましたが、通路や宅地の開発におされ、 野生動物も住宅難の時代になってしまいま した。
 造成工事があって山地がけずられると、その地つづきの近辺にタヌキやムジナ(アナグマのこと)が出てきて、夜道を横切 ったのを見  
 たとか、庭にえさを置いておくと食べていったとい った話をききます。
 白山の団地の商店街裏の池は「ムジナが池Jといいますが、むかしこのあたりにムジナが住んでいたので、そう呼ばれるようになったの   
 です。 ムジナもタヌキも、 そしてキツネもイタチ も、このあたりのどこにでもいた動物でした。
 この公園でも、工事が始まる前には1メー トル四方もあるタ ヌキのフン(タメクソ)を見つけたことがあります。
 

3.古代牧場
 昭和47年(1972)のこと、 早野の聖地公園区域内の一画にある横穴古墳の中に、 馬や、 牧場の主かと思われる人の顔を刻んだ線
 刻画が見つかりました。7~8世紀(奈良時代初期)のものだろうといわれています。 当時、このあたりには献上馬の 牧場があったと
 いわれ、 横浜市緑区の石川町の地名は古代牧場、石川牧からおこったといいます。
 また、万葉集には、「赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山歩ゆか遺らむ」(4417)という歌もあり、良馬の産地であっ たのです。 
 

4.ヤマユリ
 百人もの人が力を合わせて切り聞いた丘の意味の百合丘には、また野生のユリがたくさん咲いていたといいます。 白い大きな花があちらはもこちらにも咲いていて、においにむせかえるほどだったと、開発の前の様子を知っている人が話してくれ ました。ユリは神奈川の県花になっています。
 

5.ホタル
 幼虫は、田や小川のカワニナをエサにして約1年で成虫にな ります。 6 、7月ごろ、夕方7時すぎに、黒川や早野、目吉の あたりで見 
 られるのは、大体へイケポタルです。このへイケボタルより 一まわり大きく、6月初めに出てくるゲンジボタルも、わすがながら、ま
 だ生息しています。
  今は、見られる場所も数も少なくなりました。きれいな水の流れるところが少なくなったからです。 この公園でもホタルが見られるよ
 うになるといいですね。
 

6.キキョウ
 秋の七草の仲間、キキョウ、ナデシコは夏の終わりから秋にか けて、山地や川辺の草地ならどこででも見られたものでした。花屋さんに
 ある花のように、はでな目立つ花ではありませさんが、ナデシコもキキョウもか細いながら、力強い姿をしてい ます。
 黒川の谷戸田のきわに咲いていた力ワラナデシコを見つけた ことがあります。このうす桃色の花は、きっと田で働く人の目をやすめたこ
 とでしょう。
    

7.タヌキ
 2.イタチを参照
 

8.カワラナデシコ
  6.キキョウを参照
 

9.万福寺ニンジン
 今の麻生区役所、麻生郵便局から百合丘にかけての地名を万福寺といいます。 今は, どんな寺であったか、 どこにあったか全くわかり
 ませんが、昔、そのあたりに、万福寺という寺があ った名残りです。
 この万福寺辺りの特産品は、 ニンジンでした。本当は、「万福寺鮮紅長大人参」というその名の通り、色のあざやかな、とても細長い人
 参で、昭和29~33年(1954~58)には、連続、日本一の人参として農林大臣賞をとりました。
 が, だんだん西洋人参におされて、今は、満ノロの山岸正明 さん一人が、わすかに栽培を続けていらっしゃるだけです。今の百合小の
 あたりが、日本一の人参畑でしたは、川崎には農策経営に研究熱心な人たちが多いのです。
 

10.禅寺丸柿
 禅寺丸柿は. ピンポン玉より少し大きくて色もあざやかな甘味の濃い柿です。柿生のあたりの農家の庭には、必ずといってもいいくらい
 植えられていて、小田急線治いの秋をいろどっています。 ごの柿が、柿生の名産になったことについては、こん な話が伝えられていま
 す。
 柿の名前のもとになった王禅寺は、延喜17年(917)に建てられた古い寺で、室町時代には、関東の高野山といわれたほど栄えまし
 たが、元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉を攻めた時に、焼かれてしまいました。 その後、建徳元年(1370)、等海上人が朝廷の
 命令で再建しました。上人は寺を建てる材料を探して山中を歩きました。 その時、赤くかがやく小粒の甘い柿を見つけたので、枝を折っ
 て持ち帰り、接ぎ木をしたのがはじまりといわれます。等海上人は村人に、この柿を増やして、村の 特産品とするようにすすめました。
 その後、江戸時代になってから、領地の見まわりに来た家康が、王禅寺丸と名づけるようにと言ったそうです。いつか王の 字がなくなっ
 て、禅寺丸柿と呼ばれるようになりましたが、この柿を江戸へ持っていくと、他の柿の3倍から4倍の値で売れ たといいます。小田急線
 が開通するまで、禅寺丸柿は、朝早く 読売ランドの辺りから多摩川を渡って、東京へ出荷されていま した。今の地名の「柿生」も、も
 ともと柿のたくさんなるとこ ろの意味でつけられたものです。

 王禅等の境内には、禅寺丸の原木といわれる木があり、そのそばには、 詩人、北原白秋の詠んだ、
  柿生ふる柿生の里
  名のみかは禅寺丸柿
  山柿の赤きを男れば
  まつぶさに秋は聞けたり
 の歌碑が建っています。
 

11.オオムラサキ
 麹Iは、濃紫にほんの少しの黄、黒、うす青で彩色されていま す。ひろげると10センチほどにもなります。優美に舞う姿は、国蝶の名 
 に恥じません。 オオムラサキの幼虫は、エノキの葉を食べて育ちます。成虫はクヌギやコナラなどの樹液が食料で す。オオムラサキは
 環境の変化に敏感なチョウで、生息には広い雑木林を必要とします。
 昔はエノキは目じるしの樹として衛道沿いに多くありましたが、今はエノキや雑木林が少なくなったこと、美しく大きいためにチョウの
 収集家にとられたことで、麻生区内では早野や黒 川でほんのわずか生息しているだけになりました。
 この公園にもエノキが数本ありますが、オオムラサキの見られる公園になってIましいですね。
 

12.メダカ
 緑の葉がそよぐ田んぼが、そこここに連なっていたころは、田に水を引く用水や小川には、メダカが群れて泳いでいまし た。ドジョウも
 いました。 ザルですくえぱシジミがとれまし た。力ラスガイもありました。人がふえ、田んぼがなくなり、川が汚れるにつれ、この近
 くでは男ることができなくなりまし た。
 

13.黒川ナシ
 大師河原村(今の川崎区)では、江戸時代の天保のころ(1830年代)から、ナシの栽培が盛んでした。その河原村に当麻辰次郎とい
 う人がいて、明治26年に甘くて収穫の多いナ シの品種改良に成功しました。 辰次郎の屋号が長十郎なので、このナシは「長十郎ナ
 シ」と命名されました。 その後ナシの栽培は、栽培に適した砂地の多摩川治いを上流に移ってきまし た。
 黒川の地質も稲城砂層なので、ナシの栽培に適しており、お いしいナシができます。それで特別に黒川ナシの名称で呼ばれています。  また.大師河原辺では普からモモやイチジクの栽培も盛んでした。黒川でも、モモやリンゴを作って町の活性化に努力している人たちが
 大勢います。
 

14.キジ(ヤマドリ)
 この公園の工事が始まったばかりのころ、日あたりのよいしげみのそばに、ひとつがいのキジをよく見かけました。オスは 緑、青、赤な
 どが複雑にまじり合った美しい羽でおおわれてい ます。首と長い尾を優雅にのばして、静かに歩きます。メスは地昧なうすい茶色で、少
 し小柄です。
 似たような色合いで、ーまわり大きいのがヤマドリです。 キ ジもヤマドリも、早野から寺家にかけての山中で、時々見るこ とができま
 す。首は、このあたりにたくさんいたことでしょ う。キジが住めるような公園になってほしいですね。
 

15.ノウサギ
 ウサギはおくびょうな動物ですから、人の気配のある所へは 出てきません。が、草むらやしげみのそばなどを注意深く見る と、あうす
 茶色のころころした甘納豆のようなフンがあるので、ああ、ノウサギがいるな、とわかります。この公園の近くにも まだいるようです。
 

16.岡上のカボチャ
 川崎の飛び地、岡上の自慢の産物lは、カボチャでした。今、八百屋で売られている西洋カボチャとは還って、皮にしわが多 く、表面に
 深いみぞが何本も走った、濃いみどり色のカボチャでした。溝ノ口や、原町田の朝市に出荷されていました。
 

17.弘法の松
 弘法大師が、諸国行脚をした時、なだらかな山谷つづきのこの地が気に入り、仏教布教の殿堂を建てようとしました。しか し、百には谷
 が一つ足りなかったので残念に思って、代りにその丘の上に黒松を植えたのが、弘法松の由来だという伝説があ ります。 ここは江戸時
 代には、津久井街道という大事な交通路の柿生、長沢方面への別れ道でした。尾根づたいの困難な遣で、近く(南百合小近くの送電塔の
 たっているあたり)には、旅人 の休む茶店があったといいます。
 弘法の松は. 高さ30メ ー トル、幹のまわりは8メー トルあ ったといいますから、よい目印だったでしょう。昭和31年
  (1956) 12月、いたずら者の焚火の不始末で燃え、枯れてし まいました。今は2代目の松が育っています。 この松のある弘法松公
 園は、富士山、丹沢の山々の眺めのよい公園です。
 

18.縄文土器
 多摩川、鶴見川にはさまれた麻生区一帯と、その周辺の稲城、横浜市緑区のあたりには、大昔から人々が主活していまし た。黒川では、
 営農団地造成工事予定地から、2万年苗の石刃と掻器が出士しています。 これらは皮を細工する時使ったもの です。
 また、縄文時代の住居跡や、獣をとるための落し穴の跡も. 岡上や山口台でたくさん発見されています。川に近いなだらかな丘陵地は、
 獲物になるイノシシやシカなど動物も多く、気候もおだやかで住みよかったのでしょう。
 今、私たちの家が建っている所でも、2500年もの昔には、石刃や石鏃を持った人たちが獲物をうちとめて歓声をあげた り、野草をつ
 んでいたと考えると、楽しい気持ちになります。
 

19.関東ゾウ
 昭和 2 年( 1927)3 月、万福寺507に住む才沢さんは、物置を作ろうと、裏山の崖をけずっていました。3~4メートル掘った
 時、30~40センチもある大きな化石が出てきたのです。 専門家の鑑定で、それはゾウのあごと歯の化右であることがわかりました。
 今から200万年前(鮮新世末から洪積世初期}に、このあたりの温暖な森林地帯に生息していたステゴドン象の一種で、体長2 ~ 3
 メートルの「あけぼの象Jと呼ばれる種類でした。 今、この化石の標本は、生田緑地内の川崎市立青少年科学館で見ることができます。
 

20.カブトムシ
 1970年代までは、カフトムシもクワガタも、このあたりの 雑木林の主役でした。 夏になると、男の子たちは、これと思う樹に、前
 夜砂糖水や、ハチミツを塗っておき、翌朝早くつかまえにいきます。そして友だちと大をさを競い合ったりしたものでした。 雑木林がな
 くなると、卵をうむ所も、食料の樹夜も無くなり、今では人工で育てて、デパー トや八百屋の店先で売られるという、おかしなことにな
   ってしまいました。
 

21.岡上のクジラ
 昭和44年(1969)の夏のこと、市立柿生中学2年生だった田部井祐介君は、岡上のがけ地で、クジラの肋骨の化石を発見しました。今
 から2000万年前には、多摩多摩丘陵は海底にあった のです。クジラの肋骨は、海がこの近くまで来ていたという証拠です。
 

22.タマノカンアオイ
 ウマノスズクサ科のカンアオイの亜種で、生田緑地の近くで発見されました。伝播の速度が遅いので、分布地域の限られた貴重な植物で
 す。 このような植物には、開発は致命的な痛手です。
 

23.常安寺のカッパ
 むかし、谷本川(鶴見川の支流)に平六というカッパが住んでいたそうな。 ある晩、利平じいが、畑のキウリを盗んでいる子どもをつか
 まえてみると、なんと力ツパの平六だったそうな。
 平六は逃げようとして、頭のサラの水をこぼしてしまい、利兵じいに左手をとられてしまったと。 利兵じいは家に帰ると、カッパの左手
 をいろりの自在かぎにさげておいたそうな。すると平六があやまりに来て、「以後、キウリは盗まぬと誓い申し上げ候。 河童平六、これ
 を書す。」と証文を書いて、手にすみ をつけて、手形をおしたんだそうな。
 平六は、それからは畑を荒らさなくなったけれど、平六をか わいそうに思った利兵じいは、平六のために時々川にキウリを 流してやっ
 たということだ。その証文は、常安寺が天文11年(1542)、 火事で焼けるまで、寺にあったιいうことです。
 

24.鶴見川のツル
 鶴見川の名の由来は、ツルがたくさん来る川だったことにあ そうです。青く晴れた空のかなたに白い富士山が浮び、ツル の群れが舞い
 降りている昔の鶴見JIIを想像してみて下さい。 川にはツルの好物の魚や虫がたくさんいたでしょう。
 江戸時代には、このあたり一帯は徳川将軍家のお狩場でした。明治になって狩猟が大衆化した時、目立つ鳥のツルは争っ て捕りつくされ
 てしまったのです。
 

25.イシガメ
 イシガメやクサガメは、沼や池、川に住んでいる日本の代表的なカメです。川がコンクリートで護岸され、沼地が埋められたり干上がっ
 たりしてしまった今では、ほとんどいなくなりましたが、ひと昔前までは、子供たちに人気のあったペットでし た。時折、早野の上池な
 どで甲羅干ししているのを見かけるこ とがあります。 
 

26.アカマツとハルゼミ
 ハルゼミは、4月すぎに地中から出てきて、松林の中で「いい季節だよ、力ルルル、ー番のりだよ、ミーンミーン」と鳴きます。マツ
 は、15年戦争の終りごろ、松根油をとるためにたくさ ん切り倒されました。残った木もマックイムシなどの害虫にやられて、急速に滅
 りました。松林がなくなったので、今はも う、ハルゼミを見ることができません。
 

27.王禅寺の草競馬
 この公園の南側にそって、一本の道が通っています。昔は、王禅寺の境内だったところですが、小山の背になっていて、北側斜面(今の
 公園)には田んぼが、南側には畑がありました。 この道で、大正時代、農作業のひまな時期に、草競馬が行われていたといいます。
 馬は、農作業になくてはならない動力でしたが、草競馬は、農閑期(1~3月ごろ)に人も馬も一緒に楽しんだ螺楽でし た。 今も、こ
 の馬場道の地面にたってみると、馬が土をけってかける音や、馬に声援を送る村人のかん声が聞こえてくるかも しれません。
 

28.カワトンボ
 カワトンボは、きれいな流れがある所では、どこでも見かけることができます。長さ4センチほどの、金緑色の細い胴体のトンボです。
 黒川の三沢川、栗木の片平川か流れ出すところでは、たくさん見かけたものでした。
 

29.サワガニ
 甲羅の大きさが1.5センチぐらいで、緑茶色や掲色のこの小さなカニは、水のきれいな小川や、わき水の岸辺に住んでい ます。サワガ
 ニの名のとおり、山の沢にたくさんいます。麻生区内には、鶴見川や多摩川につながる川の源流がいくつもありましたから、サワガニも
 いました。今はその源流が殆どなく なり、サワガニの姿もまれになりました。
 

30.亀井六郎と僧兵
 亀井六郎は義経四大王の一人といわれた鎌倉時代の武士で、月読神社近くの亀井原にその館の跡があります。今は警察団地になっていま
 す。弓の名人で、亀井館から能ケ谷の真光寺川の橋をねらって射た矢が見事命中したので、その橋は矢崎橋と呼ばれるようになったと伝
 えられています。栗木や町田広袴にも亀井の地名があり、六郎の領地の広さを示しています。亀井六郎は義経に従って、奥州高館で討死
 をとげたといわれています。
 

以上で、その2.王禅寺ふるさと公園の整理は終了です。
その3.では上水道関係他の蓋を整理します。

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