楢篠賢司の『人間とは』

人間とは何かを研究しています。現在は経済学を自分のものにしたいと目下勉強中です。

マルクスが捉えた社会

2010-05-26 07:22:40 | Weblog
 昨日はブログを休みました。それはマルクスが何をどのように考えていたのかを知りたいため、インターネットで調べていたわけです。
 
マルクスに入る前に私が依然書いたA~Eの関係を再度ここに載せてみます。

>Aが自己の労働を1枚の貨幣(カネ)に換え、Bが作り出した商品と交換します。そこにはAが持っていたカネがBに渡ります。BはそのカネでCの持っている商品と交換します(つまりCの商品を買うという行為です)Aの所有していたカネがBを通してCに渡ったわけです。CはDの持っている商品を買います。DはEの持っている商品を買います。そしてEはAが持っている商品を買います。 

 つまりここでは簡単な例ですが最初にAが持っていた1枚のカネがB、C、D、Eを通してAに戻ってきて一巡したわけです。そしてお互いに作り出した商品が売れたということになります。さらにまたAがBの商品を買い、その関係がEまで続きAの元へ戻ってきたとします。そこにはAからEまで2回商品を製造しなくてはなりません。たった1枚の貨幣が2回の商品製造をさせたことになります。この関係がさらにAからEを通してAまで戻ってきたとき1枚の金が3回の商品を各自に作り出させたわけです。

 このことが貨幣と労働との関係だと捉えています。ただし、そこには現実の経済社会では簡単なA・Eの関係ではなく複雑な貨幣と労働との関係が行われているということです。つまり1000万の購買があれば1000万通りの貨幣と労働との交換があるということです。働くことのない子供は物を買うために親から小遣いを貰うとか、老人では現在の社会では年金というかたちで貨幣を手に入れ貨幣と他者の労働で作られた商品を手に入れます。
 
 ここで言いたいのは貨幣と物との交換がランダムかつ複雑に行われているため突き詰めて考えてきた人がいなかったということです。
 
 そこでマルクスに戻してみます。以下はウィキペディアより抜粋し引用したものです。すでにマルクスを理解している方はとばしてください。

『マルクス経済学は労働価値説に立脚する』
資本が労働力を用いて商品を生産する過程(生産過程)での労働量は、労働者の生活に必要とする労働(必要労働)とそれを超える剰余労働(不払労働)から構成され、この剰余労働によって生み出された価値が剰余価値である『資本論』第1部参照)利潤は剰余価値のあらわれであり、利子、地代は剰余価値が形を変えたものである『資本論第3部参照)。

ウィキペディア『剰余価値』参照

第1部は資本の生産過程の研究である。 巨大な資本主義社会の諸現象の内、最も単純な概念である商品の分析から出発する。商品経済は必然的に貨幣を生み…
一方で資本が蓄積され、他方で貧困が蓄積されていく資本主義の資本蓄積法則が叙述される。資本蓄積の発展に伴い、生産は次第に集中し独占へと導かれ、社会化していくが、依然富の取得は私的なままであり、生産の動機は「剰余価値の追求」すなわち「もうけ」を目的におこなわれる。この矛盾が資本主義の「弔鐘」となる、とマルクスは第1部を結ぶ。

その他のマルクス経済学の特徴 [編集]
資本の蓄積本能を生産過程と資本の循環から記述し、資本家もまた資本の運動法則を人格化したロボットにすぎないとしたこと。
産業資本(商業資本)と金融資本(利子生み資本)の乖離が金融恐慌の原因となるとした。
失業は産業予備軍(= 労働者が搾取されるべき商品であるための必要悪、相対的過剰人口)として資本が準備しているという性格づけが行われたこと。

共産党宣言
エンゲルスは本書の全体像について、1883年のドイツ語版序文のなかで「『宣言』を貫く根本思想」として以下の諸点を挙げた。
経済が社会の土台であること
歴史は階級闘争の歴史であること
プロレタリア革命は一階級の解放でなく人類全体の解放であること
第1章は、「これまでの社会のすべての歴史は階級闘争の歴史である」という有名な章句で始まり、ブルジョアジーの時代(まだこのときはマルクスもエンゲルスも「資本主義的生産様式」という言葉を使っていない)は生産と社会をどう変えてしまったかを述べ、現代は生産力と生産関係の矛盾が激化した社会革命の時代であるとして、プロレタリアートという勢力がその革命を担う、という内容を述べている。
末文は「プロレタリアはこの革命において鉄鎖のほかに失う何ものをも持たない。彼らが獲得するものは世界である。万国の労働者、団結せよ」という有名な章句で閉じられる。

以上は『ウィキペディア』よりの引用です。
 
 私のようなものがこのように書くとおこがましいと感じる人がいると思いますが、マルクスを含め今までの経済学者は人間社会で行われている経済活動を表面だけ見てきて矛盾点を捉えてきたのではないでしょうか。それは資本家と労働者であり。貧者と富者であるというように。そして私有財産、私有欲というように。しかしもっと根本にあるのは貨幣の偏った所持方法だということです。それは何度もいうようですが物々交換の延長線である貨幣を通した物との交換の最初の時点での理論がないままに現代社会まで来てしまったということです。

 次回はケインズが捉えた社会を書いてみます。