楢篠賢司の『人間とは』

人間とは何かを研究しています。現在は経済学を自分のものにしたいと目下勉強中です。

時間と空間 Ⅱ 1からの続き

2013-07-25 17:53:14 | Weblog
そこに、やはりいい言葉があった「ていかん「諦観」という言葉である、永遠という時間の中であまりにも短い《生》それは生きるに値する価値も無い人生、もし明日をも生きようとするならば、そこには「諦観」つまり人生を諦めの中で生きて行くという捨て鉢な感覚でしかない。ただその中で真理を知ったという気持ちだけは残っていた。全てに価値を失った中では真理を知ったとしても何の慰めにもならなかったが、旺盛な知識欲だけが誰も入り込めなかった世界を知ろうと、読書だけが唯一の慰めとなった。
 
 大分横道にそれてしまったが、本来の目的である「時間と空間」に話を戻そう。それはあくまでも私なりの時間と空間のとらえ方であり。結論から先に言えば時間は永遠であり、空間は無限ということになる。
その前に有限という意味を考えて見たい。
有限とは何か、ただ単に限りがあると言うだけでは無限に対比させる説明にはならない。限りがあるもの、単刀直入に言えばそれは数えられるという一語に尽きる。例えば片手で掴(つか)めるだけの小石を掴んだとする、そしてそれを数えたとき、ある数で数え終わる、つまり掴める小石に限りがあったという事。有限だと言うことである。例えそれをバケツ一杯の砂をコップで量ったとしても何十何杯かで数え終わる。より小さなコップだとしても何百何十何杯かで数え終わる。そこで二桁目以上の数を無視し最後の一桁目の数を重視したとき、数え終わった数量は1から0と言う数の1つになる。つまり12345678910と言う数字の一つで止まる。1になるか、3になるか、7になるか、又は数十としての0になるかは計り終わった時、解ることであるが、1から0という数字の中のある数で計り終わることは確かだ。今度は砂を一粒一粒数えたとする、やはり数多くの数字が並ぶが2桁目以上の数を無視し最後の1桁目だけの数を見たとき、やはり一から0という数字のどこかに当てはまる。このように考えると仮に地球全体の水、つまり海の水、河川の水、そして雲が持つ水分、動植物が持つ水分、地球が持つ全ての水分を水としてコップで量ったとしても最後の一桁目に来る数字は1から0迄の数字の中の一つに当てはまる。つまり限りがあり有限だという事である。そして宇宙全体の物質をコブシ状の塊(かたまり)として数えたとしても、時間と空間の中で絶えず物質が生成されない限り、二桁目以上の数字がどのように並んだとしても最後に来る一桁目の数字は必ず1から数十としての0という数字の中のある数字で止まる。つまり物質は宇宙(空間)の中で現在も生成されていない限り有限であるという事だ。
 
 では、時間に関しては、どうであろうか、時間が有限だとしたならば時間の最後に来る数字の一桁目が1から0という数字の一つで止まらなくてはならない、しかし時間は流れて行きその数を飛び越えてしまう。二桁目以上の数字がたとえ地球の表面を覆い尽くす程並んだとしても然りである。そう、時間には最後の一桁目で止まる数字が無い、ゆえに空間と共に唯一永遠性を持ったものといえる。時間の流れは何時から始まったということもなく、最後があるということもない、永遠に流れて行くものとしか考えられない。
 では空間はなぜ無限なのだろうか。

 それを書く前に存在とは何かという事を考えてみたい。また結論から先に言えば時間、空間は存在でもなければ、非存在でもなく存在以前のものと言える。なぜならば、ある物が存在すると言う時、必ずその物が存在しない状態を考えることが出来るからだ。つまり私の前に何も無いということだ。存在すると言う言葉を使う時には、逆に存在しないという状態が考えられる時にしか使えないようである。幽霊が存在する、幽霊は存在しない、そこに微生物が存在する、そこには微生物は存在しない、私の死後、私は魂となって存在する。私の死、私の脳が破壊されたことによって脳の停止と共にもはや私は存在しない。存在とは、存在しない状態を理解できる時にしか使えない言葉である。では時間、空間はどうであろうか、時間空間に関して言えば唯一存在するという言葉が使えないようである。それは時間が存在しない、空間が存在しないと言うことを考えることは不可能だからだ。空間が存在しないと言うときには、その空間を埋めている物、つまり物質をそこに置き換えなければならない、物質が無いというとき、そこは空間であり、空間が無いという時、そこに物質があるという式しか成り立たないからである。時間に関して言えば、空想的には時間の停止は考えられるが、理論としては時間が停止した状態を考えることは不可能だといえる。今、私が時間は停止したと言ったとしよう、しかしその言葉の一語一語に時間の流れがあるのであり、現在、つまり今を中心として言葉の一語一語に現在がありそして過去として消えて行く。それが時間の流れなのである。そして無限の空間、果てし無き空間の全域に我々が感じる同一の時間が同一のものとして流れているのであり。宇宙空間の小さな領域の中での時間を問題にし、そのことにより無限の空間の時間を語ることは、それこそ無意味に等しい事なのである。むしろ時間という意味を理解していないと言っても過言ではない。ある物理的な見方として時間が停止し逆戻りするという考え方もある。しかし無限の空間に無限という領域で広がる時間に、ほんの小さな領域の時間が切り離され、停止もしくは逆戻りするとでもいうのであろうか、または全体的な時間を停止させたり逆戻りさせたりということがあり得るとでも言うのだろうか、神の力を持ってしてもそれは不可能かと思える、また神が行う事としてはあまり意味のないことのように考えられる。空間の無限という問題に戻してみよう。空間がなぜ無限なのか、その前に空間が有限だと考えたとしよう、そのとき宇宙の果て、いやそれ以上先の、空間を取り囲むような物質を考えなくてはならない、ゴム毬(ごむまり)で例えるならばゴムの部分、空間を丸く囲っている物質としてのゴムの部分にあたる物をこの広大な空間に当てはめなくてはならない、仮に広大な空間に、それを取り囲むような物質を想定したとしてもその向こう側が何なのかと言ったとき空間か物質の継続を考えなくてはならない。つまりそんな物質があるわけもないし考えることもでき得ない、その事ゆえ古来より空間は無限だと言ってきたものと考えられる。
 
 そして我々が住む地球、宇宙、そこから広がる広大な領域、それらは時間、空間、そ
して物質の三つの要素で成り立っている。時間、空間は存在でもなければ非存在でもない存在以前のものと前に書いたが、物質が在るということは物質の存在が最初から在ったという事になる。この広大な空間に物質の元となるものが時間、空間と共にありビックバンが始まる以前の、収縮が起きた時点から宇宙の創造が始まったものと考えられる。そしてそれは我々が住む地球を取り囲む宇宙空間以外の無限空間の中にあっては、どこで起きたとしても何ら不思議は無いのである。つまり無限空間の中においては我々の存在している宇宙と同じ物が複数個あったとしても不思議は無いのであり、そしてそれが自然だと言える。また、無限とは何なのかという事に戻してみよう、今、地球上にいる私から空間に向けて空間の果て迄の距離を測ったとしよう、そしてその単位を光年としたとしても無限ということは二桁目以上の数字が無限大に並べられたとしても一桁目の数字が1から0という数字の中のある数で止まらないという事である。空間を取り囲む物質が無い限り…。



 この文章は数年前ホーキング博士が来日した当時書いた文章を今改めて加筆したものです。本来、私が書きたい文章は「人間とは何か」ということです、20代の時から問い続けていますが、まだ実現させていません。「人間とは何か」それは釈迦、キリスト、マホメット、等の宗教的聖人とそれ以前の宗教者、思想家としてのマルクス等が理解し「人間はいかに生きるべきか」という形で我々の前に提示し、それが現代と言う時代に混乱を引き起こしているものと考えられます。本来「人間は如何に生きるべきか」ということは各個人が決めるべきことであり(真理は一つしかない)哲学者、宗教者はまず「人間とは何か」という事を人々の前に提示し、生き方を押し付けるべきではないものと私なりに思っております。

 私が書きたいもの、それは「人間とは何か」という部分だけであり、如何に生きるかということは書くつもりはありません…。

参考文献 
 ❋ホーキング宇宙を語る‥ビックバンからブラックホールまで
  ステイーブン・W・ホーキング、林 一 訳  早川書房               
 ❋宇宙の果て・激突する宇宙論
  チモシイ・フエリス  斎山 博 訳 地人書館
 ❋ 宇宙の運命・新しい宇宙論
  リチャード・モリス  湯浅 学 訳  BLUE BACKS
他       
文章中❋印 現在では130億光年~180億光年といわれていますが、150億光年としておきます。        


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