南斗屋のブログ

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渡辺暢判事〜明治・大正期の千葉ゆかりの裁判官

2025年01月15日 | 歴史を振り返る
渡辺暢判事〜明治・大正期の千葉ゆかりの裁判官

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(千葉地方裁判所所長を務めた渡辺暢判事)
渡辺暢は千葉地方裁判所にて所長を務めていた判事です。
松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)には、明治27年9月5日時点の千葉地方裁判所判事リストが掲載されています。
従六位 所長判事 渡辺 暢
正七位 部長判事 横田秀雄
正七位勲六等判事 宮地美成
正七位判事 坂口直
從七位判事太田拡
従七位判事 大熊米太郎
正八位判事 平野正富
正八位判事 上松操
渡辺暢は所長判事 として、千葉地裁のトップを務めていました。当時の千葉地方裁判所は新築されたばかりで、威容を誇っていたようです。
「地方裁判所は千葉町吾妻町三丁目にあり、区裁判所は同じ敷地内にあって、庁舎は互いに連絡している。昨年新築されたもので、法廷や会議室、事務室ともに立派で、関東でも一番と評されている。」(同書)。
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(初期の千葉の感化院への関与)
渡辺暢判事は、千葉での感化院(現在の児童自立支援施設)の活動に関与しています。

千葉感化院は明治19年11月28日に開所しましたが、明治24年に資金面の都合などから組織改変を行うこととなりました。運営母体は「感化院慈善会」の新会則の改正起草委員三名の一人に、渡辺暢判事が着いています(過去記事「千葉感化院」)。
因みに、他の二人は両名とも千葉の弁護士会に所属していた弁護士です(岩崎直諒、宇佐美佑申)。
「感化院慈善会」の前身である「千葉感化慈善会」の本会長には当時の千葉県知事(船越衛)が着いていますから、渡辺暢判事が感化院の活動に関与していたのも、千葉地方裁判所所長としてのものであったと思われます。
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(渡辺暢判事の経歴)
渡辺暢判事の経歴は以下のとおりです(大正4年時点の『人事興信録』データベース)。
《千葉県士族渡辺佐兵衛の長男。
安政5年(1858年)4月8日生。
明治9年(1876年)に法学徒となり、明治17年(1884年)に司法省法学校を卒業し、法律学士の称号を得て判事補となる。
翌明治18年(1885年)判事となり、従七位に叙せられる。千葉重罪裁判所勤務、同地方裁判所部長、東京控訴院判事、千葉、仙台、横浜、東京各地方裁判所長などの役職を歴任。明治41年(1908年)2月には韓国政府に招かれて大審院長となり、明治42年(1909年)11月には統監府判事に任命され、明治43年(1910年)朝鮮総督府判事。大正4(1915)年1月時点では朝鮮高等法院長を務めていた。》

『人事興信録』データベースは大正4年時点ですので、渡辺暢が朝鮮高等法院長であったことまでの記載となっていますが、ウィキペディアには、判事定年後の経歴として、「1924年(大正13年)1月2日、貴族院勅選議員に選任され、死去するまで在任した。」とあります。

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(東山千栄子の回想)
この渡辺暢判事、女優東山千栄子の父親です。東山千栄子は、『女優の運命 日経ビジネス人文庫 私の履歴書 映画・演劇1』において当時のことを回想しております。当時の裁判官の生活等が分かる貴重なものといえます。
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(東山千栄子による渡辺暢の千葉地裁所長時代)
東山千栄子は千葉で生まれ育った時のことを次のように回想しています(前掲書)。
「千葉で生まれた私は、父の転勤にしたがって、仙台、横浜と移り住みました。
千葉市で住んでいましたのは、もとは庄屋の屋敷だったという、土蔵がいくつかあ るような大きな構えで、その裏手はすぐ海岸になっていました。
土地がら、私たち兄弟の遊び仲間は、近所の漁師や農家の子供たちばかりで、私もいっしょになって、まっくろになって遊びまわりました。あのあたりの海は遠浅でしたので、貝をとって遊んだり、海にはいって泳いだり、小舟に乗ったりして遊びまし た。また、すぐ上が兄でしたから、男の子たちといっしょに竹馬に乗ったり、とんぼ釣りをしたり・・・・・・女の子のくせに、私はずいぶんおてんばでした。母にかくれて、兄たちといっしょに、駄菓子屋へ通ったことも覚えております。」

東山千栄子は1890年(明治23年)生まれです。回想では「千葉市で住んでいました」とありますが、正確にはまだ千葉「町」です(千葉市の市制施行は1921年(大正10年))。
渡辺判事一家が住んでいたのは、元庄屋の屋敷で、土蔵がいくつかあるような大きな構えをしており、その裏手はすぐ海岸になっていたところとのことです。渡辺暢は当時千葉地裁所長の職にあったことから、所長官舎だったのでしょう。具体的な場所はわかりませんが、海が近いということから、裁判所からは少し離れたところであると思われます。


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(東山千栄子による渡辺暢の仙台地裁所長時代)
渡辺暢判事は千葉地方裁判所所長から仙台地方裁判所所長に転任となります。

「学齢がきて、師範の付属小学校に入学しましたが、そこは一学期だけで父の転任のため仙台市に移りました。」(東山千栄子前掲書)
「師範の付属小学校」というのは、千葉師範学校の付属小学校のことで、現在の千葉大学教育学部附属小学校です(同校の歴史が同校ホームページに述べられています)。
明治20年代には学校は4月入学になっていたので、夏には渡辺判事は仙台地方裁判所所長に転任となったようです。

東山千栄子は仙台の冬についての思い出を語っています。渡辺暢判事もこの仙台の寒さを体験したのでしょう。
「仙台の冬は、私にとってはじめての冬らしい冬だったので、寒い記憶が残っています。雪は降り積もり、道は凍ってつるつるすべるので、通学するのにも、よほど注意して歩かないと、すてんと転んでしまうのです。そのかわりに、割った竹をげたの台 につけた代用スケートを、子供たちははきました。私も、たちまちそれで学校へ往復 し、すべったりして遊べるようになりました。
寒いものですから、学校へ持ってゆくお弁当も、お弁当箱に詰めたのではいざ食べるときには凍りついて、ふたがあかなくなったりするのです。ですから子供たちは、芯に焼いた塩ざけをいれたお握りのまわりを焼いてもらい、それを渋紙につつんで、 ふところにいれたり、背中にしょったりして雪のなかを喜んで通学したものでした。 大きな、ひとつのお握りのほかほかしたあたたかさがなつかしく思い出されます。」(東山千栄子前掲書)
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(東山千栄子による渡辺暢の横浜地裁所長時代)

渡辺暢判事の仙台地方裁判所所長在任は1年にも満たない期間であったようです。
「しかし、春を迎えるころには、また父の任地が横浜市に変わりました。私は戸部小学校に転校し、掃部山に近い伊勢町の官舎で暮らすことになりました。」
「高台になっているこの一画には、知事さんをはじめとして県庁の人たち、裁判所や警察の人たちのための官舎が二筋の通りに秩序よく整然と並んでおりました。観艦式の夜、この官舎からながめた満艦飾の港の美しい灯を忘れられません。」(東山千栄子前掲書)

横浜地裁所長に転任した渡辺暢判事一家は、「伊勢町の官舎」で暮らすことになりました。「伊勢町」は現在の横浜市西区伊勢町で、京急線戸部駅の南側の高台に広がる街です。掃部山は、「昔、明治初期の鉄道敷設に携わった鉄道技師の官舎が建てられていた他、地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから鉄道山と呼ばれていました。」とのことであり、「その後、横浜開港に貢献した井伊直弼の記念碑を建てる際に、井伊家の所有に」なったとあるので(横浜市ホームページ)、鉄道技師の官舎の後、井伊家が買い取るまでに裁判所の官舎などがあったものと思われます。

横浜は現代よりも異国情緒たっぷりの土地柄でした。
「横浜は、貿易港として直接外国につながっているため、そのころからずいぶんハイカラな街でした。まだ東京にはなかったアイスクリームもありましたし、チョコレー トやバナナなど、珍しいおいしいものがいろいろ売られておりました。また南京街にゆけば、中華まんじゅうもおいしゅうございました。 海岸の高台は居留地と呼ばれて、各国の領事館や貿易商の屋敷などが立ち並んでお りました。美しい洋服を着た若い夫人たちが、はでなパラソルをかざして、かわいら しい子供を連れてテニス・コートのあたりに集まったり、中国人のアマさんが、青い 目をしたお人形のような赤ちゃんを乳母車に乗せて散歩していたり、十字架の立ち並ぶ、段々になった外人墓地があったり・・・・・・異国情緒満点でした。」(東山千栄子前掲書)

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(横浜地裁所長は舞踏会にも出席)
横浜地裁所長当時、渡辺暢判事は舞踏会に招待され出席しています。横浜という土地柄なのでしょう。

「父は舞踏会に招かれ、あのかわいらしい舞踏会の手帳をよくおみやげに持って帰ってくれました。もちろん父はダンスはできなかったのでしょう、お相手のお名前など は書き込んでありませんでした。そういうのは、あちらこちらの領事館などの場合だったのでしょうが、中国人の富豪にお呼ばれしたときには、はでな色彩の、いかにも 中国風の絹に、毛筆でりっぱに書かれたメニューをいただいて来たりいたしました。」(東山千栄子前掲書)
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(まとめ)
判事の経歴や事績はともかく、どのような暮らしをしていたのかは記録に残りにくいものですが、渡辺暢判事の場合はその子東山千栄子の回想により、当時の生活を垣間見ることができました。東山千栄子は、この後他家に養子となり、渡辺家の回想は以上となります。
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安部遜 弁護士〜明治・大正期の千葉県の弁護士

2025年01月15日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
『千葉県弁護士会史』(千葉県弁護士会編)には、明治28年時点の千葉県内の弁護士の一覧を掲載していますが、これは『千葉繁昌記』の記載を写したものに過ぎず、各弁護士がどのような人物であったのかについてら触れていません。ここでは明治・大正期の千葉期の弁護士をできるだけ紹介していきます。
今回は「安部遜」弁護士です。

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(大正十年「千葉案内」での安部遜弁護士)
安部遜弁護士は大正期には、千葉弁護士会に所属していました。
「千葉案内」(大正十年七月調査「千葉市実測図」の裏面)には、その名が見えます(もっとも、本文では「阿部遜」と誤記されています)。
「千葉案内」には、
弁護士 安部遜
事務所
千葉市裁判所裏門通り 電話三七五番
木更津町裁判所前 電話五八番
との広告も掲載されており、事務所を千葉市と木更津市に置いていたことがわかります。
この時代は、弁護士事務所は複数の事務所をもつことが禁止されておらず、安倍弁護士も二つの事務所をもっていたようです。
なお、現行の弁護士法では「弁護士は、いかなる名義をもつてしても、二箇以上の法律事務所を設けることができない」(弁護士法人では可)と規定されており、複数事務所は禁止されています。
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(安部遜弁護士の事務所の場所)
安部遜弁護士の事務所の位置は、いずれも裁判所の近くです。住所を書かなくても「千葉市裁判所裏門通り」といえば、分かるような時代だったようです。
弁護士は現代でも裁判所付近に事務所を置くことが多いですが、既に大正期にはそのような弁護士がいたことが分かります。
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(安部遜弁護士の活動時期)
安部遜弁護士は、大審院判決録中、8つの判決にその名が見えます。うち4件が民事事件、4件が刑事事件ですから、熱心に刑事事件に取り組んでいたといえるのではないでしょうか。
同判決録中でもっとも早く安倍弁護士の名が見えるのは、大審院明治29年5月25日判決(大審院刑事判決録2輯5巻79頁)です。
明治20年代後半には弁護士として活動していたことが分かります。
もっとも、明治28年発行の『千葉繁昌記』にはその名が見えません。もっとも、『千葉繁昌記』は当時の千葉町の弁護士を掲載したものなので、千葉町以外で事務所を置いていた可能性はあります。
大審院判決録で安倍弁護士の名が最後に見えるのは、大正8年6月23日判決です。
最初の方で紹介したように大正10年には千葉と木更津に事務所を置いていたことが分かっていますが、その後についてはわかりません。
なお、大正10年の千葉市の様子は「千葉案内」には次のように記載されており、千葉市の活気ある様子が伝わってきます。
「現在、戸数は6600戸余、人口は32,000人に達し、さらに毎年発展の傾向を示している。大正10年1月1日には市制が施行され、千葉町は千葉市と改称された。文化も急速に発展し、市の勢いは新しいエネルギーに満ちており、昔日の千葉よりも優れた都市となったのである。」
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(村上一博論文)
ここまで調べましたら、安部遜弁護士について村上一博先生が書いている論文があることを知りました。
村上一博「明治法律学校出身の代言人群像(その2)」(法律論叢 70 巻4号)
内容は以下のとおりです。

安部遜[福岡県士族](明治15年10月卒、免許:東京)
講法学舎を経て、明治14年創立された明治法律学校に学ぶ(第一回卒業生、『明法雑誌』1号、『駿台新報』369号)。明治15年1月に、東京において代言免許を取得。17年および20年『姓名録」では千葉始審裁判所木更津支庁所属(後者では会長)、26年『弁護士録』では千葉弁護士会に所属、35年末現在も千葉県木更津町在住の弁護士とある(『千葉県弁護士会史』には安部の名は見出されない)。死亡年月日は不明である。

明治法律学校の第一回卒業生であり、明治15年に代言免許を取得しています。代言規則が制定され、代言免許制度ができたのが明治9年ですから、比較的早い時期に免許を取得したことになります。
千葉ではなく木更津に事務所を置いていたのですね。どうりで『千葉繁昌記』に名前が見えないはずです。『千葉繁昌記』は当時の千葉町の弁護士を掲載したものなので、千葉町以外の弁護士の名前が掲載されないのは当然です。
村上先生論文では明治35年まで言及されていますが、先述したように大正10年には千葉市でも事務所を置いていたので、この間に木更津だけでなく、千葉にも事務所を置いたようです。

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大正10年の千葉の弁護士

2024年10月26日 | 歴史を振り返る
(大正10年の千葉市の様子)
千葉市史編纂委員会編『千葉いまむかし』の第5号には、「千葉案内」(大正十年七月調査「千葉市実測図」の裏面)と題して、大正10年の千葉市が紹介されています。
「千葉案内」には、千葉市について次のように記しており、当時の千葉市の勢いが感じられます(現代語訳)。
〈明治6年に千葉県庁が設置され、それから裁判所やその他の官庁も出来た。医学校をはじめ、官公私立の各種学校、鉄道連隊、陸軍歩兵学校、同教導連隊なども設置され、現在、戸数は6600戸余、人口は32,000人に達し、さらに毎年発展の傾向を示している。大正10年1月1日には市制が施行され、千葉町は千葉市と改称された。文化も急速に発展し、市の勢いは新しいエネルギーに満ちており、昔日の千葉よりも優れた都市となったのである。〉
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(大正10年の千葉の弁護士)
「千葉案内」には大正10年の千葉の弁護士名が列記されています。
(弁護士)高橋八郎、松野信次郎、鹿島千太郎、 高橋栄蔵、一瀬房之助、羽生長七郎、杉山弥太郎、中川真太郎、古川与、信太武治、清古平吉、遠山重義、神田仲二、長戸路政司、阿部遜、青木勝見、松沢亀治郎
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(安部遜弁護士)
本文には上記のように氏名が記載されているだけなのですが、「千葉案内」には広告欄があり、弁護士の広告も見えます。

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弁護士 安部遜
事務所
千葉市裁判所裏門通り 電話三七五番
木更津町裁判所前 電話五八番
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弁護士一覧には「阿部遜」の名前が見えますが、広告で「安倍」となっています。どちらが正しいのかですが、明治29年5月25日判決(大審院刑事判決録2輯5巻79頁)の弁護人に「安部遜」の名が見えます。同判決は、第一審が千葉地方裁判所ですので、「安部遜」が正しいことが確認できました。
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(一瀬房之助弁護士)
一瀬房之助弁護士の広告です。
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千葉市新通町(電話252番)
弁護士、特許弁理士、日本法律学士
一瀬房之助
出張所 木更津町、北條町 佐倉町、一ノ宮町、八日市場町
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この広告によれば、一瀬房之助氏は、千葉市新通町の事務所以外にも木更津町(現木更津市)、北條町(現館山市)、佐倉町(現佐倉市)、一ノ宮町(現一宮町)、八日市場町(現匝瑳市)に出張所を持っていたことがわかります。当時の弁護士法では複数事務所が禁止されていませんでした。現行弁護士法では「弁護士は、いかなる名義をもつてしても、二箇以上の法律事務所を設けることができない」(弁護士法人では可)と規定されており、複数事務所は禁止されていますので、個人の弁護士はこのような「出張所」を設けることができません。
一瀬房之助は市議会議員でもあり、副議長及び議長職についています(千葉市歴代正副議長名簿)。
副議長:大正14年3月〜昭和4年3月
議長:昭和11年12月〜12年3月


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(羽生長七郎弁護士)
羽生長七郎弁護士の広告です。
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千葉市本町一梅屋敷(亀井橋通り)
弁護士 羽生長七郎
出張所 香取郡佐原町佐原イ3369
浮島屋旅館裏
匝瑳郡八日市場町イ340
下出羽宿
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羽生長七郎弁護士も、事務所以外に出張所(佐原及び八日市場)を持っています。

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(高橋栄蔵弁護士)
高橋栄蔵弁護士の広告です。
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千葉市市場474番地
弁護士 高橋栄蔵事務所
弁護士 高橋栄蔵
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(鹿島千太郎弁護士)
鹿島千太郎弁護士の広告です。
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千葉市事務所
千葉県庁前(電話556番)
弁護士 鹿島千太郎
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(杉山弥太郎弁護士)
広告を掲載している弁護士は以上です。広告はないものの、その他情報を得られた弁護士について記しておきます。
杉山弥太郎弁護士は、『千葉繁昌記』(明治28年)にもその名を記されています(過去記事)。
生年月日は明治元年九月八日 (1868)とのことであり、大正10(1921)年時点では53歳ということになります。

同弁護士の事務所は千葉市本町二丁目にあり、『千葉街案内』(明治44年)には大要以下のとおり紹介されています(現代文にしてあります)。
「弁護士杉山弥太郎氏の法律事務所は、千葉町本町二丁目にある。民事訴訟や、刑事訴訟だけでなく法律に関する幅広い業務を親切かつ丁寧に扱っており、信頼を得ている。杉山氏は山武郡大網町の出身で、故父杉山安蔵氏に従って法律業務に従事し、千葉中学校を卒業後、上京して英語学校に通い、その後法学院に進んで学問を深めた。明治22年に法学院を卒業するとすぐに弁護士試験に合格し、静岡市に事務所を設立した。しかし、明治24年に千葉町に戻り、現在の場所に法律事務所を開設して以来、大変な繁盛を見せ、現在に至っている。彼は千葉町でも有数の信頼を集める人物であり、現在は千葉県議会議員の要職についている。」

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(清古平吉弁護士)
清古 平吉(せいこ へいきち)氏は、大正10年当時千葉市の議員であり、「千葉案内」の市会議員欄にもその名が見えます。
1901年(明治34年)の法律新聞の『千葉通信』には次のような記載があり、千葉で最も多忙な弁護士の一人に数えられています。
◎千葉通信(現代語訳)
弁護士界:当地の弁護士界で最も忙しいのは、神田仲二、清古平吉、杉山弥太郎の三氏のようである。現在の弁護士組合会長である浅井蒼介氏の任期は、来たる5月で満了するため、その後任には清古平吉氏が就任する予定である。もともと、当組合の会長選任は、最も公平な方法が取られており、開業順に順次就任するのが慣例となっているので、他の地方に見られるような金銭に関する問題とは異なっている。

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「千葉地方裁判所、千葉区裁判所」 明治28年千葉繁昌記より

2024年10月19日 | 歴史を振り返る
【はじめに】本稿は、松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)の「千葉地方裁判所、千葉区裁判所」の項を現代語訳したものです。記述の大半は裁判所の権限についてですが、これは裁判所構成法をそのまま述べたものであり、あまり面白いものではありません
裁判所は千葉町吾妻町三丁目にあるとされています。おそらく現在(千葉市中央区中央4丁目)と変わらない位置だったと思われます。
「庁舎は昨年新築されたもので、法廷や会議室、事務室ともに立派で、関東でも一番と評されている。」等の記載や職員の名前が記載されており、後に大審院長となった横田秀雄の名が見えます。

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○千葉地方裁判所
○千葉区裁判所

地方裁判所は千葉町吾妻町三丁目にあり、区裁判所は同じ敷地内にあって、庁舎は互いに連絡している。昨年新築されたもので、法廷や会議室、事務室ともに立派で、関東でも一番と評されている。
・地方裁判所の権限
【民事事件】
1 「第一審」として、区裁判所の権限や裁判所構成法第38条に定められた控訴院の権限に属するものを除き、その他の請求を扱う。
2 「第二審」として、
(イ)区裁判所の判決に対する控訴
(ロ)区裁判所の決定および命令に対する法律に定めのある抗告
【刑事事件】
1「第一審」として、区裁判所の権限や大審院の特別権限に属さない刑事訴訟
2「第二審」として、
(イ)区裁判所の判決に対する控訴
(ロ)区裁判所の決定および命令に対する法律に定めのある抗告
・区裁判所の権限
【民事事件】
1 100円を超えない金額または価値100円を超えない物に関する請求
2 価格に関係なく、
(イ)住居やその他の建物の受け取り、明渡等(ロ)不動産の境界に関する訴訟
(ハ)占有のみに関する訴訟など
【非訟事件】
1 後見人や管財人の監督
2 不動産や船舶に関する権利関係の登記
3 商業登記や特許局に登録された特許、意匠および商標の登記
【刑事事件】
1 違警罪
2 本刑50円以下の罰金を付加し若しくは付加せざる2月以下の禁錮、または100円以下の罰金に該当する軽罪
3 刑法第2編第1章を除く軽罪で、罰金200円以下または禁錮2年以下に該当する軽罪または300円以下の罰金に該当し、その情状が2に掲げた刑より更に重い刑 に処することを要しないと認め地方裁判所若くはその支部の検事局より区裁判所に移付したるもの等

このように千葉町は人事百般の裁決を下す所であり、弁護士や代書人、訴訟当事者が多く住み、また行き来するため、町の繁栄にも寄与している。

千葉町の裁判所の沿革
明治6年6月に印旛裁判所と木更津裁判所の二ヶ所が合併して千葉裁判所が設置される。
明治9年10月にその名称が廃されて東京裁判所千葉支庁と改められ、この時に千葉区裁判所が設置される。
明治15年1月には東京裁判所千葉支庁が廃止され、千葉県始審軽罪裁判所に改称され、千葉区裁判所は千葉治安裁判所に改められた。
明治22年11月、裁判所構成法の施行により、千葉地方裁判所と千葉区裁判所に改められた。

明治27年9月5日時点の職員は次の通りである。
従六位 所長判事 渡辺 暢
正七位 部長判事 横田秀雄
正七位勲六等判事 宮地美成
正七位判事 坂口直
従七位判事太田拡
従七位判事 大熊米太郎
正八位判事 平野正富
正八位判事 上松操
監督書記 大野秀之
書記(略)

検事局職員
正六位勲六等 検事正検事 大井治義
従七位検事 諸岡良位
監督書記内田有方
書記(略)

千葉区裁判所職員
監督判事 中岡藹
従七位判事 高橋良之輔
従七位 検事渡辺助治郎
司法官試補 検事代理藤波元雄
監督書記 芝沼明
書記(略)

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千葉県監獄署

2024年10月12日 | 歴史を振り返る
○千葉県監獄署
【はじめに】本稿は、松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)の「千葉県監獄署」の項を現代語訳したものです。監獄は現在の刑務所です。現在は国(法務省)の施設ですが、当時は県の管轄でした。
現在千葉刑務所は千葉市貝塚町にありますが、当時は寒川(現千葉市中央区寒川)にありました。寒川の地に監獄があったのは、1874(明治7)年から1907(明治40)年までの33年間です。寒川にあった監獄について書かれているものは少ないので、参考になります。

千葉刑務所前史~寒川監獄 - 南斗屋のブログ

ググればたちどころにいろいろなことがわかってしまう世の中である。しかし、書かれていないことも多い。インターネット上に誰かが情報を載せてくれているから、知識が伝わ...

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○千葉県監獄署
監獄署は県庁の一部に属しており、拘留、禁錮、禁獄、懲役に処せられた者、および婦女で徒刑に処せられた者を収容し、また未決囚を拘留する。この監獄は県庁から数町離れたところに位置している(千葉町寒川片町)。昔、この場所は佐倉藩の米倉であり、その中には米倉をそのまま獄舎にした部分もあったという。この監獄を新しい場所に移して新築しようとする計画があり、設計も終わり、担当者は県内の著名な林業者から材木の払い下げを受ける手続きを完了したものの、残念ながら、いまだ昔のままの状態である。囚人に対しては、明治22年7月の勅令第93号の監獄則の改正により、以前よりも大いに寛大になったといわれている。

囚人の従事している作業(明治27年8月現在)
●抄紙工(男163名)
●簾工(男5名)
●機織工(男98名)
●染工(男3名)
●裁縫(女24名)
●麻工(男49名)
●鍛冶工(男)
●鉄葉工(男1名)
●理髮工(男1名)
●木工 (男9名)
●米麦搗工
●水引工(男)
●罫紙摺工(男)
●外役土工(男)
●藁工同(男145名)
●小亀形工(男42名)
●陶器工(男29名)
●炊夫工(男19名)
●看病夫工 (男4名)
●掃除夫工(男27名)

上記のように就役後は工業に従事し、作業開始からが100日経過により各自の工賃を定め、が決められます。重罪の囚人には10分の2、軽罪の囚人には10分の4、無定役の囚人や懲治人および刑事被告人で作業を行う者には10分の6が与えられると規定されている。獄則を遵守し工業に勉励する者には、報奨金が与えられる。
また、教誨師により、罪を悔い改め善へと導く道を教えられる。16歳未満の囚人や懲治人には、毎日4時間以内で読書、習字、算術を教え、懲治人には毎日5時間以内で農業や工芸が教える。
現在の担当官吏は以下のとおり。
監獄長 正八位 千石 学
○第一課
監獄書記兼看守長 長 阿部武之進
看守長兼監督書記 三恵由哲
武藤周蔵
教誨師 富士原 大岳
○第二課
看守長兼書記 長 大須賀光顕
看守長兼書記 白坂旅
小泉扇造
兼看守教習所教師 河村新蔵
麻生德三

○第三課
監獄書記兼看守長
長心得 菅谷寅四郎
天野六三
鈴木駒次郎
監獄署傭野 中 富次郎
村井孝一郎
萩野恭斉
宗像正七
川口貞吉
尾形栄性
安達盛義

医務所
兼千葉病院司療医 長監獄医 森理 記
酒井巻二
小沿東逸

看守教習所
長 大須賀光顕
第二課僚 教師小泉扇造

看守(以下略)


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千葉感化院 明治28年発行『千葉繁昌記』から

2024年09月28日 | 歴史を振り返る
【はじめに】本稿は、松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)の「千葉感化院」の項を現代語訳したものです。感化院とは、非行少年や非行少女の保護・教化の目的で設けられた施設であり、その後少年教護院・教護院とも呼ばれていましたが、現在は児童自立支援施設という名称になっています。千葉の感化院の歴史を知る上で参考になると思います。
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○千葉感化院

千葉感化院は、千葉町の猪鼻山のふもとにある。開院式は明治19年11月28日に行われた。
明治17年と18年に、千葉県内の各宗教団体は、監獄の囚人に対する教誨について、何度も会議を開き、釈放された後に頼る場所がない者人を助けるべきだという意見(放免囚保護院の設立)が出た。しかし、その点は他日に譲ることとし、罪を犯す前にその芽を摘むための感化院の設立する計画することとした。明治18年11月のことである。
総寧寺住職の服郎元良、大巖寺住職の石井実禅、長禅寺住職の金山堯範、千葉監獄の書記である白井知三郎、同監獄の教誨師である坪井善四郎の5人が創立委員となり、各自の仕事の合間を縫って、東奔西走し、議論を重ね、その計画を練り、明治19年5月4日に施設設立の許可を得た。さらに、院長の役割については、各宗教団体で6ヶ月ごとに交代して行うことした。
院長
明治19年11月28日〜明治20年4月 曹洞宗・服部元良氏
明治20年5月〜10月 浄土宗・石井実禅氏
同年11月〜 真言宗・解良教俊氏
解良氏の任期中に、感化院の維持に関して、発起者が協議を行い、本院の組織を改めることを決めた。4月に千葉町で発起者総会を開き、その総会での決議に基づき、役員を選定した。その後、評議会や院長の互選した。
「千葉感化慈善会」という組織を設け、その会が感化院を維持することとなった。慈善会の規約に基づいて役員が選ばれ、当時の千葉県知事である船越氏を本会長とした。評議員には官民から数十名が選び、会計監督2名、事務担当1名とする。感化院長には新勝寺住職の三池照鳳氏が選ばれ、副院長や取締、教授、授業担当など数名が選ばれた(感化院の役員は、常に感化慈善会の事務も兼務することとされた)。
感化慈善会の目的は、多くの会員を募り、毎年いくらかの募金を集めること、また各宗派の寺院が1寺あたり3円の義捐金を出すという規約があり、これを実行して永続的な維持の基礎を築くことにあった。このようにして会務を拡大し、300名余りの会員が加わり、寺院の規約も次第に進展した。

しかし、それでも限られた資金では、維持が難しくなった。こうした状況から、明治24年1月25日に本会の総会が開かれるに至った。議長席には評議員の渡辺暢氏が着いた。会議で討議した結果、この事業を有力者に一任し、これまでの慈善会は事業を支援する立場に変更するという提案が多数の賛成を得て可決された。そこで、有力者に依頼する委員を選ぶことになり、石井大亮、岩崎直諒、白井知三郎の3名が選ばれた。その後、委員たちは別の場所で三池照鳳に感化院の事業を長期的に引き受けてもらえるよう強く依頼した。
三池氏は、次のように挨拶した。
「事業が衰退している現状は非常に遺憾であり、今日の決議はやむを得ないことです。この事業を廃止するようなことがあれば、千葉県の名誉に関わるだけでなく、各宗教寺院や会員たちの面目にも関わります。非常に忍び難い状況です。議決により私に引受けるよう懇請があらました。これまで以上に関係者の尽力を希望してやみません。
事業を熱心に推進する人がいなければ、事業は立ち行きません。
坪井千葉監獄教誨師と協議を行いました。坪井氏はこの事業が社会にとって必要であると認識しており、発起人の一人でした。そして今、この状況に直面して、彼は官職を辞して、この事業に一身を捧げることを決意してくれました。
私としても、この事業を受け入れようと思います」

こうして、本会は「感化院慈善会」と改称した。これまでの会員や寺院の義捐金の支出には変更はない。新しい会則の改正起草委員には、渡辺暢、岩崎直諒、宇佐美佑申の3名が選ばれ、起草が終わった際、評議委員会の決議により藤島千葉県知事を会長に推挙し、その他の評議員、会計監督、幹事などの役職も選んだ。

以上のように、千葉感化院は、もともと千葉県内の各宗教の僧侶たちによって発起されたものであり、何度かの変遷を経て、最終的には新勝寺の三池氏の尽力によって、長期的にその事業を維持する体制をとることができた。現在では、行政および法律の観点からも、この事業が社会にとって必要不可欠であると認められるに至っている。

なお、創業から明治26年10月までの調査によれば、入院者は41名であり、そのうち31名が退院した。退院者の中には品行が良好で、その後の動静は以下のとおりである。
商業に従事せるもの 2人
学問に就くもの 2人
他家に奉仕せるもの4人
居商を開くもの 2人
農に従事せるもの 5人
未定業のもの 1人
出家得度したるもの 1人
外に自宅に於て死亡したるもの 2人
以上19人

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弁護士 『千葉繁昌記』より

2024年09月21日 | 歴史を振り返る

◯弁護士 『千葉繁昌記』より

【はじめに】本稿は、松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)の「弁護士」の項を現代語訳したものです。
弁護士という名称は、明治26年3月4日法律第7号の弁護士法が制定されてからのもので、それ以前は代言人と呼んでいました。本書は明治28年の出版ですので、「弁護士」という項目を立てていますが、それ以前の代言人についても略述しています。
興味深いのは、江戸の公事宿の下代が宮谷県、葛飾県又は印旛県、木更津県下(現在の千葉県域)に散り、その後代書人となったという記載です。この記載がどのようなものに基づいて書かれたのかは不明なため、その記述の正確性については留保せざるを得ませんが、公事宿の下代が明治となってどうなったかは良く分かっていないため、これが事実であれば代書人の成り立ちもまた見えてきそうです。

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松風散史編『千葉繁昌記』
◯弁護士
千葉地方裁判所附属の弁護士会の沿革について簡単に述べる。
旧幕府の頃、江戸の馬喰町に公事宿というものがあった。公事宿には下代というものがおり、訴訟人の世話をしていた。維新の際に公事宿は廃止となり、下代らは宮谷県、葛飾県又は印旛県、木更津県下に散っていった。明治6年までにこれらの県が廃止となり千葉県となった。千葉県にら千葉裁判所が置かれたので、これらの人々が集まり代書人となって、訴訟上の代理又は補佐を行っていた。
明治9年司法省で甲第一号により代言規則を制定し、免許を得た者でなければ、訴訟の代言を為すことができないとされた。
東京北洲社より岩崎直諒氏が千葉に来て代言試験を受け免許を得て代言を行った。次いで、明治12年9月に板倉中氏が代言免許を受けた。同年12月には代言人長岡衡氏が東京から千葉に来た。13年1月には、代言人牧山百太郎氏 も来た。3月には津田定右衛門氏も代言免許を得た。
明治13年5月司法省甲第1号布達で、上記5名により千葉代言組合が設置されました。初代会長は長岡氏であり、次いで岩崎氏、麻生致一氏、岩崎氏、麻生氏、板倉氏、新庄克己氏の順で会長となった。
明治26年5月に、代言組合は「弁護士会」となり、新庄氏が弁護士会の初代会長となった。

弁護士会の会員は以下のとおりである。
弁護士会加盟順

千葉郡千葉町千葉730番地
第一号 岩崎直諒

千葉郡千葉町千葉1251番地
第二号 宇佐美佑申

千葉郡千葉町寒川972番地第3号
第三号 麻生致一

千葉郡千葉町千葉1299番地
第九号 浅井 蒼介

千葉郡千葉町千葉1131番地
第十号 太 田 茂

千葉郡千葉町千葉694番地
第十一号 杉山弥太郎

千葉町千葉583番地
第十二号 神田仲二

千葉県千葉郡千葉町寒川989番地
第十三号 新庄克已

千葉郡千葉町寒川290番地
第十四号 清水鉄太郎

千葉県長柄郡関村関1213番地
第十六号 板倉中
(事務所 千葉町寒川979番地)

千葉郡千葉町寒川291番地
第廿八号 平山勘次

千葉県長柄郡茂原町175番地
第十七号 松本安蔵
(事務所 千葉町寒川970番地)

新潟県刈羽郡石曽根村315番地
第十八号 佐藤槌之亟
(事務所 千葉町寒川979番地)

○弁護士書記
押田徳太郎(宇、岩、杉)
佐瀬熹六(浅、麻)
市橋平四郎(太)
小柴源之助(新、板)
小笠原 拓一(神)
山本通元(清、平)

○代書人
伊原演。小川長兵衛。鈴木万吉。布留川平吉。 黒川治郎八。大木文五郎。足立重次郎。山本通元。
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『犯科帳』ー長崎奉行の判例集

2024年03月02日 | 歴史を振り返る
『犯科帳』ー長崎奉行の判例集

江戸時代にも判例集がありました。
長崎奉行の判例集が『犯科帳』です。
外山 幹夫/著『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』(中公新書) は『犯科帳』について次のような記載があります。
「長崎奉行が、寛文六年(一六六六)から慶応三年(一八六七)までの二〇一年間にわたって判決を下した記録である『犯科帳』は、その抜荷をはじめとする長崎の都市犯罪の実態を生々しく伝えている。 これは先年、森永種夫氏の手によって復刻刊行され、多くの人々の眼に触れることになった。」

犯科帳刊行会からは以下のものが発行されています。
・森永種夫校訂『犯科帳』(一〜十一) 昭和三十三年〜三十六年 犯科帳刊行会
・森永種夫校訂『口書集』(上・中・下) 昭和三十七年 犯科帳刊行会
・森永種夫校訂『御仕置伺集』(上・下) 昭和三十七年 犯科帳刊行会

このうち『犯科帳』については、私が住んでいる自治体の図書館にもあり、しかも貸出し可能でした。かなりアクセスしやすい書物です。

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代言人・弁護士として活躍した板倉中

2023年12月23日 | 歴史を振り返る
代言人・弁護士として活躍した板倉中

(はじめに)
以前、加波山事件についてこのブロクで書いたことがあるのですが(「加波山事件と千葉重罪裁判所」)、主犯富松正安の弁護人となったのが、板倉中(なかば)です。
板倉中は千葉県の生まれということもあり、興味がありましたので、調べてみました。

(板倉中の略歴)
『千葉県弁護士会史』には板倉中について、次のように述べられています。
・板倉中は1856年(安政3年)、白子町関字中富に生まれた。
(コメント)
当時は白子町はありませんので、現在の白子町関にあたる地でという趣旨でしょう。板倉が生まれたのは、関村(現在の千葉県長生郡白子町関)です。

・宮谷県給仕から明治大学の前身となる明法学舎においてフランス法を学んだ。
(コメント)
宮谷県(みやざくけん)は、1869年(明治2年)に安房国・上総国・下総国・常陸国内の旧幕府領の管轄のために明治政府によって設置された県です。
知県事役所は、現大網白里市大網にある本国寺にありました。本堂(旧宮谷檀林大講堂)を除く一切の諸堂が庁舎として使用された。といいます。本国寺には、「宮谷県庁跡」の碑があります。

・板倉中は、免許代言人制度の誕生とともに代言人の資格を取得した。
(コメント)
板倉中は明治13(1880)年に代言人となっています。代言人というのは、今日の弁護士に相当するものです。代言人という呼称は、明治5年8月公布された司法職務定制が初めてですが、このときは試験制度はありませんでした。明治9年2月に代言人規則が公布され、代言人となるには地方官の審査が必要となりました。明治13年には、この代言人規則が改正され、試験官は検事が行うこととなったのです。

・板倉中は、加波山事件の首謀者富松正安(死刑)の弁護を初めとして、大阪事件、大津事件、日比谷焼打事件、平民新聞事件、大逆事件、大日本製糖事件などの著名事件に関与している。
(コメント)
加波山事件で板倉中が弁護人を務めたことは、過去記事「加波山事件と千葉重罪裁判所」でも書きました。
大阪事件で弁護人として活躍したことは、平野義太郎『大井憲太郎』(吉川弘文館)で述べられています。同書では、板倉中を次のように紹介しています。
「大阪事件で大井(憲太郎)を弁護した板倉中弁護士は、すすんで大井の著した『時事要論』の発行名義人となった。彼は、明治後期に千葉県選出の代議士としておなじか千葉県長生郡出身の鵜沢総明とともに国会で活躍し、また大井らとともに、晩年まで普選運動に力をつくした」

(終わりに)
板倉は代言人制度揺籃期から代言人となり、また、著名事件の弁護人をも務めていますので、弁護士史を考える上でも興味深い存在です。明治から大正にかけて活躍した千葉県内の弁護士はいずれも史料に乏しく、唯一の例外は板倉中であるとのことです(『千葉県弁護士会史』)。
板倉中の弁護士としての活動を掘り下げてみたいものです。
なお、令和5年度 市史編さん事業展示として、茂原市美術館・郷土資料館は、「茂原の自由民権運動-斉藤自治夫(さいとうじちふ)と板倉中(いたくらなかば)ー」 令和5年9月16日~12月10日をテーマ展として開催しています。

その他の参考文献
「郷土の政治家 板倉中の生涯」秋谷忍(房総の郷土史第36号2008年)
「春峰 板倉中小伝」井桁三郎
「板倉中の裁判資料と朝鮮問題」(加藤時男;千葉史学56号)
また、板倉中の関係資料は、茂原市立図書館発行の「茂原市古文書目録」のその1(1996年)、その5(2009年)にもあります。


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明治の裁判官 布施文四郎 又は文亮

2023年10月09日 | 歴史を振り返る
明治の裁判官 布施文四郎(文亮)

千葉県出身の明治の裁判官布施文四郎について。複数の文献に同人の経歴が記載されていました。検討する暇がないため、とりあえずそのまま掲載し、検討は後日したいと思います。

千葉県香取郡役所『千葉県香取郡誌』(大正10年)
布施文四郎
「飯高村飯高区の人。父を八左衛門という。幼にして高野隆に学び、東京に至り、明治17年司法省学校に入り、明治19年2月卒。同月長野始審裁判所判事。松本、静岡の区裁判所裁判所判事を経て、東京控訴院判事。従五位勲六等に叙す。明治37年2月、病により職を退き、郷里に静養す。明治38年9月4日、銚子別荘に没す(45歳)。人の為り方正にして、志行頗る高し。少時教鞭取りしをもって、郷里の子弟、教を受けるもの多く、有用の士を出せり。」

東大のホームページには以下のような記載がありました。
「布施文四郎(文亮)は天保元年の生まれ。文四郎は、江戸に出て、神田お玉ケ池にあった千葉道場に赴き、 幕末の剣客として有名な北辰一刀流の祖千葉周作の門に入り、 「北辰一刀流兵法箇条目録」一巻の伝授を受けた剣の達人であった。 千葉道場で目録を貰ってから、嘉永七年正月二十六日、華岡青州の塾に入門した。 一八六四年に、八日市場村近郊の貝塚において、水戸藩尊攘派天狗党と書生党との激しい白兵戦が行われたとき、 文四郎は臆せず戦場内に進入し、負傷者の治療を行い、数十人を救ったという。」
布施文四郎の子孫に眼科医布施郁三が出て、東大文学部に寄付。布文館が設置された。


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