南斗屋のブログ

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久離・勘当は認めない・仮刑律的例 49

2024年12月30日 | 仮刑律的例
久離・勘当は認めない・仮刑律的例 49
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(要旨)久離・勘当は認めない
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【播磨姫路藩主からの伺い】
明治2年3月27日、 播磨姫路藩主からの伺い
旧幕府の頃は久離・勘当をした場合は届け出をすればよい扱いでしたが、この度御一新(明治維新)となり、脱藩した者は帰藩させるようにとの寛大な措置が取られています。
久離・勘当をした場合はどのように扱えば良いでしょうか。
領主が受付けた上で、お届けすればよろしいでしょうか。それとも、脱藩者と同様に扱うべきでしょうか。
適切なご指示をいただきたく、この件についてお伺い申し上げます。以上。

【明治政府からの返答】
久離・勘当は、天下に無籍の者がないようにとの(天皇の)御旨意(この点については既に布告したとおりである)に抵触する。よって、久離・勘当は行わず、寛大に取り扱うべきである。

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(コメント)
・仮刑律的例もこの播磨姫路藩主からの伺いで最後です。最後は久離・勘当について。勘当は現代でも聞く言葉ですが、久離(きゅうり)は全く聞かないので、ご存知ない方も多いでしよう。まずは語義を確認しましょう。
久離:親族中の目下の者(子・弟・甥) の犯罪や債務負担について、連帯責任・社会的非難を免れるため、目上の者(親・兄・叔父)が親族関係の断絶を言い渡し、役所に届出て人別帳からはずしてもらうこと。
勘当:主従・親子・子弟の 縁を切って追放すること。久離より軽いが、同じく人別帳からはずすことを役所に届け出る。
・久離も勘当も「人別帳からはずす」という点では同じですが、久離の方が重いのです。この説明ですと、犯罪や債務負担について、連帯責任・社会的非難を免れるという点が勘当とは異なる点です。
・久離・勘当は現代法の感覚からすると、親族法であり、刑事法とは関係がないように見えてしまいますが、犯罪等について連帯責任を免れるという点が江戸時代は刑法的な感覚でとらえられていたのでしょうか。
・江戸時代までは久離・勘当は普通に行われていました。伺文中でも「旧幕府の頃は久離・勘当をした場合は届け出をすればよい扱いでした」と述べられています。
姫路藩は久離・勘当を認めたかったようですが、明治政府は、「天下に無籍の者がないように」との方針を採っており、脱藩した者も帰藩させておりました(仮刑律的例 #5脱籍者処置)。この方針からは、久離・勘当を認めることはできないことになりますので、返答は「久離・勘当は行わず、寛大に取り扱うべきである」とされています。

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嘉永7年11月中旬下旬・大原幽学刑事裁判

2024年12月26日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年11月中旬下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年11月11日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
朝六ツ時から安達様の米搗き。髪結いをし、泉湯に入る。元浜町の本屋へ行き、宮本様と若旦那様ご所望の本について話す。五ツ時に松枝町の借家へ。長左衛門殿と良左衛門君が碁を打っていた。幽学先生は午前に宜平殿と高輪に行ったとのこと。
九ツ時就寝。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日の五郎兵衛は朝早くから米搗き。依頼したのは「安達様」(安達安蔵)という家臣。五郎兵衛にはちょいちょい用を頼んでおり、五郎兵衛もまたそれに応えて非番なのに働いてます。
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〈詳訳〉
非番。朝六ツ時から安達様の米搗き。九ツ時に搗き上げ。幽学先生は、宜平殿と共に高輪へ行かれた(宜平殿九ツ半に御屋敷に戻り)。
宜平殿と二人で髪結いをした後、七ツ時に出かける。行きがけに泉湯に入る。暮方に松枝町の借家へ。晩に元浜町の本屋へ。宮本様と若旦那様から幸左衛門殿が本を頼まれていたので、そのことについて話し、五ツ時に借家に戻る。長左衛門殿がいて、良左衛門君と碁を打っていた。九ツ時就寝。

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嘉永7年11月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
六ツ時起床。御茶だけ飲んで御屋敷に戻り、写し物。七ツ時、安達様の依頼で日本橋通町一丁目に順気散を買い行き、本町で砂糖と葛を買う。松枝町の借家で米込村の者を待ったが、五ツころまで待っても来ず。番町の屋敷に戻って夜番を八ツから勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日の五郎兵衛は松枝町の借家と奉公先の御屋敷を一往復半してます。本来は添番ですが、昨日に引き続き安達様の御依頼で日本橋まで買出しにいってます。〈順気散〉を買いに五郎兵衛は日本橋通一丁目まで買いに行っています(現代では薬局等で簡単に入手できます)
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〈詳訳〉
添番。良左衛門君と共に六ツ時に起きる。御茶を飲んで五ツ時に御屋敷に戻る。写し物。七ツ時、安達様に頼まれて、日本橋通町一丁目に順気散を買い、本町で砂糖と葛を買って松枝町の借家に戻る。米込村の者が来るはずだったが、五ツ時分まで待っても来ないため、番町の屋敷に戻る。夜番を八ツから勤める。幸左衛門殿は松枝町へ行き、本日泊まり。
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嘉永7年11月13日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝六ツ時、竹田様の依頼で米搗き。
夕方、松枝町へ行くと、「明日奉行所に帰村願を出す」とのことで、その手配。万徳(公事宿)へ行ったり、差添役を頼みに行ったりした。明日に備えて松枝町に泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日もまた五郎兵衛は朝から米搗き。松枝町に行くと、奉行所に帰村願を出すことが決まっており、その手配。五郎兵衛は意思決定には関与しておらず、決定後の手配役ですね。「差添役」は村役人が務めるものですが、帰ってしまっている者につき代役を頼んでいるのです。
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〈詳訳〉
本番。朝六ツ時、竹田様の米搗き。九ツ半時まで。幸左衛門殿が四ツ過ぎに松枝町の借家から御屋敷に戻ってきたので、藤助殿髪結いをしてから(八ツ時)、松枝町へ行く(七ツ時)。
久左衛門殿と傳蔵殿が来ていた。
明日14日にまずは帰村願を出してみようということとなり、万徳(公事宿)へ行く。差添役を頼みに晩に番町まで行き、十日市場村の差添役として御作事の安左衛門様に依頼をした。五ツ時、松枝町に戻る。うつふ隠居、節五郎殿が来ていた。本日松枝町に泊まり。

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嘉永7年11月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
奉行所に帰村願を提出。「しばらく控えておれ」といわれ、待たされる。八ツ時に問合せし、「大勢で、公事も長くなっている。難渋は分かった。上司に伺いを出すから、今日のところは引取れ。おって沙汰する」といわれ松枝町の借家に戻る。
夕食は餅。2、3日前に臼井の大津屋がわざわざ持ってきてくれたものである。幽学先生は、「皆が揃ってるので、食べきってしまおう」といって、ご自身で餅を焼き、皆に振る舞ってくださった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所に帰村願を提出しました。奉行所の仕事の遅さは相変わらずですが、幽学一門がひたすら待たされていて、難渋していることは受付の人は分かってくれたようです。
夕食には幽学先生手ずから餅を焼いて、道友たちをねぎらっています。
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〈詳訳〉
添番であるが、奉行所に出るため、藤助殿と大寺に仕事を頼んだ。
朝、番町まで行く。米八殿はよんどころない事情で早昼にしか出掛けられないとのこと。宜平殿とは途中で会ったので一緒に松枝町の借家まで戻る。四ツ半時、奉行所に集まったので、昼食を取り、九ツ半時に書附を訴所に米八殿(邑楽屋手代)が提出。「しばらく控えておれ」とのご指示であったが、待っていても声がかからなかったので、八ツ時に様子を窺ってみると、「大勢が江戸に来ており、公事も長くなっているので難渋していることは分かった。いずれ掛の方に伺いを出すこととなろうから、今日のところは引取られよ。おって御沙汰に及ぶ」とのお話しであった。
万徳(公事宿)に一度立寄った後、松枝町の借家に戻る。
・夕食は餅。2、3日前に臼井の大津屋がわざわざ持ってきてくれたものである。幽学先生は、「皆が揃ってるので、食べきってしまおう」といって、ご自身で餅を焼き、皆に振る舞ってくださった。
・七ツ半時、帰村願書の写しを持って御上屋敷の足達様のもとへ行く(嶋屋から上酒一本、切手にして持参)。
足立様「今日願書を提出したとのことだが、そのことで届出は不要である。奉行所からの仰せがでたときに、その内容を文書で提出してくれればよい」
足達様にはこれまでの事情をいろいろとお話ししており、日頃から我々が困っている状況を察しておられる。しばらく様々なことを暮れ方までお話しした。
六ツ時に番町の御屋敷に戻り、夜番を八ツ時まで勤めた。宜平殿は松枝町に泊まり。

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(書付)
恐れながら書面にてお願い申し上げます。
常州牛渡村の件について一同申し上げます。
この件は現在、御吟味中でございますが、江戸に出府している者たちは皆、無人(支援者がいない)であり、特に国元・家内には病人もいるため、大変難渋しております。江戸での滞在費もかなり嵩んでおり、国元への支障は言うまでもなく、日々の生活にも当惑し難渋しております。
御吟味中であるため何とも恐れ多いことではございますが、どうか御配慮のうえ、一同を一度帰村させていただけないでしょうか。後日御用がある際には、再び出府いたします。なにとぞお慈悲をもって願いの通り帰村を許可していただきたく、心からお願い申し上げます。
以上
十一月十四日
御奉行所様
村々銘々連印

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(本日出頭した者)
・良左衛門君
・差添 治郎右衛門殿

・又右衛門殿
・差添頼み 喜助殿

・傳蔵殿
・差添 久左衛門殿

・宜平殿
・差添頼み 安左衛門殿

・惣右衛門殿
・差添蓮屋で頼み

・五郎兵衛
・差添蓮屋にて頼み

・蓮屋 永之助殿
・邑楽屋 米八殿
・万徳 腰懸にて頼み

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嘉永7年11月15日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。昼には藁屋の湯へ。夜五ツ時、米込村の道友から「今日奉行所から連絡があり、明日出頭する」との連絡あり。
御屋敷では、明日午前中に集会があるので、「持病が悪化して朝からは出頭できず、九ツ時に出頭することにしよう」ということになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日奉行所に帰村願を提出しており、その結果が明日には言いわたされることになりました。五郎兵衛の奉公先の屋敷では午前中に集会があるため、奉行所には仮病を使い、午後から出頭しようということに。このあたり、柔軟というか、いい加減というか。手続きは硬いですが、抜け道も多いのが面白い。

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〈詳訳〉
本番。朝掃除。宜平殿、松村氏と三人で髪結い。昼には藁屋の湯に行き、七ツ時に御屋敷に戻る。夜五ツ時に米込村の傳藏殿と久左衛門殿が来られ、奉行所からお呼び出しがあり、明日出頭するようにとの御沙汰があったとのこと。そのことを幸左衛門殿から御用人様方へ 問題ないか聞いてもらった。「御集会があるから、1人だけなら問題ないが、仲番が2人も抜けてしまうとで支障があるとのことだ。九ツ時には御集会も終わるから、持病が悪化して朝からは出頭できず、九ツ時に出頭することにしよう」ということになった。幸左衛門殿は幽学先生にこのことを報告に行った(米込の者たちと同道、この日松枝町に泊まり)。
小生は夜番を八ツ時から勤めた。

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嘉永7年11月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
奉行所に出頭し、腰掛で待機。九ツ半時に御呼込あり。来年の2月15日まで暮れの帰村が認められた。淀藩御上屋敷の足達鏡蔵様と暮方にお会いすることができた。「帰村が許可されたが、病気療養のため、4〜5日は江戸に引き続き逗留する」と申上げた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所から3ヶ月の帰村が認められました。五郎兵衛の住む長沼村の領主淀藩の担当者(足立様)と面会。五郎兵衛は「病気療養のため、4〜5日は江戸に引き続き逗留する」というのは単なる言い訳で、諸用を片付けなければいけないからです。

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〈詳訳〉
御屋敷で集会があるため、早朝掃除。諸道具を取出し。仕度を終えて、五ツ時に松枝町の借家に行く。御屋敷での御集会が終わったら、幸左衛門殿と宜平殿がすぐに奉行所の腰掛に差添と一緒に来ることができるように打合せ。
幸左衛門殿と宜平殿以外は、松枝町に揃ったので、四ツ時に節五郎殿と二人で蓮屋(公事宿)へ行く。差添えを連れて万徳(公事宿)に行ったが、誰もおらず。「別件があったので角村屋に頼んでおいたから、何分にもよろしく頼む」とのこと。その後、腰掛に行く。
幸左衛門殿と宜平殿も差添と一緒に、四ツ半時に来られた。九ツ半時に御呼込があり、来年の2月15日まで暮帰村を認められた。請書を提出し、八ツ時に引上げ。松枝町で幽学先生に報告してから、七ツ時万徳(公事宿)に行き、御上屋敷の足達鏡蔵様に下記の書付を取り次いでいただいた。
暮方に足達鏡蔵様にお会いすることができ、帰村が許可されたが、病気療養のため、4〜5日は江戸に引き続き逗留致しますと申上げた。
足立様「病気は大事となることもあるからよく療治しなさい。帰村できるとなったら、 御返翰願いを出せばよい」
暇乞いを申上げ、帰り際に御留主居様へ御届書を提出して、松枝町へ戻った。
雪嵐の荒天であったが、幸左衛門殿と宜平殿は番町の御屋敷へ帰っていかれた。
五ツ時に高松力蔵様が、五ツ半時に長左衛門殿がお出でになった。
節五郎殿から、これまで勤務してきた御門番の仕事をどうするかの相談があったが、来年二月に江戸に来るまでは同僚が代わりに勤めてくれるとのことであった。
おけい殿が幽学先生に言われたことを気にしてしまって、癇癪をおこし、筋違いのことを話をしてしまっていた。良左衛門君はそのことを知らずに放置していたことを、不誠実だと先生から叱られた。また、節五郎殿も贔屓されたことで、知っていながらそのままにして、その場しのぎのことだけを言っていたので、「これはいかにも二人とも正直ではないことだな。男は男らしく、言ったことなら言った、言わないことなら言はぬ、と人として筋を通すのが当たり前だ」と先生から厳しく叱られました。
・幽学先生帰村につき打合せ。「宜平と五郎兵衛の二人は長部村まで一緒に来てほしい。孫(村の子ども)への土産を贈りたい。」とのご意向であり、7歳から15歳までの男子は筆、7歳から元服までの女子は前針と決めた。明朝、名前と人数を書出すこととした。

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(足達鏡蔵様宛書状)
恐れながら書状にてお願い申し上げます。
下総国埴生郡長沼村の百姓、五郎兵衛ほか一名が申し上げます。別の届書にてお伝え申し上げた通り、来る卯年(来年)の二月十五日までに帰村を認めるとのお許しを奉行所からいただきました。御返翰をいただき次第、速やかに出発すべきところですが、五郎兵衛は以前から体調不良で薬を服用しており、今後4、5日は引き続き江戸に逗留し、療養をしたいと存じます。
この事情を何卒ご理解いただき、御慈悲をもってご承諾いただければとお願い申し上げます。出発の際には御返翰を賜りたく、お願い申し上げます。以上
寅年十一月十六日
当領分
下総国埴生郡長沼村
・百姓にして医師 元俊
・代兼 百姓 五郎兵衛
・差添人 百姓代 甚左衛門

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(奉行所に提出した請書)
恐れながら書状にて申し上げます。
下総国埴生郡長沼村の百姓、五郎兵衛ほか一名が申し上げます。私どもの件は、本多加賀守様におかれて御吟味中のところ、私ども江戸に出府しておりますが、いずれも無人(頼るべき人がいない)状況です。特に国元では家内に病人がおり、非常に難渋しております。これにより、日々の暮らしにも支障が出るほどの状況です。江戸滞在に要する費用もかさんでおり、当惑して難儀しております。
そのため帰村を願い出ましたところ、本日お呼び出しの上で、来る二月十五日までの帰村をお命じいただきました。この件をお届け申し上げます。
寅十一月十六日(嘉永7年11月16日)
御勘定様
御役所宛
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嘉永7年11月17日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
早朝、松枝町の借家で御膳(朝食)をいただく。江戸土産を贈る子どもの人数を書出す。幽学先生に来年2月まで引き続き武家屋敷で奉公を続けてよいかとお聞きしたが、認めていただけず。五ツ時に番町の御屋敷に戻り、写し物。夜番を八ツより勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所から帰村許可が出た場合、速やかに帰村しなければならないのですが、五郎兵衛はまだ奉公先で仕事をしてます。ホントは来年2月まで江戸にいたかったようですが、幽学先生には認めていただけませんでした。
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〈詳訳〉
添番
早朝、御膳(朝食)をいただく。江戸土産を贈る子どもの人数を書出す。
米込村の傳蔵殿と我々「今回帰村となりますが、来年二月まで江戸に滞在して武家奉公を続けたいと思いますが、いかがでしょうか」
幽学先生「それは、そういうわけにはいかないのではないかな。国元で一緒にいても家を修めきれないのに、長く留主にしているのでは家の中は乱れてしまうだろう。家の者からは『性学をやっていなければ、こんなことにはならなかった。性学に入ってとんだ目にあった』という声が出て、性学の道友も丹精する者の情が薄くなり、破門になるようなことにならないでもないから、それはなしにした方がよいだろう」
五郎兵衛「承知致しました。それでは、先生御帰村の時まで江戸に滞在しまして、先生の御供をさせてください」
幽学先生「それはわかった。五郎兵衛は一日 も早く武家奉公から暇をもらった方がよいな。打合せるべきことも多いので、この家でゆっくりと相談して帰村するのがよいだろう」
・小生は五ツ時に番町の御屋敷に戻り、写し物。夜番を八ツより勤める。
・宜平殿は五ツ時に松枝町を出て、御役所に届けをしてから、七ツ半時に御屋敷に戻った。
・節五郎は御代官様に届けをし、その帰り道に小生の方に立ち寄って、帰村の際の贈り物を聞いて帰っていった。
・幸左衛門殿は中嶋様へ届けに行き、大崎へ廻って打合せをしてから、松枝町へ行った(泊まり)


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嘉永7年11月18日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
早朝掃除。飯田様の米搗き(五ツ前から八ツ時まで)。七ツ半時、麹町の大崎方へ行き、勘定を済ませた。御屋敷に戻り、退職の打合せ。今日で奉公は終わり。松枝町の借家へ行くと、忠次郎、繁次郎が寒見舞の鴨を持ってきていた。逼留 。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の武家屋敷での最終出勤日。最後まで米搗き(笑)。仕事を終えた後の、寒見舞の鴨は美味しかったに違いありません。
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〈詳訳〉
早朝掃除。
・宜平殿は新宿の御屋敷に届けにいった。九ツ時に戻り。
・幸左衛門殿、七ツ時松枝町の借家から戻り。
・飯田様の米搗き。五ツ前から八ツ時まで。
七ツ半時、麹町の大崎方へ行き、話し合いの結果、勘定を済ませた。
・御屋敷に戻り、仕事を辞めることの打合せ。
・松枝町の借家へ行く。忠次郎、繁次郎が寒見舞の鴨を持ってきた。逼留 。
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嘉永7年11月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本町の「鈴木越後」で、大野様へ唐饅頭一朱、五味様、宮本様、田中様へ各二百文、五リン饅頭百文買い、奉公先の御家中衆一同に退職の挨拶。田中様からはお土産をいただいた。昼食後荷物を持ち帰る。
九ツ半時、小石川の高松様へ帰村の挨拶。帰りに、池端住吉屋でキセルを購入。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日の五郎兵衛は挨拶廻り。奉公先の御家中衆には「鈴木越後」で唐饅頭等を買って、挨拶に行っています。小石川の高松家にも挨拶。
「鈴木越後」は、江戸時代の菓子店です。

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〈詳訳〉
・早朝、御膳(朝食)をいただく。
・本町の鈴木越後で、大野様へ唐饅頭一朱、五味様、宮本様、田中様へ各二百文、五リン饅頭百文買った。
・飯田町の万屋で三チ年の上酒五合買い、半助殿へ贈る。藤助殿、清蔵殿へ各百文贈る。
・御家中衆一同に暇乞いに行く。田中様からお土産をいただいた。
・昼食後荷物を持って帰る吉作殿が来た。

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嘉永7年11月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
高輪にいる高松様へ帰村の挨拶。幽学先生は体調を崩されて行けず。高輪で高松様に帰村のご挨拶後、泉岳寺四十七基参詣、御台場の御普請を一見。御殿山、八ツ山の御普請は土取人足が大勢。何万人もいるのかとても数えきれない。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「高松様」は高松彦七郎。幕府の役人(小人目付)。自宅は小石川ですが、御台場の工事のため、高輪に行きっぱなしになっているようです。挨拶後、泉岳寺を参詣し、御殿山、八ツ山の御普請を見るのが、定番のコースのようです。

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高松彦七郎及びその家族(高松様とは)五郎兵衛日記(大原幽学の江戸裁判の様子を記録した弟子五郎兵衛の日記)には、「高松様」が頻繁にでてきま...

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〈詳訳〉
・朝七ツ時、高輪にいる高松様へ暇乞いに出発。幽学先生も行かれる予定だったが、咳が激しく出て断念。忠次郎、繁次郎と小生とで行くこととなった。
・日の出ころ高輪着。高松様に帰村のご挨拶をし、芝の泉岳寺四十七基参詣、御台場の御普請を一見。御殿山、八ツ山の御普請は土取人足が大勢。何万人もいるであろうか。とても数えられない。
・芝の増上寺、愛宕、御本丸をみて、淀藩の御上屋敷で御返翰を頂戴した。万徳(公事宿)に酒代二朱、下代に百文を贈り、帰村の挨拶をした。蓮屋(公事宿)にも寄る。土産を買い調えて、七ツ時に松枝町の借家に戻る。
・暮方、元浜町本屋に行き、本の写しの給金をもらう。
・夜に借家で賄いをしている時、帳面上奉公勤めをしている者と誠実さが異なるといわれ、様子が見られたため、一同で相談し、誠実さを同様にしようという趣旨で、私も出金することで決まった。
その夜、幸左衛門殿、宜平殿、傳藏殿、久左衛門殿、節五郎殿、文平、忠次郎、繁次郎ら都合十一人で休む。岡飯田村の谷本嘉左衛門殿が五ツ半時に来られ、四ツ時に帰られた。

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嘉永7年11月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
五ツ時より勘定(精算)。整理が終わったので、九ツ時(正午)に昼食をとり、帰村の支度。幽学先生から、「帰村してどのような事があっても、相手の悪口をいってはいけない。自分の判断を急がず、何事もまず話をして、相手のことを立てて物事を進めるように」とのお言葉があった。
九ツ過に出立。船に乗る予定で扇橋に向かって十丁ほど進んだが、どうにも寒すぎるため、歩いて帰ることとした。本所から竪川沿いを歩き、夕方に八幡の仲村屋に到着して泊まり。

(コメント)
江戸出立の日となりました。会計を整理して、昼食。幽学先生は五郎兵衛のことを心配してか、注意のお言葉。いつもは扇橋〜行徳まで船で行くのですが、この年はかなり寒く、船では耐え難いので、一同歩いて八幡(市川市八幡)まで行きました。
嘉永7年の日記はここで終わり、来年2月から始まります。なお、「嘉永」はこの年の11月27日に「安政」に改元となるため、来年は安政2年になります。
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〈詳訳〉
・早朝久左衛門殿が出立。
・五ツ時より勘定(精算)に取掛る。
幽学先生は「今後のために、道中での突き合わせが漏れなく十分にでき、心ゆくまで話し合いができるように、遠慮せずに突き合わせを行うように」とのこ指示。
・二月五日夕方から、幸左衛門や良祐は奉公をしいたが、残りの四人は奉公の口がなく借家に滞在。順次奉公に出たが、二月五日以降の飯代を支払っていなかったので、その不足分を払っていかれた。
・小生も、二月五日以降の飯代を払いたいと申しでたが、借家で賄いの役目をしたとのことで、持ち出しに関しては勘定に含めず、良祐と同様の扱いとすることにに決まった。
・1両2朱と530文の支払いを受けるところ
468文預かり
差し引きし、
1両2朱と58文を受領。
11月21日
このことを奉公住名細帳に書印した。
・九ツ時(正午)に昼食をとり、帰村の支度。
幽学先生から、「帰村しても、自分の思い通りにしようと思ってはいけない。どのような事があっても、相手の悪口をいってはいけない。自分の判断を急がず、何事もまず話をして、相手のことを立てて物事を進めるように」とのお言葉があった。
・幽学先生は長部村八石に帰られるので、来年二月に江戸に来る前に打合せを、八石で行おうこととなった。
・宝田家の婚礼では、私が親役、善右衛門殿が仲人を行うこととなった。
幽学先生「太次兵衛や忠次は、意地を張るところがあり、悪い争いごとに巻き込まれることが多い。何を言われても心を広く持つことだ。相手のことを考えて、年をとったらどうなるか等と考えることができれば、ニコッと笑っていられるだろう。こういう風に考えられるように稽古しなさい」
・九ツ過に出立。船に乗る予定で扇橋に向かって十丁ほど進んだが、どうにも寒すぎるため、歩いて帰ることとした。本所から竪川沿いを歩き、夕方に八幡の仲村屋に到着して泊まり。

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文政12年12月中旬・色川三中「家事志」

2024年12月23日 | 色川三中
文政12年12月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政12年12月11日(1829年)
伊勢屋の隠居の病状は相変わらずよくない。母は度々、夜に看病をしている。
神龍寺で伊勢屋隠居の為、施餓鬼をする。
御布施百疋、上物代金二朱也、納所一人ずつ銭三百銅。
#色川三中 #家事志
(コメント)
伊勢屋の隠居の病状は悪く、三中は神龍寺で施餓鬼を依頼しています。半年前に自分が病気のときにも施餓鬼をしており、その時は施餓鬼料百疋、御供料金一朱、御所化方へ二百銅でしたので(6月6日条)、今回の方が高くなっています。

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文政12年12月12日(1829年)曇
本日から寒に入る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
文政12年は本日から寒の入り。小寒から節分までが「寒の内」となります。節分からは春ですから、寒の終わりにより春となるのですね。なお、2025年の小寒は1月5日です。


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文政12年12月13日(1829年)晴
天気晴朗。店の煤掃きの真似をした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
12月13日は煤払いの日です。昨年は日が変わったと同時に起きてすす取りをしていたのですが、今年は火事騒動があったときに実際の煤掃きをしてしまいましたので(12月7日条)、今日はその真似をしただけとなりました。

〈詳訳〉
・天気晴朗。店の煤掃きの真似をした。
・夜に、おはる殿が土浦に到着。水戸より駕龍。
・町奉行所様へ御礼を申上げるようにとの内意があった。
・石渡庄助殿事について入江へ内々に話しをした。
・当節諸事繁用であり、その他は省く。


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文政12年12月14日(1829年)晴
夜八ツ時、伊勢屋の隠居危篤との連絡があり、駆けつけたが、息を引取るときには間に合わなかった。苦しまずに往生になられたとのこと。水戸、竜ヶ崎、鉾田、清水等へ飛脚により訃報を知らせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
伊勢屋の隠居は12月6日に発病し、水海道から医師を呼ぶなどしていたのですが、手当の甲斐なく本日息を引き取りました。訃報は飛脚により各所に発せられています。

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文政12年12月15日(1829年)雨
・寒に入って四日めの雨は、寒さが続くと言われている。
・伊勢屋の隠居の葬礼は明16日八ツ時に行うこととなった。夜七ツ半時伊勢屋から戻る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
親しい人が亡くなり、今日は寒い雨。寒さが続くとの言い伝えを日記に書き残したのは、それが三中の心象風景でもあるからでしょう。伊勢屋の隠居の葬礼は明日取り行われます。

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文政12年12月16日(1829年)曇
七ツ時に伊勢屋で葬礼が行われたが、急に喘息気味となってしまいた参列できず。母と隠居(祖父)及び叔父の利兵衛殿が参列。
伊勢屋での葬礼には15-16両かかったとのこと。十人講に入っていなかったので、その分余計にかかった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
一昨日亡くなった伊勢屋の隠居の葬礼。寒の内なのに、曇や雨の日が結構あり、三中自身の体調もよくないようです(喘息は三中の持病)。葬礼の費用について記しており(15-16両)、十人講に入っていればお得に葬礼をあげることができたとの情報を残してくれています。


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文政12年12月17日(1829年) 晴
寒気六分。本日は体調も良く、早朝に仏参。その後伊勢屋に行き、九ツ過時に家に戻る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日は体調を崩し、喘息気味となって葬礼に不参加だった三中ですが、今朝は晴れて体調も回復し、早朝から仏参。伊勢屋にも挨拶に行っています。

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文政12年12月18日(1829年)晴
土浦藩から御船講の支払い要請あり。横田権右衛門は18両、色川桂助(三中)は4両。支払いは年末と来年夏までの2回に分け、10両以上は無利子10年分割で返金、10両以下は返金なしとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
時代が下がるにつれ、各藩の財政は悪化してきますから、どうやって資金を捻出するのかが課題になります。土浦藩もこのような「講」を作って、町民から資金拠出をさせ、財政を賄っていたようです。

〈詳訳〉
寒気六分。
御上(土浦藩)から御船講の支払いの要請あり。
横田権右衛門 金18両也
色川桂助(色川三中)金4両也
以上の通り、今年の年末と来年夏までの間に、2回に分けて支払うようとのお達し。金額が10両以上の場合は、無利子で10年間分割で返金されるが、10両以下の場合は納めきりであるとのこと。

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文政12年12月19日(1829年)晴
伊勢屋にて待夜。酒はなし。夕方まで伊勢屋にいて家に戻る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
逮夜(本文では「待夜」)とは、忌み日前日の夜を指す言葉。伊勢屋の隠居は14日に亡くなっているので、明日20日が初七日になります(命日を初日と数える)。法事といえば酒がつきものですが、今日の逮夜は「酒なし」であり、酒がでない場合もあったのですね。
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文政12年12月20日(1829年)晴
伊勢屋の初七日の法要。
朝、御寺へ行く。田宿町、上宿市の近くのゑびやという宿を借りた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日は伊勢屋の初七日の法要。初七日は、「当日は僧侶が読経を上げたら参列者は焼香を行い、精進落としで故人を偲びながら会食する流れです」などと説明されますが、三中の時代もその点は変わらいようです。


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蟄居中、髭や月代を整えてもよし・仮刑律的例 48の3

2024年12月19日 | 仮刑律的例
蟄居中、髭や月代を整えてもよし・仮刑律的例 48の3
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(要旨)蟄居中、髭や月代を整えてもよし
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【近江仁正寺藩主からの伺い】
明治2年3月29日、 近江仁正寺藩主からの伺い

預かりの者4人は、長期間の蟄居生活のため、最近頻繁に逆上するため難渋しております。差し支えなければ、髭や月代を整えてもよいように申し伝えたいのですが、問題はございませんでしょうか。お伺い申し上げます。

【明治政府からの返答】
伺いのとおりで問題ない。

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(コメント)
・仁正寺藩は、近江国蒲生郡仁正寺(現滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩です。
・「預かりの者4人」がどのような者か伺文からはよくわかりませんが、「蟄居生活」と記載されていることからすると、武士であり、現代風にいうと禁錮刑を受けていたのではないかと思われます。
・「差し支えなければ、髭や月代を整えてもよいように申し伝えたい」とありますので、髭や月代を整えることを認めず、伸ばし放題であったようです。
・伺いでは髭や月代を整えることの許可を明治政府に求めるものですが、政府は「伺いのとおりで問題ない」とあっさりと認めています。

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徳川慶喜の謹慎は解除せず・仮刑律的例 48の2

2024年12月16日 | 仮刑律的例
徳川慶喜の謹慎は解除せず・仮刑律的例 48の2

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(要旨)徳川慶喜の謹慎の解除は認めない
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【駿河府中藩からの伺い】
明治2年3月、 駿河府中藩主徳川家達の家来からの伺い

徳川慶喜公は昨年の春以来、深く恐れ入っており一室に謹慎しております。元々、慶喜公は気鬱の性格でありますが、この度のことで自然と鬱閉弱骸となるのではないか深く心配しています。恐れ多いお願いではありますが、どうか月に一度か二度だけでも、久能山の墓参などを許していただけないでしょうか。私たちとしてはこれが精一杯のお願いであり、どうかこの事情をお汲み取りいただき、許可していただけましたら、これほどありがたいことはありません。以上の件、何卒ご理解の上、お願い申し上げます。


【明治政府からの返答】
〈刑法官意見〉
この歎願は決して御採用になってはいけないと存じます。

〈議参意見〉
刑法官の見込みのとおり、容易には採用致しかねる。

※議参とは、議政官の議定と参与のこと。
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(コメント)
徳川慶喜は、1868年(慶応4年・明治元年)江戸開城後に水戸・弘道館から宝台院に移り、静岡での謹慎が始まりました。
今回の伺いは明治2年(1869年)2月になされております。伺いによれば、「元々、慶喜公は気鬱の性格でありますが、この度のことで自然と鬱閉弱骸となるのではないか深く心配しています」とのことであり、体調を心配してのことで、謹慎の全部を解除せよというのではなく、
「どうか月に一度か二度だけでも、久能山の墓参などを許していただけないでしょうか」というお願いでした。
しかし、この時期は北海道で戊辰戦争が継続しており、明治政府からすれば、徳川慶喜の謹慎は一部解除であっても時期尚早であったようです。
刑法官の意見が、「この歎願は決して御採用になってはいけないと存じます」となっているのは、このような考え方が背景にあるのでしょう。
徳川慶喜、謹慎が解かれたのは、戊辰戦争の終結(1869年(明治2年)5月)からも4ヶ月もあとの、同年9月のことでした。

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刑法官 けいほうかん
明治初期の司法権を担当した政府機関。1868年(明治元)閏4月の政体書発布にともない京都に設置された。同年10月の東京移転までに捕亡(ほぼう)・鞫獄(きくごく)・監察の3司を備えたが,民事裁判は民部省が管轄したままで,刑事裁判についても各府藩県の裁判所に対し刑の適用の大枠を示す程度の機能をはたすにすぎなかった。翌69年5月には監察司が独立して弾正台となり,7月刑法官は司法省の前身にあたる刑部(ぎょうぶ)省へと改組された。
(山川 日本史小辞典 改訂新版)

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火事が頻発する江戸 嘉永7年11月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年12月12日 | 大原幽学の刑事裁判
火事が頻発する江戸 嘉永7年11月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年11月1日(朔)(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
六ツ半時に殿様御登城(御本供)。小生は飯田町へ買い物。弁当作りの手伝い。その後本の書き写し。
八ツ時、田中様の御用で鳥居様(二番町)の屋敷へ使い。夕方には宜平殿と二人で弓場の片付け。御床上げ。夜番、八ツから勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は殿様の御登城日。五郎兵衛は弁当作りの手伝い。御本供での外出ですから人数も多くて大変だったことでしょう。弁当作りが終わってしまえば、殿様や家臣も出かけてしまい、暇ができたので、本の書き写しのバイトに励むのでした。

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〈詳訳〉
本番。六ツ半時に殿様、御登城(御本供である)。小生は飯田町へ買い物に行き、弁当作りの手伝い。その後写し物(本の書き写し)。
八ツ時、田中様の御用で鳥居様(二番町)の屋敷へ使いにいく。
八ツ半時に宜平殿が松枝町から戻ったので、夕方には二人で弓場の片付け。御床上げ。
夜番、八ツから勤める。



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嘉永7年11月2日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、米搗き、写し物。元浜町の本屋で種本を預かる。松枝町の借家に行くと、湯島中坂で出火したと。夕飯を早めに食べ、荷物を持出して避難する用意をしたが、火事は収まり一安心。その後、幽学先生は良左衛門君と碁を四ツ時まで打っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本の書き写しバイトは順調なようで、元浜町の本屋から新たな仕事を請け負っています。湯島中坂で火事と聞き、火が回ってくるのに備え、腹ごしらえをし、荷物持出しの用意をしています。火が回るまでは時間がかかるので、まずは腹ごしらえ。これが当時の火事への備えなのでしょう。結局、松枝町までは火事にはなりませんでしたが。

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〈詳訳〉
非番。朝掃除、米搗、写し物。七ツ時、作蔵殿と藤助殿は牛込に米を売りに行った。七ツ半、小生は元浜町の本屋へ行き、宜平殿が写す種本を持ってきた。松枝町の借家へ行くと、幽学先生と良左衛門君は碁を打っていた。
八ツ半頃、湯島中坂で出火とのこと。折からの大風で松枝町な風下となるので、夕飯を早めに食べ、荷物を持出して避難する用意をした。幽学先生が外川屋(公事宿)まで火事の状況を聞きに行ったら、火事は収まったとのことであり、一安心。その後、幽学先生と良左衛門君は碁を四ツ時まで打っていた。


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嘉永7年11月3日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
早朝に番町の御屋敷に戻る。時触、写し物。本日冬至であり、戸田様、間部様、小出様、奥様方がお揃いになった。七ツ半、幸左衛門殿が松枝町の借家に行った(本日借家に泊まり)。夜番、八ツより勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
前夜は松枝町の借家に泊まった五郎兵衛、早朝に御屋敷に戻っています。御屋敷には冬至のため、人が集まってきました。冬至には人が集まるのが慣例だったのでしょうか。

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嘉永7年11月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本番。朝掃除、宜平殿と二人で髪結をしていたところ、五ツ半時に大地震(注:安政東海地震)。写し物、御弓場始末。暮方に床上げ。夜番八ツより勤める。暮方に宜平殿は松枝町の借家へ行き、本日泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・嘉永7年11月4日午前9時頃、紀伊半島南東沖から駿河湾にかけてを震源とする安政東海地震が発生しました。五郎兵衛はこの揺れを江戸で経験しました。日記では具体的な被害に言及していないので、江戸では揺れは大きかったものの、さしたる被害はなかったようです。
・11月4日時点での元号は嘉永7年ですが、地震は「安政東海地震」といいます。同月27日に改元となり、安政となったため、この年を安政とするとの考えからです。
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嘉永7年11月5日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
御屋敷では集会があるのに、藤助が麹町に遊びに行ってしまったため、大忙し。非番だが、宜平殿と二人で仕事。松枝町の借家に行くと、夜にまた火事(浅草猿若町)。大風のため、飛び火で向島小梅にある水戸様の下屋敷が焼失したとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・御屋敷での用事があるのに、奉公人の藤助は遊びにいってしまいました。殿様の御法事の日なのに、博奕に負けて裸で帰宅し、首になった者もいましたし(8月4-5日条)、奉公人の質の悪さが目立ちます。
・「向島小梅にある水戸様の下屋敷」は現在の隅田公園。江戸時代には水戸徳川家の下屋敷があり、明治維新後から関東大震災までは、小梅邸と呼ばれた水戸徳川家の本邸でした。

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〈詳訳〉
非番。朝掃除、五ツ時に宜平殿が松枝町の借家から戻ってきた。御屋敷で集会があるので、あちこち掃除をしたり、諸道具を集める。仕事がいろいろとあって忙しいのに、藤助は四ツ時に麹町へ行って暮方まで戻ってこないので、宜平殿と二人で仕事をするしかなく、終わったのは七ツ時。
夕飯を食べ、日暮から松枝町の借家へ行ったとろ、喜平治殿がいた。四ツ谷兵右衛門殿、仲蔵から幽学先生に頼みごとがあり、遣わされてきたとのこと。幽学先生は兵右衛門殿の深い誠意に心を打たれ、「非常に良い心根である。これほどの真剣さであれば、いずれ道を切り開くことは間違いない」と、大いに喜ばれていた。
「兵右衛門の考えのとおりでよい。承知した。そのとおりになればよい」と仰ったあと、小生に対して、「五郎兵衛は四ツ谷兵右衛門と違って、真剣にやりすぎて人の気を害することがある。ほどよいところとなるよう心がけよ」と諭された。
また、仲蔵は、「非常識なやり方で干潟方の頭達やご親類方に対し、面目次第もないことをしてしまった」と我々にも訴えた。良左衛門君にも、「干潟方と縁が薄くならないように、縁が深くなるようにとのご相談を頼みたいとの手紙を送ったので、対処をお願いします」と話していた。
夜五ツ半頃、長左衛門殿が借家に来られた。「浅草猿若町で火事がありました。大風のため、花川町まで十丁余り(約1.1キロメートル)が焼け、飛び火で向島小梅にある水戸様の下屋敷が焼失しました。」とのことであるので、八ツ半頃まで寝ずに番をしたが、火事は収まり、煎り物を食べてから寝た。


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嘉永7年11月6日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝、幽学先生はお茶を飲みながら次のような話をされた。
「自分自身の悪さは、地金のように隠せないものだよ。人が親切にしてくれるのに全く感謝せず、逆に相手を恨む者がなんと多いことか。他人事ではないぞ。よくよく自分の事と心得ておくべきだ。」
たとえ三文でも財産を持つことができるのは、人の世話を受けたからだ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「人が親切にしてくれるのに全く感謝せず、逆に相手を恨む者」とはカスハラの加害者のようです。そういう人が江戸時代にもたくさんおり、幽学先生は様々なところでこのような人を見かけたのでしょう。人の本質は覆っても隠し切れません。

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〈詳訳〉
・良左衛門君は早朝に起き、御膳(朝食)の準備。小生は六ツ時に起き、明け方に朝食を済ませた。喜平次殿は帰村の準備。
・幽学先生がお目覚めなられて、お茶を飲みながら次のような話をされた。
「自分の子供の悪さ、自分自身の悪さは、地金のように隠せないものだよ。人が親切にしてくれることに全く感謝せず、逆に相手を恨む者がなんと多いことか。他人事ではないぞ。よくよく自分の事と心得ておくべきだ。
たとえ三文でも財産を持つことができるのは、人の世話を受けたからだ。
結婚するときに、相手の財産を見てするようでは、財産を守ることはできない。世間を見ていればわかることだ。何回も言ってきたことだが、苦労して心を入れ替えて、根気強く努力することで財産を築くことができるのだ。
結婚生活が失敗しても、相手に気を配ってやらなければいけない。相手を落とし入れようとすると、恨みを買うことになるだけだ。人の心は難しいから、よく心得ておけ。」
・五ツ時に節五郎殿が借家に来たので、兵右衛門殿が送ってきた書面を見せた。
・喜平殿は村に戻る準備を整えた。
・小生は仕事があったので、慌てて御屋敷に戻る。御屋敷では、殿様方が7人集まられて中食を取っており、「取込中であったので戻るのを待ちかねていたぞ」と言われてしまった。殿様方は九ツ時には御帰りになられたので、昼からは後片付けした(八ツ時まで)。一息ついて牛込の揚場の湯に行き、日暮まで休む。夜番は八ツまで勤める。幸左衛門殿は七ツ時に松枝町へ行かれた(本日泊まり)。


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嘉永7年11月7日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
早朝掃除、御床下げ、御馬乗場の設営。八ツ時御弓場の設営、暮方に後片付け、御床上げ。
五味様から、「辻番をするので、火事が発生した場合には、直ちに報告するように」とのご指示あり。夜番は八ツから翌朝明けまで勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
火事が頻発しています。今月だけでも湯島中坂の火事(11月2日条)、浅草猿若町の火事(11月5日条)が五郎兵衛日記に記録されています。
藪家家でも対応を強化し、五味様が辻番に出て、奉公人にも火事があったら報告せよとの指示を出しています。
---
〈詳訳〉
・本番。早朝掃除、御床下げ、御馬乗場の設営。幸左衛門殿は四ツ時に御屋敷に戻った。「松枝町の借家には、昨日正太郎と仲蔵殿が来たぞ。仲蔵殿は改心して、打合せも万端できた。十日市場の親類方には幽学先生から手紙を送ったぞ」とのこと(注:下記に手紙あり)。
・九ツ時に宜平殿は松枝町の借家へ行った(本日泊まり)。
・小生は八ツ時御弓場の設営、暮方に後片付け、御床上げ。その時に五味様が辻番をするので、火事が発生した場合には、直ちに報告するようにとのご指示があった。同僚たちにもこの指示を伝えた。夜番は八ツから翌朝明けまで勤めた。
---
(幽学先生の手紙)
換舌
日々寒さが厳しくなっておりますが、皆様がそろってご健勝であると伺い、大変喜んでおります。こちらも一同、変わりなく過ごしておりますので、どうかご安心ください。
ご老人が亡くなってからは、何かと引き受けてくださり、日々深いご親切にお世話になっていると伺い、誠にありがたく存じます。
ところで、仲蔵の件では皆様にご尽力いただいた際に、いささか無礼があり、またご迷惑をおかけしたことも多々あったかと思いますが、どうかお許しいただきたく存じます。正太郎の件では、誠にありがたきご対応をいただき、申し上げるべき言葉もございません。小生も話しを聞きましたので、事の経緯につきましては逐一承っております。小生としても皆様に合わせる顔がありませんが、ご理解とご容赦の上、どうか平にご寛容いただきますようお願い申し上げます。
仲蔵は、不才ではありますが極めて正直な性格で、給金7両以上を受け取っておりました。数年にわたり、どこででも立派に芳香を勤め上げました。このことは皆も知っていることでございます。
今回のようなことがあり、大変驚いております。しかし、本人も以後改心すると申しております。正太郎も十分に気をつけていなかったために、皆様に大変ご迷惑をおかけしてしまいました。このことは深くお詫び申し上げたいと本人も申しております。小生からも心からお詫び申し上げます。今後、再びこのようなことがあれば、どうか厳しく叱っていただき、引き続きご指導ご支援をお願い申し上げます。特に、仲蔵が気を緩めて慢心し、乱れた言動をしないように、どうかご理解いただき、もしそのようなことがあれば厳しく叱っていただき、見捨てることなくご指導いただければ幸いです。皆様の親切に甘え遠慮なくお願い申し上げました。私の心中をご察しいただき、今後も何卒よろしくお願い申し上げます。乱文乱筆で申し訳ございませんが、ご容赦ください。
寅十一月六日 夜記す
大原幽学
仁藤六左衛門様
御百姓五郎右衛門様

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嘉永7年11月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番。朝掃除、御床下げ、田中勇蔵様のため米搗き。七つ半に松枝町の借家へ行くと、米込村の久左衛門殿が来ており、トラブルが起こって、江戸に滞在している者の帰村願にも支障がでかねないので、傳蔵殿と打合せをお願いしたいとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
米込村は現旭市米込。これまでも同村から江戸の幽学先生のところに人が訪れておりましたので、弟子たちが相当数いたことがわかります。何らかのトラブルがあったようです。
---
〈詳訳〉

非番。朝掃除、御床下げ、田中勇蔵様のため米搗き。五ツから始めて八ツ時までかかる。宜平殿は九ツ過ぎに松枝町の借家から戻った。
七つ半に松枝町へ行くと、米込村(現旭市米込)の久左衛門殿が来ていた。「小見川(現香取市小見川)の茂兵衛殿から伝言があります。二人のうち一人が10日前に江戸に出府する予定だったが、一人で行ったために大きな間違いが生じたとのことです。道友のことも、事件関係者が江戸に来ているので、御上は全て御存知なのです。米込から一人で行ったことで、御上の気を悪しくして、帰村願に支障が出るかもしれません。傳蔵殿を連れてきて打合せをする必要があります」
五ツ時には長左衛門殿も借家に来た。四ツ時就寝。


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嘉永7年11月9日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
良左衛門君が八ツ半時に起き、炊事等を始めたので手伝う。幽学先生は高輪訪問を天候不良で見送り。元浜町で真書太閤記の種本を預かり、大伝馬町で筆を購入して、御屋敷に戻る。写し物。昼に藤助と牛込揚場の湯に行き、夕方に床上げ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
良左衛門は相変わらずの早起きで、今日は八ツ半時に起床。八ツ半は午前3時といわれますが、当時は不定時法で、冬至のころですから、もう少し遅い時刻にはなるのでしょうが、それにしても早い。名主の息子なのですが、このマメさは立派です。
---
〈詳訳〉
八ツ半時に良左衛門君が起きだし、炊事等を始めたので手伝い。七ツ半頃朝食。
幽学先生は高輪に行き、高松様とお話しになられる予定だったが、天気がよくなく見送られた。
久左衛門殿が明け方に出立。
元浜町の本屋へ行き、真書太閣記の種本を五冊持ち帰る。大伝馬町の高木で、自分用と宜平殿用の筆を買って御屋敷に戻る。
添番。写し物。昼より藤助と二人で牛込揚場の湯に行く。暮方床上げ。
幸左衛門殿は暮方に松枝町の借家に行った(本日泊まり)。

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嘉永7年11月10日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除や御床上げ。田中様の米搗きを五ツ半時から八ツ時まで行う。飯田町に米を持参し、酒代32文を受け取る。戻ってから写し物。夜八ツ時から夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、今日も一日働き詰めです。仕事をしなけらばならないときでも、ふらっと遊びにいってしまうような奉公人が多い中、真面目に仕事をしてくれる人材は、武家屋敷側からしても貴重なのでしょう。


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〈詳訳〉
本番。朝掃除、御床上げ、田中様の米搗き。五ツ半時に始め、八ツ時に終わる。昨日松枝町に行った幸左衛門殿は四ツ半時に御屋敷に戻った。飯田町の押久蔵方へ米を持っていき、酒代として32文貰う。御屋敷に戻り、写し物。七ツ時には宜平殿が松枝町の借家へ行った(本日泊まり)。小生は夜番を八ツから勤めた。

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文政12年12月上旬・色川三中「家事志」

2024年12月09日 | 色川三中
文政12年12月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政12年12月朔(1日)(1829年)
#色川三中 #家事志
(コメント)
文政12年も最後の月となりました。本日は12月の初日ですが、「晴」と天気だけで、記事はありません。

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文政12年12月2日(1829年)曇
大坂殿(取引先)宛の手紙を入江(名主)の分も含め二通、仙台飛脚にて送る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「大坂殿」ははっきりしませんが、江戸橘町の大坂屋平六のことかもしれません。薬種問屋であり、三中のかつての奉公先で、色川家とは享保の頃からの取引先です。「仙台飛脚」は江戸・仙台間の飛脚ルート。


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文政12年12月3日(1829年)曇
・町年寄の退職願を書直して提出。
・夕方川口の隠居(祖父)が、弟の金次郎と共に江戸から土浦に戻った。平安無事、これに優ることはない。
・その他諸々忙しく略す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の祖父は11月22日に江戸に駕籠で出発。11月27日には祖父の迎えのため、弟の金次郎ご土浦を出発していました。2日あれば江戸には到着しますから、金次郎も江戸見物していたのでしょう。

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文政12年12月4日(1829年)夜中大雨
谷田部(現つくば市谷田部)の勝右衛門、本日をもって退職し、谷田部へ帰る。当家で29年間働いてくれた。私が生まれる前から当家にいた。昔を知る人が少なくなることが何よりも悲しい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
勝右衛門は色川家の従業員。本年正月で80歳となっています(文政11年12月8日条)。色川家で働いたのは29年間。最古参でした。三中はまだ20代ですが、「昔を知る人が少なくなることが何よりも悲しい」との感想が若者に似つかわしくない渋さと切なさ。

〈詳訳〉
・金銭借入交渉をお願いしている間原平右衛門が、六ツ時に宍倉(現かすみがうら市宍倉)へ向けて出立。お供として松二郎を行かせた。
・谷田部(現つくば市谷田部)の勝右衛門、本日をもって退職し、谷田部へ帰る予定。当家で29年間働いてくれており、私が生まれる前から当家にいたものだ。昔を知る人が少なくなることが何よりも悲しい。
・八ツ半時、町年寄の退職願いの件で御呼出しがあり、親類の庄右衛門、差添は鈴木金之丞殿で、御奉行所へ出頭。
御奉行「この度の退職願については、御上も残念に思っておられるが、よんどころない事情であるため、退職を認める。」
「別件であるが、ひものや鉄五郎との一件については済口証文を早速やかに提出するように」
庄右衛門は早速御礼廻りを行った。、夕方御礼廻りが首尾よく済んだとのことで、鈴木氏と庄右衛門殿へ酒をお勧めした。
・今日七ツ時分は大雷雨。今年の四月頃にも同じような大雷雨があった。
・今日は天社日で、甲子。
・夜に内田六蔵が来て、ひものや一件の書付、賃料二両及び済口証文を持ってきた。この件も無事に終わりそうである。


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文政12年12月5日(1829年)曇
・昨夜内田六蔵が来て、ひものや一件につき書付、賃料2両及び済口証文を持ってきた。
・本日ひものや源七が(組合の者1名同道)詫びにきた(息子の鉄五郎は来ず)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「ひものや」との件は訴訟にまでなりましたが、先月末日には話し合いで終了(11月晦日条)。昨夜仲介に入っている内田氏から書類等を受領し、今日は鉄五郎の父親(鉄五郎本人は来ず)も詫びを入れてきましたし、紛争全体が解決、終了となりそうです。

〈詳訳〉
・勝右衛門が谷昨日田部へ帰る予定だったが、本日となった。8-9人が見送りに来ていた。
・町年寄を退職となったので、組合(五人組)に再び加入するとの挨拶を利兵衛殿にしてもらった。
・七ツ時、小頭様から呼出しがあり、利兵衛殿に代人として行ってもらった。ひものや一件については、当方からのご報告を御聞届になられ、訴訟については終了。訴答願書趣意書とも焼却とするとの仰せ付けがあった。御奉行所と両小頭には御礼廻りをした。
・ひものや源七が来て(組合の者1名同道)詫びを入れてきた(息子の鉄五郎は来ず)。

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文政12年12月6日(1829年)曇
伊勢屋の隠居が病気。秋葉医師を呼ぶ。
お見舞いの帰り道、火事の声を聞き急ぎ戻ると鷹匠付近で火事。風が強く、火は広がり荷物をまとめて避難準備。田宿町へも火の粉が降ったが、八ツ時頃鎮火。家は無事。店の者に一杯ずつお神酒を渡した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・伊勢屋の隠居の大病、見舞いに行った帰りに火事と緊迫した出来事が続いてしまいました。火事は色川家までは類焼せず、三中もほっとしたようで、店の者に一杯ずつお神酒を渡しています。
・「鷹匠」という地名は土浦市の住居表示からは消えてしまっていますが、「土浦鷹匠町郵便局」が存在するので、場所が分かります。
茨城県土浦市中央2丁目14−11
三中の家のある田宿町とは確かに少し離れています。

〈詳訳〉
・ひものやから詫びがあったことについては、利兵衛から報告してもらった。夜には両小頭と入江(名主)及び町役人に内々挨拶をした。
・町年寄の退役の理由を病気としたので、外へ出ることは自粛している。
・伊勢屋の隠居が病気となり、夜四ツ過時に水海道の秋葉可明老(医師)が駕籠で土浦に来られた。駕籠の者に茶漬や酒等を振舞った。
九ツ時に伊勢屋に様子を見に行ったが、病人の具合はよろしくなく、命期が近いのではないかとのこと。
・帰りがけに、沼尻石牛のあたりで「火事だ」との声が聞こえたので急いで戻ったところ、追手まで来てみると、鷹匠のあたりで火事のようだ。大声で「火事だ」と知らせながら家に戻る。風は甚だ強く、火は一面に田宿の家の方へ来ており、とにかく荷物をまとめて避難の用意をした。火事は横町から出て、築地を焼き、鷹匠町へ飛火した模様。川風の方角がよくなく田宿町の方へ火の粉が降ってきているので、いよいよと荷じまいをしたが、八ツ時分ころようやく鎮火した。
・伊勢屋と川口へ火事の見舞い。荷物は全て裏へ出してしまったので、とにかく内には運び入れて一夜をあかす。我が家が火事とならなかったので、店の者に一杯ずつお神酒を渡した。


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文政12年12月7日(1829年) 雨
・秋葉可明様(医師)滞留。伊勢屋の隠居が病気のため。神保氏を呼んで、今後のことにつき話す。
・昨夜荷物を全て裏へ出したこともあり、店の煤掃きを今日行った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
煤払いの日は毎年12月13日ですが、昨夜の火事騒動で荷物を全て店外へ出しており、1週間ほど早いですが、店の煤掃きを行っています。

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文政12年12月8日(1829年)雨降
昨夜、伊勢屋の隠居に大陥胸を用いたが、大行程があった。そのため、「2-3日は下剤を見合せ、木防已去石膏青加茯苓芒硝湯を服用させるように」といって、秋葉可明先生(医師)は水海道にお帰りになった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
伊勢屋の隠居が病気で、わざわざ水海道から秋葉可明医師に往診に来てもらっています(12月6日条)。本日の記事に出てくる「大陥胸」「木防已去石膏青加茯苓芒硝湯」はいずれも漢方薬です。三中は薬種商なので、漢方薬の名前がポンポンと出てきますが、当方不案内で皆目わかりませぬ。

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文政12年12月9日(1829年)晴
・塚本亥之吉が病気となり、見舞いに行く。五頭玄仲医師に診てもらいたいとのこと。宍塚玄仙方に人をやって伊勢屋の病人の看病を頼んだ。
・(三中が)町年寄を退役したとの触書が今日出た。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・今日の天気は晴ですが、今月2日から曇とか雨で天候不順。それもあってか今月6日から病気の記事が続いています。
・塚本亥之吉は三中の実弟(塚本家と養子縁組)。五頭玄仲は土浦藩医。佐原の小川欽斎の息子で、五頭玄台の婿養子。

〈詳訳〉
・塚本亥之吉が病気とのことで見舞いに行く。五頭玄仲医師に診てもらいたいとのこと。宍塚玄仙方に人をやって伊勢屋の病人の看病を頼んだ。
・西原村(現水戸市西原)の者が来たが、町請人の勘違いがおり、今夕は町請人宿で泊まりとなった。
・大国屋武兵衛方一件について、川原代(現龍ケ崎市川原代)から九ツ時飛脚が来た。細井氏から西道内、池端三所の書面が届いた。「この書面につき他言ないように、貴家内で取計いいただくように」との内容であった。そのことを早速大国屋武兵衛方へ書面でいって、書状を内々に見せた。夜に、武兵衛から忝ないとの挨拶あり。
・小生が町年寄を退役したとの触書が今日出た。


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文政12年12月10日(1829年)雨
水戸にいる「おはる」殿を迎えに行くため、伊勢屋が駕籠を出したとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
伊勢屋の隠居の病気は思わしくなく、重篤なようです。水戸にいる「おはる」殿は隠居の娘でしょうか。かなり厳しい状況にあることが伝わってきます。
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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第十回講義

2024年12月07日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第十回講義
第十回講義(明治18年5月21日)

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第五章 検察官の公訴を提起が制約される場合
(はじめに)
これまで検察官は、公訴を執行することについては独立した権利があり、他からの牽制を受けないと説いていきました。
しかし、例外的に公訴提起が制約される場合があります。制約には、一時的なものと、無期限にわたるものとがあります。一時的な制約とは公訴の停止を意味し、無期限の制約とは公訴を抹殺又消滅させるものを指します。
◯公訴権が停止される場合
1. 被害者の告訴を待って罪を問うべき犯罪
2. 起訴を行う際にあらかじめ許可を要する犯罪
3. 予審を必要とする犯罪
◯公訴権を抹殺するもの
1. 外交官の犯罪
2. 国内の港内にある外国軍艦内での犯罪や、軍旗の下にある軍人の犯罪
3. 不問令
◯公訴権を消滅するもの
1. 被告人の死去
2. 確定判決
3. 期満免除(時効による免除)
4. 刑の廃止
5. 告訴を待って審理すべき犯罪における被害者の権利放棄または私的和解

以上を、第一款「公訴の停止」、第二款「公訴の抹殺」、第三款は「公訴の消滅」の三つに分けて説明します。
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第一款 公訴の停止
(はじめに)
公訴の停止は以下のようなものがあります。
①告訴が行われるまでの公訴停止
②許可が下りるまでの公訴停止
③予審が行われなければ公訴を提起できない場合
以下、順次説明します。

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第一節 告訴が必要な場合
(治罪法第3条の趣旨)
治罪法第3条は「公訴は被害者の告訴を待って起こすものではない。また、告訴や私訴の棄権によって公訴が消滅するものではない。ただし、法律がおいて特に定めた場合はこの限りではない」と規定しています。同条の趣旨は、公訴と私訴の性質はそれぞれ独立しており、主従関係がないことを示しています。したがって、公訴は私訴によって左右されず、私訴もまた公訴によって左右されるものではありません。

私訴は私人各個により行われるものですから、私訴を行うか否かは個人の自由に属します。公訴は国家のために行われるものですから、検察官が犯罪があると認めた場合には、必ず公訴を提起するべきです。

世の中の事柄は、千差万別でありまして、一つの原則だけを貫き通すということはできません。正則というものがあれば、変則というものが必要になる場合もあります。変則が設けられるのは、正則の主旨を貫徹するためであり、正則を廃止するものではありません。特別な場合には、むしろ変則が必要です。告訴を待ってその罪を論ずるものは、変則に属するといえます。
━━
(告訴が必要とされる犯罪)
どのような犯罪が告訴が必要とされるのでしょうか。
告訴が必要とされるものは相当数あり、親族間の平和や名誉を保護法益とする場合です。それゆえ、告訴を待ってその罪を問うものは、すべて個人に対するものに限られます。公共に関わる犯罪で告訴が必要というものはありません。
犯罪というものは、多少なりとも公益と私益の両方に関わり、両者を截然と区別するのは非常に困難ではありますが、細かく見ていけば、両者は自ずとその違いがあります。実際古代ローマやギリシャでは犯罪を公罪と私罪の二つに分けていました。

被害者の告訴を待って審理されるべき場合として刑法で規定されているものとして、次のものがあります。
第一 脅迫の罪(刑法第329条)
第二 略取誘拐の罪(刑法第344条)。
第三 姦罪(刑法第350条及び同第353条第2項)。
第四 誹毀(ひき)の罪(刑法第361条)
第五 牛馬以外の家畜を殺した罪(刑法第423条)。
第六 罵詈(ばり)の罪(刑法第426条第12項)

以上の六つの場合は、被害者またはその親族の告訴を待って罪を問うべきものとされています。その他、特別法においても親告罪があります(例:新聞条例)。
━━
(告訴できる「親族」)
刑法では、被害者または親族の告訴を待って罪を問うことがあると明文で規定されています。
被害者本人の告訴に関しては特に解説を要しないのですが、親族の告訴を待つという点については、説明が必要です。

告訴できる「親族」は、刑法第114条および第115条に列挙されている者と同義でしょうか。そうであれば、日常の生活を共にせず、利害関係が薄い親族も含まれることになってしまいますので、私は、刑法第114条および第115条に記載されている親族と同義ではなく、被害者に最も直接的な関係を持つ親族と解釈するべきと考えます。そう解さないと問題が生じます。

例えば、猥褻な犯罪によって恥辱を受けた処女がいるとしましょう。本人やその父母がその事実を隠し、告訴をしないのに、本人と関係が薄い他の親族がこれを告訴したとすれば、その告訴は本人および父母の意思に反します。そのことで、親族間の平和を傷つけますし、事実を公にしてしまえば、ますますその恥辱を広めることになり、結果的に本人の名誉をさらに損なうこととなってしまい、法の趣旨に反することになひます。したがって、「親族の告訴を待つ」とは、刑法第115条および第114条に定められた親族を指すのではなく、被害者と最も直接的な関係を持つ親族を指すものと解釈しなければなりません。
━━
(告訴権者の意見が一致しない場合)

被害者と親族の意見が一致せず、一方が「告訴すべきだ」と言い、他方が「告訴すべきではない」と主張する場合、どう考えるべきでしょうか。

この場合、被害者の状況に注意を払う必要があります。

被害者が幼少者であるか、または精神的に障害を持つ者であるか、いずれかに該当し、無能力者であるときは、その後見人である親族の意見に従わなければならないでしょう。なぜなら、後見人は被害者のために事を処理する者であるため、その意見に従わなければ、被害者に害を及ぼすと推測されるからです。

これに対して、被害者が無能力者でない場合には、被害者の意思に従うべきでしょう。法律が親族に告訴を許した趣旨は、被害者が告訴を行うことができない場合に、親族が代わりに告訴を行うようにするためです。したがって、被害者の意思に反する親族の告訴を認めることは、法の趣旨に反します。よって、被害者が無能力者でない限りは、被害者の意思に従うのが最も適切です。

また、父と母の意見が異なる場合、どちらに従うべきかという問題については、法律上、父母が共に存在している場合、父が後見の職務を執ることになっているので、父の意見に従うべきです。したがって、父の意見に反する母の訴えは裁判所が受理すべきではありません。そして、他の親族についても、以上の説明に基づいて同様に判断すべきです。
━━
(告訴を要する犯罪は限定されるべき)
すでに述べたように、検察官が公訴を行う際には、不羈独立が一般的な原則であり、これを妨げる場合は例外的です。例外はこれを拡大するべきではないというのは、古来から動かすことのできない原則です。したがって、上記の例外的な場合以外には、この原則に反することはできません。つまり、上記のいくつかの例外を除いては、検察官はどのような場合や事件でも自由に公訴を起こすことができます。
━━
(告訴に欠陥がある場合)
告訴を要しない事件については、たとえ告訴に欠陥があっても、そのために公訴が消滅することはありません。この場合は、告訴に欠陥があったとしても、検察官が最初から自ら起訴したものであれば、何の障害もないのです。

これに対して、告訴を待つべき事件の場合、もし告訴に欠陥があれば、当初から告訴がないことになり、公訴は無効となります。したがって、審理中に告訴が規則に反したものであることが判明した場合は、直ちにその公訴を廃棄しなければなりません。そのため、司法警察官が告訴を必要とする事件を処理する際には、この点に十分に注意を払い、告訴人が本当に告訴の権利を持っているかどうかを確認し、無効な公訴を生じさせないようにしなければなりません。

以上、告訴を必要とする事件について概説しました。以下では各罪について説明します。

━━
第一 脅迫罪

刑法第326条第1項には「人を殺すと脅迫し、または人の住居としている家屋に放火すると脅迫した者は……」とあり、その第2項には「殴打や傷害、その他の暴行を加えると脅迫し、または財産に放火し、毀壊劫掠しようと脅迫した者は……」と規定されています。また、第329条には「この節に記載された罪は、脅迫を受けた者またはその親族の告訴を待って、その罪を論ずる」とあります。

━━
(脅迫罪が告訴を要する理由)
脅迫罪について、なぜ告訴を必要とするのでしょうか。フランス治罪法(第305条以下を参照)によると、脅迫罪には、文書によるものと言辞によるものとの2種類があります。

文書による脅迫は、どのような場合であっても罰せられるべきですが、言辞による脅迫については、特定の要求があること、それを達成するために犯したものであることが満たすことで罰することができます。

例えば、「お前は金を私に渡せ。もしそれを拒むなら、私はお前の家に放火する」といった場合のように、何かを要求し、威圧しているものであれば、その罪を問うことはできますが、何も要求することなく、ただ「放火するぞ」「殺すぞ」と言い放つだけでは、それを罪に問うことはできないのです。

しかし、我が国の刑法第326条には、「人を殺すと脅迫し、または人の住居としている家屋に放火すると脅迫した者は……」とあるだけで、上記のような区別は一切示されていません。

したがって、ただ「殺すぞ」「放火するぞ」と言い放つだけでも、その罪が成立するかのように見えます。

しかしながら、本邦でも立法の精神はフランス法と同じであり、何か要求することがあって脅迫したものでなければ、これを罪としてみなさないと解釈するのが妥当です。

では、脅迫罪はなぜ告訴を必要とするのでしょうか。脅迫というものは、その加えられる力は無形のものであり、それを受ける害もまた無形です。つまり、威力によって他人を恐怖させるものです。そのため、受ける人の性質によって違いが出てくる可能性があります。たとえば、同じ行為によって脅迫を受けた場合でも、豪胆勇猛な者は全く気にしないでしょうが、小膽怯弱の者は恐怖してしまうでしょう。その恐怖の程度は他人にはわかりません。これが、脅迫罪に告訴を必要とする理由です。

一方で、何か要求することがあって脅迫を行った場合には、告訴を待たずに罪を問うべきです。なぜなら、人を脅迫して物事を要求する行為は、極めて悪質であり、強盗とほとんど変わらないからです(私見ではその手段の卑劣さは一層非難されるべきとみています)。
このように脅迫罪は、我が国の法律では告訴を待って初めてその罪を論じることとされています。
(第十回講義 終)
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嘉永7年10月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年12月05日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年10月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年10月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝食後、幽学先生から次のようなお話しあり。
「他の者に気を配って、他の人を良い方向に導くことができれば、自分自身の家庭も自然に整い、トラブルも起こらない」
「身を修めるには、心正しく、誠実な意志を持つこと、それだけだ」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生のお話しは難しいことは一つもありません。それだからこそ、農家の五郎兵衛でも理解できるし、実践してみようと思わせるものがあるのでしょう。なお、幽学先生は「予がいなくなった後は、これまで教わってきたことを実践し続けるのだ」と後の悲劇を予感させることも述べています。

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〈詳訳〉
朝食が終わってから、幽学先生から次のようなお話しがあった。
「自己を改革してきた者が気が緩んでしまうと、自分のことばかり考えるようになってしまうから、気をつけるように。
他の者に気を配って、他の人を良い方向に導くことができれば、自分自身の家庭も自然に整い、トラブルも起こらない。家族全員が一丸となって働くから、財産を築くことができる。
身を修めるには、心正しく、誠実な意志を持つこと、それだけだ。規則正しい生活や行いは、誠実な心で広い視野を持ち、静かな心で取り組まないと成し遂げられない。
曲がったものは曲がったもの、四角いものは四角く、丸いものは丸い。あるべき形を持っている。予がいなくなった後は、これまで教わってきたことを実践し続けるのだ。毎年元旦には心の持ち方をしっかりと定め、一年中失わないように、規律をしっかりと根付かせるようにせよ」
五ツ時にお二人は出立。高橋から船に乗るというので、そこまでお送りする。四ツ時松枝町へ戻って中飯。
九ツ時に辞去し、御屋敷に戻る。添番。夜番も九ツ迄勤める。

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嘉永7年10月22日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・早朝に掃除、写し物。昼から揚場の湯に入り、その後御弓場始末。夜番は九ツから勤める。
・宜平殿が四ツ前に松枝町へ行かれた(この日泊まり)。幸左衛門殿は松枝町から暮方に御屋敷に戻られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、宜平、幸左衛門の三人は、同じ場所で働いています。今日の日程を見ると、昼前から暮れ方までは五郎兵衛しかいません。しかも、五郎兵衛は昼過ぎには銭湯に行ってしまっています。奉公もかなり暇になってしまっているのかもしれません。


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嘉永7年10月23日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
早朝掃除、写し物。七ツ半時に出かける。元浜町の本屋へ行って種本を取ってから、松枝町の借家に行く。夕方、長左衛門殿が来たので、碁を打つ。四ツ半時就寝(松枝町に泊まり)。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
最近「写し物」をしていることが多い五郎兵衛。今日の記事で、元浜町の本屋で種本を借りてきており、注文が順調に入ってきているようです。昨日も本番なのに、「写し物」をしていました。勤務時間中に副業に精だししているということですね、これは。

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嘉永7年10月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝、幽学先生は鯉を召しあがった。「五郎兵衛よ、お前も鯉を食べなさい」と仰ったので、小生もいただいた。
五ツ時、番町の御屋敷に戻り、書き物の写し。八ツまで夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は、鯉は養生になると考えておりましたが、江戸に来てからはあまり食べていませんでした(嘉永6年3月1日条)。が、ここでは五郎兵衛の体調を気遣ったのか、五郎兵衛にも鯉を奢っています。
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嘉永7年10月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除。写し物、御弓場の片付け。夜番、八ツから勤める。
幸左衛門殿七ツ時に松枝町へ行かれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日には「八ツまで夜番を勤める」とあり、本日は「夜番、八ツから勤める」とあるので、八ツ(午前2時)を境として、夜番は二分割されています。どちらを勤めるにしても大変ですが、五郎兵衛は全く弱音を吐きません。

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嘉永7年10月26日(1854年)非番
#五郎兵衛の日
朝掃除、写し物。昼から障子張り、
馬場の設営。夜番を八ツより勤める。
※幸左衛門殿は松枝町から五ツ半時に御屋敷に戻られた。七ツ半時宜平殿は松枝町へ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
非番のはずですが、朝には掃除、昼から障子張り、馬場の設営等しており、結構働いてます。しかし、一方添番の日に、幽学先生のところに行って泊まったりもしていますので、同僚(幸左衛門や宜平)とうまくやりくりしているのかもしれません。

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嘉永7年10月27日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、写し物。昼から宜平殿と二人で髪結い。七ツ時松枝町へ行く。本日泊まり。
※幸左衛門殿は銀座へお金を納めに行き、八ツ半頃戻られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「銀座」とは江戸幕府の銀貨鋳造所であり、もともとは現在の銀座の場所にありましたが、寛政12年(1800年)銀座は蛎殻町に移転しています。幸左衛門は行ったのは、蛎殻町にあった銀座(という役所)でしょう。

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嘉永7年10月28日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
良左衛門君が早起きして、炊事等始めたので、小生も負けじと早起きして手伝い。六ツ半に朝食を食べ、五ツ時に借家を出る。
写し物。暮方に夜具上げ、御弓場の片付け。夜番を八ツから勤めた。
※幸左衛門殿は暮れ方に松枝町へ行き、本日泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨夜は松枝町の借家に泊まった五郎兵衛ですが、早起きして朝食を食べ、本番の仕事についています。藪家から見ると、奉公人が時々どこか分からないところで外泊しているということになりますが、それを許容せざるを得ないほど人手不足だったのでしょう。

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嘉永7年10月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除。松枝町の借家へ行く。幸左衛門殿が買ってくれた鯛を昼食に食べる。午後は幽学先生も含め5名全員で泉の湯へ行く。
午後は万徳や蓮屋など公事宿へ袴代を届け、元浜町の本屋で仕事の打合せ。
夜は碁を打って過ごし、泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
現在幽学一派は、江戸ではバラバラに生活しているので、月の末日近くには松枝町に集まり、少しだけ贅沢して過ごします。今日は幸左衛門殿が鯛を買ってきてくれました。その後は皆で銭湯に行ったり、碁を打ったりして過ごします。一方で公事宿には付届けをしたり、バイトの打合せを入れたりと、遊ぶだけではない大人の対応もしています。
---
〈詳訳〉
添番。朝掃除。五ツ時、宜平殿と二人で松枝町の借家へ行く。幸左衛門殿は日本橋に肴を買いに行って、鯛二本を買って帰ってきた。
九ツ時昼食、鯛をいただく。
昼から泉の湯に行く。幽学先生、良左衛門君、幸左衛門殿、宜平殿。
その後、七ツ時に万徳(公事宿)へ袴代を持っていく。節五郎殿は蓮屋(公事宿)へ、良左衛門君は邑楽屋(公事宿)へ袴代を持って行った。
晩に元浜町の本屋へ行き、仕事の打合せ。
幸左衛門殿、良左衛門君らと四ツ過まで碁を打ち、本日泊まり 。

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嘉永7年10月晦日(30日)(1854年)
#五郎兵衛の日記
・早朝、幸左衛門殿と二人で番町の御屋敷に戻る。本番。写し物。暮方に夜具上げ。夜番を八ツまで勤める。明日(朔日)、御殿様は御登城になられるとのお触れがあった。
・「田安御代官磯部寬五郎様に差上げる書附」を書く。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
日記に出てくる磯部様への書付は、田安家の磯部代官が、対奉行所対策で下書きをわざわざ書いてくれたものです(10月20日条)。審理が進まず放置されていること、江戸滞在で当惑難渋していることを訴える書面です。

---
〈書附の内容、下記のとおり〉
田安御代官
磯部寬五郎様に差上げる書附

平右衛門がこれまで申し上げてきましたように
、門弟たちは教えを受け、慎ましく振る舞い、農業に精を出し、善行に努めております。不適切な行いをする者は一人もおらず、五常の道を守り続けております。
しかし、はからずも一昨年(子年)の夏に事件に巻き込まれてしまい、奉行所から呼出しを受け、昨年(丑年)の3月に2回審理が行われましたが、その後は次のように一度も審理がない状況です。
昨年(丑年)
盆前まで江戸滞在。盆に帰村命令。
8月2日江戸に到着するも、即日10月5日迄帰村命令。
10月6日江戸に到着するも、呼出しなく、暮れまで江戸滞在。暮れに帰村命令。
今年(寅年)
2月朔日江戸に到着するも、呼出しなく、盆に帰村命令。
閏7月晦日に江戸に到着。
このように呼出しもなく、江戸宿(公事宿)に滞在しております。
昨年3月以来一度も呼出しなく、むなしく江戸に滞在しているので、 かなりの費用がかかり
、誠に当惑し難渋しております。
御奉行様は御用も多いことゆえ、御呼出がないとは存じておりますが、他の事件については御呼出しをし、審理をされているのではないでしょうか。何卒御慈悲をもって、本件の審理を行っていただき、御奉行所様の御慈悲のある御沙汰(判決)をいただき、安心して帰村できるようにしていただきたくお願い致します。
そのようにしていただけましたら、これまで通り農業に精を出し、万事善道を心掛け、両親を大切にし、妻子を安らかに養育致します。

本件につきまして御奉行所様が御取調べであることは重々承知しておりますが、私ども貧しい百姓が江戸に留まることは、両親や妻子が路頭に迷うことにもなりかねないと心配で仕方ありません。私たちはこれまで慎ましく農業に励んでおり、村内外でもそのことは知られております。
どうかこの状況をお汲み取りいただき、何とか救っていただきたく、お願い申し上げます。早く村に帰り、これ以上ないご恩をいただけるよう、心から願っております。
寅十月
平右衛門代
惣右衛門

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ひものやとのトラブル終了 文政12年11月下旬・色川三中「家事志」

2024年12月02日 | 色川三中
ひものやとのトラブル終了 文政12年11月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政12年11月21日(1829年)晴
本日も神龍寺惣益講の開札あり。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「惣益講」というのは、無尽の一種でしょう。無尽は、仲間内で集まってお金を出し合い、困っている人に融通することですが、寺が主催し、名前も「惣益講」であり、より規模の大きい金融の手段に変質してきている感じです。

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文政12年11月22日(1829年)晴
・寒気甚だし。
・隠居(祖父)、本日江戸に出立(昨日出立の予定であった)。 かが松二郎と下男の喜七の駕籠で行く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は20代後半ですから、隠居(祖父)は相当な年齢のはずです。体調が悪いのか、寒さのせいかわかりませんが、今回の江戸行きは、駕籠で行く事となりました。


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文政12年11月23日(1829年)雨
・雨のため、大枝清兵衛殿は土浦に滞留。今夜、川口(現土浦市川口)へもお連れした。
・和田屋吉右衛門が江戸から来られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
大枝清兵衛、和泉屋吉右衛門は、いずれも江戸の薬種問屋で三中(薬種商)の取引先です。本年(文政12年)3月に江戸では大火が起き(文政大火)、両名の店舗兼家屋は全焼してしまいましたが(3月22日条)、9月には挨拶に来ており、営業活動を再開しています。


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文政12年11月24日(1829年)曇
内田六蔵(ひものや側代理人)が来る。夜に組合(五人組)、とり彦、竹中と打合せ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやとの件は概ね合意が成立していたのですが(11月17日条)、まだ打合せなけれぱならないことが残っているようです。ひものや側の代理人の内田氏や組合(五人組)等を交えて打合せをしています。

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文政12年11月25日(1829年)晴
内田六蔵(ひものや側代理人)が来た。夜に組合の者も来た。彼らとの打合せのあと、入江(名主)のところに行って協議した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日も昨日に引き続きひものやとの件で交渉。三中は一度名主の見解を聞きたかったのでしょう、名主とも協議をしています。

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文政12年11月26日(1829年)晴
夜に組合一同と内田六蔵来る。詳細は別記のとおり。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやとの件での打合せは3日連続。本日の打合せで一区切りとなったようなのですが、今日の記事にある「別記」が日記には見当たりません。よって、どのような内容であったかは現時点は不明です。
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〈その他の記事〉
・備忘
去る子年(昨年)に割り付け高に間違いがあったため、精算の上で正して改めた書付がある。それ以来、高の出入はない。このことをしっかり覚えておくべき。
去る子年(昨年)の役米は三斗六合で、当年(今年)は役高が十五石を除き、また壱軒分を除くので、一斗三升(約18リットル)となった。これも後に間違いがないように覚えておくべき。しかし、役米の勘定にまだ間違いがあることも心得ておくべき。


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文政12年11月27日(1829年) 曇
・隠居(祖父)を江戸に迎えに行くため、弟の金次郎が江戸に出立。
・近小(近江屋小兵衛)へ鴨一番を贈った。
・昨夜、大坂大和屋金三郎殿から書状が届いた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の祖父は11月22日に土浦から江戸に向け、籠で出発しており、現在は江戸滞在中。祖父が高齢だからでしょうか、迎えに、三中の弟(金次郎)が江戸に向かいました。

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文政12年11月28日(1829年)
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日は天気だけの記事です。
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文政12年11月29日(1829年)晴
町年寄を辞職したいと申し上げ、それに対してこれまで様々な御配慮あるお言葉をいただいてきたが、やはりこれ以上勤めることができない。辞職願いの書面を提出する予定である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の町年寄辞職問題もいよいよ大詰めです。三中が町年寄を辞職を口頭で伝え、これまで関係各所から慰留されてきましたが、三中は全くぶれず。
「限りある命をもって、限りなく多くのことに心を動かすことはない」(8月4日条)
これが三中の考えです。

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文政12年11月晦日(30日)(1829年)曇
ひものやの件、ようやく解決したので、以下のとおり礼をした。
野口(町組小頭)金二朱也肴代
宮古 (町組小頭)同上
入江(名主) 同上
栗山(町年寄) 並酒一升
鈴木(町年寄)同上
奥井(町年寄)同上
内田六蔵 肴代金一朱也
組合五人 並酒一升ずつ
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件は解決し、訴訟もが終わりました。関係者へのお礼のリストが掲載されています。藩の役人(町組小頭両名)、名主、町年寄は当然としても、ひものやの代理人(内田六蔵)や組合(五人組)にもお礼をするというのは、現代からすると違和感がありますが、江戸時代としてはこれもまた当然のことだったようです。

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(その他の記事)
・神龍寺の祠堂金。今年分の年賦24両を差し入れた。請人七郎兵衛、文政十二丑年十一月とする証文とした。

・入江全兵衛殿(名主)に、辞職願の下書きを見てもらった。
恐れながら書付をもって願い上げます
一、私儀、これまで御厚恩を賜り、町年寄の役を務め、大変ありがたく思っております。しかし、今夏より引き続き病身となり、持病の喘息がたびたび出て、非常に難儀しております。恐れ入りますが、御役義を免除していただきたく、お願い申し上げます。御慈悲をもってこの願いをお聞き入れいただけましたら、大変ありがたく存じます。以上
年寄 桂助
文政十二丑年十二月
町御奉行所様
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