南斗屋のブログ

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三浦休太郎らの禁錮への処分変更について・仮刑律的例 48の1

2024年11月28日 | 仮刑律的例
三浦休太郎らの禁錮への処分変更について・仮刑律的例 48の1
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(要旨)
・三浦休太郎及び井田政一郎は、明治元年冬に天裁(天皇の御判断)により押込め処分となった。
・国元(紀州)で押込めを行っていたが、両人の件は明治政府の刑法局へ移管とし、刑は国元での禁錮刑に変更する。
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【紀伊藩からの伺い】
明治2年3月5日、 紀伊藩徳川中納言からの伺い

中納言(紀伊藩)の家来三浦休太郎及び井田政一郎は、昨年の冬、天裁(天皇の御判断)によりご寛大な処置をいただきました。国元へ送った後、重臣の屋敷に預け、厳重に取り締まっていました(これまで士分で重罪を犯した者と同様の処置です)。
この度御趣意に基づき革政(ご一新)となり、刑法の局も新たに設立されましたので、上記二名を刑法局に移管したく思います。このことが、これまでの寛大な御配慮に背くことのないように、中納言は禁錮の処置に変更することでよいかお伺いするよう指示を受けました。以上につきお伺い致します。

【明治政府からの返答】
即日に押紙をもって返答
伺いのとおり刑法局へ移管とし、取締の方法については藩の見込のとおり禁錮として取計らってよい。

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(コメント)
・三浦休太郎及び井田政一郎の処分についての伺いです。伺いからは、三浦らが何か問題を起こし、明治元年の冬に天裁(天皇の御判断)によりご寛大な処置となったことがわかります。
・何の問題を起こしたかは不明ですが、「士分で重罪を犯した者と同様の処置です」とあるので、重罪に相当することを起こしたようです。
処分の内容は、国元の重臣屋敷での押込めです。
・今回の伺いで、両名は国元(紀州)で「押込め」の執行が行われていたところ、両人の件は明治政府の刑法局へ移管とし、刑は引き続き国元(紀州)で行われるのですが、禁錮に変更することになりました。
・「禁錮」というのは、現代に至るまで残っている刑ですが、明治初年には武士に対して行われた刑でした。
明治3年に公布された新律綱領では武士には次の刑が科されています。
「士族に対しては,閏刑として,謹慎(外部の人に接見通信する事を許さないもの),閉門(門扉を閉ざし,薪糧等を通ずるほか,奴婢といえども出入りすることを許さないもの),禁錮(一室内に鎖錮させるもの),辺戍(北海道に送り,辺境の軍役にあてるもの),自裁(自ら屠腹させるもの)の五種の刑を設けた」(法務省昭和43年版犯罪白書
・今回の伺いのきっかけは、「刑法局」が新たに設立とされています。しかし、この「刑法局」というのがよくわかりません。浅古他『日本法制史』には、「新政府に よる裁判制度の編制は、慶応 4年正月の刑法事務科設置に 始まり、同年2月の刑法事務局を経て、同年閏4月の政体書により、刑法官が設置さ れ、断獄(刑事裁判)事務を掌った。」とあり、刑事裁判を所管したのは、 刑法事務科⇒刑法事務局⇒刑法官と変遷しました。さらに、刑法官は、版籍奉還後の明治2年7月に刑部(ぎょうぶ)省へと改組されます。
このように「刑法事務局」や「刑法官」はあるのですが、「刑法局」はありません。名称としでは、「刑法事務局」が近いのですが、慶応4年2月〜同年閏4月までの短期間しかなく、今回の伺いの時期(明治2年3月)とも合いません。

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刑法官 けいほうかん
明治初期の司法権を担当した政府機関。1868年(明治元)閏4月の政体書発布にともない京都に設置された。同年10月の東京移転までに捕亡(ほぼう)・鞫獄(きくごく)・監察の3司を備えたが,民事裁判は民部省が管轄したままで,刑事裁判についても各府藩県の裁判所に対し刑の適用の大枠を示す程度の機能をはたすにすぎなかった。翌69年5月には監察司が独立して弾正台となり,7月刑法官は司法省の前身にあたる刑部(ぎょうぶ)省へと改組された。
(山川 日本史小辞典 改訂新版)

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三浦休太郎は次のような人物です。
三浦安(三浦休太郎)
コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)によれば、以下のとおり。
○1829-1910 幕末-明治時代の武士,官僚。
文政12年8月18日生まれ。伊予(いよ)(愛媛県)西条藩士。本藩の紀伊(きい)和歌山藩籍にうつり,外交役をつとめる。慶応3年坂本竜馬のいろは丸沈没事件を処理。このため竜馬暗殺への関与をうたがわれ,海援隊士におそわれて負傷した。維新後は東京府知事,宮中顧問官を歴任。貴族院議員。明治43年12月11日死去。82歳。本姓は小川。通称は休太郎。
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嘉永7年10月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年11月25日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年10月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年10月11日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・朝掃除、御床下げ、写し物。
・宜平殿が五ツ半時に御屋敷に戻ってきて、「小見川の茂兵衛殿、野田村の俊斎子が江戸に来てます。しばらく滞在の予定だそうです」と教えてくれた。
・夜番を八ツ時から勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
小見川(現香取市小見川)の茂兵衛は、今年3月28日にも松枝町に来ていました(その前は昨年2月でした)。俊斎の名も嘉永6年12月2日条に見えます。大原幽学の門人は時々千葉東総地域と江戸を往復していて、幽学先生を励ましたりしているのでしょう。

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嘉永7年10月12日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、写し物。昼から暮れ方まで、三人で安達様の米を搗く。夜番九ツまで勤める(宜平殿と交替)。
幸左衛門殿は、八ツ時に松枝町に行って泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「安達様」は安達安蔵のこと(9月21日条)。旗本藪家の家来の一人です。五郎兵衛らは藪家の奉公人なので、家来の私用に奉公人を使うことは本来できないのでしょう。しかし、安達様は五郎兵衛らに「砂糖を買ってきてくれ」とか、「米を搗いてくれ」とか、ちょいちょい私用を頼んでいます。


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嘉永7年10月13日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
午後から松枝町の借家に行き、茂兵衛殿や長左衛門殿らと碁を打つ。幽学先生がオヤツに焼芋、夕食に鳥を御馳走してくれた。「香味の物は腫症に悪いから、しばらく食事は軽くにしなさい」とお気遣いいただいた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生が焼芋と鳥を奢ってくれました。今夜は特別に鳥を食べてもよいが、明日から食事を軽くせよとの幽学先生のお話し。今日は食いしんぼ五郎兵衛にとっては嬉しかったでしょう。
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〈詳訳〉
添番。朝掃除。宜平殿と二人で髪結い。昼、泉の湯に入ってから松枝町の借家へ。俊斎子と岡飯田村勘左衛門殿がおり、俊斎子と碁を打つ。
小見川の茂兵衛殿、長左衛門殿も来られたので、九ツ時まで碁を打つ。だいぶ負けた。
幽学先生は焼芋を買ってきて皆に振舞われ、夕飯には鳥を御馳走してくださった。「香味の物は腫症の者にはよろしくないから、今後の食事を控えるか、抜くくらいにしなさい」と仰っていた。
※碁の途中で元浜町の本屋へ紙を二十状持っていった。

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嘉永7年10月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君早起きし、朝食作り。小生も手伝う。昨晩鳥を食べたので、小生は朝食を我慢。幽学先生から「少食を心がけて痩せるように」と言われ、「わかりました。これからは腹八分目とします」と申しあげた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日幽学先生がオヤツに焼芋、夕食に鳥を奢ってくれたので、五郎兵衛は朝食を自粛。五郎兵衛の体調回復のため、幽学先生はなんとか痩せてほしいと思っています。五郎兵衛は、今後は腹八分目宣言をしています。それは良いのですが、ということはこれまでは腹一杯食べていたんですね…。

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〈詳訳〉
朝七ツ時に良左衛門君が起きて炊事をしてくれた。小生も起きて手伝う。六ツ時には一同起きて朝食(小生は昨日の幽学先生のご指導に従い、朝食を食べず)。
五ツ時、俊斎子に診ていただいたところ、「顔には少しだけ腫れがあるが、それ以外は全く問題がない。ただ、腹の具合はあまり良くないので、八味地黄丸を使うと良いだろう」とのこと。
幽学先生は、小生のお腹の症状について少し心配されていて、「この頃は腫れがなくなってきたようだが、痩せないのはどうも問題だ。食べすぎなのだろうが、誠に困る。今日から三十日痩せるように努めて、体に疲れが出てきたときに八味地黄丸を使う方が良いだろう。今後、健康を保つためには少食を心がけないとな。この先の生涯、丈夫になるためには以後少食とせよ」と仰っしゃられたので、「わかりました。腹八分目を良しとします」と申し上げた。
五ツ半に松枝町の借家を出、御屋敷に戻る。本番。御屋敷の田中様の為に七ツ時まで米を搗く。暮れ方に御弓場の片付け。九ツ半から夜番も勤める。
※宜平殿、本日松枝町の借家に行く。
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嘉永7年10月15日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
・お殿様は六ツ半に御登城。
・朝五ツ時から八ツ時まで、宮本様のために米を搗く。揚場の湯に入り、八ツから夜番を勤める。
・幸左衛門殿八ツ半頃松枝町へ行き泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「宮本様」は藪家の家臣の宮本錠左衛門。宮本様の為に米を搗いていますが、五郎兵衛は今日は非番なので、公務ではなく、宮本様の私用なのかもしれません。それともそういう区別自体曖昧であったのか。いずれにせよ、このような雑用を喜んでやるのが五郎兵衛の良いところです。

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嘉永7年10月16日(1854年)添番
#五郎兵衛の日
朝掃除、写し物。昼から松枝町の借家に行く。俊斎子、茂兵衛子が逗留していた。幸左衛門殿は今日も泊まり。夜九ツまで碁に興じた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「俊斎子、茂兵衛子」は、今月11日から江戸に滞在している小見川の茂兵衛、野田村の俊斎のこと(10月11日条)。江戸には誘惑が多いはずですが、遊興せず節約が大原幽学の教え。家でノンビリと碁に興じ、あれこれと話しをするのは五郎兵衛にとっても楽しかったことでしょう。


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嘉永7年10月17日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・幽学先生「無駄な出費が多いと身上を築くことはできぬ。この世の理が分かれば、無駄なく仕事ができ、早く効率よく進められる」
・お殿様と奥様が御忍びで五ツ時からお出かけ。
・写し物をし、夜番を九ツ半まで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・幽学先生の教えは、一般常識に訴える平易なものです。「無駄な出費が多いと身上を築くことはできぬ」と述べていることの裏返しとして、身の丈以上の出費をして、赤字家計で汲々としていた農民がいたことがうかがえます。
・中井信彦は「幽学の農民指導の中核は、宗教も理想も持たず、希望も失っている農民たちに、その生活態度を根底から改造させようとしたところにあった」としています。
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〈詳訳〉
・幽学先生の教え「無駄な出費が多ければ、身上を築くことはできない。無駄なことをすれば仕事にも手間がかかってしまう。この世の理を理解すれば、無駄なく仕事ができ、早く効率よく進められる」
・御殿様と奥様が御忍びで五ツ時からお出かけになる。本番。写し物をし、夜番を九ツ半まで勤める。
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〈その他の記事〉
・幸左衛門殿は松枝町の借家から夜六ツ半に御屋敷に戻られた。善右衛門殿、太次兵衛殿が松枝町にやって来られたとのこと。

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嘉永7年10月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除後、五ツ半に松枝町の借家へ向かう。
長らく性学を離れていた善右衛門殿と太次兵衛殿が改心し、江戸に来た。幽学先生はお喜びになり、「無駄遣いを避け、正しい道を歩むことが財産を築く秘訣だ」とお話しになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学が刑事裁判にかけられ、江戸にとどまらざるをえないため、教え(性学)から離れる者もいました。しかし、今日の記事に出てくる善右衛門や太次兵衛のように幽学の教えに戻ってくる者もいたのです。

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〈詳訳〉
朝掃除、五ツ半に松枝町の借家へ向かう。
善右衛門殿と太次兵衛殿は、長い間性学から遠ざかってしまい、自分のことだけを考えてしまうようになってしまった。そのことで問題が多くなり、改心をしたとのことだ。
幽学先生はお二人が改心されたことにお喜びになり、「家計にしっかりと取り組まなければ、財産を築くことなど出来はしない。一家共に心を決めて真面目に働き、無駄遣いをしないようにすれば、仕事もうまく回るようになるから、財産を築くことができること間違いなし。
家の中を修めるには、まずは自分が良き者となることだ。そうすれば、自然と家の中が修まってくるものだ。
道というものは、正しく、心が広くなければいけない。自分の事や道友の中でも身内の者ばかりに気を配っているような、そんな狭い根性ではいけない。財産を築くことも、、道を行うことも、まずは自分自身を修め、見本を示し、教えを広めることが大切である。これが私の伝えたいことだ。」
幽学先生は晩にこのような教えを語った。この夜、岡飯田村の勘左衛門殿、俊斎子、小見川茂兵衛殿、布野村の喜兵衛殿の奥様も借家におられた。
小生らは九ツ過ぎまで松枝町にいた。

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嘉永7年10月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
蓮屋(公事宿)から手紙が届いた。田安家の御代官磯部様が明朝か夕方お会いになりたいとのこと。蓮屋に行くと、「明朝早めにお出でになった方がよろしいでしょう」とのことで、本日松枝町の借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
田安家は荒海村(現成田市荒海)を領有しており、同村の農民も呼出されている本件裁判に、農民側に同情的な立場をとっています。今回の面会要請も裁判の審理促進に関することの打合せと思われます。

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〈詳訳〉
・蓮屋(公事宿)から手紙が来て、田安家の御代官磯部様が明日の朝か夕方に来てほしいと仰っているとのこと。早く打合せた方が良いと思い、すぐに蓮屋に行ったところ、「明朝にお出でになれば良いですが、早めにお出でになった方がよろしいでしょう」とのことであったので、借家に戻って泊まった。

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〈その他の記事〉
・早朝、俊斎子、茂兵衛殿、勘左衛門殿、喜兵衛殿が江戸を発ち、帰村。
・高松様とお定様が借家に御出になられた。高松様々なはそれから御城へお出でになった。良左衛門君は高松様の御供で御城に行き、借家には九ツ過ぎに戻った。お定様は七ツ時にお帰りになった。晩に節五郎殿が来た。

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嘉永7年10月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝、市ヶ谷の田安家の御代官様の御宅へ行く。節五郎殿と共に磯部様に面会。「これまで御奉行所を動かすことができなかったが、今回は手応えがあるぞ。書付案のとおりに書いてくれ。」と仰り、書付案をいただいた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学裁判はひたすら呼出し待ちの状態が続いており、田安家の代官磯部様は、なんとか打開したいようです。奉行所に田安家の名前で働きかけをしようという試みでしょう。これまでは残念ながら成功していないのですが、今回はどうなるでしょうか。
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〈詳訳〉
・早朝、市ヶ谷の田安家の御代官様の御宅へ節五郎殿と二人で行く。磯部様とお目通りできた。「これまで御奉行所を動かすことができなかったが、今回は手応えがあるぞ。書付を書いておいたから、このとおりに書いてくれ」と仰り、書付をいただいた。
・磯部様との面会は五ツ時に終わり、節五郎殿は松枝町の借家に、小生は番町の御屋敷に戻った。
・このことを幸左衛門殿と宜平殿に話すと、お二人とも仕事を終えた後に松枝町の借家に行かれた。
・夜六ツ時、本件でこれまで届けた日が分からないから、分かるものを持ってきてくれとの連絡があり、小生は松枝町に日記帳を持っていった。幸左衛門殿は日記帳を調べて、日を特定することができ、四ツ時には七人で借家にて泊まり。

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ひものやとの裁判解決へ 文政12年11月中旬・色川三中「家事志」

2024年11月21日 | 色川三中
ひものやとの裁判解決へ 文政12年11月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政12年11月11日(1829年)晴
ひものやとの裁判の件で、趣意書を御奉行所に提出した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「趣意書」の提出期限は今月13日となっていました(11月8日条)。三中は趣意書を昨日完成させ、町年寄や名主にチェックしてもらう用意周到ぶり(11月10日条)。締切まで2日余裕をもっての提出です。
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〈その他の記事〉
・「れい」を堀田原尚一郎の妻とすることに取決めたとのこと。明日飛脚で扇箱1つ、結紙年代五等を送る。隠居(祖父)が江戸に登る際に婚礼を執り行う予定。

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文政12年11月12日(1829年)晴
本日夜、田宿の戸与吉が博打で検挙され、腰縄となったところ急死。そのため、様々な問題が生じている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
田宿(現土浦市大手町)に住んでいる戸与吉という者が、博打を行った嫌疑で逮捕され、腰縄をつけられました。その後同人は急死。逮捕する際に問題ななかったか等、土浦藩や町役人は取調べをしなければならないような事態です。
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〈その他の記事〉
・「きさ」を谷田部へ行かせた(千代松同道)。
・等覚寺の檀家の者が、「本町の近江屋さんと川口の上総屋さんの二人が来られます。町役人の方々にお願いがあるとのことで、この度お茶を差し上げたいのですが、今夕お出でいただけますか」と言ってきたが、病気のため欠席とした。入江(名主)や町年寄同役は夜に等覚寺へ行ったとのこと。


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文政12年11月13日(1829年)終日雨
入江氏(名主)方へ行き、記録を記した。終日書き物。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「記録を記した」は日本語としてはおかしいのですが、今日の原文が「記録記し申候」なので、ちょっとよく意味がわからず、そのままとしました。
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文政12年11月14日(1829年)晴
本町の内田六蔵から「ひものや鉄五郎は自らの過ちを後悔し、謝罪すると言っている。証文を出します」との話しあり。「よく考えて返答します」と申し上げ、帰っていただいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件で新展開です。ひものや鉄五郎が自分の非を認めて、解決を願っているという意向が、代理人(内田氏)からもたらされました。この内容に不満はないはずですが、これまで何度か煮え湯を飲まされてきた三中は、即答を避け、後日返答するとしています。
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〈詳訳〉
本町の内田六蔵が来た。「ひものや鉄五郎は、自分の誤りを後悔しております。貴家様および入江様(名主)にどのようにでも謝罪し、証文を差し出すと申しておりますので、ご勘弁いただけないか。どうかお許しいただくようお願いしています。」
話しは聞いたが、よく考えた上で返答したいと申しあげ帰っていただいた。
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〈その他の記事〉
・江戸の行徳川岸の金子紋兵衛が盃一つを持参し、見舞いに来られた。
・水戸様御俱衆が、水戸から江戸にお帰りになるので、通りが混雑している。尾張様のご名代がお帰りに土浦に寄られ、入江氏(名主)がご本陣に行った。


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文政12年11月15日(1829年)晴
丸木屋、中惣、隣主人の家で、髪置き・袴着があったので、酒や雪駄(祝いの品物)などを贈ったのだが、どれも受け取ってもらえず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代の七五三の記事。髪置き・袴着は七五三の由来になった行事です。丸木屋さん等でこの行事があったので、三中はお祝いの品を贈ろうとしていましたが、固辞されてしまいました。
なお、「髪置き」は3歳の子の健やかな成長を願う、平安時代にもあった儀式。袴着は、
幼児が初めて袴をつける儀式です。

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〈その他の記事〉
・茂吉と嘉兵衛(いずれも従業員)は鹿島へ営業に出立。
・惣三郎の家へ祝儀として、駿河小半紙十状を贈った。
・夜に内六(内田六蔵)が来られた。


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文政12年11月16日(1829年)晴
朝、入江(名主)と栗山(町年寄)と面談。ひものやの件で、内田六蔵からの話しにどのように返答すべきか打合せ。間違いがないように念には念を入れる。夜には町組小頭のところへ行き、打合せ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの意を受けて、内田六蔵は「ひものや鉄五郎が謝罪するが受け入れてもらえるか」と訪ねて来たことに対し(11月14日条)、三中は名主や町年寄、藩の役人(町組小頭)と念入りに打合せをして方向性を協議しています。

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文政12年11月17日(1829年) 晴れのち曇り
ひものや一件につき、奉行所から明日出頭せよとの呼出あり。内田六蔵が謝罪の件について尋ねてきた。呼出しが来たため謝罪受け入れは困難と言ったが、内田の懇請により、裁判の日延をすることとした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや側が訴訟を起こし、三中が趣意書を提出したので、奉行所で両名を呼出しています。審理が行われようとしたところ、ひものや側が懇請。三中も承知し、裁判の期日は延期。このまま合意内容のとおり解決するとよいのですが。
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〈詳訳〉
七ツ時、ひものや鉄五郎一件につき明日出頭せよとの呼び出しあり。出頭すべき者以下のとおり。
入江全兵衛
桂助
瀬兵衛
鉄五郎
組合
年寄衆全員

このような呼出しがあった後、内田六蔵が来てた。
内田「先日、ひものや鉄五郎から謝罪をするという件につきましては、どのようなご返答となりますでしょうか」
私「御奉行から呼出しが来てしまった以上、謝罪を受け入れて日延べなどはできない」
内田「いや、そこを何とかお願いします」
と重ねてお願いされたので、組合の請人に間に入ってもらって話しを進めた。
「今回は暮れまでには間違いなく引き払います。その趣旨として金二分を年末の店賃で支払います。そのため御奉行所での期日は日延べを願います」とのことであるので、これを承知し、日延べ願書に訴答両印し、奧印を惣年寄衆が行って手続きを済ませた。
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〈その他の記事〉
・先日「れい」へ酒井様のお姫様が、御公儀の姫様の衣服は、母がその後仕立て直し、今日隠居(祖父)が神龍寺へ持参した。
和尚は、「この経緯は詳しく書付けて置、収めさせていただきます」と仰っていたとのこと。
・中高津の庄左衛門殿が参り、糯継米について話があった。
・一久弥様が病気とのこと。これを湊に知らせたいが、直接知らせるのは憚られるので、いせや太郎右衛門殿が来られたのを幸い、伝えてもらうこととした。

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文政12年11月18日(1829年)
大雨
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日は「大雨」と天気だけで、他に記事はありません。

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文政12年11月19日(1829年)晴
・与兵衛(従業員)が西在(西ルート)に営業に出立。
・四ツ半時に竹中七蔵から聞いたところによると、内田から書状が届いたとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員与兵衛が西在の行商に出発しています。「西在」は、西の方の在所の意。「在所」とは「都会から離れた地方。田舎」ですから、土浦から見て西方の村々をこのように読んでいたのでしょう。そこで、「西ルート」という言葉を補いました。


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文政12年11月20日(1829年)夜中雨降 晴
隠居(祖父)が「れい」の婚礼のため江戸に出発。下記のとおり贈りもの。
堀田原へ 上下代金二百疋
今川勾当へ 肴代金百疋
#色川三中 #家事志
(コメント)
「隠居」は三中の祖父のこと(三中の父親は既に亡くなっています)。11月11日条での以下の記事の続報です。
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「れい」を堀田原尚一郎の妻とすることに取決めたとのこと。隠居(祖父)が江戸に登る際に婚礼を執り行う予定。
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(その他の記事)
・神龍寺の惣益講が東光寺で今日開札。䦰(くじ)がかなり売れたとのこと。

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長崎府の徒刑規則・仮刑律的例 47

2024年11月18日 | 仮刑律的例
長崎府の徒刑規則・仮刑律的例 47
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(要旨)
・徒刑者(受刑者)はそれと分かるように両鬢を剃り落とすので、市中や郷中で徘徊する者を見かけたら留置き、役所へ報告するせよ。
・徒刑場(元人足寄場)で、市中相場の約三分の二の料金で精米を行う。
・徒刑場の人足(労働者)を雇いたい者も歓迎する。
・詳細は細則を参照すること。
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【長崎府の徒刑規則】
明治2年2月、 長崎府から届出られた徒刑規則。

徒刑を言渡した者(受刑者)たちは、両鬢(もみあげ)を剃り落とすこと及び手業(仕事)について、別紙の通り市や郷、隣藩県に通達しました。

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〈別紙〉
一 郡用方掛(郡の役人)および町方掛(町の役人)へ
今回、徒刑者(受刑者)には、これまで季節ごと衣服を貸与していたが、これを中止し、今後は両鬢(もみあげ)を剃り落とす。徒刑者(受刑者)の逃亡防止のためである。
このような者が市や郷を徘徊しているのを見かけたら、すぐにその者を留置き、役人から徒刑役所へ訴え出るように。状況によっては褒美を与える。見聞していながら無視したり、内密に宿泊を許したりするようなことがあれば、本人だけでなく、その役人も厳しく処罰する。
このように、市や郷で漏れなく触れをせよ。
巳(明治二年)二月
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一 隣藩県へ達書
このたび、徒刑場を設置し、徒刑者(受刑者)を収容し、作業を行わせる。彼らが市や郷に出ることもあり、彼らが逃亡しないように受刑者には両側の鬢(もみあげ)を剃っておく。
もしこのような姿の者が貴藩・貴県を徘徊していた場合は、すぐに捕えて、早急に当府に知らせていただきたい。
巳(明治二年)二月
長崎府

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一 郡用方掛(郡の役人)および町方掛(町の役人)へ

大黒町(現長崎市大黒町)に新たに設置した徒刑場(元人足寄場)において、市中相場の約三分の二の料金で精米を行う。希望者は徒刑場に申し出よ。
また、人足(労働者)を雇い入れたい者も、同様に徒刑場に申し出よ。願い次第で同様の相場でその者を派遣する。
これらは救助(更生)の一環であり、これまでのやり方を一新し、手続きを簡易なものとし、庶民の便宜を考慮したものであるので、遠慮せず申し出よ。細則は以下の通りである。
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一、精米を希望する者
徒刑場の門内で商人を待機させているので、その者に申し出ること。遠方の者は、最寄りの場所で出入している商人たちに申し出ればよい。その場合、すぐに徒刑場から受取担当者を派遣し、三日以内に精米を渡す。急いで精米を希望する場合は、その旨を申し出よ。即座に精米を行う。
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一 米を受け取る際は、斤数(重さ)を確認して受け取り、精米ができた際には、斤数(重さ)が書いてある書類に見届判を押してから受領すること。
---
一 精米は極白とする。精米の仕上がりが悪い場合は、遠慮なく申し出ること。再度精米する。その際に追加の料金は不要である。」
---
一 米屋によって、精米の仕上がりに差があるから、自分の希望に合った仕上がりを心得ている米屋を選んで、希望どおりに精米してもらうこと。

---
一 糠や俵などはすべて返却する。ただし、当方に引き取りを希望するのであれば、市中の相場に基づいて買い取る。

---
一 徒刑人足(受刑者)を雇いたい者は、精米と同様、徒刑場に申し出よ。中食(昼食)は雇主の負担とするが、漬物以外の副菜は決して出してはならないし、賃金以外に一銭でも渡してはならない。

---
一 徒刑役所での精米の金額及び人足賃(受刑者の賃金)は以下のとおりとする。ただし、賃金の変動に応じて増減することがある。
(精米)
− 五斗俵は一貫文
- 四斗俵は800文
- 三斗俵は600文
ただし、自分で持ち運びを行う場合は、1俵ごとに24文ずつ賃金から差し引く。
(人足賃)
- 人足賃は一貫文
以上の内容を、市中および郷中で漏れなく周知するように。
已(明治二年)二月
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徒刑の者(受刑者)の御赦免(釈放)の際の取り扱いについての伺い
野口豊太郎
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徒刑または溜入り(病人・未成年者用の牢屋)を命じられた者の刑期が満了した場合は、徒刑は官府において赦免(釈放)を命じ、溜入りは徒刑役所で赦免(釈放)を申し伝え、居住していた町及び身寄りの者に引き渡すことでよいでしょうか。また、人別については、どのようにすれば良いでしょうか。以上、お伺い致します。
巳(明治二年)二月
野口豊太郎
---
(返答)
今後、徒刑から赦免(釈放)する者は身寄りを確認して引き渡しをせよ。人別については、引き受けた者から、その筋に申立てをするように。
上記の内容を、漏れなく市中および郷中に知らせよ。

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嘉永7年10月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年11月14日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年10月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年10月1日(朔)(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝は掃除、時触れ、役所の用事、楊枝削り。五ツ前に幸左衛門殿と宜平殿が松枝町の借家から戻る。昼から宜平殿と二人で髪結い。八ツ半時に作蔵殿、宜平殿と三人で揚場の湯に行き、七ツ過ぎに戻る。御弓場の片付け、御床上げ。夜番は九ツから勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛と幸左衛門殿、宜平は大原幽学の道友(弟子)ですが、そのことを隠して御屋敷で奉公人として働いています。五郎兵衛は、金江津村の「忠三郎」と偽っていますから(7月11日条)、他の二名も変名なのでしょう。一番下っ端とはいえ、武家の奉公人の実態はそんなものだったのですね。

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嘉永7年10月2日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝は掃除、床下げ、馬場の設営、楊枝削り。夜九ツ半より夜番を勤める。
なお、幸左衛門殿は八ツ時に松枝町の借家へ出かけ、暮方には戻られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
身分の不確かな者でも奉公人になれるほど、武家屋敷は人手不足だったのでしょう。肉体労働で給金がさほどでもなくて、人気のない仕事だったのかもしれません。
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嘉永7年10月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝、所用をこなす。楊枝を売りに出かける。
出掛けにまずは汁粉。
新道で楊枝を売ろうとするも買い手なし。大丸新道の小間物問屋に寄るが、やはりダメ。
松枝町の借家に行き、泊まる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
これまで「楊枝削り」と日記にあったのは、やはり内職だったようで、楊枝を売りに行っています。まずは汁粉というのが、五郎兵衛らしい。しかし、楊枝は全く売れず。需要を読み違えたのか、それとも五郎兵衛の製品の質が良くないのか…。

---
〈詳訳〉
朝、掃除、下駄の紐を撚る。九ツ時、出掛けに筋交いの藁店に立ち寄ってしる粉を買う。新道の店を訪ねて楊枝を売ろうとするが、誰も買い手が見つからず。大丸新道の小間物問屋を三軒ほど訪ねるも、どの店も楊枝は足りているからといって買ってくれない。諦めて松枝町の借家へ行くと、節五郎殿が役所から戻ってきたところ。田安家の磯部様に本日はお目通りできず、明朝出直すことに。
五ツ時に五郷内村の長左衛門殿の母親が来て、いろいろと話をして、四ツ時に帰った。
そのまま節五郎と共に借家に泊まる。

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嘉永7年10月4日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
日の出前には借家出発。良左衛門君早起きして用意してくれたおかげ。節五郎殿と市ヶ谷(淀藩)の磯部様に立ち寄り五ツ前に面会。五ツ時に番町の屋敷に戻り仕事。夜九ツ時まで夜番勤務。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「良左衛門君」は遠藤良左衛門。長部村の名主遠藤家の跡取り息子です。放蕩息子だったのですが、幽学先生との出会いにより改心。今朝もかなりの早起きで、道友の為に朝食等の用意をしてくれています。
---
〈詳訳〉
夜八ツ半時に良左衛門君が起きて、朝ご飯の仕度をしてくれた。七ツ半時、節五郎殿と二人で出かける。途中で市ヶ谷の磯部様の御宅に寄り、内々に御目通りを願ったところ、五ツ前にお会い下さった。牛込御門外で節五郎殿とわかれ、五ツ時に番町の御屋敷に戻る。
本日は添番。時触、楊枝削り、御弓場の片付け、御床上げ。幸左衛門殿と宜平殿は松枝町の借家に行き、幸左衛門殿は暮方に御屋敷に戻ってきた。
九ツまで夜番を勤めた。


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嘉永7年10月5日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御床下げ、楊枝削り。
書き物の写しの仕事の口がありそう(作蔵殿情報)
夕方床上げ。夜番。幸左衛門殿と宜平殿と話し合い、夜番を明けまで勤めたら、朝の膳が出るまで寝ていて良いことに取り決めた(他の二人が掃除)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本番+夜番の連続勤務を結構やっています。体力的にかなりシンドいのでしょう、藪家勤務の幽学道友トリオで相談し、夜番を朝まで勤めたときは、朝食まで寝て良いことにしました。かわりに他の二人が掃除をしてサポートしてくれます。

---
〈詳訳〉
本番。朝掃除、御床下げ、楊枝削り。昨日松枝町の借家に 泊まった宜平殿は五ツ時に御屋敷に戻ってきた。
中橋本屋より作蔵殿へ筆工の仕事があると手紙で知らせてきたとのこと。このこと、我ら二人に相談があった。宜平殿は幽学先生に御相談するといって、五ツ頃松枝町の借家に行ったが、先生は御留主。宜平殿は良左衛門君と相談して、九ツ半頃に御屋敷に戻った。小生は、夕方床上げ、夜番九ツより明けまで勤める。
夜三人で相談し、夜番を明けまで勤めた者は、朝の膳が出るまで寝て、残りの二人が掃除をすることと決めた。

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嘉永7年10月6日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
昼から田中様と一緒に佐久間町新道の楊枝屋へ楊枝を売りに行く。夕方、松枝町の借家に行く。天神岸で火事が起き、近くなので大騒ぎ。長左衛門殿が来て、九ツ時まで良左衛門君と碁を打ち、この日松枝町の借家に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛作の売れない楊枝は、御屋敷に勤める田中様の紹介で売り切ったようです。田中様とは普段から良い関係を築いているので(9月27日条では米をついてあげてます)、その成果がでました。買い上げた店で楊枝が売れたかは疑問ですが…。
※閏7月7日条に「御玄関田中様」とあるので、玄関番を務める武士かと思われます。

---
〈詳訳〉
非番。早朝から楊枝削り。昼から田中様とともに、佐久間町新道の楊枝屋へ楊枝を売りにいった。松枝町の借家に日暮ころに行く。節五郎殿がいたので、幽学先生に許可を得て、元浜町小張屋に行ったが、主人が留主でやむなく帰る。四ツ時、天神岸で出火。近くでありき大騒ぎに。長左衛門殿来て、九ツ時まで良左衛門君と碁を打っていた。この日松枝町借家に泊り。


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嘉永7年10月7日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
早起き良左衛門君が今日も朝食を準備。五ツ前には番町の御屋敷に戻れた。御馬乗り馬場を設営。五ツ時に元浜町本屋が来て筆工の打合せ。昼から宜平殿と髪結い。薬店湯。御屋敷に戻って御床上げ、御弓馬場の片付け。夜番を九ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
良左衛門君(長部村の名主の跡取り息子)、相変わらずの早起き。また、五郎兵衛らの為に朝ご飯まで作ってくれます。お蔭で五郎兵衛は御屋敷に戻って添番を勤められます。楊枝削りに代わるバイトの話しもあり、五郎兵衛も仕事に精が出ています。

---
〈詳訳〉
七ツ時に起床。良左衛門君が御膳之支度致し、日の出ころに朝食を食べ、番町の御屋敷に五ツ前には戻る。添番。御馬乗り馬場の設営。五ツ時元浜町本屋が来て、筆工のこと打合せ。昼から宜平殿と二人で髮結い、薬店湯に行く。御屋敷に戻り、御床上げ、御弓馬場の片付け。夜番を九ツまで勤める。
宜平殿は七ツ時に松枝町の借家へ行き、泊まり。
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嘉永7年10月8日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、楊枝削り。昼から宜平殿と二人で稽古場の掃除。晩には仲橋本屋が来て、筆工の仕事の打合せ(宜平殿同席)。夜番を八ツから勤めながら「佐賀の夜桜」という書物を写し始める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛に新しいバイトの口が来ました。書物の写しの作成。以前にもやっていたので、五郎兵衛は慣れています。「佐賀の夜桜」=「鍋島猫騒動」のことです。
---
〈詳訳〉
本番。朝掃除、楊枝。五ツ時に宜平殿は松枝町の借家から御屋敷に戻った。昼には幸左衛門殿が松枝町へ行った(泊り)。昼から宜平殿と二人で稽古場の掃除。晩には仲橋本屋が来て、筆工の仕事の打合せ(宜平殿同席)。夜番を八ツから勤めながら「佐賀の夜桜」という書物を写し始める。
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嘉永7年10月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番だが、御屋敷で弓矢の稽古があり、朝六ツから支度。明け方から日暮れまで御殿様も参加されて弓の稽古。途中御粥を焚き、十人でお召上りになっていた。弓の稽古の間に、小生は終日本の写しをし、一冊仕上げた。その後、松枝町の借家に行き、泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日の記事から、御屋敷での弓矢の稽古の様子が分かります。明け方から日暮れまで行われたり、御殿様が参加されることもあったようですね。黒船来航以降の有事対応のための軍事訓練なのでしょうが、近代を迎えるというのに弓矢で大丈夫なのかと心配にはなります。
---
〈詳訳〉
非番。朝掃除。今日は弓矢の稽古があり、朝六ツから支度。明け方から弓の稽古始まり、全員参加。殿様も御参加。御粥を焚き、稽古終了後、十人でお召上りになった。弓の稽古は日暮れまで休み無く行われた。弓の稽古の間に、小生は終日本の写しをし、一冊仕上げた。
暮方に松枝町へ、また元浜町の本屋に行き、「佐賀の夜桜」の新刊30巻ものを2冊仕上げる仕事を依頼された(宜平殿と共同作業)。
「おけい殿」、「お袋」と節五郎殿が借家に来ていた。
幽学先生から「お袋」に、家の収め方や兄弟仲良く過ごす方法をお教えになられていた。
「長左衛門殿は以前は義論集も書き写すほどであった。衣類や大切な腰物まで弟にあげ、着の身着のままで生きていくほどであった。それを『長左衛門一人が財産を使い果たしてしまった』といって、それを弟にも話すというのは、心得違いも甚だしい。
兄弟仲良く過ごすには、双方とも自分の行き届かないこと、悪い所を知り、互に譲り合っていかなければ和することはできない」

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嘉永7年10月10日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝六ツ半時に松枝町の借家を出発。途中、大伝馬町で筆を買う。五ツ時御屋敷に帰る。軍書の書写し、御弓馬場の設営。
飯田町で湯に入った後、九つから夜番。その際、御次から蕎麦を3人前いただく。夜明けまで本の写し。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の副業は楊枝削りから、書物の写しに変わりました。本日の記事では、「軍書書写し」とありますが、仕事として命じられたものでしょう。黒船来航以降、御屋敷では有事対応を計っており、その一環でしょうか。
---
〈詳訳〉
朝六ツ半時に松枝町の借家を出て、大伝馬町の筆屋で筆を三本買う(宜平殿分も含め)。五ツ時御屋敷に帰る。
添番。軍書写し、御弓馬場の設営、八ツ半時飯田町久蔵方へ米持参。湯に入る。夜番九ツから勤める。夜番中、御次から蕎麦三人前をいただいた。夜明まで本の写し。
なお、宜平殿は暮方に松枝町の借家に行き、本日泊まり。

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文政12年11月上旬・色川三中「家事志」 水戸様の御遺骸のお通り

2024年11月11日 | 色川三中
水戸様の御遺骸のお通り 文政12年11月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政12年11月朔(1日)(1829年)朝曇少し雨
本日、水戸様の御遺骸が土浦を通行。早朝から準備。五ツ時に先頭が到着、五ツ半水戸様の御遺骸が通過。柩の担ぎ手は120人。当家では人足や侍衆の対応。万事滞りなし。昼食はお取りにならず、四つ半過ぎに出立された。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様の御遺骸が土浦を通行されました。土浦で一行が休憩するため、土浦藩と町でかなりの準備をしてきました。その甲斐あって、大過なく対応ができたようです。
三中はかなり詳細な記録を残しており、詳訳しました。

〈詳訳〉
本日は水戸様ご遺骸のお通りの日。牛久(現牛久市)を御立ちになるのが想定より早めとのこと。朝早く起き、馬小屋に屋根をかけ、雨の用心をする。
五ツ時ごろ、御供頭が土浦に御到着。店に幕を張って待機。
五ツ半ごろにから水戸様ご遺骸の御通行。庄勘右衛門が先導し、本陣に御到着。故権中納言従三位源哀公の柩を担ぐ者120人。
庄勘右衛門様は本陣から引き返し、我が家に御到着になられた。我々は羽織を着て平伏し、すぐに案内して二階へお通しした。
人足19人、馬1匹
御供衆14人
引馬1匹
旦那15人
合計34人(ママ:38人の間違いか)、馬2匹
与兵衛が記録担当(人足の在所の名簿の記録)、徳兵衛は客人および人足の世話、喜兵衛が侍衆の足すすぎ湯担当。 
案内は大町の者が行った(私の家への案内は石橋五助が担当)。
郷目付衆、下目付衆が絶えず行き来している中、家の裏にむしろを敷き、木戸を立て、人足の在所の名前を記録する等した。食酒・用便も担当の者が対応し、問題も生じなかった。
土浦藩の御物頭の小林義左衛門様が使者としておいでになり、取り次ぎと案内を務めた。
御進物、御見舞いの菓子を一折差し上げた。
昼食をお取りになるか伺ったものの、それには及ばないとのことで、とり彦などとも相談したが、他の町役人も「稲吉宿で昼食を取る、時間もまだ早いので、昼食は不要である」とのこと。
御一行は四つ半過ぎに出立された。すべて滞りなく済んだ旨、名主の入江全兵衛殿に報告。

〈その他の記事〉
・今夕、大町惣三郎方で祝儀があるとの連絡あり。病気を理由とし、代わりに色川庄右衛門が出席すると返答した。

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文政12年11月2日(1829年)曇
下総徳兵衛(元従業員)が本日土浦から下総に帰った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「徳兵衛」は元従業員で、本年2月に退職して下総に帰っていたのですが(2月24日条)、先月26日に土浦に来ていました。水戸様のご遺骸が土浦を通過し、その対応で徳兵衛は客人および人足の世話をしていましたから、臨時に来てもらったのかもしれません。

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文政12年11月3日(1829年)晴
水戸様の御家中から御茶代や御昼食代などをいただいたときは、名主に報告するようにとのことであったが、田宿町ではそのようなことは特になし。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様ご遺骸は無事土浦をご通行になったのですが、本日の記事はその後の事務処理についてです。水戸様の御家中から御茶代や御昼食代をもらっていないかどうか、土浦藩では把握しておきたかったのでしょう。

〈その他の記事〉
・夜に隣主人と間原氏を自宅に招いて打合せ。栗山氏(町年寄)もお出でになった。

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文政12年11月4日(1829年)晴
・七ツ時、栗山氏(町年寄)と、ひものやの件につき打合せ。
・夜から持病(喘息)が悪化し、臥せる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様ご遺骸の土浦通行という一大行事が終わったので、ひものやとの訴訟対応が再開しています。夕方に町年寄の栗山氏が来て打合せ。その後、夜には三中は持病が悪化しています。一大行事によるストレスが原因かもしれません。


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文政12年11月5日(1829年)晴
八ツ時、栗山氏来訪さる。「ひものや鉄五郎の件で町奉行から趣意書の提出指示があった。三日以内に提出。御請書はすぐに出してほしい」。直ちに御請書を作成し、利兵衛殿(叔父)に持っていってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやさんから三中を相手方として訴えが奉行所に出ており、三中は「趣意書」の提出を求められています。現代の訴訟では「答弁書」に相当するのでしょう。現代では提出まで1ヶ月くらいもらえますが、「趣意書」の提出は3日以内。かなりスピーディーです。

〈詳訳〉
・体調が悪く、安静にして過ごす。
・八ツ時、栗山氏(町年寄)がお出でになった。「ひものや鉄五郎の件で、町御奉行様からご指示があった。趣意書を明六日から三日のうちに提出するように。そのことの御請書はすぐに提出してもらいたい。」
直ちに御請書を書き、利兵衛殿(叔父)に持っていってもらった。
・(請書の内容)
「指上げ申す御請一札の事」
一 私の店が源七の倅の鉄五郎に訴えられた件、今月八日までに趣意書を提出するようにとのご指示を受け、その旨承知致しました。よって、御請書を提出いたします。
十一月六日
年寄 桂助(←色川三中の本名)


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文政12年11月6日(1829年)晴
・今日も調子が悪く、安静にして過ごす。
・夜に、惣三郎の養子(同人の弟)の嫁「みさ」が「いゑ」殿と共に見舞いに来られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は日記で女性に言及することはあまり多くありません。今日の日記では珍しく女性2人の名前が書かれています。体調不良で見舞いに来てもらったのが、嬉しかったのでしょうか。

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文政12年11月7日(1829年) 晴夜中雨降
雨森宗作老がお出でになった。この方は若栗(現阿見町若栗)の生まれである。上酒一升をお渡しする。亀郁という座頭の所に、大同類聚方という書物があるそうなので、問合せていただけないかとお願いした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
『大同類聚方』(だいどうるいじゅほう)は、平安時代初期の大同3年(808年)に成立した日本最古の医学書。江戸時代には出版もされており、三中はこの書物を見たいようです。町年寄の仕事は辞めて、薬学・医学方面を探求していきたいようです。

〈その他の記事〉
・九ツ前時、和泉屋金之丞殿がひものや一件のことでお出でになった。
・夜に岩間宿のいせやから、先日宍戸の御先触が紛失した件について、当人が出頭してお詫びしなければ済まないということを伝えに来ました。名主いせやの書状を持参して伝えに来たので、それならば当人が支配届をもって出頭するようにしてくださいと申し上げた。

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文政12年11月8日(1829年)晴
・ひものやとの裁判の趣意書は今日提出期限であったが、病気で書けず。五日間の延長を願いでた。
・嘉兵衛と茂吉は鹿島へ行商に行った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやとの裁判の趣意書は、今日が締切りでした(11月5日条)。しかし、ここのところ持病で体調が悪化し、書き物ができなかったようで、趣意書も仕上がりません。そこで、締切りの5日間の延長申請をしています。理由があれば、期限の延長は認められていたのでしょう。
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文政12年11月9日(1829年)晴
日本橋通り二丁目の山城屋佐兵衛の店に、
和名鈔(十匁)
多識編(四匁五分)
介品(弐匁五分)
以上古本三冊。
新撰字鏡(七匁五分)
以上四冊を求めていたところ、昨日、飛脚が持ってきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・『和名鈔』は『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)の略称。平安時代中期に作られた辞書です。
・『多識編』は林羅山が著した本草学の書物。
・『介品』はちょっとよく分かりません。
・『新撰字鏡』(しんせんじきょう)は、平安時代に編纂された漢和辞典、字書の名

〈その他の記事〉
・賭博目附の内田六蔵が、ひものやの件についてお出でになられた。


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文政12年11月10日(1829年)晴
夜にひものや一件の趣意書を完成させ、栗山(町年寄)に持参。すぐに入江(名主)へ見せなさいと言われたので、入江方へ持参した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
奉行所に「趣意書」を提出する期限は13日なので、まだ余裕があるのですが、体調が回復したのか今日の夜に趣意書を完成させています。念には念を入れて、町年寄に見せたところ、名主にも見てもらえといわれ、名主宅に夜にもかかわらず訪問しています。

(その他の記事)
・ 四ツ過時に、入江全兵衛殿(名主)がお出でになり、「水戸御役人衆から、先日の休憩所の名前札を全て板から剥がして返却してほしいと言われた。御役人衆は明朝早く出発するので、今夜のうちに返してほしいとのことだ」と言われた。手伝ってもらった者を全員呼び寄せて、返却してもらった。
・与兵衛(従業員)はまたまた病気になっていたが、ようやく治り、今日谷田部から土浦に帰ってきた。

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嘉永7年9月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年11月07日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年9月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年9月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番予定だったが、宜平殿病気のため替わりに勤務。朝掃除、床下げ。大野様の仏事で御家中衆への会食手伝い。
若殿様は四ツ半時頃より雉子橋様へ。七ツ時、提灯持参で小出様方へ、奥様を御迎えに行く。五ツ半時戻る。九ツ半まで夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・五郎兵衛は本日は非番だったのですが、同僚の宜平が病気のため、仕事。五郎兵衛が病気で仕事を休んだことはないですね。食べ過ぎが問題ですが、頑張って仕事をしています。江戸滞在中は日記を欠かさないのも五郎兵衛の偉いところです。
・本日の記事に「雉子橋様」「小出様」とありますので、五郎兵衛日記の「雉子橋様」=「小出様」と思われます。小出氏は丹波国園部藩で、この当時の藩主は小出 英教(ふさのり)です。五郎兵衛も書状を小出家に持参しています(7月15日条)。

〈詳訳〉
非番の予定だったが、昨日宜平殿病気となり、松枝町の借家で休んでいるので、替わりに小生が勤務。
朝掃除、床下げ。九ツ時に大野様の仏事で御家中衆の会食手伝い。八ツ時に薬店の湯に行く。戻ってから楊枝削り。
四ツ半時頃より若殿様雉子橋様へ。
七ツ時、提灯持参で奥様の迎え。提灯持って小出様へ、奥様を御迎えに行く。五ツ半時戻る。
九ツ半まで夜番を勤める。

〈その他の記事〉
○若殿様が雉子橋様に赴かれたときの御供
三浦源蔵
安達安蔵
御近習壱人
御草履取壱人
○九ツ時に御忍供で小出様へ御出になるとのと仰せあり。
先江
御駕籠四人
御取次壱人
御近習壱人
御箱壱人
御草取り壱人
釣台弐人
宮本錠左衛門
若党壱人
草取り壱人
○今夕七ツ半時、御奥様を雉子橋へ御迎えの御供。


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嘉永7年9月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除、昼前に張物少々、楊枝削り。
松枝町の借家へ。幽学先生から、「五郎兵衛と節五郎の二人は食べ過ぎで太りすぎだぞ。特に五郎兵衛だ。気を付けて養生し、体を大切にせよ。」と種々ご指導いただいた。本日借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛日記には、食べ物の記述が多く、これは食いしん坊だなと思っていたのですが、やはりそのとおりのようで、幽学先生から五郎兵衛、面と向かって「食べ過ぎ」といわれてしまいました。

〈詳訳〉
本日は非番だが、仕事。朝掃除、昼前張物少々、楊枝削り。大野様からお招きを受け、御馳走を頂く。
外出。安達様から頼まれ、本町で葛を買い、その後松枝町の借家へ。
又左衛門殿、良祐殿おられる。
晩に治郎右衛門殿、節五郎殿来られる。
幽学先生から、「五郎兵衛と節五郎の二人だけ、顔が太りすぎだ。食べすぎでの不養生だろう。特に五郎兵衛が心配だ。気を付けて養生し、体を大切にせよ。」と種々ご指導いただいた。本日借家に泊まり。

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嘉永7年9月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君は今日も早起き。朝七ツ時に起きて炊事を始める。小生も手伝い。
その後、御屋敷に戻って添番を勤める。
九ツ時平作殿が御屋敷に来た。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
良左衛門は早起きです。日の出前から起きて炊事をするのが日課のようです。以前ならば、借家に泊まった日は休みで、ゆっくりしていくのですが、人手不足なのでしょう、本日は添番を勤めています。

〈詳訳〉
朝七ツ時に良左衛門君起きて炊事を始めたので、小生も起きて手伝い。六ツ半朝食。
煙草一丸、寝巻一枚、お金を借家に置いて、五ツ時に御屋敷に戻る。
本日は添番。
宜平殿と二人で髪結いする。
幸左衛門殿は四ツ時に松枝町の借家へ行った。
九ツ時平作殿が御屋敷に来た。


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嘉永7年9月24日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・朝掃除、御床下げ、楊枝削り、御弓場の片付け。夜番も九ツ半から勤める。
・夕方外出した時にキセルを落してしまった。
・宜平殿、五ツ半時松枝町へ行き、幸左衛門殿四ツに御屋敷に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
旗本の藪家には幽学一派から3名が奉公人として入り込んでいます。奉公人はこの3名以外にあまりいないようですので、幽学先生のいる借家に行くのは、日程をやり繰りしなけれぱならず大変です。ここのところは毎に一人ずつ行っています。
借家へ行った日
22日 五郎兵衛
23日 幸左衛門
24日 宜平




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嘉永7年9月25日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、楊枝削り。昼に松枝町の借家へ。昨日キセルを失くしたが、幽学先生がかわりをくださった。
七ツ時、幸左衛門殿来る。長左衛門殿、良左衛門殿が夜九ツ時迄碁打ち。先生は悦んで、焼干杯を奢ってくれた。
借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生が五郎兵衛にキセルをプレゼント。昨日五郎兵衛は外出した際キセルを落としてしまったからですが、それにしても幽学がプレゼントするのは、相手を認めているときです。五郎兵衛はついこの間まで叱責されていたので、キセルをもらって嬉しかったことでしょう。

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嘉永7年9月26日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
五ツ時、御屋敷に戻る。楊枝削り。昼に大野様から頼まれ、諸徳寺村に出す書状を松枝町の借家まで持っていく。幽学先生と話しをし、馬喰町でキセルを買ってから、御屋敷に戻る。
夜番を勤めながら雑巾を二枚作る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨夜は松枝町の借家で泊まりだったので、日の出前に御屋敷に戻り、シフトに入った五郎兵衛でしたが、大野様からの依頼で昼にも松枝町の借家を訪れています。「大野様」は、殿様が七周忌の御法事の際に参列しており(8月4日条)、ご家中衆の中でも地位の高い方と思われます。

〈詳訳〉
五ツ時、松枝町の借家から幸左衛門殿と二人で布団を御屋敷に持って帰る。
本日は添番。楊枝削り。昼に大野様から諸徳寺村に遣す書状を松枝町へ持っていった。
長部村の次郎右衛門殿と髪結い。
又左衛門殿「幸左衛門、五郎兵衛、宜平の三人は性学の者なのだから、御屋敷で粗相のないように気を付けるよう幸左衛門殿にも言っておいてくれ」
幽学先生ともお話しをし、馬喰町でキセルを買ってから、御屋敷に戻る。
夜番を勤めながら雑巾を二枚作った。

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嘉永7年9月27日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
早朝から九ツ時まで、田中様の米を藤助と二人で搗く。藤助と一緒に揚場の湯に行き、帰りにさつま芋一俵を買う。七ツ時、屋敷に戻り。夜番を九ツ半から勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「食べ過ぎに注意」と幽学先生などから何回も注意されている五郎兵衛ですが、風呂に行った後に「さつま芋一俵」を購入。日記とはいえ堂々と書いてしまうのは、やはりその点の自覚がないからかもしれません。

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嘉永7年9月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番だが勤務(藤助殿と交替)。
朝掃除、楊枝削り。
七ツ過ぎに食扶持五人と三斗受取り、しらけ揚げ。夜番も八ツから勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
この年の9月は明日が最終日です。月の最終日には道友たちが借家に集うので、明日を休みにしたい五郎兵衛は藤助とシフトを交替しています。
なお、本日の記事中「しらけ揚げ」は意味が掴めなかったので、そのまま記載しました。

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嘉永7年9月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・月末、松枝町の借家に全員集合。幸左衛門殿はが日本橋で秋刀魚と牡蠣を買ってきた。幽学先生は柿持参。
・各公事宿に袴代持参。
・小生は日暮れに番町の御屋敷に戻り(幸左衛門殿と宜平殿は借家で泊まり)、夜番を九ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
月の最終日、松枝町の借家に全員集合の日です。メインは秋刀魚と牡蠣、デザートは柿。食物のことを書き残すのは五郎兵衛らしい!
それにしても幽学先生は柿がお好きなようです。先月も柿でした(8月28日、29日条)。


〈詳訳〉
月の最終日、松枝町の借家に全員集合の日である。朝掃除。後の仕事は大寺藤助に頼んで任せた。
節五郎殿と幸左衛門殿は日本橋に肴(秋刀魚と牡蠣)を買ってきた。おけいさんに料理を頼む。幽学先生は、柿持参で御出になった。
一同で柿をいただく。
各公事宿に袴代を持って行く。
幸左衛門殿は大根を買いに、宜平殿はタバコを買いに出た。両名が戻ってから、三人で両国で膏薬を買いに行った。幸左衛門殿と宜平殿は借家で泊まり。
小生は日暮れに番町の御屋敷に戻り、夜番を九ツまで勤める。


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嘉永7年9月に30日は存在しませんので(同月は小の月)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 

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文政12年10月下旬・色川三中「家事志」

2024年11月04日 | 色川三中
文政12年10月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年10月21日(1829年)晴
ひものや鉄五郎が願書を訂正し、栗山(町年寄)へ提出。夜に入江氏宅で町年寄一同が集まる。鉄五郎の組合全員及び久松時右衛門も呼び、これまでの経緯について念のため確認した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや鉄五郎の願書は不備があったため、保留とされていましたが(10月19日条)、早くも訂正されました。書面の作成には、代書をしているものがいるのでしょう。願書(現代でいえば訴状)は町年寄経由で、藩の役人に提出されます。

〈詳訳〉
・ひものや鉄五郎の願書の直しが出された。
・夜に、町役人一同が入江(名主)宅に集まる。ひものや鉄五郎の組合(五人組)と久松時右衛門を呼び出した。
入江全兵衛殿(名主)「各々を呼んだのはほかでもない、鉄五郎の件で、先日請人と組合が、桂助殿(色川三中)方へお詫びをした上で年内は勘弁するとの合意をしたことは皆も知ってのとおりである。このことは、当方へも届けがなされている。この度、桂助殿を相手取って、「願出」が鉄五郎から出されているが、これは一体どういうことかお伺いしたい。」
組合一同「先日、皆でお詫びをし、ご勘弁いただいて合意したことに間違いありません。」
私「なるほどその点は皆さんが仰るとおりです。それならば、鉄五郎が心変わりし、「願出」を出したということになりますね。もし別の意図があるならば、正直に話してほしいものです。
今回、私を相手取って願い出たということは、筋の通らないことが絡んでくると町年寄としての役が立たなくなります。御上がお糺しになられるのですから、請人も組合もそのことを心得えて、お糺しのときに間違いを言わないように心得ていただきたい。改めて一同の認識を承りたい」
組合一同は「合意に至った経緯ですが、組合一同で取組み、鉄五郎もそれで良い申し訳ないということで合意をしたのです。今回の願出は、鉄五郎が心変わりしとしか考えられません。」
以上のことを確認した。

〈その他の記事〉
・等覚寺の富願い(富くじを施行したいという願い)、大市が停止するので、23日から27日までと命じられる。
・今日、下高津から畑に札が立てられるという知らせが来た。


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文政12年10月22日(1829年)晴
水戸様の御尊骸は27日に江戸を発ち、土浦にてご休息予定となった。以前は中村宿であったが、対応が難しくなり土浦に変更となった。
これに伴い、割当担当の役人が明日到着し、藩の町奉行と名主と打合せることになった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
徳川斉昭の兄の斉脩が亡くなり、水戸街道をご遺体が通過します(10月20日条)。これまでは土浦の一つ手前の中村宿が御休憩地でしたが、今回土浦への宿泊に変更となりました。水戸藩の割当担当役人が前乗りで調整を行うようです。

〈詳訳〉
水戸様の御尊骸は27日に江戸を御立ちになられるとのこと。土浦での御休み所の割当のための御役目の方が明日には土浦にご到来とのことでる。
先年迄は中村宿が担当していたが、中村では差支えということである。近年、中村は衰微して、対応に難渋しているので、土浦での御休憩にとなった。その為、御役人がお出でになり、町御奉行様・名主全兵衛方へ御出になって、打合せをするとのこと。

〈その他の記事〉
・明日、隣主人と間原の両主人が、宍倉(現かすみがうら市宍倉)へ行って、借入れた金銭を受け取って来てもらうことになった。
・夜、新宅の常蔵が来た。「弟が来月1日に結婚する。君山村の藤右衛門の新宅の武兵衛のところだ。」←「君山村」は現稲敷市上君山・下君山。


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文政12年10月23日(1829年)晴
水戸様ご逝去に伴う自粛期間は、16日から22日までとのことであったが、本日(23日)からは物静かに致し、御沙汰があるまでは慎んで過ごすようにとの仰せである。これにより、大市もまた延期となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様ご逝去に伴う自粛期間は、昨日22日までだったのですが(10月18日条)、当面延期との仰せです。これはご遺体が水戸街道を通るので(江戸出立は27日)、それに伴うものでしょう。

〈その他の記事〉
・隣主人と間原の主人が早朝に宍倉(現代語訳かすみがうら市宍倉)へ出発。川口の政之助が同行。
・本日家の前を道普請した。


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文政12年10月24日(1829年)晴
町奉行、吟味衆、肝煎衆、御目付衆により、座敷の御改めあり。孫ひさし等を取りはらうようにとのお触れがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様ご逝去に伴い御一行が土浦に御休憩となるので(10月22日条)、土浦藩の役人総出で座敷の総点検です。


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文政12年10月25日(1829年)晴
・岩間の伊勢屋から飛脚が来た。
・神龍寺より惣益講を行うとの回覧が来た。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「岩間」は現笠間市下郷。江戸時代は知人等に手紙を持っていってもらうことも多かったので、飛脚の利用はかなりの急ぎの用です。もっとも、飛脚が持ってきた内容は記事になく、わかりません。

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文政12年10月26日(1829年)
一昨日(24日)、鈴木金之丞殿(町年寄)はある事件の関係で呼出され、「遠慮」を言い渡された。本日、見舞に行った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
鈴木金之丞は町年寄の一人(4月1日条)。何らかの事件で、藩から「遠慮」を言い渡されてしまいました。遠慮は、江戸時代の刑罰の一つで、籠居を命じたもの。他者の出入りを制限しないものなので、三中も見舞いにいくことができます。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%85%AE

〈その他の記事〉
・昨日来た岩間の伊勢屋からの飛脚には一晩宿泊してもらった。酒代二百文を渡した。
・下総徳兵衛が来た。
←「徳兵衛」は元従業員。佐兵衛と名乗るときもあり。本年2月に退職して下総に帰っていました(2月24日条)。


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文政12年10月27日(1829年)晴
昨夜、水戸藩の役人が土浦に到着。本日、座敷の御改めがあり、町役人は羽織袴で対応。栗山、大国屋、田町をご覧になり、四ツ半時に私の所に到着。店の前で平伏し、二階を案内。一見後に直ちに帰られた。旦那と供回り14人を引き受けることとなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様のご遺体を水戸へ運ぶ御一行が土浦にて休憩を取ります。休憩場所の割振り担当が昨夜到着。本日各屋敷を見分して割振りをしています。水戸藩の役人には店の前で平伏しなければならず、土浦藩の役人の気取らなさとは随分違います。

〈詳訳〉
昨夜、水戸の御役人(宿割担当者)が土浦に到着。本日、座敷の御改めを行うので、町役人全員が羽織袴で出向く。栗山(町年寄)、大国屋、そして田町までご覧になってから引き返して、私の所へは四ツ半時にお出でになられた。
店の前で平伏し、役人が上がった後は中腰で二階を案内。一見後は直ちにお帰りになった。
旦那お一人と供回りが14人をお引き受けすることとなった。


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文政12年10月28日(1829年)晴
当家には、旦那1人と供14人、引き馬1頭が御休憩になる。湯沸かし、入浴準備、茶と菓子の用意等細々とした定めあり。
御休憩先は土浦町内の70軒にわたるが、大町は除外。大町からは案内要員を差出すこととなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸様のご遺体を水戸へ運ぶ御一行が土浦で御休憩をする準備が進んでいます。御休憩先は土浦町内の70軒であり、大変な数です。色川家でも旦那1人と供14人を接待し、引き馬1頭もお世話しなければなりません。

〈詳訳〉
・水戸藩のご家中衆である弓持頭の庄勘右衛門が、当家で宿泊することとなり、休息のお札を受け取った。今回のご宿泊は土浦町内の70軒。大町は除外。そのため、大町には案内要員を出すようにとのことである。
当方への宿泊は旦那1人と供14人、引き馬1頭に決まり、飼馬は本陣の大塚氏から受け取ることとなった。
・水戸様のご家中衆到着の用意
湯を沸かしておくこと、入浴の用意を整えること、御茶を差し上げた後に菓子を出すこと。大国屋は御弓衆をお引き受けなので、これとは異なる。人足は姓名帳に記載し、逃げ出さないようにすべきとのこと。
その他、御もてなしの詳細については⇒末尾付1

〈その他の記事〉
・江戸和泉町の河内屋孫右衛門殿方への買掛債務(残金1両2分14匁7分4厘)の件で、一昨日、
代人の八兵衛と申す者が来て、催促を受けた。
この買掛は辰年(文政3年 )のものである。
八兵衛は中城美濃屋に泊まり、一昨夜は利兵衛殿が、昨日は私が交渉をした。この十年のうちには父も亡くなる等様々な困難なことがありました等と事情を申し上げた。
今日も交渉をし、「金2分を支払ってくれれば、残りの金額は良い時に払ってもらえればよい」と言っていたどけたので、そのとおりに合意し、今日金200疋(=2分)を渡した。
・鈴木金之丞殿は「遠慮」を仰せ付けられていたが、今日で終了となった。並酒一升を贈った。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月29日(1829年)晴
今日、町組小頭や同心たちが最終の見分。店の看板等を取り払った。
後刻、町御奉行と御例座衆が御見分になるときは、御休札を持参して亭主が店の前に出て待つようにとの仰せがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
いよいよ明日(10月は今日までなので、11月1日)、水戸様のご遺体御一行が土浦を通ります。土浦藩の最終チェックは、町組小頭や同心+町御奉行と御例座衆の二重チェックです。粗相があってはイカンのでしょうが、それにしても厳重です。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年(1829年)10月は小の月のため、30日は存在しません。


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付1:御もてなしの様子(10月28日上記の参照)
御到着後
御茶
菓子

汁 豆ふ
青み

長いも
椎茸
な 猪口 煮豆
牛房
ひりうづ

にんじん
大根 す合白ごまをする
あぶらけ
香物切漬

同御手廻り衆の平
のつへいこいたす
いも
にんじん
あぶらけ
こんにゃく
牛房



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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第九回講義

2024年11月02日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第九回講義
第九回講義(明治18年5月19日)
現代語訳(試訳)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(はじめに)
本日は第二節「刑事裁判所に私訴をなすこと」を説明致しましょう。
━━
第二節「刑事裁判所に私訴をなすこと」

(無告不理の原則)
刑事裁判所で私訴を裁判するということは、被害者が民事の原告人となり、損害賠償を求める申し立てを行うことが必要です(これを私訴といいます)。民事の原告人が請求をしなければ、裁判所は判決を下すことはできません。これが「無告不理」(訴えがなければ裁かれない)の原則です。
しかし、我が国の旧律においては、被害者からの請求がなくても、刑事裁判所は職権で損害賠償を命じていました。被害者の訴えがなくても、刑事裁判所が職権で損害を償わせることは異例なことです。それゆえ、治罪法においては、必ず被害者の訴えを待ってから裁判を行うことになっています。
━━
(無告不理の原則の例外)
しかし、例外はあります。刑法第48条には「裁判費用や盗品、損害賠償については、被害者の請求に基づいて刑事裁判所がこれを審判することができる。ただし、盗品が犯人の手元にある場合には、請求がなくてもすぐにそれを被害者に還付する」とあります。また、治罪法第308条には「被告人が刑の宣告を受けたかどうかに関わらず、没収に関係しない差押物品については、所有者の請求がなくても還付を言渡す」とあります。これら二つの条文は「無告不理」の原則には反していますが、実務に則した適切なものです。盗品が存在しているにもかかわらず、被害者が訴えなければ処分できないとし、それを犯人に返してしまうことは、犯人に利益を与えてしまうことになるからです。犯人に不正な富を得させることは許されるべきではありません。したがって、所有者が請求しなくても、その物の還付の言渡しをするのは妥当です。
━━
(刑法と治罪法の規定の異同について)
ところで、刑法と治罪法では規定の仕方が異なります。刑法では、「もし盗品が犯人の手元にある場合には、請求がなくてもすぐに被害者に還付する」と漠然と記載されています。そのため、「犯人の手元にある」とは具体的にどのような場合を指すのかが曖昧です。裁判所が物品を押収しているかどうかにかかわらず、犯人から他者に渡った物も含むのか、それとも犯人の手元に残っていて裁判所が押収しているものに限られるのか、いずれとも決めがたいのです。
しかしながら、治罪法では「没収に係らない差押物品」と非常に明確に規定しています。同法によれば、犯人の手元にあってもる、差押さえられていない物品については、被害者の請求がなければ還付されないこととなります。
一方、刑法では「盗品が犯人の手元にある場合には、請求がなくても直ちに被害者に還付する」と規定されています。刑法と治罪法は矛盾しているようにも見えますが、そうとるべきではありません。刑法の不明瞭な規定を治罪法が明確にしているととらえるべきです。つまり、刑法の「盗品が犯人の手元にある場合」とは、官が差押さえた物品を指すと解釈すべきであり、差押えられていない物品は、被害者からの請求がなければ還付の言渡しができないと解すべきです。なぜなら、単に盗品が犯人の手元にあるというだけでは、その物品がまだ確定しているとはいえず、確定していない以上、裁判所が還付を言渡す理由がありません。
「差押え物品」とは、裁判所が押収した物品に限るものではなく、官吏が他に移すことを禁止した物品すべてを指すと解すべきです。被告人の手元に盗品があっても、差押えの処分がある場合には、裁判所は還付の言渡しができるのです。
━━
(刑事裁判所が刑の言渡しをしない場合の私訴の扱い)
民事の原告人が、刑事裁判所に私訴を提起し、損害賠償を求めるには、いくつかの要件があります。その第一の要件は、違警罪、軽罪、重罪に付随する損害でなければならないこと、つまり犯罪によって生じた損害に限られるということです。
被告人は、刑の判決が言渡されるまで、無罪かつ潔白な存在として見なされるべきであることは重要な原則です。裁判の宣告があって初めて罪の有無が判断されるのです。
被告人の中には全く犯罪に関与していない者もいますし、証拠不十分で無罪となる者もいます。時には公訴の消滅により免訴となる者もいます。
これらの場合には刑が言渡されませんから、刑事裁判所が私訴を受理した理由も消滅することになります。なぜなら、刑事裁判所で私訴を受理するのは刑が言渡されることを前提としているからです。
理論上は当該行為が犯罪とならない場合には、私訴を受理する権利も消滅し、私訴を棄却することになります。
しかし、実際の運用においては必ずしもそうとは限りません。フランス治罪法では、重罪と軽罪とでは扱いが異なります。軽罪及び違警罪は、被告人が無罪または免訴となった場合は、私訴は却下されます。しかし、重罪の場合は私訴の裁判の言渡しがあります。
フランスでは、重罪の審理には陪審官という者がいて、事実の判決を行うため、たとえ無罪の場合でも、私訴の審理を行うことには問題がないのです。
一方、我が国の治罪法はフランスとは異なります。公判において私訴を受理したときは、刑の言渡しがなくても、私訴の裁判を行うのです。同法第306条第1項に「裁判所においては、公訴の裁判と同時に私訴の裁判を言渡さなければならない」とあり、第2項には「私訴についての取調べが十分でない場合は、公訴の判決があった後に、その裁判の言渡しができる」と規定しています。
第401条第1項には「犯罪について証拠が十分でない場合は、無罪の判決を下し、被告人を釈放しなければならない」、第2項には、「原告と被告間の賠償については、第399条の規則に従って判決を言渡さなければならない」とあります。
第306条及び第401条は、公訴が無罪や免訴になった場合であっても、私訴を裁判することを命じています。理論的には、刑事裁判所でこのような私訴の裁判を行うのは、その権限を超えるものであるといわざるを得ません。被告人に犯罪が成立しな場合は、私訴は民事裁判所に提起すべきであり、刑事裁判所は私訴を棄却して、民事裁判所に移すべきです。
しかし、実際の便宜を考えますと、法の規定する扱いをすることは理由があります。
刑事裁判所で十分に取調べを行い、被害者の損害についても全て立証がなされているのに、訴えを却下すれば、被害者はもう一度最初から民事裁判所に訴え出なければなりません。
このようなことでは、原告人だけでなく、被告人の貴重な時間も無駄になります。このような無駄を省くために、立法者は前述のように規定したと考えられます。
━━
(無罪となったときに私訴を判断しても弊害はない)
「被告人が無罪になった場合に、刑事裁判所で私訴を裁判するのは問題がある。悪意を持った者が、刑事事件を口実にして、不当に民事訴訟を刑事裁判所に持ち込むといった弊害が生じないだろうか」という指摘について考えてみましょう。
確かにこの指摘は一理あります。しかし、重罪に関しては、必ず予審を経ます。予審判事が犯罪の成立を認めない場合は免訴の言渡しをし、公判に付しません。予審判事は民事の審判を行う権限がないので、私訴を受理できません。軽罪及び違警罪は、複雑な案件は予審を経ることとなりますし、軽易な軽罪や違警罪については、必ず検察官が起訴することになっていますので、民事の原告人が申立てをしたからといって、検察官がその事実を認めない限り、起訴することはありません。
このように予審判事と検察官がいることで、原告人の専横は防ぐことができます。
フランスでは、軽罪に関して被害者が公訴を提起できますので、前述のような弊害を防ぐことは難しいのですが、本邦においては、被害者は予審判事に申立てを行うことのみが許されており、直接公訴を提起することが許されていないので、前述の弊害を防ぐことができるのです。

(その他)
被害者が予審判事に対して民事原告人として申立てを行う手続きは、治罪法第93条以下および第110条以下の二節に定められています。手続きに関しては、民事原告人の起訴を論じる際に詳しく説明致しましょう。また、民事原告人となることで、様々な権利と義務が生じますが、これらも民事原告人の起訴を論じるときに説明致します。

(第四章第二節 了)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第三節 民事裁判所に私訴をなすこと
(治罪法第4条第2項)
治罪法第4条第2項は「私訴は、別に民事裁判所にこれを行うことができる」と規定しています。私訴は刑事裁判所で行うこともできますし、公訴とは別に民事裁判に訴えることもできるのです。
民事裁判所において私訴を提起することができることとしたのは妥当です。
刑事裁判所で私訴を裁判することは便利ですが、それだけの理由で、民事裁判所に訴えることを禁止するのは妥当ではありません。市民同士の争いを扱う訴訟は、本来、民事裁判所で受け付けられるべきであり、刑事裁判所で私訴を審理することは例外なのです。便利であるからといって、本来の管轄権を奪うことは理論的ではありません。
このように、私訴は被害者の選択次第で、刑事裁判所にも、民事裁判所にも提起できます。
━━
(刑事裁判所に私訴を提起する方が便利)
日本では、原告人にとっては刑事裁判所に私訴を提起する方が便利です。印紙税(人々にとって最も嫌われているものです)を免れ、また勧解を経る必要がないからです。
一方、フランスの制度では、被害者は刑事裁判所に訴えず、民事裁判所に訴えることを希望する者が多いとようです。フランスの民事裁判所の構成は非常に充実しており、裁判官も適任者が選ばれているためです。裁判所所長は全ての民事事件を管理し、裁判官の人員も民事局の方が充実しています。初審裁判所の刑事局は5人ですが、民事局は7人です。控訴院も同様です。このため、フランスでは刑事裁判所を避けて民事裁判所に訴える者の方が多いのです。
━━
(治罪法第6条)
治罪法第6条は、私訴が民事裁判所と刑事裁判所双方に関わる場合の規定で、民事裁判所は、公訴の裁判よりも先に私訴の裁判を行うことはできません
同条は一見解釈が難しくないように思えますが、深く検討してみると理解が難しいところがあり、その背景や根本に立ち返ってよく考察する必要があります。
フランス法では、「刑事は民事を中止すべきものである」というのが原則です。この原則は、刑事と民事の訴訟が分離して提起された場合に適用されるべきものです。刑事裁判所において公訴と私訴双方が提起されている場合には適用されません。
━━
(治罪法第6条の趣旨)
なぜ民事と刑事が分離して提起された場合、民事裁判所は刑事の判決を待たなければならないのでしょうか。その理由は以下のとおりです。
第一に、刑事訴訟は民事訴訟とは異なり、その影響は単に財産上の問題にとどまらず、身体・生命にも影響を及ぼすものだからです。刑事事件を裁判するには、充分に証拠を見きわめなければなりません。刑事裁判を後にすると、民事裁判と刑事裁判の結果が抵触することもありえます。二様の判決が出ることは、国民の信頼を失わせます。このため、民事裁判は刑事裁判を待って判決をすると規定されているのです。
第二に、民事裁判を先に行うと、その結果が刑事裁判に影響を与える可能性が否定できないからです。この点については、裁判の確定を説明するときに詳しくお話ししましょう。
第三に、民事裁判を先に行うことで、その影響が被告人に不利益を与える可能性があるからです。刑事裁判官は知らず知らずのうちに民事裁判の判決を頼りにしてしまうことがないとはいえません。民事判決ではなく、証拠を重視すべきです。
以上三つの理由から、民事と刑事の訴訟が分離されて提起されたときは、刑事訴訟を先に行い、民事訴訟を後に行うと規定されているのです。
━━
(公訴が提起される前に私訴が起こされた場合の取扱い)
治罪法第6条を適用する際には、他にも注意すべき点があります。それを以下に説明しましょう。
第一に、公訴が提起される前に私訴が起こされた場合についてです。
公訴が提起されていないときに、私訴が提起された場合、手続きはどのように進めるべきでしょうか。
民事裁判所において、その事件が犯罪に起因するものであると認められたときには、治罪法第96条は「官吏がその職務を行うときに、重罪や軽罪があることを認知し、又は重罪や軽罪があると思料した場合には、速やかにその職務を行う地の検事に告発すべきである」と定めていたす。
民事裁判官がこの告発を行った場合、その民事審判は中止すべきかが問題となりえますが、中止する必要はないと考えます。治罪法第6条には「公訴と私訴が同時に提起された場合」とあり、告発を行っただけで、公訴が提起されていないのですから、民事裁判官が審理を中止する理由がありません。
検察官が告発を受理しても、公訴を提起するとは限りませんから、裁判官が何もせずただ手をこまねいて、検察官がどのようにするかを待つ必要はありません。裁判官と検察官は互いに抑制し合うものではなく、それぞれ独立した権利を持って公平な裁判を維持する者です。告発を行ったとしても、検察官が公訴を提起していない以上、民事裁判官は私訴を審理するのが当然です。
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(私訴審理中に公訴が提起された場合の取扱い)
第二 私訴審理中に公訴が提起された場合
私訴の審理中に公訴が提起されると、刑事と民事が並行して進行する状態となりますので、治罪法第6条により、民事訴訟は中止となります。刑事の判決を待ち、判決が出た後に民事裁判を再開すべきです。
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(民事裁判の中止は刑事の終局判決が出るまで)
民事裁判を中止して刑事裁判の判決を待つといいますが、どのような判決を待つべきなのでしょうか。条文ではこの点が明確ではありません。私は、刑事の終局裁判を待つべきではありますが、確定裁判まで待つ必要はないと考えています。
確定裁判と終局裁判は異なります。確定裁判は、最終の判決であり、上訴することができない判決です。一方、終局裁判とは、一旦その事件が落着したものです。予審の言渡しにおいても、終局のものとそうでないものがあります。
免訴は、それ以上の異議や上訴ができないものですので、終局裁判です。
これに対して、公判に移す旨の言い渡しは終局裁判ではありません。これからさらに審理し、取調べが必要だからです。
このように、予審における免訴は、終局の判決ですから、民事裁判を進めることができますが、予審から公判に移す場合は、終局の裁判ではないため、民事裁判を審理することができません。
以上のように、民事裁判は終局裁判を待つものであり、確定裁判を待つものではありません。確定裁判を待つと、奇妙な結果を招くことになります。予審における免訴の言渡しは確定裁判ではないため、後日新たな証拠が発見されたときには後日裁判となることがあります。
確定裁判を待つとするならば、公訴時効の満了や欠席裁判の場合には、刑罰の時効に至るまで待たなければなりません。刑罰の時効期間は、短ければ7年、長ければ30年にも及びます。このような長い期間を待つとすれば、民事原告人の損害は非常に大きくなってしまいます。
フランス治罪法第3条第2項においても、「民事を中止するのは、終局裁判を待つべきものでって、確定裁判を待つものではない」と規定されています。
刑事裁判所においては、私訴が提起された場合は、公訴の裁判と同時に私訴の判決を言渡さなければなりません。確定裁判を待つのであれば、民事と刑事を同時に裁判することなどできません。このことからも、確定裁判ではなく、終局裁判を待つべきものであることがわかります。
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(私訴の判決を公訴の判決よりも先に言渡した場合の取扱い)
私訴の裁判を公訴の判決よりも先に言渡してしまった場合は、私訴の裁判だけでなく公訴の裁判も効力がなくなります。
民事と刑事が同時に提起されている場合、刑事の判決が先に行われなければ、民事の判決を言渡すことができません。これに反した場合、民事と刑事の両方の判決は効力がありません。形事上の予断を防ぐためです。民事と刑事の両方の判決を取消すためには上告を要することになります。
(第四章 第三節 了)
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