南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

江戸滞在費を稼ぐためにバイトに勤しむ 嘉永6年11月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年11月30日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年11月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年11月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記
喜多郎が本日江戸から村に帰る。幽学先生から、「皆で決めたことを守れば、幽学の教えがなくなっても、人から悪くいわれないし、財産も持つことができる。人と協力して行いを正していくことだ」とのお話しあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学をはじめ被告人扱いされている者は江戸にいなければなりませんが、裁判当事者でない者も江戸と村とを行き来しています。喜多郎もその一人。江戸に来たついでに浅草の入れ歯屋に行ったことが記事になっていました。



嘉永6年11月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は芝口新町に鮫鞘を買いに行かれた。小生は幸左衛門殿と写し物。幽学先生戻られ、共に銭湯へ行く(幸左衛門殿も)。日暮れに力蔵様、高輪から神田松枝町借家にお出でになる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生が買いに行った「鮫鞘」というのは、鮫の皮を巻いて作った刀の鞘のこと。どうやら、幽学先生は刀剣を売って、江戸滞在費を稼ごうとしているようです。五郎兵衛は書物の写しを作成するバイト。幽学先生との銭湯行きは楽しかったことでしょう。

嘉永6年11月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昨日同様、小生は幸左衛門殿と写し物。伊兵衛父は散歩。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛がしている書物の写しバイトですが、貸本屋で本を借りて、本の写しを作成するもの。これは当日普通に行なわれていたようで、高橋敏『江戸の訴訟』でも公事宿で貸本を書き写すエピソードが紹介されています(同書69頁)。

嘉永6年11月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記
一同髪結い、昼から銭湯。
今日もまた小生は幸左衛門殿と写し物。
幽学先生は良祐殿と水瓶買いに行く。伊兵衛父は散歩。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日もまた五郎兵衛は幸左衛門と書物の写しを作成しています。きっとバイトのオーダーが入って二人で分担しないと納期に間に合わないのでしょう。それにしても五郎兵衛、よく働きます。江戸時代の農民に学がないというのは誤ったイメージです。

嘉永6年11月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記
今日もまた小生は幸左衛門殿と写し物。
その後、幽学先生の誘いで、人形町、横山町を散歩する(幸左衛門殿も)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も書物の写しのバイトをした五郎兵衛でしたが、仕事の後には幽学先生が人形町、横山町を散歩に連れていってくれました。両町とも現在も名前が残っています(日本橋人形町、日本橋横山町)。

嘉永6年11月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿は、源兵衛殿と大根を買いに行った後、小石川に行かれた。幽学先生から、「皆、客人への配慮が足りない。客人が帰るときに誰も気がついていない」とのお話しあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
季節は冬。大根が売られています。小石川(高松家)との行来はかなり頻繁です。裁判対策でしょうか。それともペリー来航以来の世情の動向を把握しようとしているのでしょうか。

嘉永6年11月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記
多右衛門殿、逗留。昨日、幽学先生にご相談あって干潟から江戸に来た。本日、幸左衛門殿と帯を買いに行った。平右衛門殿らが乳の出る薬を買いに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
門弟が多右衛門のために、帯を買うのに同伴をしたり、乳の出る薬を買いにいったりしています。多右衛門の女房へのお土産なのでしょう。地元では買えないものをお土産にというのは、いつの世も変わらぬものです。

嘉永6年11月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記
多右衛門殿、昼前に干潟に向けて出立。
一同、銭湯に行く。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
多右衛門は二泊三日で江戸を後にしました。
「干潟」というのは、椿海を干拓した地域という意味合いで使われていると思われます。


嘉永6年11月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿と小生で写し物。
源兵衛殿が礫川(小石川)に行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「礫川」とあるのは、小石川のこと。
北斎の富嶽三十六景にも「礫川」(こいしかわ)のものがあります。


嘉永6年11月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記
本日も、幸左衛門殿と小生で写し物。平右衛門殿は蓮屋(公事宿)に行き、泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の写し物バイトは11月16日-18日の記事にはなく、昨日復活。客人対応等でお休みしていたのでしょう。平右衛門はいつもは松枝町の借家にいるのですが、公事宿の方に泊まることもあるようです。借家に住むのは、建前では決まりに反することなので、公事宿とはうまくやっていかなくてはなりません。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三条地震・シーボルト事件を記録した土浦の薬種商 文政11年11月中旬・色川三中「家事志」

2023年11月27日 | 色川三中
文政11年11月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年11月11日(1828年)
雨少々降る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日の日記は天気だけ。そんな日もある三中の日記。

文政11年11月12日(1828年)朝曇
朝、五つ時過(午前9時ころか)大地震。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この地震は三条地震です。震源は新潟県三条市付近。マグニチュードは6.9(推定)。震度7相当の揺れがあったと考えられ、死者1,000人以上、家屋全壊約10,000棟、焼失家屋1,000棟以上の被害が発生。三中は土浦におり、震源からは遠いのですが、「大地震」と感じています。
*三条地震の参考文献として、矢田俊文『近世の巨大地震』。「越後三条地震」に1章を割いて、当時の史料から被害を分析しています。


文政11年11月13日(1828年)
・昨夜、与市殿水戸から戻る。醤油の値上げを銚子と玉造の業者が共同して要求している。銚子組と玉造組の議定書の写しを入手してくれた。
・田中玄蕃の番頭が高浜に来るというので、船を出すよう要請あり。与市を至急遣わす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家のメイン事業は薬種商ですが、サブで醤油も製造しており、事業資金を借りてテコ入れしようとしているので(11月8日条)、醤油業の動向が気にかかるようです。天候不順もあって諸物価高騰、価格転嫁しないと醤油業が立ち行かなくなるという危機感をもっているようです。
「田中玄蕃」はヒゲタ醤油のこと。ヒゲタ醤油の本拠は銚子ですが、高浜(茨城県石岡市)辺りにまで販路を広げていたようです。



文政11年11月14日(1828年)晴
与市の孫が帯解きであるので祝儀として桟留一反を贈ろうとしてが、固辞されて受け取ってもらえず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
帯解きは七歳女子のお祝い。七五三の由来になったお祝いの一つ。与市には世話になっているので、桟留を贈ろうとしましたが、固辞されてしまいました。与市には与市のプライドがあるようです。


文政11年11月15日(1828年)晴
冬至。夜、茄子のからを炊く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦ですから、今日が冬至。今年(2023年)は12月22日が冬至なので約一ヶ月ずれています。「茄子のからを炊く」と書いてある意味がよくわかりません。そんな風習があったのでしょうか。

文政11年11月16日(1828年)曇
未明に地震。
#色川三中 #家事志
(コメント)
四日前(11月12日)に起きた三条地震の余震でしょう。未明に起きたので、ビックリして印象が強かったのかもしれません。今日の記事はこの一行で終わり。

文政11年11月17日(1828年)
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日も天気だけ。最近短い日記が続きます。本文を訳すには楽で良いのですが、コメントを考えるのが難しい(笑)

文政11年11月18日(1828年)曇
・冬至も過ぎたというのに、かなり暖かい。
・与兵衛と佐助、鹿嶋に向け出立。
#色川三中 #家事志
(コメント)
冬至過ぎなのに暖かく(原文では「暖気不常」)、やはり天候がおかしい。いつもとは勝手が違うのですが、色川家ビジネスは順調のよう。営業担当(与兵衛と佐助)はまた鹿嶋方面に出張です。

文政11年11月19日(1828年)
・本日も暖かい。
・明日中に中高津の年貢として米十俵、餅米一俵を納めなければならず、川口の藤七を頼む。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は薬種商ですが、農家(本百姓)でもあります。三中自身は農作業はしませんが、年貢を収める義務は色川家にはあり、年貢を納めるにあたっての人の手配等は、三中が行っていたことがわかります。

文政11年11月20日(1828年)晴
三中先生、本日は休筆ですが、昨日の記事でシーボルト事件について書いていましたので、抄訳します。伝聞ですので、不正確な事実が多々含まれています。
#色川三中 #家事志

#色川三中 #家事志 にみるシーボルト事件
・九州に台風が来て外国船二艘を山上に吹き上げて大破させた。長崎奉行が中を改めたら、詳細な国絵図が多数出てきた。
・長崎奉行は江戸に急報し、八日でその知らせが江戸に届いたという。御老中はすぐさま登城し、一時間して天文方高橋三左衛門を逮捕し、牢に入れた(その際上下の歯を抜いた)。
・詳細な国絵図は1年、2年で作成できるものではない。高橋氏の所持品はことごとく唐物であり、疑いの目が向けられたのであろう。
・詳細な国絵図が異国に持ち去られようとしたときに神風が吹いた。神風が船を砕き、生存者はわずか二名だった。弘安四年の故事(文永弘安の役)も思い出される。
いととうとくも、あなおそろしくも。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裁判所構成法を読む 第5章 大審院

2023年11月25日 | 治罪法・裁判所構成法
公布:明治23年2月10日
施行:明治23年11月1日(上諭)

裁判所構成法を読む 第5章 大審院

#裁判所構成法
第5章 大審院
第43条 大審院ヲ最高裁判所トス。
2 大審院ニ、一若ハ二以上ノ民事部及刑事部ヲ設ク。
(コメント)
大審院は最高裁判所である。では、最高裁判所とは何か?というと、その点の明示的な規定はない(もっとも、「終審」であることは規定されている;50条)。現在の最高裁判所は、「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」とされているが(憲法81条)、このような権限は大審院にはない。

#裁判所構成法
第44条 大審院ニ、大審院長ヲ置ク。
2 大審院長ハ、大審院ノ一般ノ事務ヲ指揮シ、其ノ行政事務ヲ監督ス。
3 大審院ノ各部ニ部長ヲ置ク。部長ハ部ノ事務ヲ監督シ、其ノ分配ヲ定ム。
(コメント)
本条では大審院長及び部長につき規定する。地方裁判所や控訴院とほぼ同様の規定(20条、35条)。部長が部の事務を監督することとなっており、裁判官の独立は制約を受けていた。


#裁判所構成法
第45条 大審院ノ事務ノ分配、竝ビニ代理ノ順序ハ、毎年部長ト協議シ、大審院長前以テ之ヲ定ム。
2 大審院長ハ、次年自ラ上席セントスル部ヲ指定スヘシ。
3 大審院ノ判事差支ノ爲、或ル事件ヲ取扱フコトヲ得ス、且同院ノ判事中其ノ代理ヲ爲シ得ヘキ者ナキ場合ニ於テ、其ノ事件緊急ナリト認ムルトキハ、之ヲ代理スル判事ヲ出スヘキ旨ヲ大審院長ヨリ其ノ所在地ノ控訴院長ニ通知シ、其ノ控訴院ノ判事ヲシテ代理ヲ爲サシムルコトヲ得。
(コメント)
大審院長の権限。事務分配等を決めるのに、部長と協議しなければならず、部長の調整役のよう。

#裁判所構成法
第46条 大審院長ハ、何時ニテモ部長若ハ部員ノ承諾ヲ得テ、之ヲ他ノ部ニ轉セシムルコトヲ得。
(コメント)
前条に引き続き大審院長の権限。部員である判事を他の部に転ずることができるとの規定であるが、当該部員又は部長の同意が必要であるので、大審院長の権限としては強くない。

#裁判所構成法
第47条 大審院ニ於テ、一タビ定マリタル部ノ組立ヲ變更シタルトキハ、現ニ取扱中ノ事務ニ付テハ、第二十三條ヲ適用ス。
2 司法年度中、事務分配ノ變更ニ付テハ、第二十四條ヲ適用ス。
(コメント)
部の組立てを変更したときは、事件の引継ぎに関する23条を適用する。事務の分配は原則として司法年度中は変更しない(24条1項)が、裁判の事務が過大な場合は新たに部を設置することができるが、その権限は司法大臣にある(同条2項)。

#裁判所構成法
第48条 大審院ニ於テ裁判ヲ爲スニ當リ、法律ノ點ニ付テ表ジタル意見ハ、其ノ訴訟一切ノ事ニ付キ、下級裁判所ヲ覊束ス。
(コメント)
大審院の判決の羈束力についての規定。なお、現行法(裁判所法)では、「上級審の裁判所の裁判における判断は、その事件について下級審の裁判所を拘束する」とあり(同法4条)、上級審一般についての規定となっている。


#裁判所構成法
第49条 大審院ノ或ル部ニ於テ、上告ヲ審問シタル後、法律ノ同一ノ點ニ付キ、曾テ一若ハ二以上ノ部ニ於テ爲シタル判決ト相反スル意見アルトキハ、其ノ部ハ之ヲ大審院長ニ報告シ、大審院長ハ其ノ報告ニ因リ、事件ノ性質ニ從ヒ、民事ノ總部若ハ刑事ノ總部又ハ民事及刑事ノ總部ヲ聯合シテ、之ヲ再ヒ審問シ及ビ裁判スルコトヲ命ズ。
(コメント)
大審院がいかなる場合に、連合部により審問・裁判しなければならないかについての規定。連合部には、民事連合部・刑事連合部・民刑連合部がある。現行法では、「法令の解釈適用について、意見が前に最高裁判所のした裁判に反するとき」は大法廷で事件を扱うとの規定(裁判所法10条但書3号)に引き継がれている。

#裁判所構成法
第50条 大審院ハ左ノ事項ニ付キ、裁判權ヲ有ス。
第一 終審トシテ
(イ) 第三十七條第二ニ依リ爲シタル判決、及ビ第三十八條ノ第一審ノ判決ニ非ザル控訴院ノ判決ニ對スル上告。
(ロ) 控訴院ノ決定及ビ命令ニ對スル、法律ニ定メタル抗告。
第二 第一審ニシテ終審トシテ
刑法第二編第一章及第二章ニ掲ゲタル重罪、竝ビニ皇族ノ犯シタル罪ニシテ、禁錮又ハ更ニ重キ刑ニ處スべキモノノ豫審及ビ裁判。
(コメント)
大審院の事物管轄。大審院が上告審であること等を定める同条第一は、現行法とも類似している。同条第二は、「第一審ニシテ終審」を定めており、現行法にはこのような制度がないので、この時期に特徴的である。

#裁判所構成法
第51条 前條第二ニ掲ケタル事件ニ付キ、大審院ハ必要ナリト認ムルトキハ、事件ノ審問裁判ヲ爲ス爲、控訴院若シクハ地方裁判所ニ於テ法廷ヲ開クコトヲ得。
2 此ノ場合ニ於テハ、控訴院判事ヲ以テ部員ニ加フルコトヲ得。但シ其ノ半數ニ滿ツルコトヲ得ズ。
(コメント)
前条第二は、大審院が「第一審ニシテ終審」となる事物管轄について定めているが、当該事件についての審理方法を本条は定める。大審院では一審としての設備を持っていないからか、必要があれば、地裁や控訴院で法廷を開くことができると規定している。

#裁判所構成法
第52条 大審院ノ權限、竝ビニ其ノ裁判權ヲ行フノ範圍、及ビ方法ニシテ、此ノ法律ニ定メザルモノハ、訴訟法又ハ特別法ノ定ムル所ニ依ル。
(コメント)
裁判所構成法以外にも、訴訟法や特別法の規定により控訴院が管轄を有するとする規定。地方裁判所については30条、控訴院については39条が規定しており、同趣旨。

#裁判所構成法
第53条 大審院ニ於テ、訴訟法ニ依リ法廷ニ於テ審問裁判スべキ事件ハ、七人ノ判事ヲ以テ組立テタル部ニ於テ之ヲ審問裁判ス。其ノ七人ノ判事中一人ヲ裁判長トス。其ノ他ノ事件ハ訴訟法ノ定ムル所ニ從ヒ判事之ヲ取扱フ。
(コメント)
訴訟法により審問裁判すべき事件は、控訴院では判事5人での合議体だが(40条)、大審院では本条により7人での合議体となる。現行法では最高裁の小法廷は5人の合議体である。

#裁判所構成法
第54条 第四十九條ニ定メタル場合ニ於テハ、聯合部ノ判事少クトモ三分ノ二列席スルコトヲ要ス。
2 前項ノ場合ニ於テ、民事ノ總部若ハ刑事ノ總部聯合スルトキ、又ハ民事及ビ刑事ノ總部聯合スルトキハ、總部ノ判事中官等最モ高キ者ヲ部長ト爲ス。大審院長ハ至當ナリト認ムルトキハ、自ラ總部ニ長タルノ權ヲ有ス。
(コメント)
大審院で連合部により審問・裁判すべき場合(49条)についての手続き規定。

#裁判所構成法
第55条 大審院長ハ、第五十條ニ依リ大審院ニ於テ第一審ニシテ終審ヲ爲スべキ各別ノ場合ニ付キ、大審院ノ判事ニ豫審ヲ命ズ。但シ、便宜ニ依リ各裁判所判事ヲシテ、豫審ヲ爲サシムルコトヲ得。
(コメント)
大審院が第一審かつ終審である事件(50条)については、大審院判事が予審も担当するのが原則であるが、地裁や控訴院判事でもよいとの例外も広く認められている。

#裁判所構成法
第56条 大審院ノ檢事局ニ檢事總長ヲ置ク。
2 檢事總長竝ビニ其ノ他ノ檢事ノ職權ニ付テハ、第三十三條ヲ適用ス。
(コメント)
地裁の検事局には検事正を置き(33条)、控訴院の検事局には検事長を置く(42条)。大審院の検事局には検事総長を置くことを本条は定める。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五郎兵衛、将軍宣下の御登城を見物する 大原幽学刑事裁判

2023年11月23日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年11月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
日出前に起き、(徳川家定への)将軍宣下の御登城を拝みに行く。良佑殿、源兵衛殿、伊兵衛父、傳右衛門殿と共に大手から拝む。水戸の御隠居様やその他大名がお祝いで登城。御道具、衣服等は美麗である。
御勅使が五頭の馬でお上りになられたのを見て、大手から桔梗御門へ回った。
諸大名衆の下座場所では御召馬、御道具飾りが誠に立派であり、筆舌に尽くしがたい。
高松様がお忍びで、神田松枝町の借家に来られ、夕方には帰られた。

(コメント)
・徳川家定への将軍宣下。将軍宣下(せんげ)とは、天皇が武家政権の長であり日本の統治大権を行使する征夷大将軍職に任ずる儀式のことです。
・12代将軍徳川家慶は、嘉永6年6月22日に亡くなっています。因みに、この年はペリーが来航した年でもあります。ペリーが浦賀に停泊したのは、嘉永6年6月3日であり、東京湾を離れたのは6月12日ですから、家慶の死はペリー来航騒動の直後のことでありました。
13代徳川家定への将軍宣下は、この年の11月23日のことです。
・この日記の著者五郎兵衛は現在の千葉県成田市長沼という地方の一農村の農民。大原幽学を師と仰いでおり、大原幽学と共に奉行所から呼び出しを受け、江戸に滞在しています(呼び出された者は奉行所の許しがなければ、村には戻らず、江戸滞在義務があります)。今風にいえば、被告人としての立場で故郷に帰ることを許されていないという感じになりますが、五郎兵衛にはそのような立場に有り勝ちな悲壮感は全くありません。五郎兵衛の仲間も同様。江戸に出てくることができてラッキーとばかり、江戸名所を行きめぐります。これは五郎兵衛に限らず、裁判で江戸滞在となった者の共通の行動だったようです(高橋敏『江戸の訴訟』)。
・さて、今回が見たのは将軍宣下。それにしても、将軍宣下があるのを五郎兵衛たちはどのようにして知ったのでしょう。五郎兵衛日記にはこの点について何ら記載がありません。これだけのビッグイベントとなると御触が出るのでしょうか。そうだとすると、かなりの人数が江戸城周辺に集まったのでしょうね。
・五郎兵衛たちは、まず江戸城の大手門あたりに陣取っていました。そこへやってきたのは「水戸の御隠居様」。現代ではこういうと水戸光圀公を思い出してしまいますが、この当時は水戸斉昭公のことです。五郎兵衛は、「水戸の御隠居様やその他大名がお祝いで登城」と記しており、水戸斉昭公以外は「その他」扱いです。水戸斉昭の人気が庶民レベルにまで浸透していたことが分かり、とて興味深い。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高額窃盗犯を流罪に処す 仮刑律的例 17 流罪

2023年11月20日 | 仮刑律的例
高額窃盗犯を流罪に処す #仮刑律的例 #17 流罪

#仮刑律的例 #17 流罪
(超訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
多数の窃盗を行った者がおり、被害は金105両3分、銀9匁にのぼっております。この者本来は死罪とすべきですが、今般大赦がありましたので、一等を減じて流罪7年といたしますが、よろしいでしょうか。
【返答】伺いのとおりでよい。

(詳しい訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
無宿で入墨をしている熊蔵(宮後西河原町の源四郎の伜)に対する刑についてお伺いします。
〈前科〉
①元治元年(子年)12月に盗みを行い、吟味の上、敲50回の刑に処しました。
親の源四郎に引渡しましたが、熊蔵の身持ちがよろしくなく、慶応元年(丑年)10月に家出をし、無宿となりました。
②再び盗みをしたことから、慶応二年(寅年)6月に召し捕らえ、吟味の上、敲100回の刑に処しました。
〈本件犯行〉
①去年(卯年)6月ころ、宮後西河原町の脇田宅で銀札3両と3匁を盗みました。
②同年9月ころ、吹上町の信州吉で銀札1両と丸餅30個を盗み、餅は食べてしまいました。
③本年(明治元年辰年)2月ころ、宮後西河原町の又兵衛方で木綿綿入れ一つ、同袷一つ、同単物二つを盗み、綿入れ一つと単物一つは氏名不詳者に銀18匁で売ってしまいました。
④同月、一志久保町の半兵衛方で、八丈縞綿入れ一つ、木綿女浴衣一つ、金巾一つ、同切れ三つ、唐織羽織一つ、金巾腹当て一つを盗み取りました。
⑤同月ころ、江州水口在の氏名不詳者宅で、脇差し二腰、御召羽織一つ、木綿袷一つを盗み取りました。
⑥同年閏4月28日ころ、吹上町の氏名不詳者宅で、二分金5両、銀札1両と3匁を盗み取りました。
⑦同年5月晦日夜、一志久保町の次郎兵衛方で、二朱金26両2朱、銀札30両を盗み取りました。
熊蔵が山田町を徘徊していたところを召し捕らえて取り調べたところ、このような盗みをしたことが分かりました。
被害合計は、金105両3分、銀9匁であり、熊蔵を召し捕らえたときは、39両2朱と銀3匁等しか所持しておりませんでした。
他にも余罪があるのではないかと追及しましたが、これ以外はやっていないとのことです。この者本来は死罪とすべきですが、今般大赦がありましたので、一等を減じて流罪7年といたしますが、よろしいでしょうか。
【返答】伺いのとおりでよい。

【コメント】
・度会府からの伺いです。度会府は慶応4年
7月6日に設置されました。伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。
・なお、度会府は明治2年7月(1869年)には、 度会県に改称しています。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。
・熊蔵の実家があった宮後西河原町は「みやじりにしかわらまち」と読み、現在でも伊勢市には宮後町があります。
・熊蔵には2回前科があり、いずれも盗み。最初は敲50回でしたが、2回目は敲100回。前科に関する文章には入墨の刑への言及がありませんが、熊蔵が入墨をしているのは、盗みに伴う刑によるものだった可能性もあります。敲の刑については以下のサイトが参考になります。

「百敲(ひゃくたたき)」の刑、吉宗は計算ずくだった – 國學院大學

國學院大學公式サイト。渋谷と横浜・たまプラーザにキャンパス。國學院大學では、日本を学び、世界に貢献できる人材育成を目指しています。

國學院大學


・窃盗については、公事方御定書で、10両以上の窃盗は死罪と定められており、明治元年10月に「倉庫破りをしたが窃盗には至らなかった場合は笞50回、盗みをした場合は被害金額が20金以下であれば笞百回」との修正が加えられています(刑律改定についての行政官布告)。20両超は死罪なので、熊蔵も本来は死罪となります。
・しかし、明治に大赦が出されており、①明治元年となった年の正月以前の犯罪であれば大赦となり、②9月8日以前の犯行であれば、罪一等を減じるというルールになっています。明治元年の犯罪かあるため、一等を減じて流罪となっているのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公事宿にクレームつけられて江戸と地元を往復 嘉永6年11月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年11月16日 | 大原幽学の刑事裁判
公事宿にクレームつけられて江戸と地元を往復 嘉永6年11月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年11月朔日(1日)(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師が押畑村に所用で行ってしまったので、今日は一日待機。良左衛門君から「干潟の者はどうもよくありません。頼んだり謝ったりしても、つけあがってしまって、幽学先生の決めた法をちっとも守らないのです」との話しを聞く。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
江戸から戻った五郎兵衛。元俊医師と一緒に江戸に戻る予定ですが、元俊は生憎所用があり、今日一日は待ちぼうけ。たまたま元俊宅に来ていた良左衛門と話していると、どうも長部村(現旭市長部)の方は、幽学先生の教えを守らない者が出ており、大変なようです。

嘉永6年11月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師と二人で長沼村を出立。大森宿に昼過ぎに着く。平川屋泊。元俊医師は御役所の松村様と打合せ。松村様は当方の事情を理解してくださり、元俊医師に山形屋宛の書面を渡し、これで山形屋と話しをつけよと仰っていただいた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
元俊医師と江戸に向かう五郎兵衛ですが、まずは大森宿で一泊。ここには長沼村の領主である淀藩の役所があります。江戸へ行く手続きをしなければならないところ、役所の松村様のお取り計らいで、一札を入手することができました。
長沼-大森(18 km)

長沼 to 大森

長沼 to 大森



嘉永6年11月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記
日の出を待って大森宿を一人で出立。元俊医師は役所へ挨拶に行った後、長沼村に戻った。小生は八幡で中食し、松枝町の借家に日暮れに着。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日、元俊医師が役所の一札を入手したので、問題解決は五郎兵衛に託されたようです。五郎兵衛のみ一路江戸を目指し、ようやく日暮れに江戸に着きました。
大森ー神田松枝町(44 km)

大森 to 千代田区町名由来板 神田松枝町

大森 to 千代田区町名由来板 神田松枝町




嘉永6年11月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿が蓮田屋に、荒海村の丸子屋の帰村の書面を書いてもらうよう依頼に出かけた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
蓮田屋さんは公事宿。奉行所宛の書面を代書するのも公事宿の大切な仕事。裁判は昔も今も特殊な世界であり、書面も裁判特有の考え方が必要になったことでしょう。


嘉永6年11月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記
一同で髪結い。町内に葬式が出たので、伊兵衛父は参列。小生は三河町の万徳に行き、これまでの経緯を話してきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所には五郎兵衛は万徳(公事宿)に泊まっていることにしていますが、実際は神田松枝町で借家住まい。こんな風にしているのは、公事宿での宿泊だとかなり費用が嵩むので節約の為です。公事宿も全てをのみ込んだ上でのことなのです。そのため、お互いのコミュニケーションを保っておく必要があります。

嘉永6年11月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記
太郎様(高松家長男)が来られる(源兵衛殿が小石川まで迎え)。幽学先生は太郎様と共に両国の方に遊びに行かれる(源兵衛殿同道)。太郎様、借家に泊まられる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学はこの裁判では現高松家当主の弟ということになっています(これは身分偽装なんです)。高松家は小石川に住居があり、神田松枝町までは約5キロあるのですが、双方の行来は頻繁です。今日は高松家長男が幽学のところに遊びに来ています。

嘉永6年11月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝、武左衛門殿来る。平右衛門殿は田安家の磯部様のところへ。午後には薪を買いに行くものもあり、浅草の歯入師のところへ行く者もあり。小生は小石川へ仕立物を取りに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「浅草の歯入師」というのは五郎兵衛日記に結構顔を出します。入歯を作るニーズが高かったのですね。


嘉永6年11月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は太郎様(高松家長男)と共に高輪に行かれ(幸左衛門殿、源兵衛殿同道)、夕方お帰りに。晩には邑楽屋来る。その後、幡谷村半右衛門殿が相続のことで相談に来る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
太郎様(高松家長男)は借家に引き続きお泊まりになっていたようです。今日で3泊目。高輪はお台場建設の基地となっており、高松家当主(幕府の下級役人)の現在の勤務先でもあります。

嘉永6年11月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記
太郎様(高松家長男)が小石川にお戻りになられた(幸左衛門殿、源兵衛殿お送り)。夕方、高松様来られ、松枝町借家にお泊まりになられる。晩には家主来る。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「高松様」が大原幽学のところにやってきました。幕府の御小人目付の職にあり、多忙なはずですが。ペリー来航時も重要な役を割当てられ、現在は高輪で勤務しています。御台場建設(嘉永6年10月25日条参照)に関わる仕事をしているのかもしれません。



嘉永6年11月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記
高松様、幸左衛門殿と碁を打つ。昼、高松様に御膳を振るまう。午後高松様はお帰りに。その後、幽学先生と共に銭湯へ行く(幸左衛門殿、源兵衛殿も)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
高松様は幕府の役人ですが、大原幽学門弟らとすっかり打ち解けて、リラックスしています。一泊してお帰りに。幽学は五郎兵衛らと銭湯へ。高松家の接遇をした弟子たちのねぎらいの意味もあったのかもしれません。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物価上昇で何もいえねぇ〈言語に尽くし難し )〉文政11年11月上旬・色川三中「家事志」

2023年11月13日 | 色川三中
文政11年11月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年11月1日(朔)(1828年)晴
土浦藩の殿様が本日付けで寺社奉行に任命された。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦藩主土屋 彦直(よしなお)が寺社奉行に任命さる(本日付)。土浦藩主は江戸にいるため、三中にはあまり感慨はないようです。感想めいたことは書かれておらず。藩士とは付き合いがあるので、そのための備忘として記載したものかも。
寺社奉行は大名が就任する役職。町奉行、 勘定奉行とともに 三奉行と称され、 老中から重要な政治案件について諮問を受けて 答申し 、さらに評定所(幕府の最高裁判所)のメンバーとして重要裁判を担当します。

文政11年11月2日(1828年)晴
ひものやの件で関係者一同集まり、話合いをする。ひものやが相変わらずの自説を主張し、話合いにならず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやからは書付を取って合意し、トラブルは解決したはずですが、ひものやがワケのわからぬことを言い出し、トラブルが再燃。ひものやの組合(五人組)も集まって話合いをしましたが、そこでもひものやは自説を曲げず。トラブルは収まりません。

文政11年11月3日(1828年)
今年の各地の作物は不作のため高値。原料高騰のため、醤油を作っても赤字になり、銚子・野田辺りは江戸に出荷するのを止めたとか。この価格高騰は言語に尽くし難し。
#色川三中 #家事志
(コメント)
現代日本でも諸物価高騰ですが、文政11年も同様。三中先生曰く「言語に尽くし難し」。原因は天候不順による不作です。三中の祖父は醤油を作っているため、三中の関心は醤油業の動向に向いています。

文政11年11月4日(1828年)晴
大霜降る。昼過ぎより夕方まで曇り、その後雷鳴あり。
#色川三中 #家事志
(コメント)
冬(旧暦11月上旬なので太陽暦12月下旬ころでしょうか)だというのに、夜に雷鳴。天候不順ゆえでしょう。昨日の日記に天候不順による諸物価高騰を記したので、天候が気になる三中でした。
文政11年11月5日(1828年)快晴
昼前に久保倉太夫、御祓いのために来られる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
久保倉太夫は伊勢神宮の御師。下記ブログによると、安永六年(1777年)には久保倉大夫こと久保倉弾正は常陸国、下野国、伊予国を中心に25万9千余りのお札(大麻)を配布というので、土浦辺りも営業エリアだったのでしょう。
2024/01/20 御師につき追記
神崎宣武『江戸の旅文化』には御師の神札配布について以下のように説かれています。
"御師の第一の商業活動は、毎年一度、檀家に「大神宮」と銘された神札(大麻ともいう)を 配布することであった。大麻は、檀家が伊勢に参って天下泰平、五穀豊穣を祈願すべきとこ ろを、御師がすでに代行して祈願したものとする証印である。伊勢神宮と民衆社会を結ぶ巧 妙な証印であった。"

文政11年11月6日(1828年)晴
与市が久しぶりに土浦に来る。水戸に行く途中土浦に立ち寄る。我が家に泊め、夜中まで話す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与市と久しぶりの対面です。与市は下総(現千葉県)の名主まで務めた人物ですが、なぜか色川家でも働いている人物。7月に地元下総に帰っており、約4ヶ月ぶりに土浦に顔を出しました。三中は話したいことが山ほどあったのでしょう、夜中まで話しています。


文政11年11月7日(1828年)曇
大宝八幡宮餅上げ。佐助と利兵衛殿な大宝八幡宮にお参りに行くというので、千勝様と大宝の私の分のお賽銭として各12銅を佐助に渡した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
餅上げというと、京都醍醐寺の春の餅上げ奉納が有名ですが、大宝八幡宮では11月に行なわれていたようです。大宝さんは、千勝神社と共に三中お気に入りの神社。茨城県下妻市にあり、片道30キロあるので、泊りがけでないといけない距離。

力自慢、巨大鏡餅持ち上げ「世界平和を」 京都・醍醐寺で「五大力さん」|社会|地域のニュース|京都新聞

京都市伏見区の醍醐寺で23日、巨大な紅白の鏡餅を持ち上げる「餅上げ力奉納」が行われた。新型コロナウイルスの感染防止のため、3年連続で持ち上…

京都新聞



文政11年11月8日(1828年)晴
昨夜、川口(現土浦市川口)の醤油倉にいる隠居(祖父)が事業資金として300両を知人から借りたいといってきた。与市と夜に協議。今朝、与市は水戸に行く為に出立。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の父親は亡くなっていますが、祖父は健在。「隠居」と呼ばれていますが、醤油業をやっているようです。三中の薬種業が色川家のメインで醤油はサブなのでしょう。諸物価高騰の煽りを受けてか300両の借入れを要望する祖父。返す責任は三中が負うので、与市と協議しています。


文政11年11月9日(1828年)晴
当年は雨多し。長崎でも台風のため大津波があり、外国船二艘が山へ吹き上げられたと。この船には日本地図や各地の城の様子の書付が発見されたとのこと(八月八日のこととか)。かような物が異国に渡るのを阻止されたのは、神風が吹いたおかげであると皆噂している。
#色川三中 #家事志
(コメント)
なんとこれシーボルト事件の発覚の記事です。ニュースソースが書いてありませんが、「皆噂している」とあるので、噂話しとして広まっていたようです。うわさ話しであり、虚実はないまぜ。蘭船積み荷発覚説が噂話しとして土浦にまで広まっていたのは興味深い。
蘭船積み荷発覚説
旧来の説では禁制品を積んだ船が暴風雨(いわゆるシーボルト台風)に見舞われて座礁し、積み荷から地図などが発見されたという蘭船積み荷発覚説が知られていた。

文政11年11月10日(1828年)雨
利八の娘が今年は帯解き。祝いに黒鯛一枚(250文)を贈る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
七歳女子の帯解きのお祝い。七五三の由来になったお祝いの一つ。昨年は伊勢屋の長太郎が髪置きで150文の雪駄を贈っています。今回の祝いには黒鯛一枚(250文)。これは利八さんとの付き合いが深いからでしょうか。
利八は店の従業員で、昨年(文政10年)6月には無断欠勤したため、三中が激怒したことがありましたが、今の労使関係は悪くないようです。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裁判所構成法を読む 第4章 控訴院

2023年11月11日 | 治罪法・裁判所構成法
裁判所構成法を読む 第4章 控訴院

公布:明治23年2月10日
施行:明治23年11月1日(上諭)


第4章 控訴院
#裁判所構成法
第34条 控訴院ヲ第二審ノ合議裁判所トス。
2 各控訴院ニ、一若ハ二以上ノ民事部及ビ刑事部ヲ設ク。
(コメント)
裁判所構成法の第4章は控訴院について規定する(34条〜42条)。現在の高等裁判所に相当。二審の合議裁判所であり、民事部と刑事部が設置される。

#裁判所構成法
第35条 各控訴院ニ、控訴院長ヲ置ク。
2 控訴院長ハ、控訴院ノ一般ノ事務ヲ指揮シ、其ノ行政事務ヲ監督ス。
3 控訴院ノ各部ニ部長ヲ置ク。部長ハ、部ノ事務ヲ監督シ其ノ分配ヲ定ム。
(コメント)
本条では控訴院所長及び部長につき規定する。地方裁判所とほぼ同様の規定(20条)。部長が部の事務を監督することとなっており、裁判官の独立は制約を受けていた。

#裁判所構成法
第36条 事務ノ分配及ビ結了竝ビニ判事ノ代理ニ付テハ、第二十二條第二十三條及ビ第二十五條ヲ、左ノ變更ヲ以テ控訴院ニ適用ス。
第一 前項ニ掲ゲタル各條ヲ以テ、地方裁判所長ニ與ヘタル權ハ、控訴院長ニモ之ヲ與ヘタルモノトス。
第二 控訴院ノ判事差支ノ爲、或ル事件ヲ取扱フコトヲ得ズ、且ツ同院ノ判事中其ノ代理ヲ爲シ得べキ者ナキ場合ニ於テ、其ノ事件緊急ナリト認ムルトキハ、之ヲ代理スル判事ヲ出スべキ旨ヲ、控訴院長ヨリ其ノ控訴院所在地ノ地方裁判所長ニ通知シ、其ノ裁判所ノ判事ヲシテ代理ヲ爲サシムルコトヲ得。但シ豫備判事ヲ用ヰルコトヲ得ズ。
(コメント)
事務の分配(22条)、司法年度の終期又は休暇の際の事件の引継ぎ(23条)、判事の代理(25条)については、控訴院でも地裁と概ね同様に取り扱われる旨の規定。

#裁判所構成法
第37条 控訴院ハ、左ノ事項ニ付裁判權ヲ有ス。
第一 地方裁判所ノ第一審判決ニ對スル控訴
第二 區裁判所ノ判決ニ對スル控訴ニ付キ爲シタル地方裁判所ノ判決ニ對スル上告
第三 地方裁判所ノ決定及ビ命令ニ對スル法律ニ定メタル抗告
(コメント)
控訴院の事物管轄。現在の高裁と概ね同様である。

#裁判所構成法
第38条 皇族ニ對スル民事訴訟ニ付キ、第一審及ビ第二審ノ裁判權ハ、東京控訴院ニ屬ス。但シ第一審ノ訴訟手續ニ付テハ地方裁判所ノ第一審手續ヲ適用ス。
(コメント)
本条により、皇族への民事訴訟は東京控訴院が管轄を有する。大正15年に成立した皇室裁判令にも本条は受け継がれている。

#裁判所構成法
第39条 控訴院ノ權限、竝ビニ其ノ裁判權ヲ行フノ範圍及ビ方法ニシテ、此ノ法律ニ定メザルモノハ、訴訟法又ハ特別法ノ定ムル所ニ依ル。
(コメント)
裁判所構成法以外にも、訴訟法や特別法の規定により控訴院が管轄を有するとする規定。地方裁判所については30条が規定しており、同趣旨。

#裁判所構成法
第40条 控訴院ニ於テ、訴訟法ニ依リ法廷ニ於テ審問裁判スべキ事件ハ、五人ノ判事ヲ以テ組立テタル部ニ於テ之ヲ審問裁判ス。其ノ五人ノ判事中一人ヲ裁判長トス。其ノ他ノ事件ハ、訴訟法ノ定ムル所ニ從ヒ、判事之ヲ取扱フ。
(コメント)
控訴院で訴訟法により審問裁判すべき事件は、5人での合議体となる。なお、現行裁判所法では合議体の員数は原則3人(例外的に5人の場合あり)。

#裁判所構成法
第41条 第三十八條ノ場合ニ於テ、第一審ハ五人ノ判事ヲ以テ組立テタル部ニ於テ審問裁判シ、第二審ハ特ニ七人ノ判事ヲ以テ組立テタル部ニ於テ審問裁判ス。其ノ五人又ハ七人ノ判事中一人ヲ裁判長トス。
(コメント)
皇族の民事訴訟(38条)は一審の5人の合議体、二審は7人の合議体とすべきとの規定。
なお、現行法では、皇族の裁判についてのかようや特別扱いはない。

#裁判所構成法
第42条 各控訴院ノ檢事局ニ檢事長ヲ置ク。
2 檢事長竝ビニ其ノ他ノ檢事ノ職權ニ付テハ、第三十三條ヲ適用ス。
(コメント)
本条は、控訴院には検事長を置くべきこと(地裁では検事正)、検事長の職責が検事局の事務取扱の分配・指揮監督であることを規定している(33条の準用)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

両親殺しには「破格の極刑」 仮刑律的例 16 磔刑

2023年11月09日 | 仮刑律的例
両親殺しには「破格の極刑」 #仮刑律的例 #16 磔刑

(超訳)
【大津県からの伺い】明治元年十月朔日
両親(養父母)を殺害して、その家にあった金銭を盗んで逃亡した無宿人について、どのような刑に処すべきか教えて下さい。
【返答】
そのような不届き至極の大逆罪を犯した者は、村辺りを引き回しの上で磔。磔刑廃止したが、このような逆罪は破格の極刑でよい。

(詳しい訳)
【大津県からの伺い】明治元年(辰年)十月朔日
新助(無宿者)は、幼年から浅右衛門方(勢州三平郡浜一色村)に養子に出されておりました。しかし、身持ちがよろしくなく、親の意向も無視して伊勢参りをしたため、離縁となりました。
新助は江戸に出て、他家の養子となったのですが、ここもすぐに離縁し、故郷の浜一色村に戻ってきました。
新助は、浅右衛門夫婦が自分を離縁したことを遺恨に思っており、夜中に夫婦両人を殺害。同家にあった金銭を盗んで逃亡しました。
新助は、昨年11月、勢州庄野宿(多羅尾織之助支配所)で召し捕られ、入牢となりました。本年7月23日に当県(大津県)に引渡しとなり、取調べましたところ、上記の事実に相違ないとの申立てを致しました。
本件につきどのような刑に処すべきでしょうか。口書を添えて、お問合せ致します。
【返答】
この者、非常の怨みをもって、養父母を斬害し、その上金子も盗取した。不届き至極の大逆罪であり、居村辺りを引き回しの上で磔とすべきである。磔刑は廃止したが、このような逆罪は非常のことであり、破格の極刑に処せられるべきである。

【コメント】
・大津県からの伺いです。大津は現在の滋賀県ですが、この伺いのあった明治元年には勢州=伊勢国(現三重県)も管轄していました。なお、明治2年9月には、勢州の管轄は度会県に移っています。
・本件犯行現場は、勢州三平郡浜一色村です。現在の三重県四日市市浜一色町。ここに
浅右衛門夫婦が住んでおり、新助を養子にとりました。しかし、新助は養親のいうことを聞かず、お伊勢参りに。

浜一色町 · 〒510-0031 三重県四日市市

〒510-0031 三重県四日市市

浜一色町 · 〒510-0031 三重県四日市市


・浅右衛門夫婦はいうことを聞かなかった新助を離縁。「身持ちがよろしくなく」とありますから、お伊勢参りの一件だけでなく、様々なことがあったと思われます。
・新助は無宿人となって、江戸に出ます。ここでも養子になったのですが、行状はあらたまらなかったようで、ここでも離縁。故郷の浜一色村に舞い戻りますが、そのときに本件犯行を犯してしまいます。
・新助は、夜中に浅右衛門夫婦を殺害。同家にあった金銭を盗んで逃亡しました。殺害の動機は、「浅右衛門夫婦が自分を離縁したことを遺恨に思っていた」となっていますが、夜中であることから、金が目当てであつたと可能性もあります。
・いずれにせよ、本件は今であれば強盗殺人罪に該当し、二人殺していますから、現代でも死刑となってもおかしくない事件。しかも、当時は尊属を殺害するのは、「大逆」であり、この点を明治政府の担当は刑を決める上で重要視しています。
・明治政府の判断は、新助は引き回しの上で磔にせよというもの。磔は極刑です(死刑と極刑は別概念・過去記事参照)。
・明治政府はこの時期焚刑は廃止しておりましたが(過去記事参照)、磔刑は君父を殺した大逆に限定して用いていました。本件の回答でそのことが明らかにされています。
・磔刑が廃止されたのは、 新律綱領(明治3年12月20日)の制定によります。新律綱領により、死罪は「絞」と「斬」のみとなりました。
・新助は、慶応3年11月に庄野宿で召し捕られ(逮捕)、入牢(勾留)となりました。庄野宿は東海道五十三次の45番目の宿場です(現三重県鈴鹿市)。入牢してから大津県に引渡しとなるまで、8ヶ月以上かかっています。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜか碁が大流行 嘉永6年10月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年11月06日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年10月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年10月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記
小貝野村の利兵衛殿が借家を訪ねて来た。昼過ぎに帰村するとのこと。
晩には大家が来て碁を打った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学や有力な門弟が江戸にいるため、裁判関係者以外の者も江戸を訪れています。記事に見える小貝野村(現千葉県東庄町)の利兵衛もその一人のようです。

小貝野 · 〒289-0637 千葉県香取郡東庄町

〒289-0637 千葉県香取郡東庄町

小貝野 · 〒289-0637 千葉県香取郡東庄町



嘉永6年10月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝食後に幽学先生から「肥を作るには念を入れて行うのだぞ」と話しがあった。
大家は今日も昼から碁を打ちに来た。晩も同様。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学は理念的なことばかりではなく、農業の具体的なことまで教えていました。武士ではあるものの、放浪生活をしたことで、農業先進地域のノウハウを見聞きしてきたのでしょう。
大家は今日も碁を打ちにきました。よほどの碁好きと見えます。


嘉永6年10月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前から伊兵衛父と良祐殿は碁を打っていた。昼過ぎ武左衛門殿は小石川の高松様のところへ行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
裁判の為の江戸での生活費をおさえている幽学一派。家の中で囲碁を打つのは出費抑制策には合致してますね。

嘉永6年10月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿、源兵衛殿と外出し、深川八幡、洲崎弁天、三十三間堂を見物。夕方に借家に戻る。品川まで御台場を見物に行った者もいた。幽学先生は浅草の歯入師に行かれた。先生がお帰りになられた後、一同で泉の湯に行く。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日は物見遊山の外出。深川八幡(富岡八幡宮)、洲崎弁天(洲﨑神社)は現存。
江戸三十三間堂は、富岡八幡宮の東側にあった仏堂ですが、明治初期に廃されて堂宇は破却されて現存せず。

嘉永6年10月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早飯を食べ、芝泉岳寺四十七人像墓所を拝見。次いで海上禅林(東禅寺)を拝見。御台場の一番から三番までの小屋を高輪から遠眼鏡で見る。海岸は御台場普請、諸色物揚場にやらいを結い、大造なことである。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日は泉岳寺、東禅寺を見た後、御台場工事を見学。御台場は、ペリー来航を受けて、海防のため造設。嘉永6年(1853)8月末着工。五郎兵衛らが見たのは、着工から約2ヶ月で工事中の状況。昼夜兼行で進められた大プロジェクトの姿です。

嘉永6年10月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿(荒海村)は早朝から磯部様(田安家の代官)に面会に。「裁判が長々と続くのは嘆かわしいな。村からは何人江戸に来ているのか。毎日どのくらいの費用がかかっている?」と細かいことまでお聞きになられ、誠にご親切なことである。代官からは、「裁判を担当していた菊地は長崎へご出役となったぞ。新しい担当がわかったら教える」とのお話しもあった由。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・荒海村(成田市荒海)は田安家の所領。田安家は幽学一派に裁判になる前から同情的で、裁判となってもそれは変わりません。何くれとなく心配してくれています。裁判の担当が変わったという情報は貴重。担当は未定で、これでは裁判も当面進みません。
・本日の記事にでてきた「裁判を担当していた菊地」は菊池大助のこと。日記では長崎にご出役としか書かれていませんが、ロシア使節プチャーチンとの応接のための出張でした(高橋敏「大原幽学と幕末村落社会」)。菊池はこの後、外国奉行となり、勘定奉行まで出世します。

嘉永6年10月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
高松様は高輪で御役目。幸左衛門殿と源兵衛殿が高輪にご挨拶に。幽学先生、言い忘れたことがあったと、小生を高輪まで遣わす。日暮れに戻る。幽学先生は両国で柳行李を買って来られた。夕方、力蔵様来られる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
高松様は幕府の御小人目付の職にあり、ペリー来航時も重要な役を仰せつかっていました。現在は高輪での御役目。御台場建設等に関わる仕事なのかもしれません。門弟三人が高松様には挨拶に行っていますが、幽学先生はノンビリと買物。


嘉永6年10月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
昼から幽学先生は買い物に。幸左衛門殿は小石川へ。伊兵衛父は散歩。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は今日も買い物。小石川(高松家)の対応は門弟幸左衛門に任せてしまっているようです。

嘉永6年10月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に仲谷村(現印旛郡栄町中谷か)の村役人二名が来られる。大森の役所から「長沼村から江戸に出た者が、山形屋から宿替えをしたのは問題である。出府している者にその旨伝えよ」とのこと。急ぎ長沼村に戻ることとした。夕刻、鎌ケ谷の鹿嶋屋に着き、泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛に緊急事態発生。山形屋から宿替えしたことが、淀藩大森役所にバレて、役人は怒っています。五郎兵衛、対策を立てるため、急遽長沼村(現成田市長沼)に戻ります。長沼村までは一泊二日の旅程です。


嘉永6年10月30日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝、鎌ケ谷を出立。昼過ぎに長沼村に着く。元俊医師宅に行くと、良左衛門君が逗留していた。山形屋の宿替えが問題となっていることを話す。元俊医師「俺も江戸に行こう。明日よんどころない用があるので一日待ってくれ」。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、長沼村に到着。元俊医師は奉行所には病気ということになっているので、今回江戸に出ていないのです。さすが元俊決断が早く、江戸に行って善後策を講じることになりました。

旧暦に31日はありませんので、 #五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 はお休みです。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする