南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

調停役をする名主-色川三中「家事志」より

2023年05月29日 | 色川三中
色川三中の日記にみる名主の役割

(色川三中の日記の債務支払い交渉)
色川三中は父親の死去により、薬種商の経営を20代で継がざるをえず、父親が残した多額の債務の支払い交渉をしなければなりませんでした。交渉の様子は日記(家事志)に頻繁に記載されています。
文政10年6月7日(1827年)
「四つ前、入江(名主)のところへ行く。西門の松屋との債務整理の件で入江から話しがあった。相手は利足1両2分はまけてくれるとのこと。当方からは、残り12両のうち当初2両支払い、来年3月までに月賦で完済するという提案をした。」
(色川三中『家事志』)

(支払い額について)
色川家は「西門の松屋」から借金をしています。色川家からの支払いは滞っており、どのように返済するかが問題になっています。
この債務は三中自身のものではなく、三中の父親のものです。色川家が多額の債務を負った理由については、過去記事をご参照下さい。
三中の狙いは、利息はカットしてもらい、残金をできるだけ無理なく支払うことにあります。西門の松屋との交渉では、毎月払いで来年には完済という提案をしています。支払い期間は債務額によってのようで、債務額が多額の場合は、十年払いになるものもあります。

(名主の役割)
記事には、「入江(名主)のところへ行く」とあり、名主の入江が債権者と債務者の間に入っていることが分かります。
なぜ名主が交渉しているのでしょうか。
交渉は当事者間のものですから、どこでどのように交渉しても良いことは、現代も江戸時代も変わりません。
当事者間で交渉してもうまく行かないときは、現代であれば裁判所に訴える(訴訟)ことができます。
江戸時代でも訴訟を行うことはできますが、今とは仕組みが違います。三中は土浦に住んでおり、債権者の西門も土浦近辺のようですので、このような場合は、土浦藩の役人が裁判をすることになります。しかし、今の裁判所のようなスタッフを多数抱えているわけではないので、土浦藩としてはできるだけ裁判にしてほしくないのです。そこで、「できるだけ内済(示談)で収めてほしい」というのが、江戸時代の藩の方針となっていました。
内済をするように持っていくのが、名主の役目です。名主の役割を書いたものとして、『庄屋往来』という名主のテキストがあり、そこには村人口の把握などのほかに、「公事訴訟は双方和談の上、内済にし、それが叶わない場合は裁判を受けさせる」とあります(山崎善弘『村役人のお仕事』)。
 名主の入江氏の役目は、債権者(西門)と債務者(色川三中)双方の言い分をきき、できるだけ合意に達するようにするというものです。村役人といっても、別に村役場のような施設がなかったので、自宅に三中を呼んで話し合いをしています。債権者と債務者を交互に呼んで妥協点を見つけようとしています。

なお、この交渉は次のようにまとまり、無事内済となっています。
文政10年6月23日(1827年)
「八つ時、熊野屋と田中清吉同道で入江(名主)の家に行く。松喜(債権者)と交渉し、次のとおり決まる。
借用金の利息を一部まけてもらい、計12両とする。今月2両。来月より来春3月にかけて毎月1両の月賦。完済までは田地を質とし、質地証文は完済時に返却する。」





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嘉永6年5月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年05月25日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年5月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年5月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記
屋形村の源八殿が、宿(山形屋)に来てくれた。正午ころまで話しをした。源八殿が帰ったので、湊川の借家へ行く。読み合わせをし、日暮れに宿に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
屋形村(現千葉県横芝光町屋形)の源八は、弟の刑事事件の関係で江戸に来ています(5月4日条)。まだ、江戸にいるようです。五郎兵衛は、作戦本部の湊川の借家に行っても、読み合わせしかすることがなく、暇そうです。



嘉永6年5月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記
正午ころ湊川の借家へ行く。日暮れに高松力蔵様が来られた。その後、宿(山形屋)に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も湊川の借家に行き、夕方に宿(山形屋)に戻るというルーチンで終わってしまいました。「力蔵様」は、大原幽学を支援している高松氏(幕府の役人)の次男で、親にかわって頻繁に湊川の借家を訪れています。

嘉永6年5月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨で終日宿(山形屋)におり、写し物をする。中食はあづまやへ行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は大雨で、作戦本部(湊川の借家)に行っても何もやることがないということで、終日山形屋です。やることがないときは、書物の写しの作成。そんなときにも、中食をどこで取ったかは忘れずに記載する五郎兵衛です(笑)。

嘉永6年5月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家に行く。明日、高田馬場で流鏑馬があるので、一同で見物することとなった。一度宿(山形屋)に戻り、支度をして湊川で泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所からの呼び出しをひたすら待つだけの何もやることがない日々が続いていますが、思いもかけず高田馬場で流鏑馬を見物できふことになりました。五郎兵衛は、一度宿に帰って、支度してから、湊川に泊まっており、遠足を待つ子どものようです。
高田馬場


嘉永6年5月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝早く一同で湊川の借家を立つ。高田馬場には五つ(午前8時)ころ着。流鏑馬の馬場の長さは7〜8町(760〜870m)。手摺は大竹に萩を巻いてある。御役人がおいでのところには矢来が立っている。この流鏑馬は上様(徳川家慶)61カ年の年賀のお祝いで、穴八幡宮の御祭礼である。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学らが見学した流鏑馬は、徳川家慶の数え61歳の祝賀行事でした。当時の流鏑馬がどんな風に行われたのかが細々と書いてあって(原文はかなり詳細)、興味深いです。もともとの高田馬場は、穴八幡宮の近くにあり、現代に高田馬場駅からは結構離れています。
なお、徳川家慶は、この流鏑馬が行われた翌6月22日には亡くなってしまいます。ペリー来航はこの年の6月3日ですので、いよいよ幕末の激動が切って落とされようというところです。

嘉永6年5月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ行く。大原幽学先生らは小石川にお出かけ。湊川で小生は写し物をしていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も作戦本部(湊川の借家)に行き、やることがないので書物の書き写し。大原幽学は高松氏(幕府の役人で大原幽学の支援者)の家のある小石川に行きましたが、五郎兵衛はお供の要員ではないようです。

嘉永6年5月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨で終日宿(山形屋)におり、写し物をする。宝田村の忠兵衛が遊びに来た。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日も大雨。旧暦五月ですから、梅雨の季節です。終日宿で過ごし、書き物の写し作業。仲間が遊びにきてくれており、よい暇つぶしになったことでしょう。「宝田村」は五郎兵衛の長沼村の近くの村です(現在は成田市)。
長沼-宝田(国道408号経由)

長沼 to 宝田

長沼 to 宝田



#ペリー来航
嘉永6年5月17日(1853年)
ペリー艦隊のうち、サスケハナ号及びサラトガ号が小笠原諸島から那覇に戻る。


嘉永6年5月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に湊川の借家へ行き、今日も写し物。夕方、宿に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も作戦本部(湊川の借家)に行き、やることがないので書物の書き写し。単調で変わりのない日々が続いていますが、明日、この状況を変える事態が起こります。


嘉永6年5月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ行く。大原幽学先生から、「強情で一切言うことを聞かない者が多くなっている。こんな様子ではダメだ。村に帰るには土産を持って帰るようでなければ、道友に申し訳が立たない」とのお話しがあった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所からの呼び出しを待つだけで、暇な日々が続き、門人は相当ダレていたのでしょう。大原幽学はこれを一喝。

嘉永6年5月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨。早朝から湊川の借家へ。昨日大原幽学先生が仰っていた話しを一同で語り合う。日暮れに宿(山形屋)に戻ったが、そこでも元俊医師と深夜まで論答。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日の大原幽学の一喝により、門人たちは目が覚めたようです。五郎兵衛も作戦本部(湊川の借家)に行ってから、一同で議論。そして、宿に戻ってからも、元俊医師と深夜まで議論。真面目な方たちです。


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文政11年5月中旬・色川三中「家事志」

2023年05月22日 | 色川三中
文政11年5月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年5月11日(1828年)曇
入樋の件で、夜に町内高持百姓の寄合あり。11〜12人が来場。役人に提出する願書につき協議した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋費用の負担は高持百姓の利益に関わる問題だけに議論が続けられています。従前、分担金を削減するという方針につき集会が開かれましたが(4月28日条)、今回は役人に提出する願書につき協議。この案文作成には色川三中も深く関わっています。


文政11年5月12日(1828年)
曇。昼前に雨、雷鳴。谷田部(つくば市)や藤代(取手市)の辺りは大雷雨で、鬼怒川の水は申年(文政7年)のときよりも多くなっているそう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川三中が住んでる土浦。霞ヶ浦と接している低地で、水害が頻繁に起こりました。そのため、水害情報については三中は敏感で、土浦からは結構離れている谷田部(つくば市)や藤代(取手市)、鬼怒川の情報まで書き留めています。

文政11年5月13日(1828年)晴
昨日、所有していた大町の屋敷を譲渡。証文には入江氏(名主)に奥印をしてもらった。本日、入江氏にその御礼。平目一枚と464文を持っていかせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
不動産売却の際には、現代では契約書を作成しますが、江戸時代には売主が証文を作成し、買主に交付します(買主は署名はしない)。売主が作成したことを保障するのが奥印です。名主等町役が押すもので、現代でいえば公証人の役割。費用は「御礼」という形で払われています。

文政11年5月14日(1828年)晴
入樋の件で昔の帳面を調べたら、土浦の戸数が記載されていた。備忘のため、この日記に記しておく。
延享5年(1748) 210軒
文化2年(1805) 322軒
文政9年(1826) 464軒
土浦が近年繁盛していることは、このことからも分かる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川三中は、入樋の件で藩の役人に提出する願書を作成していますが、その際に過去の文書に接しています。土浦の戸数について備忘のため日記に転載。文化文政期には、戸数がかなり伸びていることが分かります。


文政11年5月15日(1828年) 
昨日、与兵衛の妻が快気上がりで、挨拶に来た。与兵衛は今月10日から働き始めた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛一家はすっかり体調が良くなりました。子どもが突然死、その翌朝に子どもを出産、産後妻が病気となり、夫も寝込むというところまでいったのですが、回復して良かったです。
与兵衛の記事は5月1日以来です。


文政11年5月16日(1828年)曇
甲州の篩屋(豊蔵;八代郡岩間宿)が藤沢村(土浦市)の長嶋屋に泊まっていた。出立したところを、宿屋の従業員(三次)から脇差で切りつけられ、腹を突かれた。が、脇差は矢立てで止まったため深疵はなし。頭等5箇所の切り傷。三次は牢に入れられた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
藤沢村(土浦市)で起こった殺人未遂事件の記事。被害者は甲州から来ていた篩屋(ふるいや)。加害者は長嶋屋の従業員三次。動機がはっきりしません。腹を突かれていますが、矢立てで止まったため軽傷で済みました(まるで漫画のようです)。

矢立 - Wikipedia




篩屋が土浦近辺まで来ていた理由は書いていませんが、各地を回って篩を作っていたのでしょうか。ノマドワーカーがもてはやされていますが、よく考えると昔の方がそういう仕事の仕方が多かったわけで。
甲斐岩間駅-藤沢(甲州街道/国道20号

甲斐岩間駅 to 藤沢

甲斐岩間駅 to 藤沢



文政11年5月17日(1828年)雨
西寺に仏参。昨夜、せゐ(妻)が持ってきたあやめの花を持っていった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中が配偶者のことに言及することはあまりありません。本日の記事は珍しく配偶者のことに言及。昨晩あやめの花を持ってきてくれたようです。ちょっとしたことなのですが、三中にとっては結構嬉しかったのかもしれません。

文政11年5月18日(1828年)雨
田植えには良き日。大嵯峨の田植えを行った。それにしても、大水の上、連日の雨天であり、どうなってしまうのやら。茄子畑にも水が上がってしまったが、今日の雨でさらに水が上がってしまう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は高持百姓。年貢を収める義務はあり、米の出来は生活に関わってきます。田植えに良い日かどうかは縁起を担いでいたのでしょう。

文政11年5月19日(1828年)
久しぶりに快晴。中高津の田植えが行われた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ここのところ雨が降り続いており、水害の心配があったので、今日の快晴で一安心です。
中高津は三中が住んでいるところから2キロ強の場所です。
土浦城 大手門跡-中高津

土浦城 大手門跡 to 中高津

土浦城 大手門跡 to 中高津



文政11年5月20日(1828年)
#色川三中 #家事志
(編集より)本日、三中先生は休筆です。



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山田由紀子弁護士〈千葉県弁護士会物故者〉

2023年05月18日 | 千葉県弁護士会
千葉県弁護士所属の山田由紀子弁護士が、2022年12月16日逝去されたとの報に接しました(自由と正義2023年5月号)。ご冥福をお祈り致します。

著書
『後悔しないための離婚相談室』(教育出版センター)
『子どもの人権をまもる知識とQ&A くらしの法律相談 14』(法学書院) 
『少年非行と修復的司法 (思春期問題シリーズ(5))』(新科学出版社)
『つぐなうために 受刑者が見た修復的司法の真実と光』(共著、新科学出版社)
など。

東京都出身。早稲田大学法学部卒業。1979年弁護士登録(千葉県弁護士会)。日本弁護士連合会「子どもの権利委員会」委員長を務めた。「被害者加害者対話の会運営センター」理事長。


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嘉永6年5月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年05月15日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年5月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年5月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師が病気。小生が岸部屋に薬を取りに行き、宿で薬を煎じた。その後、湊川の借家に行って昼食。大原幽学先生は小石川に出かけられた。夕方、宿(山形屋)に戻ると元俊医師が元気になっていたので、本所回向院へ一緒に参詣に行く。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は元俊と同じ村(長沼村)の者で、同じ宿です。元俊が病気なので、薬を取りに行き、薬を煎じることまでしています。夕方には元俊が元気になったので、回向院まで散歩。仲間と共に生きる五郎兵衛。貴いです。
回向院

回向院 · 〒130-0026 東京都墨田区両国2丁目8−10

★★★★☆ · 仏教寺院

回向院 · 〒130-0026 東京都墨田区両国2丁目8−10



嘉永6年5月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨のため、しばらく宿(山形屋)にいる。その後、湊川の借家へ。夕方、宿に戻る。古屋新蔵が来ており、山形屋に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
旧暦五月ですから、本日の大雨は梅雨の雨。しばらくは宿(山形屋)にいましたが、その後は湊川の借家へ行っています。古屋氏が江戸に到着。山形屋は公事宿ですが、公事関係者以外も宿泊できたことが分かります。

嘉永6年5月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家に行き、昨日古屋新蔵が来たことを伝える。大原幽学先生「酒代でもやらぬと、あとで悪口をいわれるからな」と、酒代百疋を小生に預けられた。小生これを古家殿にもっていき、「師匠は古屋には今回は会わぬといっております。代わりに酒代をお持ちしました」といって渡したら、幽学先生から怒られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は五郎兵衛の失敗談。どうも五郎兵衛は物事をストレートに言ってしまう癖があるようです。それが分かっているなら、幽学も五郎兵衛には冗談とも本音とも分からぬことは言わなければよいのです。しかし、五郎兵衛のようなイノセントな者は思わず本音が出てしまうのでしょう。

#ペリー来航
嘉永6年5月3日(1853年)
ペリー艦隊のうち、サスケハナ号及びサラトガ号が琉球から小笠原諸島に向けて出港(浦賀到着まであと1ヶ月)。ペリーは小笠原諸島も重要視しており、父島に植民地を建設する必要があると考えていた。

嘉永6年5月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記
屋形源八殿が宿(山形屋)に来た。弟が刑事事件を起こし、捕まっていたが、昨日出牢したので、元俊医師に診てほしいとのこと。小生一人で湊川の借家にいく。元俊は診察のお礼に上喜撰茶半斤と金平糖をもらってきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
屋形源八殿の弟の刑事裁判は、大原幽学とは全くの別件。入牢していたから、元俊医師に診察を頼んだのでしょうか。診察代が上喜撰と金平糖。上喜撰といえば、この歌が有名です。
『泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず』
ペリー来航は、嘉永6年6月3日ですから、この日記の一ヶ月後。

なお、上喜撰茶は山本山から販売されています(⇒参考)。江戸時代からのものではないかもしれませんが。

嘉永6年5月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に湊川の借家へ行く。節句の儀式を執り行った。荒海村(成田市)の者は、本日大名の御登城を拝みに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は五月五日、端午の節句です。五郎兵衛が節句の儀式を執り行っています。
荒海村の者は登城見物。大名の登城は庶民からは一大イベントだったようです。
五郎兵衛の登城見物(3月3日条)



嘉永6年5月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記
江戸から帰村するものの為に小網町まで荷物を運んだが、本日将軍様の外出とのことで、船がでない。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日「小網町」(中央区日本橋小網町)という地名が出てきておりますが、同町には行徳河岸がありました。この河岸から行徳(市川市行徳)行きの船が出ます。行徳は木下街道、成田街道の起点で、大原幽学一門が江戸に往来する際に通る町でした。

嘉永6年5月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝早く、帰村の者を小網町で見送り。帰村の者は小網町から船で行徳へ。小生は湊川の借家へ。昼過ぎ、岩本町から出火。風下のため、諸道具全てを荷造りし、2階から担ぎ出せるようにしたが、下火となり事なきをえた。その後火事見物。火元を見る役人が馬で通ったり、火消し方は梯子を担ぎ、鳶をもって纏を振り、幟を立てていた。その様、筆に尽くしがたし。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
江戸の火事の記事。火事は頻繁に起きています。そのため、持ち物を荷造りして、2階から担ぎだすことができるスキルは必須でした。火消の様子も記事中にあります

嘉永6年5月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に湊川の借家へ行く。大原幽学先生は、大丸へご用事があり外出。小生は写し物をした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛はいつもどおり湊川の借家に行き、書物の書き写し。これをやっているときは、暇で手持ち無沙汰なときです。大原幽学は大丸へ。江戸店は大伝馬町にあり、1910年(明治43年)には一旦閉店。現在の東京駅隣接の東京店は1954年(昭和29年)に開店しています。

#ペリー来航
嘉永6年5月8日(1853年)
ペリー艦隊のうち、サスケハナ号及びサラトガ号が小笠原諸島の父島に到着し、調査を開始(5月12日まで)。当時の父島の人口は31人(小笠原諸島で唯一人が居住)。


嘉永6年5月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ行って写し物をする。
深夜、泉橋方面で出火。近くの火事であるので、用心のため、諸道具を担ぎ出す用意をした。一町四方が焼けたが、湊川の借家は無事。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日も五郎兵衛は湊川の借家(裁判対策本部の場所)に行き、書物の書き写し。そして、今日もまた火事が起きています(5月7日にも火事の記事あり)。近隣なので諸道具を荷造りして、避難の準備。火は対策本部までは来ませんでしたが、鎮火するまでは緊張を強いられたでしょう。

嘉永6年5月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨。昼に湊川の借家に行き、書いたものの読み合わせをする。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日もまた大雨。旧暦五月、梅雨の雨です。五郎兵衛は裁判関係ではやることがなく、書物の複写(書き写し)をして、書き間違いがないか、読み合わせをしています。




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文政11年5月上旬・色川三中「家事志」

2023年05月11日 | 色川三中
文政11年5月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年5月1日(朔)(1828年)
・御宗門大改めがあった。一人10文、十四人で140文かかった。
・風邪で体調を崩していた与兵衛はだいぶ回復。日向医師が小柴胡湯を処方したのが良かったか。与兵衛の女房はお歯黒をして、湯に浴するまで回復した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・宗門改めはよく聞きますが、この記事では、「大改め」と書かれています。費用がかかるのも初耳です。調査する手間暇、宗門人別帳の作成や管理に費用がかかるでしょうから、どこかがコスト負担しなければなりませんよね。14人分を支払ったというのは、三中の家族のほかに奉公人が入っているからです。奉公人は主人の人別に入ります。
・与兵衛夫婦の体調はようやく良くなってきました。子どもの突然死、その後の出産、妻が重病、与兵衛自身も体調を崩す、とこの間大変なことばかりでしたが、様々な人の助けにより、体調も安定してきました。

文政11年5月2日(1828年)
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日の記事は天気だけ。雨。旧暦の五月は梅雨の季節。

文政11年5月3日(1828年)晴
勅使河原勘兵衛様が亡くなられて三十五日。本日、こわめしをお遣わしになられた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
勅使河原氏は3月下旬にお亡くなりになり、三中は「この方には大変世話になった。ご厚恩は忘れてはいけない。」と日記に書いていました(3月29日条)。今日は三十五日。この地域ではこわめしを配る習慣があったようです。


文政11年5月4日(1828年)雨
先祖の墓に菖蒲をお供え。我が家では昔からの習慣だが、しなくなった家もあるそう。一体どういうつもりか。我が家では、この習慣は守る。そう家内にも伝えた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
お墓に菖蒲をお供えする習慣があったようです。三中はこの習慣を守るのが当然と考えていますが、周囲では守られなくなっているようです。

文政11年5月5日(1828年)
曇、夕方から雨
妻のせいは妊娠六ヶ月。今日、実家のある谷田部(つくば市)に行った。母は行かないように言ったが、妻は聞かなかった。妻には薬を持っていかせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
妻の妊娠について初めての記事。妻がこの時期に帰省するか否かで、姑と嫁の意見の違いが生じています。三中の賛否は書いてありませんが、「薬を持って行かせた」とあり、三中は妻の意見を尊重したのでしょう。

文政11年5月6日(1828年)雨
昼前に橋本権七殿、木下殿が来られ、入樋の件について話す。虫掛村は五両以上は拠出しないとのこと。私からは先例をご説明した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の費用分担は金額も大きいことから、なかなか議論が収束しません。虫掛村(土浦市)はこれまでと同様5両以上の負担は拒否。このままでは、三中が所属する土浦町の高持百姓の負担が重くなるため、三中も昔の例を踏まえて、有利になるように交渉をしています。

文政11年5月7日(1828年)曇
所有していた大町(土浦市)の屋敷を売ることとなった。今日正式に合意。書付を作成するように要請された。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家の遊休資産である大町(土浦市)の屋敷を売却するという記事。三中の薬種商の経営は順調ですが、債務は多額であり、遊休資産は売却して、債務の返済に充てるのが定石です。

文政11年5月8日(1828年)
大雨で田地の押水おびただし。今年の春から雨が多く、苗代が腐ってしまったものも多い。田植えは最近ようやく始まった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今年の春から多雨であり、苗代が腐ったり、田に水が溢れてしまっているという不具合が出ています。そのため、田植えも最近ようやく始まりました。旧暦5月上旬(現代の暦なら6月)では田植えとしては遅いとの認識です。


文政11年5月9日(1828年)
朝から隣主人と、入樋の費用分担の件で土浦藩の役人への願書の案文を考える。昼には願書案を完成させた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の費用分担の件。先日(5月6日)の話し合いの結果、土浦の高持百姓には不利な状況を認識したのでしょう。土浦藩の役人充てに願書を作成することとなりました。仲間と知恵を絞って、半日かけて願書案を作成しています。


文政11年5月10日(1828年)
入樋一件について願書案を昨日作成。土浦藩の懇意の役人に内々に見てもらった。明日夜に町内の高持百姓の会合で願書を決議する予定。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の費用分担の件。願書案を土浦藩の知り合いに内々に見てもらう根回しをし、高持百姓の会議で決定しようと、物事を進めています。

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江戸時代の従業員との関係-色川三中「家事志」より

2023年05月08日 | 色川三中
江戸時代の従業員との関係-色川三中「家事志」より

(はじめに)
土浦の薬種商色川三中の日記「家事志」には様々な出来事が雑然と記されています。日記の常として断片的ですが、それを繋ぎ合わせていくと、江戸時代の人と人との関係性が見えてきます。
今回は、文政10年〜11年(1827年〜1828年)ころの従業員与兵衛との関係を見ていきます。

(従業員与兵衛の親の死去)
文政10年9月6日
「朝五つ過ぎに、谷田部から二人の者が来て、店の従業員与兵衛の親(谷田部に居住)が亡くなったと知らせてきた。与兵衛にはすぐに谷田部に行かせた。」

 色川三中は土浦(現土浦市街)で薬種商として店を出しておりますが、与兵衛はもともとは谷田部(現つくば市谷田部)の人間で、親は谷田部に居住していました。谷田部・土浦間は約20キロありますから、与兵衛は土浦に出て働いているのでしょう。
 この記事からは、身内が亡くなったときの知らせ方が分かります。地元からは二人の者を行かせることにしていたようです。これは、一人だと話しだけでどうとでもできてしまうからでしょう。わざわざ二人がその用の為に知らせに来たということがポイントのようです。
 親の死去というのは重要なことなので、三中は知らせを聞いて、すぐに与兵衛を地元に戻しています。

(与兵衛に営業をさせる)
文政10年7月23日
「(行商中)共に行商に来た与兵衛を木滝、波崎(神栖市)に遣わす。」
文政10年8月11日 雨
「仕事で与兵衛を江戸に遣わす。」
 三中は土浦に店を構えており、あまり土浦からは動かないのですが、年に2回は周辺に行商に行きます。周辺地域の医師への営業活動です。与兵衛は三中の行商のお供をしており、三中から目をかけられていました。その後、三中は与兵衛の能力以上に期待をかけていたようで、あちこちに与兵衛だけを派遣したのです。
 与兵衛からすると結構きつかったろうと思われます。三中の行商にも同行、行商の途中で一人で別のところに営業に行かされ、それが終わると一人で水戸に出張に行かされ、さらに、中二日で雨の中を江戸へ出張させられていますから。かなり厳しい働かせ方です。三中からすると、「お前に期待している」ということなのでしょうが、与兵衛にはかなりの負荷でした。

(退職の申し出)
文政10年12月23日
「与兵衛が当年限りで暇をもらいたいとのこと。勝右衛門を通してそのように言ってきた。」
 与兵衛への負荷は、退職の申し出となりました。直接三中に話すのは怖かったのか、勝右衛門という古参の従業員を通じて話しをしています。

(与兵衛、三中のもとで働き続ける)
文政11年1月5日
「行商に出発。同行者は与兵衛。先月店を辞めるといっていたが、思いとどまってくれた。」
文政11年3月24日
「新しく店を中城に出し、従業員の与兵衛に任せることとした。守るべき心得を書面にし、与兵衛から提出してもらった。」
 与兵衛は昨年末に店を辞めるといっていましたが、年が改まってからの三中のトップセールス活動(行商)には同行しており、仕事を続けています。、3月の記事では、中城(現土浦市中央)に支店を出し、与兵衛に任せておりますので、与兵衛の昇格ということで、話しがついたようです。
 記事にはありませんが、与兵衛には妻子がおり、支店長昇格を機に土浦に呼びよせています。与兵衛は谷田部から単身赴任で土浦に働きにきていたのです。

(与兵衛の子の死亡、新たな生命の誕生)
文政11年4月11日
「与兵衛の子(7歳)が突然高熱を発し、気絶。そのまま息絶えてしまった。与兵衛の実家(谷田部)に連絡のため、従業員の利助を遣わした。」
文政11年4月12日
夜八つ(午前2時)、谷田部から与兵衛の親類、組合計6名が加籠で来る。夜明けまで協議し、葬式は谷田部で行うと決まったとのこと。与兵衛らが谷田部へ行こうとしたら、与兵衛の女房が産気づいてしまった。朝五つ(午前8時)、女子を出産。」
 
支店を任され、妻子とも同居でき、順風満帆に思われた与兵衛の家を悲劇が襲います。7歳の子が突然死。原因も分からず、嘆くほかはなかったでしょう。
亡くなった我が子の葬儀をどこでするのかが問題となったようです。現在の居住地である土浦でするのか、実家のある谷田部でするのか。夜中の協議で谷田部で行うこととなったものの、与兵衛の妻が産気づいてしい、死ぬる命もあれば、生きる命もあり、悲喜こもごもです。

(与兵衛の妻、体調を崩す)
文政11年4月15日
「昨夕から与兵衛の女房が発熱、咳もひどく、寒熱往来。本日夕方見舞いに行くが、咳、上衝発熱、脈浮大。産後の脈にして悪症。医者の処方では効果なく、持参したサフランを飲ませる。与市が昼夜看病している。」

与兵衛の妻は出産した後、体調を崩し、発熱。医師に診てもらったようですが、処方された薬は効果が見られません。薬種商の三中としては、そんな医師の処方に我慢がならなかったようで、自分の見立てで持参のサフランを飲ませています。「与市が昼夜看病している」とありますが、与市は三中の従業員。おそらく義務感からではなく、自主的に看病しているのでしょう。与市は下総のある村で名主まで務めた人物で、今は三中のもとで働き、難しい交渉事などに携わっています。仕事だけでなく、人助けもできる人物です。





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嘉永6年4月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年05月04日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年4月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(部分・大意)。

嘉永6年4月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
小石川の古家に6名で行く。垣結をし、なめもちを植える。夕方湊川の借家に行く。鏑木村から啓一郎殿が来られた。喜左衛門殿は帰村。日暮れに宿(山形屋)に戻る。
(コメント)
小石川の古家の整備が行われています。裁判対策で、大原幽学を高松氏の兄弟ということにするための家です。生垣を作っています。「なめもち」と記載されているのですが、カナメモチのことでしょうか。

嘉永6年4月21日(1853年)
#ペリー来航
琉球の総理官摩文仁按司(マブニアジ)が、那覇沖に停泊中の旗艦サスケハナ号に向かい、ペリーと会見。ペリーは首里城への訪問を要求。なお、総理官は琉球では位階の低い職だが、ペリー側は「琉球王国の摂政」と勘違い。

嘉永6年4月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行く。大原幽学先生から、身上が滅亡しかねない災いの種の話しがあった。大先生のお話しは、一々ごもっともなことである。日暮れに宿(山形屋)に戻る。
(コメント)
大原幽学から、「身上が滅亡しかねない災いの種の話し」がありました。具体的にどんなことか良くわからないのですが、五郎兵衛は素直に幽学の言葉に耳を傾けています。


嘉永6年4月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼から小石川の古家に戸棚を持っていく。また、火鉢や土瓶、五徳を買って運ぶ。蓮屋に寄るが誰もおらず、書付を座敷に置いておいた。湊川へ帰って風呂に入る。その後、宿(山形屋)へ帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
一昨日同様、小石川の古家の整備。戸棚は大八車で運んだのでしょうか。火鉢や土瓶、五徳等の生活に欠かせないものも購入しています。力仕事をしたので、作戦本部の湊川の借家に帰って一風呂浴びています(江戸の公事宿には内風呂はありません)。
参考:昔の五徳

さぬき市歴史民俗資料館ガイド 昔の暮らしの道具編

さぬき市歴史民俗資料館ガイド 昔の暮らしの道具編を載せています

さぬき市歴史民俗資料館




嘉永6年4月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
早朝から湊川の借家に行く。平右衛門殿(荒海村)が御代官様から、「田植え帰村の願いを出したらどうか」と言われたとのこと。奉行所から呼び出しもなく、田植えという理由ならば帰村が許されるとの見立てらしい。一同相談したが、却って裁判が長引いてしまうとの理由から、帰村願いは行わないこととした。 
(コメント)
江戸での裁判は、奉行所から呼び出しがあるまでは公事宿で待機しなければならないのが原則。しかし、奉行所の許可があれば村に帰ること(帰村)ができます。田植えは帰村の許可事由になるようです。しかし、五郎兵衛たちは、帰村願いをさないで江戸に留まることにしました。

嘉永6年4月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大原幽学先生が今後お住まいになる小石川の古家の整備。掃除、のし板染め、垣結を行う。夕方、湊川の借家に寄り、湯に入ってから、宿(山形屋)へ帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
小石川の古家の整備。本日で一段落のようです。労働の後は風呂。旧暦の4月下旬ですから、太陽暦なら6月。かなり汗をかいているものと思われます。

嘉永6年4月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行ったが、他にやることもないため、書物の写しをする。荒海村の者が、先日婚礼をした「はつ」を連れてきた。大原幽学先生は、「難儀と思うことがこれからあるだろうが、往古のことを考えてみなさい。そうすれば、どんなことでもできる」とお話になった。
(コメント)
湊川の借家に行った五郎兵衛ですが、手持ち無沙汰のため、書物の写しの作成をしています。貸本屋で本を借りて、本の写しを作成します。これは当日普通に行なわれていたようで、高橋敏『江戸の訴訟』でも公事宿で貸本を書き写すエピソードが紹介されています(同書69頁)。

嘉永6年4月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行ったが、今日も書物の写し。本日、大原幽学先生が数名の門弟に名乗りを許可。小生の名乗りは「則恵」。早速印形を作ろうと印形師のところに出かけたが、主人は留守であった。
(コメント)今日も手持ち無沙汰で書物の写しを作成していたところ、大原幽学から
「則恵」という名乗りを頂戴した五郎兵衛。大喜びで印形を作ろうとしましたが、残念ながら印形師は留守でした。

嘉永6年4月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行ったが、今日もやることもないので書物の写しをする。平右衛門殿は、昨日御代官様のところに行き、帰村願いを出さない旨申し上げたとのこと。
(コメント) 
書物の写しも三日連続。とにかく暇そうですが、ひたすら待機の日々なので仕方がない。平右衛門は、代官様に帰村願いは出さない方針を伝えました。村のリーダーが江戸に召喚されているため、代官は収穫に影響が出ることを心配しているので、報告は欠かせないのでしょう。

嘉永6年4月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行った。今日も書物の写し。
(コメント)
書物の写しも四日連続。暇な日々は続きます。

嘉永6年4月30日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行き、今日も書物の写し。大原幽学先生が奉行所に審理を進めてほしいとの願いを提出に行った。諸徳寺村の差添が交代し、届けの手続きを行なっていた。
(コメント)
書物の写しは五日連続。あまりにも長期間放ったらかしにされているので、大原幽学もしびれを切らして、奉行所に審理促進を要請しています。

嘉永6年4月30日(1853年)
#ペリー来航
・ペリー、琉球に上陸し、首里城を訪問。ペリーは歓会門から入場。軍楽隊は、アメリカの愛国歌である「ヘイル・コロンビア」を高らかに演奏。
・同日、琉球王国の薩摩藩との連絡用の船「飛船」(ひせん)が那覇を出航する。





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文政11年4月下旬・色川三中「家事志」

2023年05月01日 | 色川三中
文政11年4月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年4月21日(1828年)庚申 雨
・与兵衛の女房の病状は良くなってきた。
・母は向かいのおふみさまと一緒に、川口(土浦市川口)で興行している芝居を見に行った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛の妻は産後かなりひどい病状でしたが、回復傾向です。このまま良くなってくれるとよいのですが。
与兵衛妻の発症


文政11年4月22日(1828年)
雨。夢見悪し。
早朝、名主の入江から呼び出しがあった。金之丞殿もおり、入樋の分担金につき協議。金之丞殿は高持だけで分担すれば良いだろうという立場であり、議論は平行線。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中が「夢見悪し」と書き残すのは珍しい。入樋の分担金のことが気にかかってしまっているのかもしれません。三中個人だけでなく、高持百姓全体に関わることであり、大きな問題です。
入樋設置費用


文政11年4月23日(1828年)晴
昨日の協議を踏まえて、仲間と入樋分担金について打合せ。計算してみたが、高持百姓の負担はかなりのものとなる。田を質入れしていて、収穫もない者もいるが、その者も平等に分担させるのか。
夕方から夜まで、大雨雷電。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日に引き続き入樋の分担金の記事。高持百姓とはいえ裕福ではなく、本記事のように田を質入れして実際には収穫のない者もいます。三中自身多額の債務を負っていますので(父親が残したものですが)、弱い立場の者も気にかかるのでしょう。夕方からの大雨雷電は三中の心象風景のようです。
昨日の協議


文政11年4月24日(1828年)晴
今朝、名主の入江から書状が届き、お出でいただきたいとのこと。早速、仲間と共に入江のところに行き、入樋の分担金について話す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町役人の入江氏は先月代替りがあり、現在の名主は三中と同じ20代(3月3日条)。様々な案件について間に入って様々な調整を行わなければならず、なかなか大変な仕事です。


名主役は江戸時代後期には魅力ある役職ではなくなっていました。潰れ百姓の増加で年貢を負担する百姓が減少、財政が苦しくなった領主が増税してきており、村の財政がかなり苦しくなってきていました。名主は、領主と百姓の間に入っており、中間管理職として双方の圧力を受けます。かなり苦しい立場。
参考:高橋敏『江戸の訴訟』(38頁)


文政11年4月25日(1828年)晴
入樋の分担金のこと。仲間と共に、大町の惣百姓代の色川庄右衛門方へ行く。虫掛村の分担金を増やしてもらう方針を話し、協力を依頼した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の分担金関係の記事が続きます。大町(土浦市大町)は、三中の住む土浦の町からほど近く。近隣の町役人を尋ね、根回しをしています。
土浦市大町

大町 · 〒300-0038 茨城県土浦市

〒300-0038 茨城県土浦市

大町 · 〒300-0038 茨城県土浦市



文政11年4月26日(1828年)
夜、母がたまたま2階に行ったら、火が燃えていた。素早く鎮火でき、火事には至らず。原因は徳兵衛が提灯を2階に忘れてきたこと。母がいかなければ、間違いなく火事。火事に至らずめでたきことと、大神宮の御棚と稲荷神社の霊社に御神酒を備える。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員徳兵衛のケアレスミスで、あやうく火事を出しそうになってしまいました。ボヤで済んだのを「火事に至らずめでたい」と御神酒を捧げるのは、この時代火事により財産をあっという間に失う可能性が高かったからでしょう。

三中の人生に大きな影響を与えた「子年の火事」の記事




文政11年4月27日(1828年)曇
与兵衛の女房の具合が良くない。与兵衛も風邪をひき、寝込んでしまった。与市は毎日与兵衛方に通って看病している。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛の妻は回復に向かっていましたが(4月21日条)、その後はあまり良くなっておらず、夫の与兵衛も体調を崩してしまいました。このまま一家総崩れになってしまうのか、回復していくのか目が離せません。彼らの看病には、従業員の与市が毎日看病に通っています。


与市は、下総富谷村(千葉県匝瑳市)で庄屋まで務めた人物で、今は土浦で色川家の仕事をこなしています。その上に献身的な看病。


文政11年4月28日(1828年)
昨夜、町内の高持百姓の寄合いを正安寺で行った(本日が不成就日のため昨日開催)。12〜13名来て、入樋費用について高持百姓の分担金を削減するという当方の方針にご了承をいただいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町内の高持百姓の寄合い。開催場所は地元の寺。江戸時代は自治会館もなければ、公民館もありません。公共的で、ある程度広い空間といったら寺社。あと、不成就日は嫌われていますね。六曜は気にしてないようで、全く言及がありません。

文政11年4月29日(1828年)晴
与兵衛の女房は回復傾向。日向亮元医師の漢方の処方が良かったのだろう。今日は縫い物をするほどまで回復とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛の女房の具合が良くなり、縫い物をするほどまで回復。「日向亮元」医師は土浦出身で、母親が亡くなったときは江戸にいましたが、土浦に戻ってきたようです。


先日日向医師の母親が亡くなり、三中は後見役となる決意をしています。





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