嘉永7年11月中旬下旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年11月11日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
朝六ツ時から安達様の米搗き。髪結いをし、泉湯に入る。元浜町の本屋へ行き、宮本様と若旦那様ご所望の本について話す。五ツ時に松枝町の借家へ。長左衛門殿と良左衛門君が碁を打っていた。幽学先生は午前に宜平殿と高輪に行ったとのこと。
九ツ時就寝。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日の五郎兵衛は朝早くから米搗き。依頼したのは「安達様」(安達安蔵)という家臣。五郎兵衛にはちょいちょい用を頼んでおり、五郎兵衛もまたそれに応えて非番なのに働いてます。
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〈詳訳〉
非番。朝六ツ時から安達様の米搗き。九ツ時に搗き上げ。幽学先生は、宜平殿と共に高輪へ行かれた(宜平殿九ツ半に御屋敷に戻り)。
宜平殿と二人で髪結いをした後、七ツ時に出かける。行きがけに泉湯に入る。暮方に松枝町の借家へ。晩に元浜町の本屋へ。宮本様と若旦那様から幸左衛門殿が本を頼まれていたので、そのことについて話し、五ツ時に借家に戻る。長左衛門殿がいて、良左衛門君と碁を打っていた。九ツ時就寝。
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嘉永7年11月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
六ツ時起床。御茶だけ飲んで御屋敷に戻り、写し物。七ツ時、安達様の依頼で日本橋通町一丁目に順気散を買い行き、本町で砂糖と葛を買う。松枝町の借家で米込村の者を待ったが、五ツころまで待っても来ず。番町の屋敷に戻って夜番を八ツから勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日の五郎兵衛は松枝町の借家と奉公先の御屋敷を一往復半してます。本来は添番ですが、昨日に引き続き安達様の御依頼で日本橋まで買出しにいってます。〈順気散〉を買いに五郎兵衛は日本橋通一丁目まで買いに行っています(現代では薬局等で簡単に入手できます)
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〈詳訳〉
添番。良左衛門君と共に六ツ時に起きる。御茶を飲んで五ツ時に御屋敷に戻る。写し物。七ツ時、安達様に頼まれて、日本橋通町一丁目に順気散を買い、本町で砂糖と葛を買って松枝町の借家に戻る。米込村の者が来るはずだったが、五ツ時分まで待っても来ないため、番町の屋敷に戻る。夜番を八ツから勤める。幸左衛門殿は松枝町へ行き、本日泊まり。
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嘉永7年11月13日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝六ツ時、竹田様の依頼で米搗き。
夕方、松枝町へ行くと、「明日奉行所に帰村願を出す」とのことで、その手配。万徳(公事宿)へ行ったり、差添役を頼みに行ったりした。明日に備えて松枝町に泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日もまた五郎兵衛は朝から米搗き。松枝町に行くと、奉行所に帰村願を出すことが決まっており、その手配。五郎兵衛は意思決定には関与しておらず、決定後の手配役ですね。「差添役」は村役人が務めるものですが、帰ってしまっている者につき代役を頼んでいるのです。
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〈詳訳〉
本番。朝六ツ時、竹田様の米搗き。九ツ半時まで。幸左衛門殿が四ツ過ぎに松枝町の借家から御屋敷に戻ってきたので、藤助殿髪結いをしてから(八ツ時)、松枝町へ行く(七ツ時)。
久左衛門殿と傳蔵殿が来ていた。
明日14日にまずは帰村願を出してみようということとなり、万徳(公事宿)へ行く。差添役を頼みに晩に番町まで行き、十日市場村の差添役として御作事の安左衛門様に依頼をした。五ツ時、松枝町に戻る。うつふ隠居、節五郎殿が来ていた。本日松枝町に泊まり。
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嘉永7年11月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
奉行所に帰村願を提出。「しばらく控えておれ」といわれ、待たされる。八ツ時に問合せし、「大勢で、公事も長くなっている。難渋は分かった。上司に伺いを出すから、今日のところは引取れ。おって沙汰する」といわれ松枝町の借家に戻る。
夕食は餅。2、3日前に臼井の大津屋がわざわざ持ってきてくれたものである。幽学先生は、「皆が揃ってるので、食べきってしまおう」といって、ご自身で餅を焼き、皆に振る舞ってくださった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所に帰村願を提出しました。奉行所の仕事の遅さは相変わらずですが、幽学一門がひたすら待たされていて、難渋していることは受付の人は分かってくれたようです。
夕食には幽学先生手ずから餅を焼いて、道友たちをねぎらっています。
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〈詳訳〉
添番であるが、奉行所に出るため、藤助殿と大寺に仕事を頼んだ。
朝、番町まで行く。米八殿はよんどころない事情で早昼にしか出掛けられないとのこと。宜平殿とは途中で会ったので一緒に松枝町の借家まで戻る。四ツ半時、奉行所に集まったので、昼食を取り、九ツ半時に書附を訴所に米八殿(邑楽屋手代)が提出。「しばらく控えておれ」とのご指示であったが、待っていても声がかからなかったので、八ツ時に様子を窺ってみると、「大勢が江戸に来ており、公事も長くなっているので難渋していることは分かった。いずれ掛の方に伺いを出すこととなろうから、今日のところは引取られよ。おって御沙汰に及ぶ」とのお話しであった。
万徳(公事宿)に一度立寄った後、松枝町の借家に戻る。
・夕食は餅。2、3日前に臼井の大津屋がわざわざ持ってきてくれたものである。幽学先生は、「皆が揃ってるので、食べきってしまおう」といって、ご自身で餅を焼き、皆に振る舞ってくださった。
・七ツ半時、帰村願書の写しを持って御上屋敷の足達様のもとへ行く(嶋屋から上酒一本、切手にして持参)。
足立様「今日願書を提出したとのことだが、そのことで届出は不要である。奉行所からの仰せがでたときに、その内容を文書で提出してくれればよい」
足達様にはこれまでの事情をいろいろとお話ししており、日頃から我々が困っている状況を察しておられる。しばらく様々なことを暮れ方までお話しした。
六ツ時に番町の御屋敷に戻り、夜番を八ツ時まで勤めた。宜平殿は松枝町に泊まり。
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(書付)
恐れながら書面にてお願い申し上げます。
常州牛渡村の件について一同申し上げます。
この件は現在、御吟味中でございますが、江戸に出府している者たちは皆、無人(支援者がいない)であり、特に国元・家内には病人もいるため、大変難渋しております。江戸での滞在費もかなり嵩んでおり、国元への支障は言うまでもなく、日々の生活にも当惑し難渋しております。
御吟味中であるため何とも恐れ多いことではございますが、どうか御配慮のうえ、一同を一度帰村させていただけないでしょうか。後日御用がある際には、再び出府いたします。なにとぞお慈悲をもって願いの通り帰村を許可していただきたく、心からお願い申し上げます。
以上
十一月十四日
御奉行所様
村々銘々連印
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(本日出頭した者)
・良左衛門君
・差添 治郎右衛門殿
・又右衛門殿
・差添頼み 喜助殿
・傳蔵殿
・差添 久左衛門殿
・宜平殿
・差添頼み 安左衛門殿
・惣右衛門殿
・差添蓮屋で頼み
・五郎兵衛
・差添蓮屋にて頼み
・蓮屋 永之助殿
・邑楽屋 米八殿
・万徳 腰懸にて頼み
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嘉永7年11月15日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。昼には藁屋の湯へ。夜五ツ時、米込村の道友から「今日奉行所から連絡があり、明日出頭する」との連絡あり。
御屋敷では、明日午前中に集会があるので、「持病が悪化して朝からは出頭できず、九ツ時に出頭することにしよう」ということになった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日奉行所に帰村願を提出しており、その結果が明日には言いわたされることになりました。五郎兵衛の奉公先の屋敷では午前中に集会があるため、奉行所には仮病を使い、午後から出頭しようということに。このあたり、柔軟というか、いい加減というか。手続きは硬いですが、抜け道も多いのが面白い。
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〈詳訳〉
本番。朝掃除。宜平殿、松村氏と三人で髪結い。昼には藁屋の湯に行き、七ツ時に御屋敷に戻る。夜五ツ時に米込村の傳藏殿と久左衛門殿が来られ、奉行所からお呼び出しがあり、明日出頭するようにとの御沙汰があったとのこと。そのことを幸左衛門殿から御用人様方へ 問題ないか聞いてもらった。「御集会があるから、1人だけなら問題ないが、仲番が2人も抜けてしまうとで支障があるとのことだ。九ツ時には御集会も終わるから、持病が悪化して朝からは出頭できず、九ツ時に出頭することにしよう」ということになった。幸左衛門殿は幽学先生にこのことを報告に行った(米込の者たちと同道、この日松枝町に泊まり)。
小生は夜番を八ツ時から勤めた。
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嘉永7年11月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
奉行所に出頭し、腰掛で待機。九ツ半時に御呼込あり。来年の2月15日まで暮れの帰村が認められた。淀藩御上屋敷の足達鏡蔵様と暮方にお会いすることができた。「帰村が許可されたが、病気療養のため、4〜5日は江戸に引き続き逗留する」と申上げた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所から3ヶ月の帰村が認められました。五郎兵衛の住む長沼村の領主淀藩の担当者(足立様)と面会。五郎兵衛は「病気療養のため、4〜5日は江戸に引き続き逗留する」というのは単なる言い訳で、諸用を片付けなければいけないからです。
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〈詳訳〉
御屋敷で集会があるため、早朝掃除。諸道具を取出し。仕度を終えて、五ツ時に松枝町の借家に行く。御屋敷での御集会が終わったら、幸左衛門殿と宜平殿がすぐに奉行所の腰掛に差添と一緒に来ることができるように打合せ。
幸左衛門殿と宜平殿以外は、松枝町に揃ったので、四ツ時に節五郎殿と二人で蓮屋(公事宿)へ行く。差添えを連れて万徳(公事宿)に行ったが、誰もおらず。「別件があったので角村屋に頼んでおいたから、何分にもよろしく頼む」とのこと。その後、腰掛に行く。
幸左衛門殿と宜平殿も差添と一緒に、四ツ半時に来られた。九ツ半時に御呼込があり、来年の2月15日まで暮帰村を認められた。請書を提出し、八ツ時に引上げ。松枝町で幽学先生に報告してから、七ツ時万徳(公事宿)に行き、御上屋敷の足達鏡蔵様に下記の書付を取り次いでいただいた。
暮方に足達鏡蔵様にお会いすることができ、帰村が許可されたが、病気療養のため、4〜5日は江戸に引き続き逗留致しますと申上げた。
足立様「病気は大事となることもあるからよく療治しなさい。帰村できるとなったら、 御返翰願いを出せばよい」
暇乞いを申上げ、帰り際に御留主居様へ御届書を提出して、松枝町へ戻った。
雪嵐の荒天であったが、幸左衛門殿と宜平殿は番町の御屋敷へ帰っていかれた。
五ツ時に高松力蔵様が、五ツ半時に長左衛門殿がお出でになった。
節五郎殿から、これまで勤務してきた御門番の仕事をどうするかの相談があったが、来年二月に江戸に来るまでは同僚が代わりに勤めてくれるとのことであった。
おけい殿が幽学先生に言われたことを気にしてしまって、癇癪をおこし、筋違いのことを話をしてしまっていた。良左衛門君はそのことを知らずに放置していたことを、不誠実だと先生から叱られた。また、節五郎殿も贔屓されたことで、知っていながらそのままにして、その場しのぎのことだけを言っていたので、「これはいかにも二人とも正直ではないことだな。男は男らしく、言ったことなら言った、言わないことなら言はぬ、と人として筋を通すのが当たり前だ」と先生から厳しく叱られました。
・幽学先生帰村につき打合せ。「宜平と五郎兵衛の二人は長部村まで一緒に来てほしい。孫(村の子ども)への土産を贈りたい。」とのご意向であり、7歳から15歳までの男子は筆、7歳から元服までの女子は前針と決めた。明朝、名前と人数を書出すこととした。
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(足達鏡蔵様宛書状)
恐れながら書状にてお願い申し上げます。
下総国埴生郡長沼村の百姓、五郎兵衛ほか一名が申し上げます。別の届書にてお伝え申し上げた通り、来る卯年(来年)の二月十五日までに帰村を認めるとのお許しを奉行所からいただきました。御返翰をいただき次第、速やかに出発すべきところですが、五郎兵衛は以前から体調不良で薬を服用しており、今後4、5日は引き続き江戸に逗留し、療養をしたいと存じます。
この事情を何卒ご理解いただき、御慈悲をもってご承諾いただければとお願い申し上げます。出発の際には御返翰を賜りたく、お願い申し上げます。以上
寅年十一月十六日
当領分
下総国埴生郡長沼村
・百姓にして医師 元俊
・代兼 百姓 五郎兵衛
・差添人 百姓代 甚左衛門
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(奉行所に提出した請書)
恐れながら書状にて申し上げます。
下総国埴生郡長沼村の百姓、五郎兵衛ほか一名が申し上げます。私どもの件は、本多加賀守様におかれて御吟味中のところ、私ども江戸に出府しておりますが、いずれも無人(頼るべき人がいない)状況です。特に国元では家内に病人がおり、非常に難渋しております。これにより、日々の暮らしにも支障が出るほどの状況です。江戸滞在に要する費用もかさんでおり、当惑して難儀しております。
そのため帰村を願い出ましたところ、本日お呼び出しの上で、来る二月十五日までの帰村をお命じいただきました。この件をお届け申し上げます。
寅十一月十六日(嘉永7年11月16日)
御勘定様
御役所宛
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嘉永7年11月17日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
早朝、松枝町の借家で御膳(朝食)をいただく。江戸土産を贈る子どもの人数を書出す。幽学先生に来年2月まで引き続き武家屋敷で奉公を続けてよいかとお聞きしたが、認めていただけず。五ツ時に番町の御屋敷に戻り、写し物。夜番を八ツより勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所から帰村許可が出た場合、速やかに帰村しなければならないのですが、五郎兵衛はまだ奉公先で仕事をしてます。ホントは来年2月まで江戸にいたかったようですが、幽学先生には認めていただけませんでした。
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〈詳訳〉
添番
早朝、御膳(朝食)をいただく。江戸土産を贈る子どもの人数を書出す。
米込村の傳蔵殿と我々「今回帰村となりますが、来年二月まで江戸に滞在して武家奉公を続けたいと思いますが、いかがでしょうか」
幽学先生「それは、そういうわけにはいかないのではないかな。国元で一緒にいても家を修めきれないのに、長く留主にしているのでは家の中は乱れてしまうだろう。家の者からは『性学をやっていなければ、こんなことにはならなかった。性学に入ってとんだ目にあった』という声が出て、性学の道友も丹精する者の情が薄くなり、破門になるようなことにならないでもないから、それはなしにした方がよいだろう」
五郎兵衛「承知致しました。それでは、先生御帰村の時まで江戸に滞在しまして、先生の御供をさせてください」
幽学先生「それはわかった。五郎兵衛は一日 も早く武家奉公から暇をもらった方がよいな。打合せるべきことも多いので、この家でゆっくりと相談して帰村するのがよいだろう」
・小生は五ツ時に番町の御屋敷に戻り、写し物。夜番を八ツより勤める。
・宜平殿は五ツ時に松枝町を出て、御役所に届けをしてから、七ツ半時に御屋敷に戻った。
・節五郎は御代官様に届けをし、その帰り道に小生の方に立ち寄って、帰村の際の贈り物を聞いて帰っていった。
・幸左衛門殿は中嶋様へ届けに行き、大崎へ廻って打合せをしてから、松枝町へ行った(泊まり)
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嘉永7年11月18日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
早朝掃除。飯田様の米搗き(五ツ前から八ツ時まで)。七ツ半時、麹町の大崎方へ行き、勘定を済ませた。御屋敷に戻り、退職の打合せ。今日で奉公は終わり。松枝町の借家へ行くと、忠次郎、繁次郎が寒見舞の鴨を持ってきていた。逼留 。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛の武家屋敷での最終出勤日。最後まで米搗き(笑)。仕事を終えた後の、寒見舞の鴨は美味しかったに違いありません。
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〈詳訳〉
早朝掃除。
・宜平殿は新宿の御屋敷に届けにいった。九ツ時に戻り。
・幸左衛門殿、七ツ時松枝町の借家から戻り。
・飯田様の米搗き。五ツ前から八ツ時まで。
七ツ半時、麹町の大崎方へ行き、話し合いの結果、勘定を済ませた。
・御屋敷に戻り、仕事を辞めることの打合せ。
・松枝町の借家へ行く。忠次郎、繁次郎が寒見舞の鴨を持ってきた。逼留 。
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嘉永7年11月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本町の「鈴木越後」で、大野様へ唐饅頭一朱、五味様、宮本様、田中様へ各二百文、五リン饅頭百文買い、奉公先の御家中衆一同に退職の挨拶。田中様からはお土産をいただいた。昼食後荷物を持ち帰る。
九ツ半時、小石川の高松様へ帰村の挨拶。帰りに、池端住吉屋でキセルを購入。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日の五郎兵衛は挨拶廻り。奉公先の御家中衆には「鈴木越後」で唐饅頭等を買って、挨拶に行っています。小石川の高松家にも挨拶。
「鈴木越後」は、江戸時代の菓子店です。
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〈詳訳〉
・早朝、御膳(朝食)をいただく。
・本町の鈴木越後で、大野様へ唐饅頭一朱、五味様、宮本様、田中様へ各二百文、五リン饅頭百文買った。
・飯田町の万屋で三チ年の上酒五合買い、半助殿へ贈る。藤助殿、清蔵殿へ各百文贈る。
・御家中衆一同に暇乞いに行く。田中様からお土産をいただいた。
・昼食後荷物を持って帰る吉作殿が来た。
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嘉永7年11月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
高輪にいる高松様へ帰村の挨拶。幽学先生は体調を崩されて行けず。高輪で高松様に帰村のご挨拶後、泉岳寺四十七基参詣、御台場の御普請を一見。御殿山、八ツ山の御普請は土取人足が大勢。何万人もいるのかとても数えきれない。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「高松様」は高松彦七郎。幕府の役人(小人目付)。自宅は小石川ですが、御台場の工事のため、高輪に行きっぱなしになっているようです。挨拶後、泉岳寺を参詣し、御殿山、八ツ山の御普請を見るのが、定番のコースのようです。
高松彦七郎及びその家族 - 南斗屋のブログ
高松彦七郎及びその家族(高松様とは)五郎兵衛日記(大原幽学の江戸裁判の様子を記録した弟子五郎兵衛の日記)には、「高松様」が頻繁にでてきま...
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〈詳訳〉
・朝七ツ時、高輪にいる高松様へ暇乞いに出発。幽学先生も行かれる予定だったが、咳が激しく出て断念。忠次郎、繁次郎と小生とで行くこととなった。
・日の出ころ高輪着。高松様に帰村のご挨拶をし、芝の泉岳寺四十七基参詣、御台場の御普請を一見。御殿山、八ツ山の御普請は土取人足が大勢。何万人もいるであろうか。とても数えられない。
・芝の増上寺、愛宕、御本丸をみて、淀藩の御上屋敷で御返翰を頂戴した。万徳(公事宿)に酒代二朱、下代に百文を贈り、帰村の挨拶をした。蓮屋(公事宿)にも寄る。土産を買い調えて、七ツ時に松枝町の借家に戻る。
・暮方、元浜町本屋に行き、本の写しの給金をもらう。
・夜に借家で賄いをしている時、帳面上奉公勤めをしている者と誠実さが異なるといわれ、様子が見られたため、一同で相談し、誠実さを同様にしようという趣旨で、私も出金することで決まった。
その夜、幸左衛門殿、宜平殿、傳藏殿、久左衛門殿、節五郎殿、文平、忠次郎、繁次郎ら都合十一人で休む。岡飯田村の谷本嘉左衛門殿が五ツ半時に来られ、四ツ時に帰られた。
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嘉永7年11月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
五ツ時より勘定(精算)。整理が終わったので、九ツ時(正午)に昼食をとり、帰村の支度。幽学先生から、「帰村してどのような事があっても、相手の悪口をいってはいけない。自分の判断を急がず、何事もまず話をして、相手のことを立てて物事を進めるように」とのお言葉があった。
九ツ過に出立。船に乗る予定で扇橋に向かって十丁ほど進んだが、どうにも寒すぎるため、歩いて帰ることとした。本所から竪川沿いを歩き、夕方に八幡の仲村屋に到着して泊まり。
(コメント)
江戸出立の日となりました。会計を整理して、昼食。幽学先生は五郎兵衛のことを心配してか、注意のお言葉。いつもは扇橋〜行徳まで船で行くのですが、この年はかなり寒く、船では耐え難いので、一同歩いて八幡(市川市八幡)まで行きました。
嘉永7年の日記はここで終わり、来年2月から始まります。なお、「嘉永」はこの年の11月27日に「安政」に改元となるため、来年は安政2年になります。
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〈詳訳〉
・早朝久左衛門殿が出立。
・五ツ時より勘定(精算)に取掛る。
幽学先生は「今後のために、道中での突き合わせが漏れなく十分にでき、心ゆくまで話し合いができるように、遠慮せずに突き合わせを行うように」とのこ指示。
・二月五日夕方から、幸左衛門や良祐は奉公をしいたが、残りの四人は奉公の口がなく借家に滞在。順次奉公に出たが、二月五日以降の飯代を支払っていなかったので、その不足分を払っていかれた。
・小生も、二月五日以降の飯代を払いたいと申しでたが、借家で賄いの役目をしたとのことで、持ち出しに関しては勘定に含めず、良祐と同様の扱いとすることにに決まった。
・1両2朱と530文の支払いを受けるところ
468文預かり
差し引きし、
1両2朱と58文を受領。
11月21日
このことを奉公住名細帳に書印した。
・九ツ時(正午)に昼食をとり、帰村の支度。
幽学先生から、「帰村しても、自分の思い通りにしようと思ってはいけない。どのような事があっても、相手の悪口をいってはいけない。自分の判断を急がず、何事もまず話をして、相手のことを立てて物事を進めるように」とのお言葉があった。
・幽学先生は長部村八石に帰られるので、来年二月に江戸に来る前に打合せを、八石で行おうこととなった。
・宝田家の婚礼では、私が親役、善右衛門殿が仲人を行うこととなった。
幽学先生「太次兵衛や忠次は、意地を張るところがあり、悪い争いごとに巻き込まれることが多い。何を言われても心を広く持つことだ。相手のことを考えて、年をとったらどうなるか等と考えることができれば、ニコッと笑っていられるだろう。こういう風に考えられるように稽古しなさい」
・九ツ過に出立。船に乗る予定で扇橋に向かって十丁ほど進んだが、どうにも寒すぎるため、歩いて帰ることとした。本所から竪川沿いを歩き、夕方に八幡の仲村屋に到着して泊まり。
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