山田大路陸奥を禁錮にせよ #仮刑律的例22 禁錮
#仮刑律的例 #22 禁錮
(超訳)
【度会府からの伺い】明治元年十月
先月16日に伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したのですが、当度会府の御用掛である山田大路陸奥が「これはただ事ではないので、今上天皇の江戸への御出輦の可否とも関係する神慮ではないか」と考え、正式な手続きを経ずに京都の友人にその旨を書き送りました。以前から姦雄といわれていたこの者の今回の所業いかなる処置といたしましょうか。
【返答】
今上天皇の江戸への御出輦のときに、決められた手続きを経ずに妄説を説いたのは不届きである。官爵を解き、禁錮を申し付けるべきである。
(詳しい訳)
【度会府からの伺い】明治元年十月(辰年)
当度会府の御用掛である山田大路陸奥の件、どのように処理しましょうか。早急にご判断いただくようお願い致します。
〈度会府の見解〉
先月16日に伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊しました。鳥居は朽廃が原因で倒壊したのですが、
山田大路陸奥は、この災異に付会して、今般の明治天皇の御東幸の盛挙をみだりに誹議し、所見を陳じたものです。
この者、すこぶる才名があり、交際範囲も広く、以前から姦雄といわれておりましたが、今回、度会府、祭主、禰宜、大宮司にも知らせず、京師に密使を走らせております。
このことは、祭主・宮司の怠慢をあばき、己の忠義を売って僥倖を計ろうとしたに相違ありません。
鳥居の倒壊の原因につき、よくよく見分することもなく、巷談を信じ軽易建言に及んで衆聴を驚かそうとしたこと、不届きというほかありません。いかが処理すべきかお伺いします。
なお、山田大路陸奥には当度会府の御用掛を申し付けてありますが、任用を続けてよいか否かも合わせてご指示ください。
〈山田大路陸奥の口上〉
先月16日に内宮冠木御鳥居が倒壊した件ですが、私が知りましたのは翌17日です。17日は持病の疝痛で終日引きこもっており、夜になってようやく持ち直してきました。深更になってから、司中前政所の岩淵修理から話したいことがあるとの連絡があり、大宮司家に行きました。
祭主様(大中臣教忠)と政所にお会いし、用向きも済みましたので、帰ろうかと思っていたところ、公文所に前政所岩淵修理、権政所上部令使の三室戸様、雑掌の林筑後の三人がおりました。この方々から、昨日内宮の由基御撰調進の時刻に、冠木御鳥居が倒壊し、その後に大きな穴ができてしまったことを聞きました。このことは17日朝に、禰宜中から祭主様に届けがあったとのことですが、司中にはまだ届けがされていないとのことでした。
本件のようなことは、書面で御総官へ申達するのが通例ですが、御総官は東京へご参行中とのことでした。
祭主様は「(明治天皇が)東京へまもなくご出輦されるとのことであるから、ご帰京された後に神祇官衆中へご相談することとしょう。」と仰り、ご報告を留保されるご意向を示していました。
以上のような話しをして、帰宅いたしましたが、考えてみますと、少しも風が吹いていなかったのに理由もなく、鳥居が倒壊したということは、何か神霊に関わるようなこと、神慮を何か問うようなことがあるようにも思われます。
そういえば、近日中には、(明治天皇の東京への)ご出輦の可否につき恩給勅使により、伊勢神宮に神慮をお窺いするとも聞いておりました。
だとすれば、これは容易ならざることです。私のような小民が私見を申し上げるのも恐れ多いことです。そこで、私見を京都にいる相職にお知らせし、その取り扱いについては、友人たちの相談に任せようと思いまして、書面を書き、18日の昼に師岡豊輔宛に発送したのです。師岡がいないときは、樹下石見守、権田直助、落合一郎らに披見するように申しつかわしております。
師岡は不在であったため、樹下らがこれを取り扱ってくれたとのことでございます。
今回のことは、あくまでも玉体の御安泰を祈念して行ったものでありますが、鳥居が腐朽して倒壊したという可能性も考えず、かような御迷惑をおかけしましたことは、今更ながらではありますが、恐縮し後悔しているところです。
この段よろしくご恕察願い奉ります。
【返答】
山田陸奥のこと、決められた手続きを経ず、鳥居の倒壊という容易ならざる事件について妄説をなし、(明治天皇の東京への)ご出輦に際して、衆聴を驚かせたのであるから、不届きである。よって、官爵を解き、禁錮を申し付けるべきである。
【コメント】
・度会府からはこれまで2回伺いが仮刑律的例に取り上げられています(17&18)。今回の伺いで3回目となります。度会府は慶応4年7月6日に設置され、伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。度会府は明治2年7月(1869年)に、度会県に改称。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。
・本件で問題となっているのは、「山田大路陸奥」という人物です。度会府の職員をしており、これまで紹介してきた事例に出てくる無宿人等とは全く違うタイプです。
・犯罪とされた事案を見ても、伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したことを、正式なルート外で外部に漏らしたというもので、現代風にいえば公務員の守秘義務違反というよあにしか見えません。このようなことを理由として、「官爵を解き、禁錮を申し付ける」とするのは、いかにも行き過ぎのように思われます。
・このような過酷すぎる刑となったのは、明治天皇の東京への出輦が絡んでいるのでしょう。
明治天皇は、明治元年9月20日に京都を出発、10月3日東京着。12月22日に京都に帰着しています。伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したのは9月16日であり、京都出発の直前という時期でした。
明治天皇の東幸(東京への行幸)は、首都をどこにするかとも関わる政治的に重要な行事であり、明治政府としては邪魔が入らないように気を遣っていたはずです。
政府としては、山田大路陸奥が何らかの謀略を企てたと考えたのかもしれません。
・山田大路陸奥は、幕末に様々な活動に加わっていたようであり、『三重県下幕末維新勤王事蹟資料展覧会目録』中の『山田大路親彦事蹟資料』には、「師檀関係により薩藩の俊傑と交わり、又諸国の勤王の士と相往復し、文久三年五月捕らわれて入獄。後解放さる。」との記載も見えます。度会府の伺いに、「この者、すこぶる才名があり、交際範囲も広く、以前から姦雄といわれておりました」とあるのは、このような経歴を指すものと思われます。
・しかし、それにしても山田大路陸奥が謀略を企てたとまでは立証できていません。政府の回答も、「鳥居の倒壊という容易ならざる事件について妄説をなし、(明治天皇の東京への)ご出輦に際して、衆聴を驚かせ」たと認定しているに過ぎず、謀略を企てたことにはなっておりません。
それなのに、懲戒免職・禁錮というのは、いくら何でも重すぎると言わざるをえません。
・山田大路陸奥は、本件で禁錮となり、まもなく亡くなってしまいました。『山田大路親彦事蹟資料』には、「東京遷都の議あるや、意見書を上る。事、当局の忌諱に触れ、度会府より禁錮せらる。明治二年二月二十日歿。年五十五。」とあります。明治政府の回答からはわずか4ヶ月後のことでありました。
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2024年2月1日追記
本ブログをアップしてから、千田稔『伊勢神宮』(中公新書)に以下の記載があることを知りました。明治元年9月20日の明治天皇が東京に行幸する際に、大津駅で京都に戻るよう権中納言大原重徳が権言をするという事件があったのです。同書てわは『明治天皇紀』(第一)からとして以下のように述べています。
〈辰の刻(午前八時)、紫宸殿を出発。輔相岩倉具視をはじめ議定中山忠脳らが供奉したが、護衛の者を含めると三千三百余人からなる列をなした。沿道の老若男女は天皇の一行を見送り、粛然として拍手の音が絶えることがなかった。(中略) 三条通を東に向かい、粟田口の青蓮院(京都市東山区)で昼食とした。(中略)未の半刻(午後三時)に大津駅に到着。このとき権中納言大原重徳(1801-79)という人物が馬を馳せ てきて、天皇が京都に還行することを建言する。大原重徳は尊攘派公家としてその 名を知られていた。馬を馳せてまで京都還幸を建言した理由は去る十六日夜、豊受大神宮 (外宮)の大祭をとりおこなっていた最中に皇大神宮(内宮)の大鳥居が転倒してお り、神職らが皇大神の警告とみなし急使を派遣して京都に報告したためであった。大原重徳はもとより東京を皇都とすることに反対の立場であったので、東京行幸を阻止するためにこの挙にでたのであった。しかし、岩倉具視は、この建議をしりぞけ、誓書を神明に奉るべきことを大原重徳に約束て、京都に帰らせて、ようやく事なきを得た。〉
嘉永5年12月14日(1852年)#五郎兵衛の日記
— 断感ろーれんす (@tk23956) December 13, 2022
昨晩は大先生(大原幽学)の宿所に泊まったので、朝五ツ時に蓮屋に戻る。元俊医師は蓮屋と色々と相談。
九ツ時(正午)出立。両国のあわゆきで昼食。六ツ半時(午後7時)、行徳(千葉県市川市)に到着。しがらきという宿に泊まる。#大原幽学刑事裁判
嘉永5年12月15日(1852年)#五郎兵衛の日記
— 断感ろーれんす (@tk23956) December 14, 2022
六ツ半時に行徳を出立。白井宿で昼食。大森宿には七ツ時に着く。御領主の稲葉様の御役所に届けを行い、御返翰も頂戴した。
既に六ツ時となっていた。木下宿に六ツ半着。川内屋という宿で泊まる。#大原幽学刑事裁判
今回の宿は白井(現白井市)の藤屋。白井宿は木下(きおろし)街道の宿場町ですが、旅籠は2軒のみ。安政期~文政期頃とされている史料には白井宿に2軒の旅籠があり、名前は藤屋と森田屋と記載されているそうです。この藤屋には渡辺崋山も宿泊しています。https://t.co/Zdp5OY866w
— 断感ろーれんす (@tk23956) October 3, 2023
文政11年12月17日(1828年)大霜
— 断感ろーれんす (@tk23956) December 16, 2023
今年は大霜は降るが、雨が降らない。午前中に大町久七殿のところへ行き、左官利兵衛からの金銭借入れの仲介役を頼む。夜になって左官が家に来たので、酒肴を出しもてなす。#色川三中 #家事志
文政11年12月10日(1828年)晴
— 断感ろーれんす (@tk23956) December 9, 2023
勝右衛門を中高津の栄吉殿に遣わす。色川家の中高津の田畑山林の世話を頼むため。#色川三中 #家事志
文政10年12月27日(1827年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) December 26, 2022
餅つき。高津の茂八が来てくれたほか、従業員は利助を含め三人、隣主人のところから一人の合計五人。皆には酒をふるまったほか、茂八には例年のとおり祝儀を持って行かせた。#色川三中 #家事志