文政12年9月上旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年9月朔(1日)(1829年)
江戸から、取引先の大枝清兵衛と和泉屋吉右衛門が来る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
大枝清兵衛と和泉屋吉右衛門は、江戸の薬種問屋で三中(薬種商)の取引先です。本年(文政12年)3月に江戸では大火が起き(文政大火)、両名の店舗兼家屋は全焼してしまいました(3月22日条)。この両名の店舗も何らかの形で再度立ちあげをし、その挨拶廻りと思われます。
なお、本年3月22日条で両名の江戸の店舗の場所が分かりました。大枝清兵衛は小船町(こぶな)(現日本橋小舟町)、和泉屋吉右衛門は今川橋です。今川橋は、現在のJR神田駅にほど近い、千代田区鍛治町1丁目と中央区日本橋室町4丁目を結んだ位置にあった橋です。江戸時代、この橋のたもとには瀬戸物屋が多く集まっていたそうですが、和泉屋はここに薬種商として店舗を構えていたことになります。
今川橋
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5685
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年9月2日(1829年)午前から雨
・本日は日触六分で辰四刻より上の方より欠け初め、巳ノ二刻には左の上に甚だしく欠け、午の初刻左の下に日触終了となるはずだった。しかし、雨のため見えず。
・嘉兵衛と茂吉が、鹿島へ行商に出立、弟の 金次郎も南ルート(南在)の行商に出立。
#色川三中 #家事志
(コメント)
日触を楽しみにしていたようですが、残念ながら雨のため観測できず。
弟の金次郎は先月は北の営業ルートに一人で出張させていましたが(8月19日)、今回は南ルートの営業を任せています。一人前にするための訓練も兼ねてのことでしょう。
〈その他の記事〉
・水位は、7〜8寸(約21〜24cm)または1尺近く(約30cm)引いてきた。
・七兵衛を下総に出立させた。下総にいる与市に書状を持って行かせるためである(書状の内容は付1)。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年9月3日(1829年)
三中先生、本日は休筆です(本日のみ)
#色川三中 #家事志
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年9月4日(1829年)晴
名主の入江全兵衛殿が訪ねてきた。藩の役人(町組小頭)は、私が町年寄を辞めるのには反対で、引き続き勤めてほしいとのこと。入江とは竹馬の友であり、互いに腹蔵なく話し合った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、町役人を辞める意向を名主に話していました。名主は立場上、藩に話しを通しましたが、藩の方ではそう簡単に辞めさせてはくれなさそです。三中の決意は固く、ぶれません。名主も三中とは親友ですので、理解を示しつつ、落とし所を見つけていこうとしているのでしょう。
━━━
〈9月4日詳訳〉
1 名主との面談内容
入江郷助(名主入江全兵衛)殿が訪ねてきた。
「この度貴君から町役人の退任につき先般話しがあったので、藩の役人に内々にその話しをしておいた。町組小頭は、「色川殿には是非町役人の仕事を引き続きお願いしたい。場合によっては、我々の方で直接お会いして説得しようか」と仰っていた。
どうもこの話しを続けると藩の方にもご迷惑をかけるようである。そこで、この話しはしばらく先に延ばそうと思う、しかし、いずれにしても役職を続けることは難しいであろう、と話した。
その理由につき、入江から聞かれたので、私からは次のように話した。
「私が多病であることは御存知のことでしょう。病気が良くなっても、事業の方が良くなく落ち着くことができないのだよ。町役人を勤め続ける気力がわかない一番の理由はその点にある。このことを分かって、上手く取り計らってもらえればありがたい」
入江からは「そうか。それならば、いつかは町役人を辞めざるを得ないな。他に理由はないと聞いておいて良いか」というので、「それ以外はない。長く町役人をすることができず申し訳ないが、分かっていただきたい。」と答えた。
入江は「承知した。この件はいずれまた話そう」と言っていた。
入江とは竹馬の友である。互いに本音を話し合うことができた。
その後、ひものやの件について話し合い、また大町の売女の件について話した。
「大町の宿で売春をしている女性のことだが、どうもまた同じことをしているようだ。山屋 弥助に対してあそこまでの措置をしたのに、現在も同じことをしているのを見逃すのは、御政事不行届不徳の第一である。とにかく早く対処すべきだろう」と自分の考えを伝えた。
2 その他の記事
・夜、利八を呼び寄せ、「七兵衛はかねてから不埒な行動を繰り返しており、解雇とせざるを得ない」と話した。
・下男の喜兵衛は8月12日から病気であったが、9月3日から働き始めた。下女のしめは8月24日から病気である。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年9月5日(1829年)
三中先生、本日は休筆です(本日のみ)
#色川三中 #家事志
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年9月6日(1829年)晴
与市宛の書状を持たせた七兵衛が下総から帰ってきた。与市からの返書は「やむを得ない公事(訴訟)が生じて対応しなければならず、土浦には行くことができません」との内容であった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与市は下総(現千葉県)の名主まで務めた人物ですが、なぜか色川家でも働いていた人物。昨年7月には地元下総に帰っており、昨年11月には土浦に顔を出していました。色川家では重要な経営上の問題が生じており(本ブログ末尾付1の与市宛書状参照)、与市のアドバイスを求めたかったのですが、与市は多忙なようです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年9月7日(1829年) 曇
朝、七兵衛を解雇し、利八方へ引渡した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、「七兵衛はかねてから不埒な行動を繰り返しており、解雇とせざるを得ない」と考えており、利八にはその旨話しをしておりました(9月4日条)。七兵衛の不埒の内容については具体的な言及がなく不明ですが、よほど腹に据えかねていたのでしょう。利八は七兵衛の請人であったのでしょうか。身元を引き渡されています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年9月8日(1829年)曇
夜、町役人の栗山八兵衛殿が来られた。瘧にかかっているが、今日は間日だという。
#色川三中 #家事志
(コメント)
瘧(マラリア)は発熱と間日(熱がない日)を繰り返すので、間日は動けるのかもしれませんが、感染症ですから、出歩くのは瘧を拡散させるだけです。感染症については江戸時代の人は鈍感というほかありません。
〈その他の記事〉
・早朝、追手御堀で数え2歳ほどと思われる幼児が仰向けで死んでいた。幼児は、赤い襟とウコンの裾の綿入りの着物(新しいもののように見えた)を着ていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年9月9日(1829年)
三中先生、本日は休筆です(本日のみ)
#色川三中 #家事志
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年9月10日(1829年)雨
駿河屋清兵衛の宿で旅人(下野壬生の人)が亡くなった件で、名主と問屋は閉門押込め、町年寄は御叱り、竿指世話人は手錠、竿指(※)共も御叱りの処分となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
駿河屋清兵衛方で宿泊していた旅人(下野壬生の人)が亡くなっておりました(6月8日条)。江戸時代は旅宿以外では人を泊めてはいけないという建前で、他藩の者が亡くなることも問題視されたのかもしれません。名主が閉門押込めの処分をされたのは、監督不行届のためでしょう。藩の役人は本件を重大な問題として処分しています。
※「竿指」につきましては、「竿取」ではないかとのご指摘をある方からいただきました。「竿取」は、測量の時に間竿や間繩を扱う技術者のこととご教示いただきました。
本文は土浦市史資料のとおりに「竿指」のままとしました
〈詳訳〉
駿河屋清兵衛方で宿泊していた旅人(下野壬生の人)が亡くなった件につき以下のとおりの処分となったという。
名主及び問屋:閉門押込め
御叱り:町年寄
手錠:竿指世話人共
御叱り:竿指共
竿指は、高津簀子橋へ出る時に酒をせびってたためこのような処分となった。
〈その他の記事〉
・大嵯峨で稲刈り。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付 1 与市方へ遣候書状写 草也
与市に送付する手紙の草案写し
七兵衛にこの手紙を持っていかせます。
今年は夏なのに随分と冷気がちとなっておりますが、与市様ご家族様はお揃いでお元気のことととお慶び申し上げます。こちらも変わりありません、ご安心ください。
今般、七兵衛を遣わしてお手紙を差し上げましたのは、よんどころない事情によるのです。
春にお出でになったときは、次は7月にお出でになるとお約束いただいておりました。特に問題がなければ、わざわざお出でいただくことはないと思っておりました。その後、病気にかかる者が続出しましたが、それほど大した病状でもありませんので、そのためにお出でを願うのではありません。
しかし、今回どうしても避けられない事情が生じ、別紙にてそのことを申し上げます。
別封書
一 金銭の借入れを検討しておりますので、内密にお話しさせてください。隠居(祖父)も与市殿のご意見を聞くようにと申しております。
一 近江屋小兵衛殿との取引につき、仕入れを多くしましたが、売上が不振です。
この2年間は水害の影響で得意先の損害が目立ち、水害がない地域でも凶作で、米穀を自給できない村々が多くなり、半ば飢饉のような状況です。
医師の診察料や薬代も払えない人が増えてこり、医師自身も生活が苦しい状況となっています。そのため、売掛金の回収も著しく減少しています。
このように、売上については回収が出来ていないのに、買付金額は今までになく嵩んでいるため、7月に近江屋小兵衛殿から50金の新たな借用をしなけれぱ立ち行かなくなる状況です。
当年の盆前の買付金額は100金程度であり、半分くらい入金しなくては、今後の取引は大変厳しいこととなるでしょう。残りの半分は年末までには返済するよう考えております。
この件の交渉は当店の事業にとって非常に重要であり、現時点では他人に依頼することも難しいため、与市殿にお願い申し上げるものです。
本来であれば、直接お伺いしてご依頼申し上げるべきところですが、体調不良のため代理人を通じてのお願いとなりましたことをご了承いただけますと幸いです。
従業員の状況
1. 佐助
6月18日に在所に帰りましたが、その日から重病にかかり、現在も寝たきりです。生死不明の状態です。
2. 与兵衛
7月8日から瘧(マラリア)にかかり、体調が少し回復したため、先日在所に帰りましたが、再発してしまいました。現在も症状が落ち着かず、仕事も全くできません。
佐助も与兵衛も病状が長引いて深刻な状況です。
3. 利助
7月15日に回復し、在所から戻りましたが、また体調を崩しました。今月初めには再び在所に戻りました。今春からずっと病気がちです。
4. 利八
瘧(マラリア)を患い、長期間病状が続きますが、ようやく快復に向かっています。
しかし、今度は妻が瘧(マラリア)にかかってしまい、現在も出勤できません。
当節瘧にかかって寝たきりとなっているものに
男女の区別はありません。
また、今年の大洪水で、水稲などが被害を受けています。自分の食用のみ刈取っています。水が引かず人々は島に住んでいるも同様です。
七兵衛は以前から不行跡が重なり、今年春は府中(現茨城県石岡市)で遊びに散財してしまい1両以上の借金してしまい、債権者から度々督促を受けています。荒川で女郎に狂い、この件でも督促を受けています。去年岩城に行く際にも不行跡がありました。そのときは高砂屋が仲介に入って無事に済んだのですが、このままでは店のものに示しがつきません。厳しく処罰したいと考えていますが、人手不足のため、現在は見送り中です。人手が揃えば必ず処分します。
これまでに長期間病状のある者は、本家を含めて8名です。
ご承知のとおり、今年2月から町年寄を勤めております。7月となって、既に述べたように人手不足となりました。非常に困難な状況を何とか凌いでいる状況です。
今年のような凶事は自然現象ではありますが、町年寄など勤めず仕事に邁進していれば、近江屋への百両の支払い等という問題は生じなかったのではないかとも思われます。いずれにせよ町年寄は辞任するようお願いしております。
現在は病気のため、業務を十分に遂行できておりません。先祖が残してくれた文書は、町役人を続けていれば役に立つかもしれませんが、
役を辞任する場合は書類は箱の中に保管されるだけ状態となってしまうでしょう。残念ですが、時の勢いが昔のようなものではありませんので仕方のないことです。これも自分の薄命不故の不孝と思っています。
詳細は直接お会いしてお話ししたいと考えております。