南斗屋のブログ

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脱走者への処置 仮刑律的例 43-2

2024年09月30日 | 仮刑律的例
脱走者への処置 仮刑律的例 43-2
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(要旨)脱走者への処置は藩に任せる
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【美作勝山藩からの伺】
明治2年3月2日、美作勝山藩からの伺い。

・美作勝山藩の藩主三浦玄蕃頭(三浦顕次)の東京の下屋敷にいた家来(大須賀平左衛門ら)が昨年五月に脱走しました。
その後この者たちを発見したので、連れ戻して謹慎させました。
東征大総督府の御参謀にお伺いしたところ、「在所に連れ戻しさらに厳重な禁錮を申し付けよ」とのご指示がありましたので、そのとおりにしております。
・その後、この者どもはみな深く反省し、妻子や眷属に至るまで日夜悲泣哀歎しております。
・この度、天皇陛下のご即位の大礼に伴い、全ての罪人に大赦が発令されました。そこで、大須賀平左衛門らにも格別のご慈悲をもって、ご憐憫いただきたく思い願い出ました。このようなお願いを申し上げるのは恐れ多いことですが、どうかご慈悲を賜りますようお願い申し上げます。

【返答】
同年三月五日、返答。
この件は御藩の判断に任せる。適切な処置を行い、その処置の結果を届け出ればよい。

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(コメント)
・美作の勝山藩は、美作国真島郡勝山(現岡山県真庭市勝山)にあった藩です。藩庁は勝山城に置かれていました。
文中の「昨年5月」というのは、慶応4年5月のことです。この年の9月に改元していますので、慶応4年=明治元年です。この頃は戊辰戦争のさなかであり、江戸城の無血開城は慶応4年4月11日のことですので、一部家臣が脱走したのは、その翌月のことです。
・脱走の理由は伺いからは分かりませんが、時節から考えると、その者たちが幕府側のシンパだったとか、それとも戦さに駆り出されること自体が嫌で逃げたかでしょうか。
・家来が脱走したということは、戦時中の戦闘員の戦闘放棄と位置づけられます。東征大総督府(官軍)の当時の指示は、「在所に連れ戻しさらに厳重な禁錮を申し付けよ」でしたから、美作に送り、当地で不自由な謹慎生活を送っていたものと思われます。
・その後、官軍は会津城も攻め落とし、東北まで平定。明治天皇の即位の礼、それに伴う大赦が行われるなど、状況が様変わりしました。
・一方、脱走した家臣も「みな深く反省し、妻子や眷属に至るまで日夜悲泣哀歎」しており、美作勝山藩としても潮時と見て、今回の伺いとなったのでしょう。
・明治政府の判断は「この件は御藩の判断に任せる。適切な処置を行い、その処置の結果を届け出ればよい」というもので、藩に任せるというものです。戊辰戦争も函館戦争を残すだけの時期ですから、戦闘はほぼ収束に向かっており、戦闘員の脱走を厳しく追及する時期は既に終わっているとの雰囲気が伝わってきます。


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千葉感化院 明治28年発行『千葉繁昌記』から

2024年09月28日 | 歴史を振り返る
【はじめに】本稿は、松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)の「千葉感化院」の項を現代語訳したものです。感化院とは、非行少年や非行少女の保護・教化の目的で設けられた施設であり、その後少年教護院・教護院とも呼ばれていましたが、現在は児童自立支援施設という名称になっています。千葉の感化院の歴史を知る上で参考になると思います。
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○千葉感化院

千葉感化院は、千葉町の猪鼻山のふもとにある。開院式は明治19年11月28日に行われた。
明治17年と18年に、千葉県内の各宗教団体は、監獄の囚人に対する教誨について、何度も会議を開き、釈放された後に頼る場所がない者人を助けるべきだという意見(放免囚保護院の設立)が出た。しかし、その点は他日に譲ることとし、罪を犯す前にその芽を摘むための感化院の設立する計画することとした。明治18年11月のことである。
総寧寺住職の服郎元良、大巖寺住職の石井実禅、長禅寺住職の金山堯範、千葉監獄の書記である白井知三郎、同監獄の教誨師である坪井善四郎の5人が創立委員となり、各自の仕事の合間を縫って、東奔西走し、議論を重ね、その計画を練り、明治19年5月4日に施設設立の許可を得た。さらに、院長の役割については、各宗教団体で6ヶ月ごとに交代して行うことした。
院長
明治19年11月28日〜明治20年4月 曹洞宗・服部元良氏
明治20年5月〜10月 浄土宗・石井実禅氏
同年11月〜 真言宗・解良教俊氏
解良氏の任期中に、感化院の維持に関して、発起者が協議を行い、本院の組織を改めることを決めた。4月に千葉町で発起者総会を開き、その総会での決議に基づき、役員を選定した。その後、評議会や院長の互選した。
「千葉感化慈善会」という組織を設け、その会が感化院を維持することとなった。慈善会の規約に基づいて役員が選ばれ、当時の千葉県知事である船越氏を本会長とした。評議員には官民から数十名が選び、会計監督2名、事務担当1名とする。感化院長には新勝寺住職の三池照鳳氏が選ばれ、副院長や取締、教授、授業担当など数名が選ばれた(感化院の役員は、常に感化慈善会の事務も兼務することとされた)。
感化慈善会の目的は、多くの会員を募り、毎年いくらかの募金を集めること、また各宗派の寺院が1寺あたり3円の義捐金を出すという規約があり、これを実行して永続的な維持の基礎を築くことにあった。このようにして会務を拡大し、300名余りの会員が加わり、寺院の規約も次第に進展した。

しかし、それでも限られた資金では、維持が難しくなった。こうした状況から、明治24年1月25日に本会の総会が開かれるに至った。議長席には評議員の渡辺暢氏が着いた。会議で討議した結果、この事業を有力者に一任し、これまでの慈善会は事業を支援する立場に変更するという提案が多数の賛成を得て可決された。そこで、有力者に依頼する委員を選ぶことになり、石井大亮、岩崎直諒、白井知三郎の3名が選ばれた。その後、委員たちは別の場所で三池照鳳に感化院の事業を長期的に引き受けてもらえるよう強く依頼した。
三池氏は、次のように挨拶した。
「事業が衰退している現状は非常に遺憾であり、今日の決議はやむを得ないことです。この事業を廃止するようなことがあれば、千葉県の名誉に関わるだけでなく、各宗教寺院や会員たちの面目にも関わります。非常に忍び難い状況です。議決により私に引受けるよう懇請があらました。これまで以上に関係者の尽力を希望してやみません。
事業を熱心に推進する人がいなければ、事業は立ち行きません。
坪井千葉監獄教誨師と協議を行いました。坪井氏はこの事業が社会にとって必要であると認識しており、発起人の一人でした。そして今、この状況に直面して、彼は官職を辞して、この事業に一身を捧げることを決意してくれました。
私としても、この事業を受け入れようと思います」

こうして、本会は「感化院慈善会」と改称した。これまでの会員や寺院の義捐金の支出には変更はない。新しい会則の改正起草委員には、渡辺暢、岩崎直諒、宇佐美佑申の3名が選ばれ、起草が終わった際、評議委員会の決議により藤島千葉県知事を会長に推挙し、その他の評議員、会計監督、幹事などの役職も選んだ。

以上のように、千葉感化院は、もともと千葉県内の各宗教の僧侶たちによって発起されたものであり、何度かの変遷を経て、最終的には新勝寺の三池氏の尽力によって、長期的にその事業を維持する体制をとることができた。現在では、行政および法律の観点からも、この事業が社会にとって必要不可欠であると認められるに至っている。

なお、創業から明治26年10月までの調査によれば、入院者は41名であり、そのうち31名が退院した。退院者の中には品行が良好で、その後の動静は以下のとおりである。
商業に従事せるもの 2人
学問に就くもの 2人
他家に奉仕せるもの4人
居商を開くもの 2人
農に従事せるもの 5人
未定業のもの 1人
出家得度したるもの 1人
外に自宅に於て死亡したるもの 2人
以上19人

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五郎兵衛、幽学先生と和解する 嘉永7年8月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年09月26日 | 大原幽学の刑事裁判
五郎兵衛、幽学先生と和解する 嘉永7年8月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。

嘉永7年は閏7月が存在したため、一か月ズレが生じています。年末の帰村で帳尻が合いますので、年内は一か月ズレたままとなります(今月は8月の日記となります)。 #五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
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嘉永7年8月11日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
早朝にお屋敷に戻る(昨日は松枝町の借家に泊まり)。 時触れ、楊枝作り。八ツ過ぎに飯田町から扶持米を持ってきた(2往復した)。その後、御床上げ。飯田町の薬湯に入る。九つ半から夜番も勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は旗本藪家の屋敷で奉公勤めをしています。奉公勤めといっても、外出・外泊は結構自由にできるようでして、昨夜も借家に泊まっています。今日のシフトが添番なので、それに間に合うように帰れば問題はないのでしょう。



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嘉永7年8月12日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、馬場の設営。暇を見て楊枝の作成。 昼過ぎ、七蔵殿と喜平治殿がお屋敷に来て、幽学先生からのお言葉を伝えに来た。「五郎兵衛達が改心し、その後宜平や次郎右衛門も指導してほしい」。夜番は九つまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛たちと幽学先生との関係改善が進んでいます。以前は幽学は五郎兵衛に文句をいうばかりでしたが、改心への期待感を伝えるとともに他の者指導にあたるよう指示しています。夜番も勤め、いつもどおりのハードな一日ですが、この言葉に五郎兵衛も励まされたことでしょう。

〈詳訳〉
本日は本番。朝掃除、馬場の設営。暇を見て楊枝の作成。 昼過ぎ、七蔵殿と喜平治殿が幽学先生の言葉を伝えにお屋敷に来た。
「五郎兵衛達には今後心を改めてくれることを期待している。その上で、宜平殿や次郎右衛門殿の指導もしてほしい。特に、次郎右衛門殿は奉公は初めてで、気が回らないのか、自分のことばかり考えているようであるので、正してほしい」
夜番は九つまで勤める。


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嘉永7年8月13日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
松枝町の借家へ行く。改革(改心)につき取決めをし、七蔵殿と喜平治殿を証人として、幽学先生にご報告。「五郎兵衛よ、これまでは心得違いのことが多かったが、以後は心法を立て、善行を積むのだぞ」と諭された。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛、幸左衛門、節五郎の3名は幽学先生から疎まれていましたが、今日の話し合いで、和解となりました。長い江戸滞在で様々な軋轢が生じていましたが、これを乗り越えることで、幽学と弟子との間の絆はさらに強まることでしょう。

〈詳訳〉
・本日は非番。松枝町の借家へ出かけようとしたところ、お屋敷の安達様から「出かけるなら、ついでに本町で砂糖を買ってきてくれ」と頼まれた。
・松枝町に行ってみると、幽学先生がおられた。「五郎兵衛の改革(改心)のことだが、七蔵と喜平治に任せることにした。両人と話し合って、今日中に問題を解決し、改革できるかどうか決まりをつけておくように。予は出かけるからな」と仰った。
・良左衛門君からも、「今後はどんなことでも幽学先生の仰ることをありがたく受け止めることができますか。よくご自分自身に問うて、腹を決めてくだされ」との話しがあり、そのとおり取決めをした。幸左衛門殿と節五郎殿も同様に決心をした。
・三人とも取決めしたので、七蔵殿と喜平治殿を証人として、幽学先生にご報告をした。先生から、「五郎兵衛よ、これまでは心得違いのことが多かったが、以後は心法を立て、善行を積むのだぞ」と諭された。
・我々が取決めたことを、良左衛門君が手紙に認め、七蔵殿と喜平治殿の帰村の際の土産とすることとなった。

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嘉永7年8月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番だったが、仕事を変わってもらい幸左衛門殿と松枝町へ。昨日の取決めにつき再確認。幽学先生は邑楽屋(公事宿)から明15日に松枝町へ戻ることとなった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛たちの改心により、幽学先生も邑楽屋(公事宿)への引っ越しを撤回、明日には松枝町の借家に戻ることとなりました。どうなることかと思っていた師弟間のいざこざでしたが、落ち着くべきところに落ち着いたようです。

〈詳訳〉
・本日は添番であったが、早朝から同僚に仕事を替わってもらい、幸左衛門殿と二人で松枝町へ行く。節五郎殿も含め、3人で今までの心得違いについて話し合い。
「今後は、これまでのような自分勝手な贔屓根性を捨て、何をするにも、自分勝手にするのではなく、幽学先生の説いた道に合っているか否かを見極め、道から外れていれば、幽学先生と心も体も一緒になることは出来ない」
・幽学先生は、今月3日に邑楽屋へ引越されてしまったが、13日に我々の取決めを承認していただき、松枝町に戻る相談をしていた。良左衛門君が交渉した結果、明15日に松枝町の借家に御帰りになることとなった。

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嘉永7年8月15日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
御殿様が御登城するため(御本供揃い)、早朝に御仕度の触れをする。
月見。御家中から団子、栗、柿、里芋、枝豆をいただいた。
九つから夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は8月15日、仲秋の名月です。お屋敷では月見のため、様々な物をもらっていますが、団子以下、栗、柿、里芋、枝豆と細かなところまでしっかり記録しているのが、五郎兵衛らしいところです。


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嘉永7年8月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番の予定であったが、平作殿は辻番の打合せで外出し、万蔵殿は松枝町に行ってしまったため、人のやり繰りができず、結局一日勤めざるをえず。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛のシフトは、添番⇒本番⇒非番(休み)であり、最近の本番プラス夜番の一部となっています。非番のときにしっかり休んでほしいところですが、今日は人のやり繰りができず、一日勤めることとなってしまいました。


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嘉永7年8月17日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、その後薪割り、御弓場の設営。夕方、田中様からの依頼で牛込揚場に楊枝用の木を取りに行く。薬店の湯に入ってから戻り、御弓場の片付け、床上げ。九つ半から夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
記事中の「牛込揚場」は牛込揚場町のことで、現在でも「新宿区揚場町」としてその名は一部残っています。江戸時代以前から存在した神田川の舟着場の荷揚場「揚場河岸」が由来です。

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嘉永7年8月18日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、夜具揚げ、楊枝削り。九つまで夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は最近時間があると、楊枝を作っております。昨日の記事では「田中様からの依頼で楊枝用の木」を取りに行っており、御屋敷のお仕事の一環なのかもしれません。


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嘉永7年8月19日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
昼前まで楊枝削り。本町大橋で茶を買ってから、松枝町の借家へ。夕方に長左衛門殿が来て、碁を打っていた。幽学先生から鍔四枚、小柄三本を番町で売るから持って行ってくれといわれた。借家で泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生と五郎兵衛たちの仲が元に戻り、いつもの風景が戻って来るました。長左衛門は碁打ちに興じ、幽学先生は刀剣関係の転売。以前は五郎兵衛の顔も見ずに外出してしまった幽学先生でしたが、五郎兵衛にお使いを頼んでおり、関係が正常化しています。

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嘉永7年8月20日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
昨夜借家で泊まったので、お屋敷に早朝に戻る。楊枝削り。幸左衛門殿へ楊枝を渡し、御家中衆へ御覧にいれたが、誰も買わない。 夕方に夜具上げ。夜番も九ツ半から勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の楊枝削りの出来はやはり売れるというほどのものではなさそうです。五郎兵衛とは仲良しの御家中衆が誰も買わないのでは、市場価値はないのでしょう。楊枝削りを内職して来ましたが、売りさばきに暗雲がたれこめています。


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経営危機に立ち向かう三中・文政12年9月中旬・色川三中「家事志」

2024年09月23日 | 色川三中
経営危機に立ち向かう三中・文政12年9月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年9月11日(1829年)曇
・本日叔父の利兵衛殿が近江屋小兵衛殿との交渉の為江戸に出立。与市殿には手紙で利兵衛殿と協同して問題を解決してもらいたいと依頼。
・夜、隣主人と間原の主人の両名を招いて、新たな借入れの件につき打合せ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家の薬の販売は売上不振となっています(不作等での農村経済の疲弊が原因のようです)。取引先の近江屋小兵衛殿(江戸)への買掛金がかなりの額になっており、支払交渉が必要です。新たに借入れを検討しているのも、近江屋への支払いのためです。

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文政12年9月12日(1829年)晴
米相場は江戸では約5斗3升、土浦では6斗2升であったが、昨日、奥船と上方船が江戸に入港したことで相場が下落。江戸では古米8斗3升、新米9斗になった。穀屋はこの影響で大損失となりそうだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今年は1993年以来の米騒動等と騒がれておりますが、文政末期も米は不作。しかし、江戸には上方等からの大量の米の入荷で相場が下がってしまったようです。これでは土浦の穀屋は在庫を売るだけ損失が顕在化することになります。


〈詳訳〉
・江戸では米が5斗3~4升程度で販売されているが、当地土浦では6斗2~3升程度であった。ところが昨日突然、奥船と上方船が多数入港し、古米は8斗3~4升、新米は9斗になったという。 江戸の状況を受けて、当地でも大損失を被るものが出ている。去年から購入していればまだ儲けもでたが、当節では多額の損失となっている。
・今日、山口うら簀子橋で水稲を挽いたところ、7俵1斗2升あった。先日の分と合わせると、12俵1斗2升となる。

〈米相場について〉
吉原 健一郎『江戸の情報屋 幕末庶民史の側面』には、米の相場について次のように記載されており、参考になります。
「文化年間には相場 は、ほぼ一両に一石であった時期から九年には八斗、十一年には七斗五升、十四年には七斗一~二 升としだいに高騰していく。文政年間は六斗台の高さを維持しているが、さきにみた文政十二年 (一八二九)の大火の年は「格別高直」であり、それでも一両に六斗四~五升であった(「大鋸方日記帳」)。」

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文政12年9月13日(1829年)晴
夜、月朗らか。町年寄の栗山氏と名主の入江氏と話す。町役人を続けるよう引き止められた。町組小頭の宮古条助殿も来られた。誠意のあるお言葉を頂戴した。
しかし、病身であることから、町役人を続けるのは難しいと申し上げた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
経営面で苦境に立たされている三中は町年寄の退任を内心では決めていますが、筆頭町年寄格の栗山氏は三中の退任に反対。藩の役人の宮古氏までが三中を説得に来ました。三中としては、すぐに辞めるとは言いにくい状況となってきています。

〈詳訳〉
栗山氏と入江氏のところに訪ねていった。両名からは、退役されてはいろいろと差し支えるとのお話しがあった。話しも尽きたので、そろそろ帰ろうかというときに町組小頭の宮古条助殿が来られた。
「よいところでお目にかかれた。お宅へ伺うべきところであるが、なにぶん勤めが忙しくてな。何百日も病気になるなどは致し方のないことだ。そのあたりは上の者にも取りなしをするので、町役人を続けていただけないか。
御奉行の藤井縫右衛門様が特に桂助(色川三中のこと)を町役人にせよと仰せ付けられ、ご指示いただいてのものであるし、町役人を退任されるのは両御奉行様も惜しまれているので、頑張って勤め続けていただけないか。辞められると中城町で他に町役人を勤めるべき人材もおらぬしな。」
誠意のあるお言葉をありがたく頂戴したが、なにぶん病身でありますのでと申し上げ、町役人を続けるとは申し上げなかった。

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文政12年9月14日(1829年)曇
明日、隣主人と間原氏に新たな借入れのことで、安食(現かすみがうら市安食)に行ってもらうことになった(茂吉が供として行く予定)。予め隠居(祖父)から安食の竹内仙右衛門殿の後見である宍倉村の松延四郎左衛門へ書面を送ってもらった。
進物
* 真綿一把:竹内仙右衛門殿へ
* 御納戸琥珀帯一筋:松延四郎左衛門殿へ
* 隠居方からの書状1通添え
#色川三中 #家事志
(コメント)
この時代には金融機関がないので、ツテを頼って借入れを行うしかありません。祖父から書面でまず連絡を入れてもらい、仲介役の隣主人と間原氏に面談に行ってもらうという流れです。安食は、現かすみがうら市安食です。

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文政12年9月15日(1829年)晴
隣主人と間原主人は朝早く安食(現かすみがうら市安食)に出発し、日没ころに戻ってきた。「松延四郎左衛門殿は江戸におり留守だったが、贈物は渡してきた。江戸から戻ったら連絡をくれるように段取りをつけてきた」とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
新たな借入れのため、仲介役に安食(現かすみがうら市安食)に行ってもらいましたが、キーパーソンは江戸に出府中で不在。電話がないので、こういう行き違いは想定の範囲内なのでしょう。色川家側からの贈物は受け取ってくれており、話しは前向きに進みそうです。

〈詳訳〉
隣主人と間原主人は朝早く安食に出発。茂吉を供として行かせる予定だったが、もし遅くなったり宿泊したりするといけないので、万一に備えて嘉兵衛を供とした。当日、日の入りころに帰られたので、すぐにお二人に挨拶に伺った。
安食村の松金屋栄治方へ伺ったところ、酒を出してくれた。四郎左衛門殿は現在江戸にいて留守とのこと。隣り主人知り合いである次郎兵衛殿という人も来て、一緒に酒を飲んだ。
折を見て、二階で四郎左衛門殿と内密に話したい旨を申し上げたら、「その話しは聞いておりますが、まず私の方で仙右衛門殿と話すので待っていて下さい」といわれた。竹内仙右衛門殿のところから帰って来ていうには、「いずれ四郎左衛門殿方からご連絡致します」とのこと。
この話しを聞いた後に、四郎左衛門殿宅へ寄り、奥様に会って贈物(進物)を出し、竹内仙右衛門殿への贈物もお渡しいただくよう頼んだ。
四郎左衛門殿が江戸から帰ったら、改めて伺いますと申し伝えて、帰ってきたとのことであった。
この内容を伝えに川口(現土浦市川口)に行き、祖父にすぐに伝えた。



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文政12年9月16日(1829年)曇
駿河屋清兵衛方で宿泊していた旅人(下野壬生の人)が亡くなった件につき、名主が閉門推籠(押込め)の処分となっていたが、昨日解除となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
駿河屋清兵衛方で宿泊していた旅人(下野壬生の人)が亡くなった件につき、名主が閉門押込めの処分となったいました(9月10日条)。押込めの期間は1週間弱。名主にとってはかなり重い処分ではないでしょうか。

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文政12年9月17日(1829年) 雨
明後日は明神祭。年番は栗山八兵衛殿(町年寄)。もち米3升と赤小豆5合を栗山殿に遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦で明神祭があり、町役人が持ち回りで祭りの担当者となるようです。今年度の当番は町年寄の栗山八兵衛なので、もち米3升と赤小豆5合を贈っています。

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文政12年9月18日(1829年) 晴
叔父の利兵衛殿が江戸から帰ってきた。近小(近江屋小兵衛)との支払い交渉は順調とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家の薬の販売は売上不振となっており、江戸の近江屋小兵衛殿への買掛がかなりの額になっています。近江屋との交渉担当は、三中の叔父の利兵衛で、1週間前に土浦を出発しています(9月11日条)。交渉は順調だったようです。
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文政12年9月19日(1829年)
昼に、栗山(町年寄)から「町役人一同揃ったのでお越し願いたい」との書面が届く。伺ったところ、名主の入江氏をはじめ町年寄が皆揃っており、明神祭を終えて一杯飲み終えたところだった。一同から「町年寄は辞めないでほしい」と言われ、よく考えて結論を出したいと申し伝えて帰宅。話した内容は略す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町役人そろっての明神祭の打上げ。三中は少し遅れて行ったらようです。この場でも町年寄として続けてほしいと説得されています。
三中は、よく考えて結論を出したいと慎重な言い回しをしていますが、内心では辞める決意は固めています。辞める時期を探っているのでしょう。
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文政12年9月20日(1829年)
三月の江戸大火では、火事の前に奇妙な噂が飛び交っていた。「どこかに住む誰かの息子が天狗になり、近いうちに大火が発生する」といったようなことである。こうした噂は「妖孽(ようげつ)」と呼ばれる類のものだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
3月に江戸で大火が起きています(3月22日条)が、この時期になっても様々な噂が飛び交っていたようです。天狗云々という話しは現代からすると馬鹿らしい限りですが、「妖孽」とは「あやしい災い。また、不吉なことが起こる前ぶれ」の意ですから、三中はこの噂を本気で信じていたようです。

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弁護士 『千葉繁昌記』より

2024年09月21日 | 歴史を振り返る

◯弁護士 『千葉繁昌記』より

【はじめに】本稿は、松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)の「弁護士」の項を現代語訳したものです。
弁護士という名称は、明治26年3月4日法律第7号の弁護士法が制定されてからのもので、それ以前は代言人と呼んでいました。本書は明治28年の出版ですので、「弁護士」という項目を立てていますが、それ以前の代言人についても略述しています。
興味深いのは、江戸の公事宿の下代が宮谷県、葛飾県又は印旛県、木更津県下(現在の千葉県域)に散り、その後代書人となったという記載です。この記載がどのようなものに基づいて書かれたのかは不明なため、その記述の正確性については留保せざるを得ませんが、公事宿の下代が明治となってどうなったかは良く分かっていないため、これが事実であれば代書人の成り立ちもまた見えてきそうです。

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松風散史編『千葉繁昌記』
◯弁護士
千葉地方裁判所附属の弁護士会の沿革について簡単に述べる。
旧幕府の頃、江戸の馬喰町に公事宿というものがあった。公事宿には下代というものがおり、訴訟人の世話をしていた。維新の際に公事宿は廃止となり、下代らは宮谷県、葛飾県又は印旛県、木更津県下に散っていった。明治6年までにこれらの県が廃止となり千葉県となった。千葉県にら千葉裁判所が置かれたので、これらの人々が集まり代書人となって、訴訟上の代理又は補佐を行っていた。
明治9年司法省で甲第一号により代言規則を制定し、免許を得た者でなければ、訴訟の代言を為すことができないとされた。
東京北洲社より岩崎直諒氏が千葉に来て代言試験を受け免許を得て代言を行った。次いで、明治12年9月に板倉中氏が代言免許を受けた。同年12月には代言人長岡衡氏が東京から千葉に来た。13年1月には、代言人牧山百太郎氏 も来た。3月には津田定右衛門氏も代言免許を得た。
明治13年5月司法省甲第1号布達で、上記5名により千葉代言組合が設置されました。初代会長は長岡氏であり、次いで岩崎氏、麻生致一氏、岩崎氏、麻生氏、板倉氏、新庄克己氏の順で会長となった。
明治26年5月に、代言組合は「弁護士会」となり、新庄氏が弁護士会の初代会長となった。

弁護士会の会員は以下のとおりである。
弁護士会加盟順

千葉郡千葉町千葉730番地
第一号 岩崎直諒

千葉郡千葉町千葉1251番地
第二号 宇佐美佑申

千葉郡千葉町寒川972番地第3号
第三号 麻生致一

千葉郡千葉町千葉1299番地
第九号 浅井 蒼介

千葉郡千葉町千葉1131番地
第十号 太 田 茂

千葉郡千葉町千葉694番地
第十一号 杉山弥太郎

千葉町千葉583番地
第十二号 神田仲二

千葉県千葉郡千葉町寒川989番地
第十三号 新庄克已

千葉郡千葉町寒川290番地
第十四号 清水鉄太郎

千葉県長柄郡関村関1213番地
第十六号 板倉中
(事務所 千葉町寒川979番地)

千葉郡千葉町寒川291番地
第廿八号 平山勘次

千葉県長柄郡茂原町175番地
第十七号 松本安蔵
(事務所 千葉町寒川970番地)

新潟県刈羽郡石曽根村315番地
第十八号 佐藤槌之亟
(事務所 千葉町寒川979番地)

○弁護士書記
押田徳太郎(宇、岩、杉)
佐瀬熹六(浅、麻)
市橋平四郎(太)
小柴源之助(新、板)
小笠原 拓一(神)
山本通元(清、平)

○代書人
伊原演。小川長兵衛。鈴木万吉。布留川平吉。 黒川治郎八。大木文五郎。足立重次郎。山本通元。
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「闕所」 仮刑律的例 43-1

2024年09月19日 | 仮刑律的例

「闕所」 仮刑律的例 43-1
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(要旨)徒刑でも「闕所」は従来どおり
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【伊那県からの伺】
明治2年2月25日、伊那県からの伺い。

「闕所」に関する取扱いの件について
昨年冬に御布告された刑律ですが、闕所の取扱いについてどのようにしたらよいでしょうか。
従前は追放刑や所払の刑に処していたので、闕所としても問題はありませんでした。
今後、徒刑に処した上で、従来の慣例通り闕所を科しますと、刑期満了で帰農しても生計を立てられず、戸籍から離れることになってしまうでしょう。
そこで、条理に適合し、相応の刑を科すために別紙のとおりに取扱うことを提案いたします。科す刑に関することですので、至急のお返答をお願いいたします。
(別紙)
一、磔刑、梟首、死罪、流刑の場合
上記の場合、田畑・家屋敷・家財は従来通り闕所とする。
一、三年の徒刑(従来の重追放に相当)
田畑・家屋敷・家財は闕所(従来通り)。徒刑年月が満了したときは、生計を立てられるよう、官から従来通り闕所したものの一部から家族1人あたりおよそ金10両程度支給する。
ただし、闕所金の額が10両以下であれば、全て支給する。
一、二年の徒刑(従来の中追放に相当)
田畑・家屋敷は闕所(従来の通り)。徒刑年月が満了したときは、生計を立てられるよう、官から従来通り闕所したもののの一部から家族1人あたりおよそ金5両程度支給する。
ただし、闕所金の額がそれ以下であれば、前項と同様とする。
一、一年の徒刑(従来の軽追放に相当)
田畑のみ闕所(従来の通り)。徒刑年月が満了したときは、生計を立てられるよう、官から従来どおり闕所したものの一部から家族1人あたりおよそ金3両程度支給する。
ただし、闕所金の額がそれ以下であれば、前項と同様とする。

【返答】
3月12日返答
・徒罪であっても官没(官による没収)は従来の通りでよい。
・刑期の長短によって支給する金額を増減するのはどのような考えによるものか。追放・所払の刑を廃止し、徒刑に改められた御趣旨は、天下に無籍の徒をなくすためである。徒刑中であっても望みに任せ、生計を立てる資金が得られるように、各府藩県にて役人が配慮すべきである。以上、申し添えて返答する。

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(コメント)
・伊那県は、慶応4年(明治元年)8月から明治4年11月まで存在していた県。現在の長野県南部、愛知県東部を管轄していました。
これまで「仮刑律的例 31・32 強盗に刎首、強盗殺人には梟首」や「仮刑律的例 34 徒刑囚への対応」という伺いを出していました。
今回は「闕所」に関する取扱いの伺いを提出しています。
・「闕所」というのは、江戸時代、追放以上の刑に処せられた者の領地・財産を没収することです。
・伊那県の従前の扱いは次のようであったことが伺いからわかります。
一、磔刑、梟首、死罪、流刑の場合
田畑・家屋敷・家財は従来通り闕所とする。
一、重追放の場合
田畑・家屋敷・家財は闕所とし、闕所したものの中から家族1人あたりおよそ金10両程度支給。
一、中追放の場合
田畑・家屋敷は闕所とし(家財は闕所としない)、闕所したもののの中から家族1人あたりおよそ金5両程度支給。
一、軽追放の場合
田畑のみ闕所とし(家屋敷、家財は闕所としない)、闕所したものの中から家族1人あたりおよそ金3両程度支給。
・「闕所」=領地・財産の没収であり、根こそぎにするというイメージで見ていたのですが、そうではないようです。没収した中から、家族1人あたりに一定金額を支給しています。没収した金額を上回ることはないようですが、がその金額以下であれば、全て支給とするとしております。この場合は、本人からは取り上げたものの、家族に返すことになるので、本人から家族への譲渡が行われたのと実質的に同じです。
・伊那県では、この運用を徒刑の場合にスライドさせたものを明治政府に提案し、伺いを提出しています。
明治政府の回答は、
①徒罪であっても官没(官による没収)は従来の通りでよい
②刑期の長短によって支給する金額を増減するのはいかがなものか
というものでした。回答の中では
③追放・所払の刑を廃止した理由は、天下に無籍の徒をなくすためと、徒刑制度を導入した趣旨についても述べています。

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楊枝づくりの内職 嘉永7年8月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年09月16日 | 大原幽学の刑事裁判
楊枝づくりの内職 嘉永7年8月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年8月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
午前中に万徳(公事宿)へ袴代を持参。借家に戻ると、幽学先生が辻番で働くいう驚きのニュース。隠密に見つかったら、タダではすみませんよと説得され、辻番の仕事は思いとどまってくれたものの、転居の意思は固い…。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、いきなり「俺は辻番で働く!」という驚きの行動に出ました。弟子の説得で辻番の仕事は諦めたものの、借家を出るという決意は固いようです。これには弟子一同も困惑です。

〈詳訳〉
・ 朝食後、小生は万徳(公事宿)へ袴代を持参し、万徳の下代には200文を渡した。
・昼食後、幽学先生は次郎左衛門と一緒に佐竹様のところへ行き、辻番の御奉公をすることを取り決めて来られた。
・幽学先生に転宅しないよう説得するも、先生は聞き入れず。
「予がこの借家にいたままでは、他の者が心を改めない。問題となる言動を見れば、黙ってはいられない。だから、どうでも外へ出なければならないのだ」との思召しで、承知をされない。
・次郎左衛門殿が、「長部村役人の書付が隠密に見つかってしまいますと、大変な問題となってしまいます。辻番はよろしくないでしょう」と言ってくれたので、先生も辻番の仕事は諦めてくれた。
・しかし、先生が松枝町の借家からは出るという決意は固く、どうするかは本日決まらず。
・幸左衛門殿は本日借家に泊まり、小生は7つ半に出番町へ行き、暮れ方に御屋敷に戻った。


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嘉永7年8月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。朝掃除、床下げ。昼過ぎからは御弓場の片付け。夜番も勤める。
昨日、松枝町の借家に泊った幸左衛門殿は昼過ぎに御屋敷に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は本番プラス夜番。人手不足のためでしょうか。一緒に働いている幸左衛門が松枝町の借家から帰ってきましたが、幽学先生が「借家から出ていく!」と驚きの宣言をした続報は記事にはありません。落とし所が見えないのでしょうか。
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嘉永7年8月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。昼には霊岸島で網を売る。216文になった。松枝町の借家に行き、幽学先生の手紙を写す。先生は辻番奉公を諦めて、邑楽屋(公事宿)住まいを決めた。幽学先生は小生らにご立腹でご指導の言葉をいただく。良左衛門君からも励まされる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
一昨日幽学先生は、いきなり「俺は辻番で働く!」といいだしたのですが、弟子の説得で辻番の仕事は諦めてくれました。しかし、邑楽屋(公事宿)で寝泊まりすると、借家から出ていく決意は固そうです。
━━━
〈詳訳〉
・本日は非番。しかし、同僚の勇太郎殿が病気のため、朝掃除は代わりに行った。
・昼に霊岸島へ行き網を売る。2丈売って216文になった。
・松枝町の借家へ行く。幽学先生は十日市場村へ送る手紙をお書きになっていたので、小生は写しを作成した。その手紙の写しを良左衛門君、佐重子、又左衛門子、七郎右衛門子に送り、十日市場の世話をするよう書面を認めた。
・幽学先生は辻番奉公することは諦めた。借家住まいはやめて、今後は邑楽屋(公事宿)に泊まることとなった。
・会計の帳面を引き継ぐため、宜平殿に教えた。
・幽学先生「またこういうことになった。五郎兵衛なぞの根性が改まりさえすれば、帳面に書きようもあるが、この様なざまでは帳面に書きようもない。うわぬり根性では何にもならない。予が辻番等の奉公勤めをするようにしなければ、五郎兵衛ら三人は根性を改める事が出 来ない」と良左衛門君に愚痴をこぼしていたが、これは小生にも根性を改めさせたいという思召しなのであろう。先生はその後邑楽屋へ行かれた。
・後で、良左衛門君から聞いたところでは、「幽学先生にあれこれ言われてしまうと、難儀な気持ちになり、つらくて泣きそうになってしまいます。皆の行いを見てしまうと、先生としては指導せずにはいられないのでしょう。それで邑楽屋に行かれることとなったのです。
幽学先生のいうて下されたことを、ただそのままに、快く受けとめてくださらないか。難しいことではございません。このままでは国元にも悪い噂が伝わってしまい、皆困ります。そのような噂の立たぬよう心を切り替えて一新していただきたいのです。」
良左衛門君の話しを聞き、誠に忝けない思いになった。良左衛門は頼りになる男だと、心持ちを強くして奉公している屋敷に戻ることができた。


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嘉永7年8月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。殿様は、青山長谷寺で七周忌の御法事。大野様が参列。御供道具をお持ちした。御屋敷内では、前夜には饅頭、当日には御馳走が振る舞われた。
そんな日だったのに、同僚の勇太郎は博奕に負けて裸で帰宅。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・お殿様は、青山長谷寺で七周忌の御法事。御屋敷内でも、前夜には饅頭、当日には御馳走が振る舞われるなど、しめやかな雰囲気が伝わってきます。それなのに、奉公人の勇太郎は博奕に負けて裸で帰宅。奉公人の質の悪さが目立ちます。
・「青山の長谷寺」(ちょうこくじ)は、東京都港区西麻布二丁目にある曹洞宗の永平寺東京別院です。ここは旗本籔家の菩提寺なのでしょう。7月13日にも仏参が行われています。
━━━
〈詳訳〉
本日は添番。早朝、青山長谷寺で御法事があり、大野様がご参列。御供道具を持参した。御法事には御親類や御客がお出でになるため、給士人として二人を派遣するよう指示があり、奥使いの喜助及び平作が来た。
七周忌の御法事で、前夜には饅頭をくださり、本日は御馳走がでた。
勇太郎は中嶋様の御屋敷で博奕に負けて、裸で帰宅。夜番は九つまで勤め、後は平作に任せた。


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嘉永7年8月5日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
勇太郎は昨日の博奕の件で職場を首になった。一人で朝掃除、御夜具下げ等。夕方に御夜具上げ。
勇太郎から中庸、絵図、筆一本、将棋本などをもらったので、餞別に200文を渡した。夜番を八つまで勤め、その後平作に引き継いだ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
同僚の勇太郎は、博奕で負けて裸で帰宅という不祥事を起こし、そのため、職場を首に。博打に手を出したことが、分かってしまったら、武家屋敷で奉公させられないでしょう。ましてや、昨日は殿様の法事の日でした…。
そんな勇太郎でも、儒教の四書の一つ「中庸」を持っていたのにはビックリ。当時の流行りだったのでしょうか。別れの際に五郎兵衛にプレゼントしています。



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嘉永7年8月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。松枝町に幽学先生はおられたが、小生の顔を見ると外出…。良左衛門君から「先生は言葉足らずです。お言葉があったことに感謝しましょう。先生との20年来の情誼を考え、何とかして先生に安心してもらいましょう」との話しあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は相変わらず五郎兵衛とは顔を合わせません。五郎兵衛が来たと知るや、外出してしまいました。頼りになるのは良左衛門です。名主の息子だけあって幽学先生と五郎兵衛らの間をうまく取り持ってくれそうです。
━━━
〈詳訳〉
本日は添番。
朝に掃除と床下げ。
昼から松枝町の借家へ向かった。幽学先生はおられたが、すぐに買物に出かけてしまわれた。その後、良左衛門君は
「幽学先生は物事の7割しか話さないのです。話していただいた内容が足りないと感じるよりは、話していただいたことに感謝すべきです。
先生の寿命の決まりがつく時は近づいています。今回の件のご処分がどうなるのか次第ですが。いずれ御奉行所から御呼出があります。幽学先生との20年来の情誼を考えてください。今こそ自らを正し、先生に安堵してもらうときです」と懇々と語られた。
御屋敷に戻り、床上げ、御弓場の片付け。
夜番は平作殿が九つまで勤め、その後、小生が引き継いだ。




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嘉永7年8月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
殿様が下屋敷へ御忍びでお出かけ。御忍びゆえ半供(半分の供)。五つには御帰館になられた。
本日は本番。昼に大寺と二人で薬店の湯に入り、帰りに牛込揚場でかん木を買った。楊枝作りの為。夜番は九つまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
殿様が御忍びで下屋敷へお出かけ。御忍びのお出かけは、先月25日と28日にもありました。殿様にもよるのかもしれませんが、結構頻繁にある印象です。半供とは、フルバージョンの供の半分のことでしょう。
━━━
〈詳訳〉
殿様が下屋敷へ御忍びでお出かけになった。御忍びゆえ半供(半分の供)。五つには御帰館になられた。
本日は本番。
朝掃除、床下げ、土用干しの手伝い。
大寺と二人で薬店の湯に入り、帰りに牛込揚場でかん木を買った。
夕方、夜具上げ廻り。夜番を九つまで勤める。
暮方、節五郎殿が来られて泊まり。

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嘉永7年8月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。掃除。大崎より女中口使が一人、国部屋へ一人来た。仲番は万蔵という者が勤めた。夕方、夜具上げと御弓場の片付け。 夜番は九つまで他の者が行い、その後を小生が勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は添番プラス九つ以降の夜番。勇太郎が首になった影響もあるのか人手不足のようです。
昼に仕事をしたあとに一人で夜番を勤めるのはさすがにきつく、夜番は九つ(0時)の前後で担当を分けています。


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嘉永7年8月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。朝掃除。昨日から楊枝作り(内職)を始めた。干した木を、日暮れまで削る。御弓場を設営し、暮方には片付け。夜番を九ツ迄勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
朝掃除を終えた後、日暮れまで楊枝作りをしています。少しでも収入を増やしたいという思いからでしょうが、売れるかどうかどこまで考えてのことでしょうか。五郎兵衛のことですから、あんまり考えていないような…。

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嘉永7年8月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。松枝町に行く。幽学先生から厳しく叱責された。幽学先生は小生の嘘や盗人根性を指摘し、これ以上は相手にしないと宣言。良左衛門君からもとりなしの話しあり。その後、先生は邑楽屋へ赴き、小生らは借家に宿泊した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は厳しい言葉で五郎兵衛を叱責。五郎兵衛殿の改心を期待しているのでしょうが、五郎兵衛を嘘つきだ、なんだと非難するのは以前と同じ手法であり、指導者としてはどうなのかと思います。その点、良左衛門君は冷静かつ的確です。
━━━
〈詳訳〉
本日は非番のため、朝に掃除、昼前まで楊枝作りをし、昼から幸左衛門殿と二人で松枝町の借家へ行った。節五郎殿もおり、三人で良左衛門君と話す。
今日は、幽学先生がお出でになられた。
「誠に五郎兵衛は筋が悪い。嘘を言う、偽りをなす。こんな盗人根性では今後どんなことができるだろうか。
顔つきにも表れているぞ。悪い事をすれば、以後は改めますというが、一体何回言ったか覚えているか。四ツ谷文平が懸合に来た時は、そういう事はないとか、その気にはならない 等と言い切ってしまっているから、もうあきれてしまった。こんな根性では改めることができないだろう。そのような者とあいてをしていられない。」
「幸左衛門は自分が悪い事をして、予を悪者にする。節五郎は奉公勤めしているのだから、そのくらい察しそうなものだが、ちっとも分かっていない。」とお叱りになられた。
その後、小生は帳面に間違いが多いことを良左衛門君に詫びたが、良左衛門君は「そんな帳面のことをいうのは甚だ筋違いのことです。そのような帳面のことなどは誰でもできることです。そんなことより、五郎兵衛殿の心が改まれば、先生も再びこの松枝町の借家にお出でになるでしょう」と話してくれました。
先生は邑楽屋へ行き夕食を召し上がられた後、再び借家に戻られた、国元の様子や佐倉での腰物売買のことについてお話しになられた。
その後、幽学先生は四つ時に邑楽屋へ行か、借家では6人で泊まり。


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文政12年9月上旬・色川三中「家事志」

2024年09月12日 | 色川三中
文政12年9月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年9月朔(1日)(1829年)
江戸から、取引先の大枝清兵衛と和泉屋吉右衛門が来る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
大枝清兵衛と和泉屋吉右衛門は、江戸の薬種問屋で三中(薬種商)の取引先です。本年(文政12年)3月に江戸では大火が起き(文政大火)、両名の店舗兼家屋は全焼してしまいました(3月22日条)。この両名の店舗も何らかの形で再度立ちあげをし、その挨拶廻りと思われます。

なお、本年3月22日条で両名の江戸の店舗の場所が分かりました。大枝清兵衛は小船町(こぶな)(現日本橋小舟町)、和泉屋吉右衛門は今川橋です。今川橋は、現在のJR神田駅にほど近い、千代田区鍛治町1丁目と中央区日本橋室町4丁目を結んだ位置にあった橋です。江戸時代、この橋のたもとには瀬戸物屋が多く集まっていたそうですが、和泉屋はここに薬種商として店舗を構えていたことになります。
今川橋
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5685


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文政12年9月2日(1829年)午前から雨
・本日は日触六分で辰四刻より上の方より欠け初め、巳ノ二刻には左の上に甚だしく欠け、午の初刻左の下に日触終了となるはずだった。しかし、雨のため見えず。
・嘉兵衛と茂吉が、鹿島へ行商に出立、弟の 金次郎も南ルート(南在)の行商に出立。
#色川三中 #家事志
(コメント)
日触を楽しみにしていたようですが、残念ながら雨のため観測できず。
弟の金次郎は先月は北の営業ルートに一人で出張させていましたが(8月19日)、今回は南ルートの営業を任せています。一人前にするための訓練も兼ねてのことでしょう。

〈その他の記事〉
・水位は、7〜8寸(約21〜24cm)または1尺近く(約30cm)引いてきた。
・七兵衛を下総に出立させた。下総にいる与市に書状を持って行かせるためである(書状の内容は付1)。
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文政12年9月3日(1829年)
三中先生、本日は休筆です(本日のみ)
#色川三中 #家事志

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文政12年9月4日(1829年)晴
名主の入江全兵衛殿が訪ねてきた。藩の役人(町組小頭)は、私が町年寄を辞めるのには反対で、引き続き勤めてほしいとのこと。入江とは竹馬の友であり、互いに腹蔵なく話し合った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、町役人を辞める意向を名主に話していました。名主は立場上、藩に話しを通しましたが、藩の方ではそう簡単に辞めさせてはくれなさそです。三中の決意は固く、ぶれません。名主も三中とは親友ですので、理解を示しつつ、落とし所を見つけていこうとしているのでしょう。
━━━
〈9月4日詳訳〉
1 名主との面談内容
入江郷助(名主入江全兵衛)殿が訪ねてきた。
「この度貴君から町役人の退任につき先般話しがあったので、藩の役人に内々にその話しをしておいた。町組小頭は、「色川殿には是非町役人の仕事を引き続きお願いしたい。場合によっては、我々の方で直接お会いして説得しようか」と仰っていた。
どうもこの話しを続けると藩の方にもご迷惑をかけるようである。そこで、この話しはしばらく先に延ばそうと思う、しかし、いずれにしても役職を続けることは難しいであろう、と話した。
その理由につき、入江から聞かれたので、私からは次のように話した。
「私が多病であることは御存知のことでしょう。病気が良くなっても、事業の方が良くなく落ち着くことができないのだよ。町役人を勤め続ける気力がわかない一番の理由はその点にある。このことを分かって、上手く取り計らってもらえればありがたい」
入江からは「そうか。それならば、いつかは町役人を辞めざるを得ないな。他に理由はないと聞いておいて良いか」というので、「それ以外はない。長く町役人をすることができず申し訳ないが、分かっていただきたい。」と答えた。
入江は「承知した。この件はいずれまた話そう」と言っていた。
入江とは竹馬の友である。互いに本音を話し合うことができた。
その後、ひものやの件について話し合い、また大町の売女の件について話した。
「大町の宿で売春をしている女性のことだが、どうもまた同じことをしているようだ。山屋 弥助に対してあそこまでの措置をしたのに、現在も同じことをしているのを見逃すのは、御政事不行届不徳の第一である。とにかく早く対処すべきだろう」と自分の考えを伝えた。
2 その他の記事
・夜、利八を呼び寄せ、「七兵衛はかねてから不埒な行動を繰り返しており、解雇とせざるを得ない」と話した。
・下男の喜兵衛は8月12日から病気であったが、9月3日から働き始めた。下女のしめは8月24日から病気である。


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文政12年9月5日(1829年)
三中先生、本日は休筆です(本日のみ)
#色川三中 #家事志


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文政12年9月6日(1829年)晴
与市宛の書状を持たせた七兵衛が下総から帰ってきた。与市からの返書は「やむを得ない公事(訴訟)が生じて対応しなければならず、土浦には行くことができません」との内容であった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与市は下総(現千葉県)の名主まで務めた人物ですが、なぜか色川家でも働いていた人物。昨年7月には地元下総に帰っており、昨年11月には土浦に顔を出していました。色川家では重要な経営上の問題が生じており(本ブログ末尾付1の与市宛書状参照)、与市のアドバイスを求めたかったのですが、与市は多忙なようです。


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文政12年9月7日(1829年) 曇
朝、七兵衛を解雇し、利八方へ引渡した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、「七兵衛はかねてから不埒な行動を繰り返しており、解雇とせざるを得ない」と考えており、利八にはその旨話しをしておりました(9月4日条)。七兵衛の不埒の内容については具体的な言及がなく不明ですが、よほど腹に据えかねていたのでしょう。利八は七兵衛の請人であったのでしょうか。身元を引き渡されています。

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文政12年9月8日(1829年)曇
夜、町役人の栗山八兵衛殿が来られた。瘧にかかっているが、今日は間日だという。
#色川三中 #家事志
(コメント)
瘧(マラリア)は発熱と間日(熱がない日)を繰り返すので、間日は動けるのかもしれませんが、感染症ですから、出歩くのは瘧を拡散させるだけです。感染症については江戸時代の人は鈍感というほかありません。

〈その他の記事〉
・早朝、追手御堀で数え2歳ほどと思われる幼児が仰向けで死んでいた。幼児は、赤い襟とウコンの裾の綿入りの着物(新しいもののように見えた)を着ていた。

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文政12年9月9日(1829年)
三中先生、本日は休筆です(本日のみ)
#色川三中 #家事志


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文政12年9月10日(1829年)雨
駿河屋清兵衛の宿で旅人(下野壬生の人)が亡くなった件で、名主と問屋は閉門押込め、町年寄は御叱り、竿指世話人は手錠、竿指(※)共も御叱りの処分となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
駿河屋清兵衛方で宿泊していた旅人(下野壬生の人)が亡くなっておりました(6月8日条)。江戸時代は旅宿以外では人を泊めてはいけないという建前で、他藩の者が亡くなることも問題視されたのかもしれません。名主が閉門押込めの処分をされたのは、監督不行届のためでしょう。藩の役人は本件を重大な問題として処分しています。

※「竿指」につきましては、「竿取」ではないかとのご指摘をある方からいただきました。「竿取」は、測量の時に間竿や間繩を扱う技術者のこととご教示いただきました。
本文は土浦市史資料のとおりに「竿指」のままとしました

〈詳訳〉
駿河屋清兵衛方で宿泊していた旅人(下野壬生の人)が亡くなった件につき以下のとおりの処分となったという。
名主及び問屋:閉門押込め
御叱り:町年寄
手錠:竿指世話人共
御叱り:竿指共
竿指は、高津簀子橋へ出る時に酒をせびってたためこのような処分となった。
〈その他の記事〉
・大嵯峨で稲刈り。
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付 1 与市方へ遣候書状写 草也

与市に送付する手紙の草案写し

七兵衛にこの手紙を持っていかせます。
今年は夏なのに随分と冷気がちとなっておりますが、与市様ご家族様はお揃いでお元気のことととお慶び申し上げます。こちらも変わりありません、ご安心ください。
今般、七兵衛を遣わしてお手紙を差し上げましたのは、よんどころない事情によるのです。
春にお出でになったときは、次は7月にお出でになるとお約束いただいておりました。特に問題がなければ、わざわざお出でいただくことはないと思っておりました。その後、病気にかかる者が続出しましたが、それほど大した病状でもありませんので、そのためにお出でを願うのではありません。
しかし、今回どうしても避けられない事情が生じ、別紙にてそのことを申し上げます。


別封書
一 金銭の借入れを検討しておりますので、内密にお話しさせてください。隠居(祖父)も与市殿のご意見を聞くようにと申しております。
一 近江屋小兵衛殿との取引につき、仕入れを多くしましたが、売上が不振です。
この2年間は水害の影響で得意先の損害が目立ち、水害がない地域でも凶作で、米穀を自給できない村々が多くなり、半ば飢饉のような状況です。
医師の診察料や薬代も払えない人が増えてこり、医師自身も生活が苦しい状況となっています。そのため、売掛金の回収も著しく減少しています。
このように、売上については回収が出来ていないのに、買付金額は今までになく嵩んでいるため、7月に近江屋小兵衛殿から50金の新たな借用をしなけれぱ立ち行かなくなる状況です。
当年の盆前の買付金額は100金程度であり、半分くらい入金しなくては、今後の取引は大変厳しいこととなるでしょう。残りの半分は年末までには返済するよう考えております。
この件の交渉は当店の事業にとって非常に重要であり、現時点では他人に依頼することも難しいため、与市殿にお願い申し上げるものです。
本来であれば、直接お伺いしてご依頼申し上げるべきところですが、体調不良のため代理人を通じてのお願いとなりましたことをご了承いただけますと幸いです。

従業員の状況
1. 佐助
6月18日に在所に帰りましたが、その日から重病にかかり、現在も寝たきりです。生死不明の状態です。
2. 与兵衛
7月8日から瘧(マラリア)にかかり、体調が少し回復したため、先日在所に帰りましたが、再発してしまいました。現在も症状が落ち着かず、仕事も全くできません。
佐助も与兵衛も病状が長引いて深刻な状況です。
3. 利助
7月15日に回復し、在所から戻りましたが、また体調を崩しました。今月初めには再び在所に戻りました。今春からずっと病気がちです。
4. 利八
瘧(マラリア)を患い、長期間病状が続きますが、ようやく快復に向かっています。
しかし、今度は妻が瘧(マラリア)にかかってしまい、現在も出勤できません。

当節瘧にかかって寝たきりとなっているものに
男女の区別はありません。
また、今年の大洪水で、水稲などが被害を受けています。自分の食用のみ刈取っています。水が引かず人々は島に住んでいるも同様です。

七兵衛は以前から不行跡が重なり、今年春は府中(現茨城県石岡市)で遊びに散財してしまい1両以上の借金してしまい、債権者から度々督促を受けています。荒川で女郎に狂い、この件でも督促を受けています。去年岩城に行く際にも不行跡がありました。そのときは高砂屋が仲介に入って無事に済んだのですが、このままでは店のものに示しがつきません。厳しく処罰したいと考えていますが、人手不足のため、現在は見送り中です。人手が揃えば必ず処分します。
これまでに長期間病状のある者は、本家を含めて8名です。

ご承知のとおり、今年2月から町年寄を勤めております。7月となって、既に述べたように人手不足となりました。非常に困難な状況を何とか凌いでいる状況です。
今年のような凶事は自然現象ではありますが、町年寄など勤めず仕事に邁進していれば、近江屋への百両の支払い等という問題は生じなかったのではないかとも思われます。いずれにせよ町年寄は辞任するようお願いしております。
現在は病気のため、業務を十分に遂行できておりません。先祖が残してくれた文書は、町役人を続けていれば役に立つかもしれませんが、
役を辞任する場合は書類は箱の中に保管されるだけ状態となってしまうでしょう。残念ですが、時の勢いが昔のようなものではありませんので仕方のないことです。これも自分の薄命不故の不孝と思っています。
詳細は直接お会いしてお話ししたいと考えております。


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恐喝者につき戸締の刑 仮刑律的例 42

2024年09月09日 | 仮刑律的例

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(要旨)村内の揉め事の際の恐喝者につき戸締の刑とされた事例
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【三河県からの伺】
明治2年2月、三河県からの伺い。

昨年12月中、三河県幡豆郡津平村の百姓たちが騒動を起こした件(既にお届け済)については
、出動し鎮撫致しました。村の一同へ問い質したところ、首謀者は3名であり、同村の彦助方へ5ヶ条の難題を突きつけて300両を恐喝したものです。この事を自白致しましたので、召捕りの上、入牢を申付けております。
300両は既に彦助方へ返還させました。
本件につきましては、徒党の罪は逃れられないところですが、愚民の者たちであり思慮分別を欠いて行動した結果であり、今に至ってではありますが、深く反省している様子もうかがえます。よって、寛大な措置として徒刑に処したいところですが、当県ではいまだ徒刑の準備ができておりませんので、首謀者3名につき「村追放」が妥当と考えます。ご決定の上、御沙汰お願い致します。
☆本文には

【返答】
追伸:恐喝された金員は被害者に返還されており、首謀者3人には50日間戸締めを申し付けるのが妥当である。

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(コメント)
・本件は三河県からの伺いであり、村騒動に際して300両を恐喝した首謀者の刑に関するものです。三河県は首謀者3名に「村追放」が妥当と考えて伺いをしたのですが、明治政府は「50日間戸締め」としており、見解が分かれています。
・明治政府は、村追放のような追放刑に代えて徒刑(懲役刑)を導入するようにと指導していますが、徒刑はそれ専用の施設が必要なため、施設を整える準備期間が必要です。
明治政府としては、徒刑もできない、追放刑もしたくないということで、50日間戸締めを決めたのではないかと考えます。
・なお、本件が発生した三河県幡豆郡(はずぐん)は現在の愛知県西尾市、額田郡幸田町のあたりです。



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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第七回講義

2024年09月07日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第七回講義

第七回講義(明治18年5月13日)
(はじめに)
前回は、私訴の対象者が①公訴の被告人、②民事担当人であることを説明しました。今回は③脏物(盗品)の占有者から説明します。
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(私訴の対象者③〜脏物の占有者)
第三 脏物(盗品)の占有者
脏物(盗品)の占有者も私訴の対象者となります。脏物とは、強盗、窃盗、詐欺などの財産犯の被害物品のことです。
脏物を占有する者が私訴の対象者となるのは、脏物は犯罪によって得た物品であり、所有者の正当な移転方法とはいえないからです。
脏物の占有者とは、犯罪者ではなく、犯罪者からその犯罪によって得た物品を買い受け、または譲り受け、あるいは交換によって得た者をいいます。
刑法附則第54条には「脏物が犯人の手にある時は、直ちに被害者に還付する。しかし、もし転々として他人の手にある時は、被害者の請求によって還給させるものとする」とあり、また同第55条第2項には「もし公商によらずに買い取った物品は、その還給を拒むことができない。ただし、その買取者は、売り手に対して転償を求めることができる」とあります。この両条によれば、公商によらずに脏物を買い取り、または譲り受けた者は、被害者の要求を拒むことができず、取戻の訴え(私訴)の対象者となります。
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(私訴の対象者④〜犯罪者の相続人等)
第四 犯罪者の相続人
犯罪者の相続人は私訴の対象者となります。刑法附則第62条には「脏物の還給と損害の賠償は、本犯が死亡した場合はその相続人に対してこれを要求することができる」とあります。この条文によれば、本犯が死亡した場合には、その相続人に対して要求を行うことができるのは明らかです。また、本犯の相続人に対してだけでなく、本犯の民事担当人に対しても要求を行うことができると考えるべきです。そうであれば、その民事担当人が死亡した場合には、民事担当人の相続人に対しても要求ができると考えられます。
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(例〜鉄道馬車会社)
例えば、鉄道馬車会社の御者が、不注意で馬車を御する際に他人に傷を負わせた場合、その被害者は鉄道馬車会社に対して損害賠償を求めることができます。その会社は御者の民事担当人の立場にあるからです。仮に、私訴が起こされる前にその会社が他人に譲渡された場合には、後の所有主、すなわちその会社を譲り受けた人に対して損害賠償を求めることとなります。
なぜなら、その譲受人は、民事担当人の相続者と異なるところがなく、会社に属するすべての権利と義務を引き継ぐ者であるため、その義務の一部である賠償の責任を免れることができないからです。

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(フランス及びアメリカの法制度)
私訟は、犯罪者が死亡しているときには、その相続人に対して行うことができるとする国は、本邦(刑法附則に規定)及びフランスです。
このような訴訟を認めない国としてアメリカが挙げられます。アメリカでは、被害者または犯罪者のいずれかが死亡すると、私訴の権利が消滅します(アメリカ法原論を参照)。相続人に対して私訴を行うことができるか否かは世界共通ではありません。
相続人に対して私訴できることの当否については、ここでは論じません。これを論じるには哲学的な検討をしなければならず、法律学の範囲を逸脱するからです。これを論じることは後日に譲ることとします。

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第四章 公訴および私訴の施行に関する規則
前章では、公訴および私訴の対象者が誰であるかを論じました。本章では、公訴および私訴の手続きを説明します。
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第一款 公訴の施行に関する規則
(検察官の公訴権)
検察官は定められた管轄の区別に従い、重罪、軽罪、違警罪について公訴を起こす任務を負っています。その行為を行う権限は法律によって付与されているため、他者の命令によって左右されることはなく、自らの意見に従い、これを行うか、行わないかを決定することができ、その権限は独立しています。

(検察官の公訴権濫用の防止方法)
検察官権限の独立性は、個人の専横や怠慢といったことで、公訴を提起すべきなのにそれをしないということが起こり得ます。そのため、法は、検察官の専横や怠慢を防止するための制度も定めています。
一つは行政権による監督、もう一つは私人による監督です。
前者は、司法卿または検事総長からの命令により検事に公訴を提起させるもので、行政権により検察官の専横と怠慢を防止するものです。
後者は、民事原告人に公訴提起権を与えるもので、私人に検察官の専横や怠慢を防止させるものです。

(フランスの制度)
フランス治罪法では、この二種類の監督方法のほかに、さらに控訴院による監督があります。フランス治罪法第9条では控訴院は検事に対して公訴を提起するよう命令することができまるのです。
フランスは行政権と司法権の分立を重視していますが、それにもかかわらずこのような条項を設けた理由は、検察官の怠慢を防ぐために他なりません。
検察官は行政官の監督に属しているため、重要な官吏または皇族の犯罪がある場合、その権威に屈して公訴を提起しないことがないとは言えません。そのようなことが起これば、法の厳明を維持することができません。そのために、独立不羈なる控訴院が検察官に対して起訴命令を下すことができるとしたのです。もっとも、この命令を行うのは極めて稀です。

(ナポレオンの弟への起訴命令)
一例を挙げると、ナポレオン第一世の威望が絶頂にあった時、その皇弟がある新聞記者を砲撃して負傷させたことがありました。
ところが、検察官はその権威を恐れて皇弟を起訴しなかったのです。控訴院はこの事件について特別に会議を開き、その決議をもって検察官に起訴命令を下したといいます。

(検察官に公訴提起権限が付与されている理由)
検察官は公訴権を独立自由に行使することができます。しかし、起訴を行うにあたっては法律に従うべきことは当然であり、また起訴を行うにあたっても常に社会の利害を考慮してこれを処理しなければなりません。一私人の些細な秘密を暴くことをもってその職務を全うしたとはいえないのです。


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(検察官と裁判官の権限の対比)
検察官は公訴提起に関して絶大な権力を有しています。これに対抗する十分な権力を有する者が裁判官です。
この二者の職権は明確に区別されており、互いに侵すことはできません。すなわち検察官は裁判の領域に入ることはできません。また裁判官は起訴の領域を侵すことはできません。その例外は現行犯です。この場合は裁判官は検察官の起訴を待たずに直ちにこれを受理することができます。
このような例外を除き、検察官は裁判官の命令を受けず、裁判官は検察官の命令に従いません。二者が対峙して初めて公平な裁判が得られるのです。治罪法第158条第2項に「また検事の請求があったときは、いかなる場合でも臨検すべし」とあり、これは検察官の意見をもって裁判官を拘束するものですが、これは例外に属します。
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(起訴の放棄をすべきではないこと)
検察官は一度起訴した以上は簡単にこれを放棄してはならず、裁判官の判決を受けなければなりません。一旦起訴した以上は国家および公衆の利益となるため、検察官個人の意見でこれを簡単に放棄できないからです。このような考え方は、治罪法にある放棄ができるとの明文に反するように見えますが、ここにいう放棄とは公訴権を放棄する意味ではなく、ただ検察官自身の意見を放棄する意味であると解釈すべきです。したがって裁判官は検察官がその意見を放棄した場合でも、判決を言い渡さなければならないのです。

(起訴の不当性を発見した場合の検察官の対処)
また、検察官が最初に起訴した時の考えと同じ判決を得たとしても、その後に起訴及び判決の不当性を発見した場合には、上訴して是正しなければなりません。公訴は検察官自身のためにするものではなく、国家のためにするものなので、自分の意見が誤っていることを悟った場合には、正しいものに従わなければならないからです。このことが公訴と私訴の大きな違いです。民事の訴訟においては、原告が請求したこと以上の理由により、上訴することはできません。

(検察官単独では起訴できない場合)
検察官が起訴を行うのに他の者の行為が必要な場合があります。①被害者の告訴が必要な場合です。また、②皇族、華族、勲章を帯びた者、位階のある者に対しては、直ちに公訴できず、あらかじめ上奏して裁定を待つ必要があります。その理由は、後日「公訴の停止について」という題目を設けて説明致しましょう。

以上、公訴の施行に関する規則を説明しました。次回には私訴の施行に関する規則を説明しましょう。


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