南斗屋のブログ

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和解事例1676から1680

2020年09月30日 | 原子力損害

原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)が公開した和解事例1676から和解事例1680までを紹介いたします。

1676=旧緊急時避難準備区域(南相馬市原町区)の精神的損害の延長に関するもの
1677=避難指示解除準備区域(南相馬市小高区)で不動産を使用貸借していた者の住居確保損害に関するもの
1678=福島県内の会社の営業損害に関するもの
1679=会津地方の不動産の売買仲介業者の営業損害に関するもの
1680=自主的避難等対象区域(福島市)の生活費増加費用・営業損害に関するもの

和解事例(1676)
旧緊急時避難準備区域(南相馬市原町区)に居住し、その近傍において就労していたが、原発事故により会津若松市において就労することとなった申立人について、会社都合により郡山市に転勤となり同市で住宅を購入した平成25年6月まで、月額10万円の日常生活阻害慰謝料が賠償された事例。

和解事例(1677)
避難指示解除準備区域(南相馬市小高区)内の建物に無償で居住していた申立人について、同居住が使用貸借契約に基づくものであったと認定した上で、避難先住居の8年分の使用料等相当額及び一時金たる保証料の合計額が賠償された事例。

和解事例(1678)
福島県内において下水汚泥処理を含む複数の事業を営む申立会社の平成25年4月分から平成28年3月分までの下水汚泥処理事業に係る営業損害(逸失利益)について、申立会社全体でみれば売上高が回復している時期も上記期間内にあるものの、下水汚泥処理以外の事業の受託量が増加したことによる回復であり、下水汚泥処理事業とそれ以外の事業との工程及び人的・物的資源は別個独立しており、各事業の売上高も両立し得ることから、申立会社全体の売上高の減少ではなく下水汚泥処理事業単体での売上高の減少に基づき原発事故の影響割合(8割)等を考慮して算定した金額が賠償された事例

和解事例(1679)
会津地方において田舎での生活を目的とする不動産の売買仲介等を営み、東京電力の平成27年6月17日付けプレスリリースに基づく請求においては相当因果関係が認められないとして年間逸失利益の1倍相当額の賠償を受けた申立人の平成27年8月分以降の営業損害について、年度ごとに原発事故の影響割合を考慮しながら損害額を算定し、上記1倍相当額とは別に、逸失利益の賠償が認められた事例

和解事例(1680)
自主的避難等対象区域(福島市)から当初は母子のみ、後には父も避難した申立人ら(父母及び子2名)について、平成27年3月までの避難費用(住居費、二重生活の間の面会交通費等)、生活費増加費用(二重生活に伴う生活費増加分、原発事故前は自家消費していた米及び野菜について購入することを余儀なくされたことによる費用等)及び避難雑費等が賠償されたほか、申立人世帯の副業である農業(米)の平成25年4月分から平成27年3月分までの営業損害(逸失利益)について、原発事故前の確定申告は申立外祖父の名義で行っていたものの、実際には申立人らが農業に従事していたものと認め、基準期間の売上高に米の全国平均価格係数を乗じた上で出荷経費を控除して算出した額に原発事故の影響割合として5割を乗
じた額が賠償された事例


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原発事故による葬儀費用増加分等について

2020年09月25日 | 原子力損害

1 原発事故により葬儀費用が増加したことが損害として認められた和解事例があります。

・原発事故による避難中に夫が死亡したため、避難先での葬儀を行わなければならなかったことによる葬儀費用増額分が賠償された事例(増加分として20万円)(295)。
・避難指示解除準備区域(南相馬市原町区)に居住していた申立人らについて(中略)避難によって自宅で葬儀をすることができなくなったことによる近親者の葬儀費用の増加分等が賠償された事例。(増加分として約31万円)(1460)

2 遺体捜索ができなかったことについての慰謝料が認められたものとして次の事例があります。
・自宅付近(南相馬市小高区)が警戒区域に指定されたために津波にさらわれた親族の捜索を継続できなかったことによる精神的損害として、家族3名に各60万円合計180万円が賠償された事例。(各60万円)(955)
 和解契約書の精神的損害の項目には、「①故人に対する敬愛・追慕の情、②自ら又は適切な捜索機関に求める等して迅速に故人らを捜索する権利又は利益及び③適切な時期・方法により故人が発見・収容されることにより尊厳を保つ形で故人を葬ることができるよう求める権利又は利益が侵害されたために生じた精神的苦痛」とある。
・親族(未成年者)が津波にさらわれ、自宅付近(南相馬市小高区)が警戒区域に指定された申立人らについて、警戒区域の指定前に当該親族の遺体が発見されたものの、同じく津波にさらわれた当該親族の両親の捜索が制限されたこと等により葬儀の実施が遅れたことに対する、精神的損害の賠償が認められた事例。(各40万円)(1061)


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和解事例1671から1675

2020年09月17日 | 原子力損害

原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)が公開した和解事例1671から1675までを紹介いたします。

1671=居住制限区域(浪江町)の精神的損害の増額等に関するもの
1672=栃木県の事業者の検査費用・逸失利益に関するもの
1673=居住制限区域(浪江町)所在の不動産の住居確保損害に関するもの
1674=旧緊急時避難準備区域(南相馬市原町区)の建物の修繕費用に関するもの
1675=避難指示解除準備区域(浪江町)の就労不能損害・精神的損害の増額等に関するもの

和解事例(1671)
居住制限区域(浪江町)から避難した申立人ら(父母及び子)について、申立人母子の平成23年3月分から申立人子が小学校に入学する前月である平成29年3月分までの日常生活阻害慰謝料(増額分)として、申立人母が当時乳幼児であった申立人子の世話をしながらの避難であったこと等を考慮して223万円(平成23年3月分及び同年4月分は避難所生活のため離乳食の入手が困難であったこと及び泣き声等のため周囲の避難者に気を使うことを余儀なくされたこと等の事情を考慮し月額5万円。同年5月分以降は月額3万円)が、申立人父の平成23年5月分から平成24年3月分までの日常生活阻害慰謝料(増額分)として、避難により申立人母子と別離が生じたことを考慮して27万円(月額3万円とし、原発事故がなく
とも別離が生じていたであろう期間があることを踏まえ9か月分とする。)がそれぞれ賠償された事例。

和解事例(1672)
栃木県内においてきのこ菌床栽培用のおが粉を生産・販売している申立人について、販売先から放射能検査結果の提出を求められていたことや栃木県の放射能対策作業マニュアルにおいてもおが粉の購入時における汚染状況の確認が求められていること等を考慮し、平成31年3月までに実施した製品検査費用(測定費用、送料)及び原木の高圧洗浄作業に要した費用(人件費増加分、水道料増加分、フォークリフトのリース料。ただし、リース料の支払時期は平成23年5月から平成29年5月までのもの。)のほか、平成30年4月から平成31年3月までの逸失利益について原発事故の影響割合を2割として賠償された事例。

和解事例(1673)
申立人祖父と申立人父が共有する居住制限区域(浪江町)所在の不動産に係る住居確保損害について、東京電力の直接請求手続で支払われた不動産の財物賠償及び住居確保に係る費用の一部のほかに、原発事故による避難後に申立人祖父及び亡祖母が入居した老人ホームの平成25年12月分から令和元年10月分までの入居等費用が賠償された事例。

和解事例(1674)
旧緊急時避難準備区域(南相馬市原町区)に居住していた申立人の自宅建物について、避難中の管理不能によりねずみの糞尿や雨漏りによる被害が生じるなどしたことから、同建物が特定避難勧奨地点のある行政区に存すること等をも踏まえ、平成27年5月頃及び平成29年9月頃に実施した修繕工事に係る費用の2割(ただし、既払金30万円を除く。)が賠償された事例。

和解事例(1675)
避難指示解除準備区域(浪江町)から避難した申立人ら(母子)について、1.申立人母が高次脳機能障害を有する夫の介護のため再就職をすることができなかったこと等を考慮し、申立人母の平成27年3月分から平成29年2月分までの減収分(原発事故の影響割合として平成27年3月分から平成28年2月分までは5割、同年3月分から平成29年2月分までは3割を乗じた額)が、2.申立人らが、上記夫の介護を行ったこと及び申立人子は乳幼児の世話をしながらの避難でもあったことを考慮し、申立人母については平成23年3月分から平成30年3月分まで既払金(月額1万円)とは別に追加して月額2万円が、申立人子については平成23年3月分から平成27年11月分まで月額3万円が、それぞれ賠償された事例。


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和解事例1666から和解事例1670

2020年09月15日 | 原子力損害

原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)が公開した和解事例1666から和解事例1670までを紹介いたします。

1666=旧緊急時避難準備区域(南相馬市原町区)の検査費用に関するもの
1667=岩手県の営業者の除染費用に関するもの
1668=栃木県の会社の腐葉土等廃棄費用に関するもの
1669=会社の営業賠償に関するもの
1670=自主的避難等対象区域の精神的損害の増額等に関するもの

和解事例(1666)
旧緊急時避難準備区域(南相馬市原町区)において主に菌床シイタケ栽培業者向けのおが粉の製造販売業等を営む申立人について、原発事故の影響によりおが粉の安全性を証明するための放射線検査の実施を余儀なくされたとして、平成29年7月から平成31年3月までに支出した同検査費用及び同検査実施のためのおが粉運搬費用の全額が賠償された事例。

和解事例(1667)
岩手県において陶芸用の薪を加工、販売する申立会社が実施した、樹皮を剥ぐ方法による薪の除染費用について、作業の必要性や資料の提出状況等を考慮し、平成30年8月分から令和元年7月分までの除染に要した費用の概ね3分の1に当たる額が賠償された事例。

和解事例(1668)
栃木県内において腐葉土等の生産及び販売等を行うことを業としていた申立会社が、平成23年8月に申立会社が保管中であった腐葉土等の一部から国の定める暫定許容値を超える放射性物質が検出されたことを受けて平成28年に実施した腐葉土等の廃棄処分に係る費用について、申立会社が負担した処分費用の約90%に相当する3500万円が賠償された事例

和解事例(1669)
平成22年秋に設立され、直接請求手続においては東京電力の平成27年6月17日付けプレスリリースに基づく賠償として、定額賠償の年額60万円の2倍分の賠償を受けた申立会社について、申立会社の代表者の経歴等に照らせば少なくとも融資を受けた金融機関への返済金程度の利益を上げることが可能であったとして、同返済金による額を基に算定した年間逸失利益の2倍分(直接請求手続における既払金120万円を除く。)が賠償された事例。

和解事例(1670)
自主的避難等対象区域から避難した申立人ら(父、母、子及び別世帯の祖父)について、避難費用、生活費増加費用等が賠償されたほか、脳梗塞により入院中であった申立外祖母の原発事故に伴う転院先の確保や介護等を担った申立人母につき、精神的損害(増額分)として4万円が賠償された事例。


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原発賠償就労不能損害の和解事例

2020年09月09日 | 原子力損害
 原発事故が起きたことにより平成23年3月に解雇等の事情で職をやめざるを得なくなり、高齢であるなどの理由でその後仕事につけなかった場合、就労不能損害が認められるかという問題があります。
 次のような原発ADRの和解事例があり、通常の終期以降も認めらている例があります。

1 居住制限区域・避難指示解除準備区域の場合。
 この区域では、就労不能損害の終期は平成27年2月末までとされていますが、それ以降定年退職予定月までの損害を認めたものとして次の和解事例があります。
【公表番号1217※2】 居住制限区域(浪江町)から避難した申立人夫婦の申立てのうち、避難により退職を余儀なくされた申立人夫の就労不能損害について、平成26年11月から避難先の配送業者にて梱包作業のパートとして再就職したものの、避難中に同申立人がうつ状態に陥ったことや、これにより勤務時間が制限されていること等の事情を考慮して、同月分から同申立人の事故前勤務先の定年退職予定月である平成28年6月分までについて、減収分が全額賠償された事例
【番号1288※1】 居住制限区域に居住し、経営状況の安定した企業で中高年になるまで就労していたが、原発事故後避難し、当該企業を平成24年4月に解雇された申立人について、定年までの就労可能性を認め、平成28年3月から同年8月までの減収分の5割の賠償が認められた事例

 退職金差額が生じた場合は、これも損害として認められます。
【公表番号836※1】 避難指示区域内で母親や妻と居住し、原発事故後、仕事の関係で福島県に残ったものの、平成24年3月に予定されていた定年退職前の、平成23年6月に自己都合退職をした申立人について、茨城県に避難した母親等との別離を余儀なくされていた間に、介護を要する母親の状態が悪化し、母親の介護を巡って家庭不和が生じたこと、母親の介護を行うために申立人が退職したこと等を考慮し、定年退職の場合の退職金との差額分の賠償が認められた事例
【公表番号1191※1】 避難指示解除準備区域(浪江町)の会社に勤務していたが、原発事故により同社が休業となり退職を余儀なくされた申立人らについて、申立人らの勤続期間が30年以上であることや、勤務先の幹部社員といえること等の事情を考慮し、
原発事故がなければ平成31年の定年まで勤務していた蓋然性が高いとして、早期退職
により支払われた退職金と定年退職の場合に支払われる退職金との差額の5割が損害として賠償された事例
【公表番号1272※1】 帰還困難区域内に居住し、同区域内の介護施設に次長として勤務していたが、原発事故によりいったん解雇された後、給与引下げの下で再雇用された申立人について、事故当時の勤務先の業種や昇給実績等から、勤務を継続していれば昇給したことの蓋然性を認め、平成23年4月から想定退職時期の前月である平成27年2月までの間の定期昇給額相当の賠償及び定年時に得べかりし退職金との差額相当額等が賠償された事例
【公表番号1288※2】 居住制限区域に居住し、経営状況の安定した企業で中高年になるまで就労していたが、原発事故後避難し、当該企業を平成24年4月に解雇された申立人について、定年までの就労可能性を認め、実際の退職により得られた退職金と定年時に得られるはずであった退職金の差額の5割の賠償が認められた事例

2 緊急時避難準備区域の場合
 この区域では、就労不能損害の終期は平成24年12月末までとされていますが、それ以降定年退職予定月までの損害を認めたものとして次の和解事例があります。
【公表番号462※1】 緊急時避難準備区域内(南相馬市原町区)に居住しており、避難のために同区域内の職場を退職せざるを得なかった申立人について、就労不能損害の賠償終期を平成24年12月末とする東京電力の主張を排斥し、平成25年1月から定年退職の予定時期であった同3月末までの就労不能損害184万2984円の賠償が認められた事例
【公表番号897※1】 緊急時避難準備区域(南相馬市原町区)の勤務先が原発事故のため経営難に陥り、人員整理の対象となって退職を余儀なくされた50歳台後半の申立人について、勤務期間が長く、原発事故がなければ定年まで就労継続の蓋然性があったこと、申立人の年齢からして再就職が困難であること等を考慮し、退職の4年後である平成28年7月末までの就労不能損害が賠償された事例

 この区域でも退職金差額が認められた和解事例があります。
【公表番号1378※1】 緊急時避難準備区域(南相馬市原町区)に居住し、避難指示区域内の小売店に勤務していた申立人(原発事故当時51歳)について、原発事故に伴う勤務先店舗の閉店により解雇され、定年退職の場合に比して勤続年数が減少したことに伴い、退職金の額も減少したとして、原発事故の影響割合を2割として退職金差額分が賠償された事例

3 自主的避難等対象区域
 自主的避難等対象区域の和解事例としては次のものがあります。
【公表番号759※1】 自主的避難等対象区域(福島県浜通り地方)の勤務先で就労していた原発事故時50歳台の申立人が、原発事故に起因する人員整理で定年前に退職
せざるを得なくなったとして、就労不能損害の賠償を申し立てたのに対し、和解案提
示の直近月である平成25年9月までの就労不能損害が賠償された事例
【公表番号1113※1】 自主的避難等対象区域(田村市)に居住していたが、原発事故の影響により勤務先工場が閉鎖されたため、勤務先から解雇された申立人について、これまでの勤務状況や勤務先における定年等を考慮して、申立人の定年退職予定時期であった平成27年5月分までの就労不能損害の賠償が認められた事例
【公表番号1186※1】 自主的避難等対象区域(いわき市)に居住し、同市内の事業所に勤務していたが、原発事故による事業所閉鎖に伴い解雇され、避難先で再就職
た申立人(原発事故時60歳台前半)について、元の勤務先において、当初の雇用契約書上は有期雇用とされていたものの期間満了後も継続して雇用されていたこと等の事情を考慮し、就労不能損害として、平成26年3月から申立人の元の勤務先の定年時期である平成27年10月までの減収分(原発事故の影響割合9割)が賠償された事例

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和解事例1661から和解事例1665

2020年09月04日 | 原子力損害
原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)が公開した和解事例1661から和解事例1665までを紹介いたします。

1661=避難指示解除準備区域(南相馬市小高区)のペットを預けたことにかかる謝礼に関するもの
1662=避難指示解除準備区域(南相馬市小高区)の就労不能損害に関するもの
1663=居住制限区域(浪江町)の日常生活阻害慰謝料(増額分)に関するもの
1664=避難指示解除準備区域(南相馬市小高区)からの単身赴任者の日常生活阻害慰謝料に関するもの
1665=県南地域(白河市)の営業損害に関するもの

和解事例(1661)
避難指示解除準備区域(南相馬市小高区)において本件事故前から飼っていた犬を、避難先では飼うことができなかったため平成23年8月から平成30年1月まで東京の親族に預けて謝礼を支払っていた申立人について、平成23年8月分から平成26年7月分まで月額3万円、同年8月分から平成29年7月分まで月額1万5000円の合計162万円が賠償された事例。

和解事例(1662)
避難指示解除準備区域(南相馬市小高区)に居住し、同区域(楢葉町)で勤務していた申立人について、原発事故後、勤務先の移転に伴い県外へ避難したが、勤務先が県内には戻らないことが決定したため平成25年6月に同勤務先を退職し、同年11月に再就職したことを考慮し、同年8月から平成28年12月までの就労不能損害(事故前収入との差額に、原発事故の影響割合として平成25年8月から同年12月までは10割、平成26年は8割、平成27年は5割、平成28年は3割を乗じた額)が賠償された事例。

和解事例(1663)
 居住制限区域(浪江町)から避難した申立人母の平成23年3月分から平成30年3月分までの日常生活阻害慰謝料(増額分)について、妊娠中であり、また、後には乳幼児の世話をしながらの避難であったこと等を考慮して、月額3万円(ただし、平成23年3月分から同年6月分までについては、家族別離が生じていたことをも併せて考慮して、月額6万円又は7万2000円)が、申立人父の平成23年3月分から同年6月分までの日常生活阻害慰謝料(増額分)について、家族別離が生じていたことを考慮して、月額3万円又は3万6000円が、それぞれ賠償された事例。

和解事例(1664)
避難指示解除準備区域(南相馬市小高区)内において出生以降、一時期を除いて生活をし、同区内に自宅を有していた申立人に対し、原発事故当時は妻子を自宅に残して避難指示等対象区域外に単身赴任をしていたものの、毎週末及び長期休暇等には上記自宅で生活をし、また、同自宅に家財を保管していたことを考慮し、平成23年3月分から平成29年6月分まで月額3万円の日常生活阻害慰謝料及び40万5000円の財物賠償(家財)が認められた事例

和解事例(1665)
県南地域(白河市)においてしいたけ栽培業等を営む申立人のしいたけに係る平成30年分の営業損害(逸失利益)について、ほだ場に置いていたほだ木が放射性物質に汚染され、その廃棄をすることが困難であって、また、他にほだ場となるべき土地を有していないことから、依然として栽培を再開することができなかったとして、申立人の米栽培事業が、原発事故後に増収となっているものの、米栽培としいたけ栽培の繁忙期は異なること等を考慮し、原発事故の影響割合を9割として賠償

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千葉弁護士会(当時)が軍事裁判関係で提出した弁護士名簿

2020年09月03日 | 歴史を振り返る
 BC級戦犯裁判関係の記載が何かないか千葉県弁護士会史(千葉県弁護士会会史編纂委員会編;1995年)を見てみましたら、当時の千葉弁護士会会長名義で弁護士名簿が提出されたとの記載がありました。弁護士事務所の住所の後に弁護士の氏名が書かれたものですが、以下では弁護士事務所の住所は市の名前までは記載し、それ以降は略します。

昭和21年5月29日付「軍事裁判につき提出」 千葉弁護士会会長石井直作

木更津市 一之瀬房之助
千葉市  石井直作
千葉市  三枝重太郎
千葉市  小川哲二郎
千葉市  羽生長七郎
千葉市  中村周治
千葉市  田中丑蔵
千葉市  長戸呂政司
千葉市  佐久間和
千葉市  村井右馬之丞
千葉市  牛島定
千葉市  松本栄一
 
 本書では、この弁護士名簿は「占領部からの要請と思われる」「この名簿に記載された会員が実際に事件を担当したかどうかは明らかではない」とのコメントが付されているのみであり、この史料からは千葉弁護士会(当時)の弁護士が軍事裁判にどのように関わったのかは不明です。

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李鶴来「韓国人元BC級戦犯の訴え」にみる日本人弁護士

2020年09月02日 | 歴史を振り返る
 以前、横浜弁護士会「法廷の星条旗〜BC級戦犯横浜裁判の記録」について記事を書きました(過去記事)が、それ以降、BC級戦犯でも日本人の弁護士が弁護人としてついていたようだが、どのような弁護士が一体どういう弁護活動をしていたのか、ということが気にかかっていました。

 気にかかっているだけでちっとも前に進めなかったので、わかるところから情報を集めて見ることにしました。

それで手にとったのが、李鶴来「韓国人元BC級戦犯の訴え」(梨の木舎)です。
内容を要約すると以下のとおりです。

・李鶴来は朝鮮人軍属として、戦犯裁判を経験した。
・裁判が行われた地=シンガポール。
・チャンギー刑務所にて拘束される。
・弁護士は、日本から来た国選弁護人で杉松富士雄氏であった。
・証人として岡田曹長を申請したのだが、杉松弁護士は、「岡田という人はいない」という返事であり、本当に岡田曹長を探してくれたのかどうかと思った。
・そこで李氏は仕方なく石井大佐を証人として申請し、石井大佐との打ち合わせの面会を依頼したが、杉松弁護士は自分だけ会って、李氏にはその機会が与えられなかった。
・岡田曹長の証人申請もできず、石井大佐との打ち合わせもできず、絶望的な気持ちになった。
・杉松弁護士に捕虜収容所の組織と命令系統を説明しようとしても、事件に直接関係内からと話を遮られた。
・私が「人員」といったつもりでも、弁護士は、「賃金」と聞いたのか、「君の日本語は非常に下手だ」と不機嫌な表情をしていた。
・杉松弁護士には、民族的な偏見や軍隊の階級による先入観があるように感じられ、不信感は膨れ上がっていった。
・石井大佐が証人として出廷してくれたことには感謝しているが、証言が自分と食い違い、石井大佐の証言では自分が有罪となってしまうので、検事の弁論内容はよくわからないまま終わってしまった(逐一の通訳もなかった)。
・杉松弁護士は、被告は最末端の軍属で権限はなかった、重刑を科すべきではないと情状酌量を求める弁論を行った。
・判決は死刑判決であったが、その後減刑となり20年の刑となった。
・減刑の理由は後で知ったのであるが、杉松弁護士も弁護人として判決破棄を求める嘆願書を判決の10日後には提出してくれていた。このことは内海愛子先生の「キムはなぜ裁かれたか」に書かれている。

 李氏は杉松富士雄弁護士には良い感情を抱いていなかったようですが、杉松弁護士は職責を果たしていたようです。
 杉松弁護士の説明不足は否めないように思います。
 実際、どの程度説明していたかはわかりませんが、李氏には説明不足に映ったのでしょう。戦後75年を経た現代の刑事弁護のレベルからすれば、被告人への説明不足は弁護活動しては失敗となりますが、当時はこの程度の説明不足は気にされなかったのでしょうか。

なお、戦犯の生活には教誨師が重要になるのですが、李氏の教誨師は田中本隆(のち田中日淳)という名のお坊さんで、東京池上本門寺の貫主も務められた僧とのことです。

追記
李鶴来氏は、本年(2021年)3月21日にお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りします。


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千葉県の自由民権運動

2020年09月01日 | 歴史を振り返る
 過去記事では、吉野朝吉が自由民権運動に関与していたことをとりあげました。そこでは”「総房共立新聞」からみる千葉県の自由民権運動と教育”(任鉄華)という論文を引用元としたのですが、同論文は千葉の自由民権運動の特徴についても書いています。

・「千葉の民権結社の組織化は、1879年3月長柄郡茂原駅の海鴎社を皮切りに、1881年頃までに50にも及ぶ民権結社が各地で結成されている。」
⇐夷隅の以文会の結成時期については、1879年2月説と1880年11月説とあるようですが、前掲論文では後者を採用しているようです。

・「これらの結社は、新聞雑誌の縦覧書や解話会、演説討論会の開催などを通して、西欧の新しい知識や政治思想の学習啓蒙活動を展開した。そして、県会議員・区戸長、学区取締、県庁の役人・教員など、多くの地方指導者層がこれらの民権結社の発起人、役人となり、民権運動の地域リーダーとして学習啓蒙活動を指導したのである。
 それらは当初には学習運動が多かったが、やがて国会開設請願運動へと発展していくことになる。」
⇐自由民権運動というと、国会開設運動とイコールというイメージが強かったのですが、当初は学習運動に力点が置かれていたという指摘です。当初から政治運動ありきではなく、西欧の新しい知識や政治思想の学習啓蒙活動の吸収という側面が強かったのでしょう。吉野朝吉が1881年10月以降、夷隅郡小沢村の小沢小学校で新聞解話会を行ったということ(総房共立新聞の記事)も、この点に関するものといえます。

・「教員たちが自由民権運動に参加するということは当時、全国的に見られた現象であるが、千葉県はそれの多い地域であった。各地に存在した民権結社のメンバーの中で、経歴が判明するのは215人であるが、そのうち教員は26人を数え、県会議員の38人についで、第二位であったという。」
⇐自由民権運動=政治運動と捉えると、教員の多さは不思議見えますが、自由民権運動の当初が学習啓蒙運動であったとすれば、不思議ではなくなります。教員として参加していたものは、自由民権運動が国会開設請願運動という政治活動に変化していき、また自由民権運動の激化についていけなかったものも多かったのではないか、そんな推測が成り立つような気がしました。


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