寛政12年8月21日(1800年)
朝から晴れる、霜降る、蒙気多し、夜薄曇り。朝六つ半後出立。ルベシベツにて中食。行路は山多く、海岸少なし。五里廿四町でサルルに七つころ着。本番屋に止宿。往路と帰路では追分から道を異にし、海岸からサルルに入ったので、難所となった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はビロウ(広尾町)〜サルル(猿留;えりも町目黒)。難所。昭和初期に「黄金道路」と呼ばれる道路が作られるまでは難を極めていたルートです。
黄金道路について。黄金道路のいわれは、「まるで黄金を敷き詰められるほど、建設に莫大な費用が掛かった道路だ」とのこと。
寛政12年8月22日(1800年)
朝曇天、後中晴れ、夜曇天。朝六つ半サルルを出立し、アツヒで中食。道のり六里廿七町で、七つ半ホロイヅミに着。仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はサルル(猿留;えりも町目黒)〜ホロイヅミ(幌泉;えりも町)。道のり六里廿七町(約27キロ)。猿留山道(現在は国指定史跡)を通ったはずです。往路では「山坂多く難所」との所感あるも、復路では記載なし。淡々とした記事です。
寛政12年8月23日(1800年)
朝曇天、暮に至って微雨あり。朝六つ半に出立。海岸三里ホロマンベツで中食。そこから新開山道の難所三里半。この間大小の峰を越えること六、七回。海辺へ出、半里ほど歩き、暮六つ前にシヤマニ着。道のりは七里。夜は雨。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はホロイヅミ(幌泉;えりも町)〜シヤマニ(様似町)。七里(約28キロ)。「新開山道の難所三里半。この間大小の峰を越えること六、七回。」とあり、今回の測量旅行中最大の難所。
往路の日記では、今回の測量旅行中最大ののボリュームで描写されていました。
往路の難所の様子(7月2日条)
寛政12年8月24日(1800年)
朝から曇り、九つ頃より晴れ、後また曇る。夜も四つ頃まで薄曇り。夜深晴、測量(天体観測)(シヤマニ逗留)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
シヤマニに逗留。逗留の理由は書いていません。昨日の難路の疲れを癒すためでしょうか。夜の天体観測は、土地の緯度を知り、地上測量による誤差を補正するためのものです。忠敬は「測量」と書いていますが、現代語訳では(天体観測)と補いました。
寛政12年8月25日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。朝五つ前にシヤマニを出立。道のり三里で午の時にムクチに着。中食はなし。会所脇の新宅に止宿。ミツイシの詰合宮本源次郎殿が御出役であった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はシヤマニ(様似;様似町)〜ムクチ(浦河町)。「会所脇の新宅」に宿泊。ミツイシの詰合の役人(宮本源次郎)が会所に泊まるため、チーム伊能はその脇の新宅の方に泊まらざるをえなかったようです。
寛政12年8月26日(1800年)
朝から暮に至るまで晴天。朝五つ前ムクチ出立。浦川にて中食。七つ前にミツイシに着。道のり五里。会所に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はムクチ(浦河町)〜ミツイシ(三石;新ひだか町)。往路のミツイシでは仮屋に止宿していましたが(6月26日条)、復路では「会所に止宿」と待遇が良くなりました。ミツイシ詰合の宮本源次郎殿がムクチに出張中で(8月25日条)、会所が空いていたからでしょう。
寛政12年8月27日(1800年)
朝から夜に至るまで快晴。朝六つ半前ミツイシを出立し、ウセナイで中食。七つ前ニイカップに着。道のり六里半。粗建ての新宅で、造作や壁がないところに止宿。夜大いに寒し。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はミツイシ(三石;新ひだか町)〜ニイカツプ(新冠町)、道のりは六里半(約26キロ)。造作や壁がないところに宿泊で、夜はひどい寒さ。往路では快適だったのに。〈「会所に止宿。詰合から親切に応対いただいた。」(6月24日条)。〉
寛政12年8月28日(1800年)
朝から夜に至るまで快晴。朝五つ前に出立し、アツベシで中食。七つ前サルモンベツに着。道のり六里。この夜、御詰合の比企市郎右衛門殿から御酒をいただく。(佐原の)領主津田公からご依頼があったとのご挨拶があった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はニイカツプ(新冠;新冠町)〜サルモンベツ(門別;日高町)。道のり六里(約24キロ)。詰合は比企殿で往路同じ。今回は酒食の饗応あり(往路では「仮家に止宿」)。態度の変化は、佐原の領主津田公の忠敬推しがあったからです。上からの押しに弱い役人の世界というのは、200年前も同じです。
佐原の領主津田公(津田山城守)について。このとき西丸小姓組番頭を務めています。西丸小姓組は、江戸幕府の徳川将軍直属の親衛隊で、小姓組のひとつ。任務は将軍の世継ぎの住居で、また禅譲後の住居である江戸城の西の丸を守ること。出世コースの足がかりとなるポスト(田沼意次は、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢されたことで出世した)。
寛政12年8月29日(1800年)
朝から四つ半ころまで白雲、後晴れ、夜は快晴。朝六つ半前に出立。四里十二町行きムカハで中食。七つ後ユウブツに着。八里三十町。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はサルモンベツ(門別;日高町)〜ユウブツ(勇払;苫小牧市)です。道のりは八里三十町(35キロ強)。往路のユウブツでは、医師の月輪安濟と大司馬伊織と面会したことや、石狩川の話しを記録していたのですが(6月21日条)、復路はユウブツでの記事は全くありません。帰りを急いでいるかのような忠敬の日記です。 https://maps.app.goo.gl/yboUBQMbk9zm2w7h8
8月30日
#伊能忠敬 #測量日記 はお休みです。
寛政12年8月は小の月であり、30日はありませんでした。
8月31日
旧暦31日は存在しないため、 #伊能忠敬 #測量日記 はお休みです。
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
文政10年8月21日(1827年)晴
夜五つ前(午後8時)に与兵衛が(水戸から)帰宅。どうも与兵衛の仕事ぶりはよろしくない。明日朝早く江戸に立たせる。そのための書状をこの夜認めた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛は江戸出張から一昨日(19日)に土浦に戻ってきましたが、三中はその仕事ぶりが気に入りません。昨日(20日)早朝には水戸への日帰り出張を命じました。その出張から今日与兵衛は戻ってきましたが、また明日には江戸に出張。しかも「朝早く立たせる」と言明しています。
文政10年8月22日(1827年)
寅の刻五刻(午前5時頃)に与兵衛、江戸へ出立す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員与兵衛の受難は続きます。昨日(21日)に水戸から帰ってきたのに、本日休む間もなく午前5時頃には江戸へ。現代であれば、これほどきつい仕事のさせ方をしたら、法律違反ですし、ハラスメントといわれるでしょうが、文政の時代にはそんなものはありません。三中は真面目な男なのですが、それだけに一旦こうと思ったら、曲げないところがあり、部下にとっては働きにくかったでしょう。与兵衛がどこまでもつのか心配です。
文政10年8月23日(1827年)
昼時、阿見村大隠居(三中の親戚)来る。「村内の出入りのことで江戸へ行っていたが、帰村したのでこちらにも寄った。川口(三中の祖父)にも顔を出さなければ。江戸から呼出しがあったらまた行く。」等と慌ただしく話して帰ってしまった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の親戚の阿見村の大隠居がやってきました。「村内の出入り」というのは、出入筋(民事訴訟)のことでしょう。管轄の関係なのか江戸で民事裁判が行われているようです。当事者だけではなく、村の関係者も差添人として出頭しなければならなかったので、その関係で大隠居も江戸まで行っているのかもしれません。
文政10年8月24日(1827年)
奥州棚倉領堺村から一人の浪人が店にやってきた。
「村の平蔵という者は大酒呑みで、飲めば乱れて喧嘩口論し、人を傷つけたことも度々であった。しかし、土浦から酒を嫌ってやめる薬を買ってきた者がいて、それを平蔵に飲ませたところ、それ以降酒を呑まなくなり、酒を見れば吐くまでになってしまった。」
確かに、以前そのような薬を調合して持たせたことがある。その後どうなっただろうと思っていたが、今日このようなことが聞けたことは喜ばしいことである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代にも禁酒に効果のある薬があり、それを三中が調合したという記事ですが、実際に薬効があったのかにわかには信じられません。当時はそのように信じられていたのでしょうが…。
文政10年8月25日(1827年)
米四への債務の件で、これまで仲介者なども交えて協議をしてきたが、債務整理の方向性がようやく見えてきた。沈南蘋の三幅対は手放さざるを得ないようだ。この掛物は曾祖父から伝えられた家の重器であり、多くの文人墨客がこれを見に来た。しかし、このような重器は大夫以上の士人がもっているべきものであり、普通の民家がもつべきものではないのだろう。このような物を好まぬ子孫に残しても何の用にもならない。好む子孫に残しても驕を教えるだけである。ここで手放すのは致し方なのないことなのだろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
沈南蘋(しんなんびん)は中国清代の画家。日本にも2年間弱滞在し、円山応挙・伊藤若冲などに多大な影響を及ぼしています。三中は頭では分かっていますが、心情的には手放すのが惜しく、その言い訳を日記に書き記しているようです。
文政10年8月26日(1827年)
北条(現つくば市)の市村半右衛門殿(遠縁の親戚)が死去されたと聞く。なんとも悲しい。半右衛門殿は身上が衰えてしまい、3年前の四月から連絡が途絶えていた。2年前に父が亡くなったときにも何の連絡もなかった。酒毒で亡くなったと聞く。酒は慎むのが第一である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
まだ若い三中(26歳)ですが、酒の害については恐れています。酒を呑むのは安逸をむさぼっているからとも考えていたようで、別のところでは「(江戸の太平が)二百年続き人々は閑暇無事を楽しみ、その楽に淫して酒宴遊事にふけっている。酒で身を終わる者が幾百人いるであろうか。」とも慨嘆していました。
もっとも、三中自身は酒が大変お好きなようで、酒を飲みすぎていることも。今日の日記は酒好きゆえの自らへの戒めでしょうか。
文政10年8月27日(1827年)
日記の記載なし
#色川三中 #家事志
(編集より)本日、三中殿は日記をお書きになっておりません。どうやら御不快を覚えられたようです。明日の記事をお待ちください。
文政10年8月28日(1827年)
夜九つ(午前0時)過ぎに表戸を打ちたたく者あり。色川庄右衛門(おじ)の妻の病気が重いとのこと。早速参るべきであるが、少々体調を崩しており出かけられなかった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
電話もない三中の時代は、急を知らせるには夜中に表戸を叩くほかありません。義理のおばさんの危篤。本来はすぐにでも駆け付けるべきものですが、昨日来の体調不良の影響からか、すぐにおじさんのもとに駆け付けることができませんでした。
文政10年8月29日(1827年)
色川庄右衛門(おじ)の妻が七つ(午前4時)過ぎに死去したとの知らせ。おじのところに行くと、組合衆は、「今日葬式を出そう」という。当日に葬儀をするなど思いもよらず、金銭も持ち合わせがない。明日にするよう交渉したが、組合衆は、「そんなら勝手にしろ。四日でも五日でも延期したらよいではないか。全く気分が悪い。」と罵っている。聞き苦しいにもほどがある。なんとか都合をつけ本日七つ(午後4時)過ぎ出葬。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の義理のおばさんが亡くりました。おじさんの五人組の組仲間は、明日が晦日だからか、「今日葬儀を出そう」と無理難題をいいます。明日にしてほしいと三中が言っても、葬儀に協力しないことをちらつかせ、全く人情味がありません。昔も今もひどい人間はいるものです。
文政10年8月晦日(30日)(1827年)
亭午(正午)、谷田部の佐助(従業員)の請人が来て、以後給金を三両に増金していただきたいこと、金子二分を前借りしたいとの話しがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員からの賃金増額と給料前借りの話しがありました。本人からではなく、請人からです。請人は身元保証人なのですが、このような賃金の増額も本人にかわってやっていたようです。確かに、こういうのは本人からは言いにくいことなので、第三者が間に入った方がよいのかもしれません。
寛政12年8月11日(1800年)
朝曇天、霧あり、四つ頃より雨天。朝五つ頃ノコベリベツ出立。ヤブイニで中食。その後、雨で強風。船に乗るが、大風雨でずぶ濡れ。七つ頃アツケシへ着く。夜五つ後に雨やむ。道のりは七里という(岡が五里、海川が二里)。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はノコベリベツ〜アツケシ(厚岸町)。道のりは七里(約28キロ)。雨で強風の中、船に乗ったためずぶ濡れ。その後の陸路も雨の中。
当時の厚岸(アツケシ)の様子。
「寛政3年(1791年)に記された『東蝦夷道中記』には、厚岸場所の産品として、ラッコ・アザラシ・シカの皮、熊胆、ワシの羽、干さけ、魚油、干たら、にしん、塩カキ、塩くじらなどがあげられている。生産高およそ3千石とあり、近年になって昆布も生産されるようになったと記されている。」
寛政12年8月12日(1800年)
朝曇り、四つ前から晴天。先触れを出す。(平山)宗平をバラサンに登らせ、ヲアカン、メアカンを測量させる。(アツケシに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はアツケシ(厚岸町)に逗留。同所からエトモ(絵鞆;室蘭市)までの先触れが出されています。先触の内容は、馬二匹、人足三人を用立ててほしいというもの。この要請は往路と同様です。先触れは長いのでブログに書きました。
「(平山)宗平をバラサンに登らせ」とあり、厚岸にあるバラサン岬に若者を登らせています。眺望のあるところで測量させるためでしょう。道は今でも荒れているということなので、当時はかなり大変だったのではないかと思います。国泰寺は文化元年(1804年)に設置されているので、忠敬が訪れたときはまだありません。
寛政12年8月13日(1800年)
朝から曇天。朝六つ半ころアツケシを出立。乗船し海を渡って、四つ半頃善宝地に着く。アツケシから海上三里で善法地である。そこから直ちに出立し、シヨンデキで中食。七つ半頃コンブムイに着。善法地からアツケシまでは五里。暮から雨、夜に入って大雨。本番屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はアツケシ(厚岸町)〜コンブムイ(昆布森;釧路町)。往路では善法地(ゼンホウジ)〜アツケシの船の手配がうまくいかず、善法地に逗留せざるをえませんでしたが、復路は船の手配も万全で一気にコンブムイまで来ました。海上三里+五里=八里(約32キロ)。
寛政12年8月14日(1800年)
朝曇り、五つ前出立するも小雨。四つ頃止んで曇天。干潮を利用して、海岸を通る。難所。新道も少し通る。四里の道のりである。八つ過ぎクスリに着。会所で一緒になった客と座敷で止宿。御詰合菊池宗内殿と面談した。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はコンブムイ(昆布森;釧路町)〜クスリ(釧路;釧路市)。四里(約16キロ)。滅多に愚痴らない忠敬が、往路では「遠い」と嘆いたルート。海岸を干潮時に通る必要あり(満潮時には通れない)。復路では「難所」とだけ記しています。
整備されたルートだと一日40キロを平気で歩く忠敬が、現代のルートで15キロのところを「遠い」というのですから、難所のほどがしれます。
寛政12年8月15日(1800年)
朝曇天。五つ頃出立。四つ頃から九つ頃まで少晴れ。八つ頃から霧が深く、暮にかけて甚だしい。夜大曇り。七つ半頃(シラヌカに)着。クスリからシラヌカまで七里。会所に止宿。今日の行路は海岸ばかりであった。中食はヲタノシケにてとる。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はクスリ(釧路;釧路市)〜シラヌカ(白糠町)。七里(約28キロ)。ひたすら海岸を通るルートであったようです。往路のシラヌカでは、八王子千人同心の吉田元治と天文談議をしたことが記載されていたのですが、復路では特記事項がありません。 https://maps.app.goo.gl/xhvzWkDwWNf62T4o9
寛政12年7月22日(1800年)②
— 断感ろーれんす (@tk23956) July 21, 2022
原氏の手付同心である吉田元治殿が旅宅へ来て、天文のことを談じ合った。ご自身でつくられた天球をお持ちになった。春海子の方図及び円図を用いており、細工が大いに良い。#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年8月16日(1800年)
朝五つ前少晴れ、五つ後より霧がでて深暮に至る。朝五つ出立。海岸三里廿四町を行き、九つ半後シヤクベツに着。仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はシラヌカ(白糠町)〜シヤクベツ(尺別;釧路市音別町尺別)。三里廿四町(15キロ弱)。「海岸を行き」とあり、ひたすら海岸を歩くルート。
寛政12年8月17日(1800年)
前夜より風雨が続いており、(シヤクベツに)逗留。雨は午前中には止み、夜は晴れ。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はシヤクベツ(現・釧路市音別町尺別)に逗留。シヤクベツから先は川が合流している地点を通らねばならず、増水の危険もあります。雨の中を行くのは危険との判断でしょう。
寛政12年8月18日(1800年)
朝から中晴れ、夜も同じ。朝六つ半に出立。道のり七里でシユツベツ・キナウシ両川が合している。水量が多く、本道は通行できない。道なき山を登って難所を通り、至峻の山を下りて海岸へ出る。アツナイの岬では岩に登る。平地に下りたところで中食。そこからヲコツペの難所を越え、海岸を歩行し、七つ時にヲホツナイに着。仮屋止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はシヤクベツ(尺別;釧路市音別町尺別)〜ヲホツナイ(豊頃町大津)。グーグルマップ上では38キロ。シヤクベツから七里(28キロ)の川の合流地点から本道通れず。昨日の雨で増水したため。迂回し、道なき山を登り、至峻の山を下ります。さらにヲコツペの難所、海岸の歩行。いやはや大変です。
本日の止宿地ヲホツナイ(豊頃町大津)ですが、河鍋暁斎の「絵馬カムイノミの図」があります。河鍋暁斎(1831~1889)は、幕末から明治初期にかけて江戸の日本画壇で活躍した人物。絵馬は、アイヌの人々の生活風俗を主題として描いており、当時十勝場所の漁場持を努めていた福島屋杉浦嘉七の配下の船頭によって、明治5年(1872)に大津稲荷神社に奉納されたものと推測されています。
寛政12年8月19日(1800年)
霜大いに降り、地は凍って寒し。天気は晴れだが、蒙気多し。夜もまた曇晴れ。朝六つ半に出立。ユウトウで中食。海岸六里十一町行き、七つ頃トウブイに着。仮家に止宿。冷気のため蚊が一切いない。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はヲホツナイ(豊頃町大津)〜トウブイ(大樹町)。「地は凍って寒し」と冬のような気候です。ニシベツからUターンする決断が早かったのは正しかったようです。
「昼夜に蚊が甚だ多く難儀している。昼でも蚊帳がないとしのぎ難い。」(7月14日条)と書いていたのに、わずか一ヶ月で「冷気のため蚊が一切いない」までに。湿気は多いのですが、地が凍るほどですから、蚊もいなくなってしまいました。
寛政12年8月20日(1800年)
大霜で道路は悉く凍る。水たまりも凍って、氷の厚さは一、二分ほどある。朝から中晴れ、蒙気多く夜も同じ。朝六つ半頃出立。モンベツで中食。海岸を七里〇六町行き、七つ半頃ビロウに着。仮家に止宿。ここは鰤多し。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はトウブイ(当縁;大樹町)〜ビロウ(広尾町)。道路も水たまりも凍る寒さ。「ビロウは鰤多し」。これまで日記では産品・食材へ言及ほとんどなく、このような記載は珍しい。食べ物にさほど興味ないのでしょう。
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
文政10年8月11日(1827年)雨
・(仕事で)与兵衛を江戸に遣わす。
・店の従業員だった寺台の太七が亡くなったことを思い出し、先日大枝清兵衛から聞いたことも含めて書き記す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・与兵衛は三中の行商(先月)にも同行。行商の途中で一人で別のところに行かされていましたから、三中から期待をかけられている存在のようです。8月上旬には水戸に出張に行かされ(8日に帰宅)、中二日しかも雨の中を江戸へ出張させるとは、なかなか厳しい経営者です。
・太七が亡くなったことについては、8月2日に大枝清兵衛(太七のいとこ)が土浦に来た時に聞いており、本日の日記で太七追悼の記を書いています。
文政10年8月12日(1827年)雨
七兵衛を下総へ遣わす。下総にいる与市を呼び戻すための書状と贈り物を持っていかせた。昨日出立予定であったが、昨日は雨天で、七兵衛が病後でもあったことから、本日出立とした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商に成功したため、薬種業の売り上げは上向きになりそうです。ここで従業員をつかって、着実に経営状況をよくしたいところですが、いかんせん従業員の駒が揃いません。今は、与兵衛を酷使していますが、このペースで使っていたら、与兵衛もダウンしてしまうでしょう。与市を呼び戻すことが課題となっており、そのための使者として七兵衛を与市の居住地(千葉県匝瑳市)に遣わしました。
文政10年8月13日(1827年)曇
町御奉行所からのお触れ。
《松平陸奥守様の養母信恭院様御死につき、公方様、内府様、昨十日から定式の御忌服をなされたので、普請は止めるに及ばないが、鳴物は本日から十三日まで停止せよ。
亥八月十一日》
#色川三中 #家事志
(コメント)
信恭院は、紀州藩主徳川治宝(はるとみ)の娘で、8月8日没(満32歳)。公方様(時の将軍徳川家斉)、内府様(将軍後継者徳川家慶)が忌服しているのは、御三家当主の子が亡くなったからでしょう。普請は停止しなくてよいが、鳴物は三日停止のお触れです。
文政10年8月14日(1827年)雨
辰の初刻に、本町いせや佐兵衛殿から琴殿(三中の遠い親戚)死去との知らせあり。佐兵衛方に行き悔やみを述べた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
誰それが亡くなった、悔やみを述べた等という記事は頻回に登場します。三中の生きていた時代には、親戚か否か、付き合いの深浅により、どこまで礼を尽くすかが変わってきますので、後に続くもののために日記を書き綴っているのでしょう。
文政10年8月15日(1827年)風雨終日
いせやの不幸の葬礼に、はかまで出るか近隣とも相談したところ、はかまを付けて出ることとした。暴風の中、申の下刻(午後5時)葬礼に参列。はかまをつけてでるが、暴風雨であり、全員衣服が水に入ったのと同様となった。衣服は悉く水となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「いせやの不幸」は8月14日の記事にある琴殿(三中の遠い親戚)の死去のこと。葬礼に袴をつけてでたのに暴風雨に見舞われ、ずぶぬれの葬儀となってしまいました。
文政10年8月14日(1827年)雨
— 断感ろーれんす (@tk23956) August 13, 2022
辰の初刻に、本町いせや佐兵衛殿から琴殿(三中の遠い親戚)死去との知らせあり。佐兵衛方に行き悔やみを述べた。#色川三中 #家事志
文政10年8月16日(1827年)
細井氏から返事が届いた。
〈お便りにあったように秋風が吹くにつけても、貴君のことをこちらで思い出さないときはありません。萩の葉の起き伏しにもお心を悩まされているとのこと、嬉しくも奥ゆかしくもあることです。〉〈店での御病人が多いとのこと、心苦しいこともあるでしょうが、生業が忙しいとの証左でもあるのでしょう。私の方も、貴君の家に泊めてもらってこの方俗事にばかりうち暮らし、物のあわれというものも深く知らないで暮らしております。〉
〈本日は最中の月(旧暦8月15日)ですが、残念ながら貴君のところにいくことができません。親しくお話ししたいものですが、本日は御返しのためにのみ筆をとりました。
雨のふりけるに
おもひわふ秋の最中の月よりも君かみかげのみまくほしさに〉
(コメント)
風流仲間の細井玄庵からの便りが届きました。人からの便りなので、手元に残っているはずですが、日記に書き記すとはよほど心に沁みた便りだったのでしょう。
細井氏とは4月以来会ってはおらず、会いたいとの気持ちもつのってのことでしょうか。
1827年4月25日(文政10年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) April 24, 2022
・細井玄庵(風流仲間)が来て、たっての頼みということで一晩泊めた。
・隣りのおもと殿(隣主人横田権右衛門の妻)が疱瘡(天然痘)に罹った。菓子を整えて見舞いに行く。#色川三中#家事志
文政10年8月17日(1827年)寒露 曇り、北風はげし
夕方、七兵衛が下総より帰ってきて、与市の書状をもってきた。雨嵐で14日と15日の両日、与市方で滞留したとのこと。(七兵衛)六日間泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、与市を再び土浦に呼び寄せたいと考えています。従業員の七兵衛は8月12日土浦を出発、与市(今の千葉県匝瑳市在)のもとへ書状などを持って行きましたが、当地で雨嵐に見舞われ、滞留を余儀なくされました。なお、寒露は10月上旬頃(本年は10月8日)ですので、約1か月半旧暦とずれています。
文政10年8月18日(1827年)快晴
牛渡村の新兵衛から話があった小供が、今日近所の者に連れてこられた。母は先年亡くなっており、父は身持ちがよくないのだという。年は14歳。名は豊次郎というが、「豊」の字は差し支えるので、「久助」と呼ぶことにした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
身寄りのない子が色川家の小供としてやってきました。数え年14歳。今の中学校1年でしょうか。家族に恵まれず、他家で働くしかない様子。「豊」の字が差し支えというのは、おそらく奉公人としてはふさわしくないという意味かと。「久助」という呼び名となりました。
文政10年8月19日(1827年)
午の刻(正午)に与兵衛が江戸から戻ってきた。九日泊。江戸での仕事には不手際があり、再度江戸に遣わさなければならない。そう思案していたところへ、水戸に遣わしていた件についても不手際が見つかった。まずは、水戸に遣わし、戻ってきたらすぐに江戸に遣わす。大事な仕事を任せたのだが。この者に任せたのは間違いであったか。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の与兵衛に対して不満ぶちまけの記事。与兵衛は、行商の際に同行させており、ある程度信頼していただけに裏切られたと思ったのでしょう。でも、そんな考え方ではブラック経営者になっちゃいますよ。
文政10年8月20日(1827年)
・与兵衛は寅の刻(午前4時)に水戸に向けて出立した。
・巳の刻(午前10時)、小供の久助がいない。店の者に尋ねにいかせたが、尋ねあたらず。ついに帰らなかった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日江戸から戻ってきたばかりの与兵衛ですが、本日早朝に水戸出張にでかけていきました。ここまでやらせるとは、三中もブラック経営者の仲間入りです。
一昨日に来た小供の豊次郎改め久助ですが、嫌になってしまったのか店からいなくなってしまいました。来てから三日目です。昨日は三中も相当機嫌が悪かったはずですし、そういうことも含めて嫌になってしまったのでしょうか。
明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌6月7日-6月8日
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。
1874年6月7日(明治7年)その1
晴。午前8時ころ、代書人と共に裁判所に出頭。裁判所の御門脇に官員の詰所ができた。数日前規則が変わり、詰所に着頭帳へ性名を記載し、名前書を差し出す、詰所が交付する御門札がないと出入りができないことになった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月7日(明治7年)その2
出頭後、所要の手続きを経て腰掛へ控えていたところ、午後4時ころ、呼び込みがあった。聴訟に入ったが、「今日は被告の者がこないので、明日また出頭せよ。」と御掛様から仰せがあった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その1
晴。午前8時ころ、代書人と共に裁判所に出頭。午後2時ころ、原告被告とも呼び込みがあった。出頭したのは7名。私と田辺代書人。平野戸長。被告の清四郎、その代言の羽原利三郎。被告太九老の代言の吉崎久兵衛とその代書人の小倉文蔵である。一同、御掛様が待っている聴訟に入った。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その2
御掛様から平野戸長に「戸籍帳を持参致したであろうな。」とお尋ねがあり、戸長は戸籍帳を差し出した。御掛様はこれをお調べになり、保右衛門という記載と印があることを確認された。
御掛様から、「この印形は原告が証拠とする書面の印形と対照したのか」とお尋ねがあったので、私は、「太右衛門の実印に相違ございません。」と申しあげ、証文を差し出してご覧にいれた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その3
御掛様は「この印は、証文の印と同じ印に間違いないであろうな。」と被告や戸長の方に向かって仰せになった。平野戸長は、「保右衛門の印形に間違いございません。」と申し立てた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その4
御掛様は続いて、「保右衛門の実印はすなわち、太右衛門の実印ということで間違いあるまいな。」と仰られると、平野戸長は、「そのとおりでございます」と答えた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その5
御掛様は清四郎に向かって、「その方が清四郎本人であるか。」とお尋ねになった。
清四郎は、「本人でございます。」と答える。
「その方は父保右衛門の印形をなぜ所持致しておるのか。」と御掛様からお尋ねになる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その6
清四郎は、「保右衛門の代替わりに際しまして、保右衛門の印形が不要になりましたので、私が所持しておりました。一時の心の迷いで太右衛門の名を偽り、自宅にあった印形を用いてしまいました。このことにつき間違いございません。」と答えた。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その7
「保右衛門の印形はその方が今でも所持しておるのか」と御掛様がお尋ねになると、清四郎は、「自宅にございます。」と答えた。
これを聞いて、被告太九老の代言羽原利三郎が申立てる。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その8
羽原「これではっきりしました。すべては清四郎の心得違いの謀印でございます。太九老は無関係でございますので、我々の方は本日限りで御免蒙りたい。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その9
御掛様は羽原利三郎の申立てを受けて、「本件は断獄(刑事事件)へ回す必要があるな。断獄の吟味ということになれば、代言の権限ではないな。太九老本人と引き合わせることは必要とはなるがな。」という。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その10
御掛様「太右衛門の名前を偽り、謀判をしたことは間違いないな。」
清四郎「仰せのとおり間違いございません。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その11
御掛様は私の方に向き直って、「清四郎自信が謀判と申し立てておるゆえ、訴状は願下げし、断獄(刑事事件)の吟味とすべきであるな。」と仰せになった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年6月8日(明治7年)その12
訴状を取り下げてしまっては金銭の請求はできなくなってしまう。
私は、「太右衛門という者は弘化4年に亡くなり、その後太右衛門という者は誰もいなくなっていたと、被告太九老は申立てておりました。証文には『太右衛門保右衛門』と記載してあり、二名の名前を記載してあります。被告太九老が書いた可能性がありますのでお調べいただきたい。」と申し上げた。
1874年6月8日(明治7年)その13
すかさず被告太九老の羽原代言人が「被告太九老が太右衛門と書いて押印したことはない。これも清四郎が謀印をしたに違いない。」と反論する。
御掛様はもう時間も遅いと思われたのだろう、これには直接答えず次のように仰られた。
1874年6月8日(明治7年)その14
被告らに対しては、「今申したことは、銘々明日には始末書を提出せよ。平野戸長もだ。」といい、私には「原告の関係では明後日10日に出頭せよ。」と仰られた。以上で本日の調べは終わり、午後4時頃に宿へ帰った。
(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)
寛政12年8月朔日(1日)(1800年)
朝から晴天、午の刻に太陽の南中を測る。八つ後より曇る、夜は晴れ。御役所に御用状を出すついでに、江戸への書状を届けていただくようお願いする。同心の丹羽氏は本日もアツケシにおられた。(アツケシに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
チーム伊能が測量を行っているのは、前年に幕府が直轄とした東蝦夷地。この領域では宿駅制度が行われていますので、幕府公用であれば、前触・添触で人馬の供給を受けられる仕組みが整っています。書状の伝達もこの仕組みで届けられ、忠敬の書状も宿駅間をリレー式で運ばれて江戸に到達することになります。
寛政12年8月2日(1800年)
朝から曇天、夜から暁まで大風雨。五つ前出立。入海と川を二里渡り、そこからさらに二里行ってヤブイに着く。中食。そこから三里ノコベリベツに着。合わせて七里。ここはアツケシ持ちの番屋である。同心の関谷氏も同伴された。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、アツケシ(厚岸町)〜ノコベリベツ(浜中町)。日記では「合わせて七里」とあり約28キロ。ノコベリベツは浜中町円朱別としました。角川日本地名大辞典では「(近世)江戸期から見える地名。東蝦夷地アツケシ場所のうち、釧路地方東部、風蓮川支流ノコベリベツ川流域。」とあり、特定には至っていないのかもしれません。
寛政12年8月3日(1800年)
朝少晴れ、昼晴曇り。朝五つ前に出立、三里余り行き、ヲイナヲシにて中食。そこから三里程行き、八つ半頃アンネベツに着。夜晴天、測量(天体観測)。番屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、ノコベリベツ(浜中町)〜アンネベツ(浜中町姉別)。本日は「番屋」に泊まっています。番屋には、番人の詰所という意味と、ニシン・サケ漁などの漁夫の泊まる小屋の意味がありますが、ここでは後者の意味でしょうか。ノコベリベツも番屋であり(8月2日条)、この辺りはまだ建物が整備されなかったのかもしれません。
寛政12年8月4日(1800年)
朝から晴天、午の刻に太陽を測る。八つ後より曇る、夜は薄曇り。アンネベツはネモロの管轄である。ネモロより迎えの船を待つ。測器をしまうが、風の関係で船が来ない。(アンネベツに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はアンネベツに逗留。アンネベツ(浜中町姉別)はこの当時ネモロ(根室)管轄でした。チーム伊能は船で根室に行く予定ですが、ここでも風待ち。やはり渡船はこの時代風待ちがつきものです。
寛政12年8月5日(1800年)
朝から晴天、午の刻に測量。七つ過ぎから夜は曇天。この日も(ネモロからの)迎え船は来ず。(アンネベツに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
アンネベツ(浜中町姉別)三泊目。今日もネモロ(根室)からの迎え船は来ません。
チーム伊能、我慢の日々です。このような時でも愚痴も言わず、淡々と日記を書き続けるのが伊能忠敬流。
寛政12年8月6日(1800年)
朝から晴天、昼に太陽を測る。七つ頃ネモロの御詰合がニシベツに御出役につき、ニシベツから迎船が来た。諸器具をしまって乗船の用意をしたが、遅い時刻に船が着いたので、引き続き(アンネベツに)逗留。夜は少し曇る。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日もアンネベツ(浜中町姉別)逗留。四泊目。ネモロ(根室)からの船を待っていましたが、今日も来ず。一方、ニシベツ(別海町本別海)からの迎え船が来ました。このままネモロからの迎船を待っていても埒が明かないと判断したのでしょう、ニシベツに向かうことにしました。しかし、着船が遅く、出航は明日に。
寛政12年8月7日(1800年)
朝から四つ頃まで霧深し、後晴天。朝五つ後に出立。川船で三里余りフウレントウに着く。そこから草原平地を十町ばかり行き、海岸に出て、さらに二十七町余りでニシベツに九つ過ぎ着。仮家に止宿。なお、ニシベツはすべて仮家である。夜晴れ、測量す(続)。
#伊能忠敬 #測量日記
(承前)ネモロの御詰合がニシベツに御出役されており、ネモロへ行きたいとのお伺いを立てる。「現在ネモロは鮭引網漁の最中で会所には誰もいない。」と仰られた。よって、ここニシベツから引き返すこととした。八つ後からクナシリ島、ネモロ等の方位を測る。ニシベツに逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)に着きました。忠敬としては、通り過ぎてしまったネモロ(根室)に行き、さらにクナシリ(国後)までも行きたかったのですが、鮭漁猟で人手が少なく、送迎の船が手配できないようでは、為すすべがありません。ここニシベツが、伊能忠敬最北端かつ最東端の地となりました。ツイートは日記を要約しています。フルバージョンも別に作りましたので、興味のある方はご参照を。
本日の旅程は、アンネベツ(浜中町姉別)〜ニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)。グーグルマップは、姉別小学校跡地〜第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱。川を船で航行していますので、グーグルマップは場所の参考程度に見てください。
寛政12年8月8日(1800年)
朝から晴天。今朝、御詰合及び支配人から、飛脚でアツケシに我々の出立のための迎船の触れを出していただいた。我々からも先触れを出した。昼、太陽の南中を観測。昼過ぎから十間縄でクナシリ、ネモロ、ノツケ等の方位を測る。夜は薄曇り。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ニシベツ(別海町)からの帰り支度が進みます。お役所は迎船を要請し、忠敬は先触を出しています。人足7人用意されたしとの内容。馬を要請していないのは、アツケシ(厚岸)までは船利用だからでしょう。測量器具等の荷物を人足だけで運ぶとなると、7人必要だったのですね。先触の写し全文はブログで紹介しました。
寛政12年8月9日(1800年)
朝から夜まで晴天。朝五つ前にニシベツを出立。海辺廿七町は原と野地。さらに十町ばかりでフウレントウに至る。船に乗り、一里余り行く。さらにウレシ川を三里余り、アンネベツに七つ半後に着。道のりで五里。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
いよいよ復路が始まりました。本日の旅程は、ニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)〜アンネベツ(浜中町姉別)。往路と同様ニシベツ〜フウレントウは徒歩(馬は使えず)、フウレントウ〜アンネベツは川を船で航行します。川を船で航行していますので、グーグルマップは場所の参考程度に見てください。
寛政12年8月10日(1800年)
朝から暮まで曇天、夜も同じ。暮六つ二三分に少し地震有り。朝五つ頃アンネベツを出立。ヲイナヲシで中食。八つ後ノコベリベツへ着。道のりは六里というが、足では五里七丁ほどであった。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、アンネベツ(浜中町姉別)〜ノコベリベツ(浜中町)。この道のりは六里(約24キロ)とされていましたが、チーム伊能の測量結果では五里七丁(21キロ弱)であったと記しています。誤差を減らすため復路でも測量していたのでしょう。
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
文政10年8月朔日(1日)(1827年)
彼岸の入り。昨夜、地方への行商から土浦に戻った。この度の行商は特別の成功。鹿嶋の神のご加護であり、店の皆の日頃のがんばりによるものである。店の者へ酒肴を出す。皆、興にのる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商中、鹿島神宮を参拝し、神事を見物しており、余裕を見せていましたが、行商成功がなせるわざだったようです。店のものへのねぎらいも忘れることがなく、従業員の士気もこれで高まったことでしょう。
文政10年8月2日(1827年)
晴れ、余熱(残暑)が甚だしい。薬種問屋の大枝清兵衛殿が江戸から来られる。以前店で働いていた寺台村の太七が本年5月に亡くなったとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
太七は、一時期三中の経営する薬種商の従業員でしたが、都合により辞め、江戸で暮らしていたようです。薬種問屋の大枝清兵衛は、太七のいとこで、太七死去の報を三中に伝えます。三中は太七の死を多いに惜しみました。三中は、太七追悼の記を日記に記しています。
文政10年8月3日(1827年)
【編集より】本日、明日と三中先生は休筆。代わって、「太七追悼の記」を2日間お届けします。昨日太七死去の報を聞き、その死を多いに惜しみました。その後「太七追悼の記」といえる長文を書いており、その一部を紹介します。
#色川三中 #家事志
「太七追悼の記」上
(太七が色川家の従業員となった経緯)
太七は寺台村(成田市寺台)に生まれ、父親のつてで働き口を求めたが、身持ちが良くない男でその働き口は辞め、その後は江戸で仕事を変えながら暮らしていた。
午年(1822年)の夏から北条(つくば市北条)の成田屋伝兵衛のところで働き始めたが、女遊びにはまってしまい、成田屋も持て余すこととなった。そこで、成田屋から私のところに、こういう男がいるが面倒を見てやってくれないかという話があり、午年(1822年)の秋から使い始めた。
#色川三中 #家事志
文政10年8月4日(1827年)
【編集より】本日も、三中先生は休筆。代わって、昨日に引き続き「太七追悼の記」下をお届けします。「太七追悼の記」フルバージョンについてはブログに書きました。
#色川三中 #家事志
「太七追悼の記」下
太七は発明怜悧なところがあり、商売筋の鍛錬ができていて、百人に秀でていた。江戸の和泉屋吉右衛門や大枝清兵衛(太七のいとこ)と取引を始めることができたのは、太七の功績である。
太七の才能は衆に勝るものであったが、その才を全うすることが出来ずに終わってしまったのは惜しみて余りある。悲しくまた痛ましいことである。今はただ太七のことを思い出し、名号を唱えるだけである。
#色川三中 #家事志
文政10年8月5日(1827年)
色川庄衛門の妻は長らく病にかかっており、家の者が薬をもとめて我が店に来られる。先月私が行商で不在の時も来られたが、本日も来られた。当節病状がよろしくないのだという。犀角(漢方薬)をお求めになられた。
「田の刈入れのお手伝いもしたいのだが、店に人がおらず申し訳ない。犀角一匁を一つ二つお送りしますから。」と申し上げると、喜んで帰って行かれた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
犀角は文字どおりサイの角からとれる生薬。クロサイの日本での輸入が禁止されているため漢方の生薬として現代ではほぼ見ることはないそうです。漢方薬としては、体に無駄な熱が籠もり、出血、熱感、充血、発疹が出る症状を改善するために用いるとのことです。
文政10年8月6日(1827年)
本年、雨らしい雨が降らず、水田は悉く渇水。草履を履いて稲を刈り取り、そのまま田へ仮干しをし、稲こきをし、藁焼きをするなどを、田でできるということは稀であり、何十年に一度のことである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の田は湿田なのでしょう。乾田が現代では当たり前になっているので、この記事を読んでも今ひとつピンとこないのですか、湿田では乾いた田での稲刈り、仮干し、藁焼き自体が何十年に一度の驚くべきことのようです。
文政10年8月7日(1827年)
昨日は隣主人の母堂の一周忌であった。昨日は萩のはなもち一重を、本日は餅一重をいただいた。我が家からは、仏前のかんぴょうを2わ遣わした。巳の刻参りを行う。寺で酒を勧められて思いのほか手間取り、七つ時に帰宅した。寺で文政十年の詔書の写しを拝覧した。かけまくもあなかしこ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
隣主人の母堂の一周忌の行事。このコロナ禍により、通夜や葬儀ですら身内だけで簡略に済ませるという傾向が一層強まりましたが、文政の時代には双方で贈り物をし、故人を偲んでいました。
文政十年の詔書は、以前三中はこれを見て感動していたのですが(5月10日条)、本日もこの写しを見て感激しています。歴史的意義を有する詔書(吉田松陰にも影響を与えた)は、SNSも無い時代にはこのような形で人々に共有されていったのでした。
文政10年8月8日(1827年)
・本日は巳で成であるので、夕方天道大黒天と金祭りを行い、茶を供した。
・矢口嘉兵衛に、隠居(祖父)の書状を下総の与市へ持っていくよう依頼していたが、矢口の娘が病気で難渋しているとのことであるので、日延べをすることとした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「本日は巳かつ成の日である」というのが、暦には全く興味のない私にはピンとこなかったのですが、巳かつ成の日は富む(金になる)との言い伝えがあるようです。不忍池弁天堂では、巳成金(みなるかね)大祭が現在でも行われています。
「巳(み)」は暦の十二支、「成(なる)」は十二直。
文政10年8月9日(1827年)
夜に入ってから、近江屋小兵衛から防風と柴こが無事届いたとの書状が届いた。防風は20個、柴こは2個。当年は病人が多い一方で、仕入れが少なく、和薬はいずれも高値となっている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・防風・柴こはいずれも漢方薬。「柴こ」は「柴胡」(サイコ )のこと。
柴胡剤は西洋医学の風邪薬・胃薬にあたり、抗アレルギー薬・気分安定薬・睡眠薬・消炎鎮痛薬・肝臓の薬・便秘薬となります。
・近江屋小兵衛は伝馬町組から唐和薬種十組問屋に所属する江戸の大店の薬種商。通常は問屋から薬を仕入れるのですが、今日の日記に出てきた防風と柴こは色川家から近江屋に出荷されています。
文政10年8月10日(1827年)
明日、下総の与市へ書状と礼物を遣わすので、夜燈火のもとで次のような文を認めた。
「この春には大変お骨折りいただき平常に服したのは大慶の至りでした。その後、二つ三つ思いどおりにはいかないこともあり、仕事の方も五月から変事が多いのです。売上をあげ債務を返済しようと努力しているところですが、この軽薄な世の中では、これまで積み上げたことも無為となりそうですので、父祖恩顧の者(与市のこと)の助力を得たいのです。」
#色川三中 #家事志
(コメント)
7月中旬から下旬にかけての行商は大成功でした。店を回していくには従業員を率いて仕事を回してくれる人物が必要ですが、与市の代わりとなるものがおりません。与市を呼び戻したいとの一念から、燈火のもとで文を書く三中でした。
(はじめに)
以前、伊能忠敬測量で、函館〜国後までの先触、添触を紹介しました。
伊能忠敬は復路でも先触の写しを測量日記に掲載していますので、現代語訳で紹介します。
【寛政12年8月8日付先触】
覚 封紙 先触 ニシベツよりアツケシまで
一 人足 七人
我ら蝦夷地測量の御用のため、明日九日ニシベツを出立してそちらへ向かうので、御定めの賃銭で人足を用意し、遅滞なく渡海・止宿できるよう御執りはかりいただくようお願いいたします。
申八月八日 伊能勘解由 印
アツケシ 支配人中
(この先触れの背景)
伊能忠敬測量チームは、8月7日にニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)に着きました。忠敬としては、通り過ぎてしまったネモロ(根室)に行き、さらにクナシリ(国後)までも行きたかったのですが、役人からこれ以上は難しいと聞かされ、ニシベツから折り返すことにしました。そこで、翌8日に先触れを出しました。アツケシ(厚岸)までで馬は不要、人足を7人用意されたしとの内容です。ニシベツ〜アツケシまでは船の利用が入るので、人足のみで荷運びをするようです。測量器具等の荷物を人足だけで運ぶとなると、これだけの人数が必要なのでしょう。
(先触の内容)
先触の作成者「伊能勘解由」は伊能忠敬のこと。隠居してからは「勘解由」を名乗っていました。
「測量の御用」ということで公用の旅でることを明らかにしています。公用の旅では、馬及び人足を用立てることを村の役人等に要請することができます。「お定めの賃銭で用立てください」というのは、伊能忠敬の第一次測量では人馬の費用を忠敬自信が負担せざるを得なかったからです(幕府は忠敬に一部援助)。
人馬だけではなく、渡海・川越え・止宿についてもサービスの提供を受けることができました。宿泊は、夜具は宿泊所から提供を受けられますし、三食賄付き。昼食は弁当です。
次に寛政12年8月13日付先触れです。
【寛政12年8月13日付先触】
先触 アツケシから箱館まで 伊能勘解由
覚
1 馬 弐疋、但し軽尻
1 人足 三人
我ら蝦夷地測量の御用である。上下五名がニシベツまで来ており、明日13日はアツケシを出立して箱館へ向かうので、書面の人馬を所定の賃銭で用意し、遅滞なく継立てできるようにお願いします。渡海・川越・止宿できるよう、また測量をまだしていない場所については逗留もするので、そのように心得て御執りはかりいただくようお願いいたします。以上
申八月十三日 伊能勘解由 印
アツケシよりエトモ迄
右村々場所場所
名主・支配人 中
(この先触れについて)
8月12日にアツケシ(厚岸)から出された先触れです。アツケシからエトモ(室蘭市絵鞆)までの村の名主や支配人宛となっています。この間は陸路ですので、馬二匹、人足三人を要請しています。
先触の冒頭に「アツケシから箱館まで」とあるのに、末尾では「アツケシよりエトモ迄」となっていて、平仄があっていないのは、この先触れを出した当初はエトモから船で箱館近くまで渡海することも考えていたからです(9月3日条)。結局、風向きが悪いため、陸行することとなり、エトモ留で出した先触は箱館留めに書き直されますした(9月5日条)。
(参考文献)
「蝦夷地での伊能忠敬の先触等〜幕府直轄後の宿駅制における〜」(堀江敏夫・「伊能忠敬研究第31号」2003年)
【追記】
寛政12年8月13日付先触にある「馬 弐疋、但し軽尻」の軽尻の意味。
「軽尻(からじり)」とは、本馬の半分の積載量、ないしは人が乗って手荷物5貫目(18.75㎏)までを積載できる馬のこと。
下記ブログで教えていただきました。なお、「本馬(ほんま)」とは、40貫目(150㎏)まで積載できる馬のことだそうです。
〈はじめに〉
伊能忠敬は蝦夷地測量で国後島を目指していましたが、残念ながら国後島にはたどり着けず、ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)から折り返すことになりました。
その理由を記したのが寛政12年8月7日の日記です。長いのでブログにてフルバージョンをご紹介します。
寛政12年8月7日(1800年)
(アンネベツを出立し、船でニシベツに着く)
朝から四つ頃まで霧深し、後晴天。朝五つ後に出立。川船で三里余りフウレントウに着く。そこから草原平地を十町ばかり行き、海岸に出て、さらに二十七町余りでニシベツに九つ過ぎ着。仮家に止宿。なお、ニシベツはすべて仮家である。夜晴れ、測量す。
(役人に根室行きを伺うも断られる)
ネモロの御詰合は、御勘定大嶋栄治郎殿、御普請役井上辰之助殿、同勤方村上治郎右衛門殿であり、ニシベツに御出役された。
ネモロへ行きたいとのお伺いを立てたところ、「現在ネモロは鮭引網漁の最中で、皆ネモロからこのニシベツへ引き上げてきており、会所には誰もいない。鮭漁猟で人手が少なく、迎船、送船とも手配ができなくて困ってしまうであろう。ネモロへ行かずに済むのであれば、ここニシベツで済ましてはくれまいか。」と仰られた。
(忠敬の方針)
私からは、「そのようなご事情であれば、今年はネモロは遠くからの測量のみ行い、ここニシベツから引き返します。」と申し上げた。人足及びアツケシへの迎船のことをお願いしたら、明日八日は逗留し、九日に出立するようとのご指示であった。八つ後からクナシリ島、ネモロ等の方位を測る。ニシベツに逗留。
〈コメント〉
ニシベツに着き、忠敬としては、通り過ぎてしまったネモロ(根室)に行き、さらにクナシリ(国後)までも行きたかったのですが、鮭漁猟で人手が少なく、送迎の船が手配できないようでは、為すすべがありません。ここニシベツが、伊能忠敬最北端かつ最東端の地となりました。現在ニシベツには、第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱が建てられています(北海道別海町本別海西別川河口付近)。
寛政12年7 月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
寛政12年7月21日(1800年)
18日から連日ヤマセ風。曇天、五つ頃から四つ前まで小雨。正午過ぎから少晴れ、曇る。夜も薄曇り。雲間に測量(天体観測)。サルルで宿が同じであった榎本忠兵衛に出会う。(シヤクベツに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
サルル泊(7月4日〜7日)の日記には榎本忠兵衛の名前はないのですが、シヤクベツ(尺別)で再会したのでその名を書き留めたようです。忠敬は測量日記では必要最小限のことしか書かず、気になったことに少しだけ触れるというスタイルで書いています。
寛政12年7月22日(1800年)その1
朝より曇天、八つ頃より小雨降るもほどなく止む。その後曇り、夜はまた雨。朝五つ後に出立。海岸を二里余り行き、パシクロにて中食。さらに海岸を一里余り行き、八つ半頃シラヌカに着。同所の詰合いの八王子千人同心の頭原半左衛門殿及び他の同心衆に挨拶。仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年7月22日(1800年)その2
原氏の手付同心である吉田元治殿が旅宅へ来て、天文のことを談じ合った。ご自身でつくられた天球をお持ちになった。春海子の方図及び円図を用いており、細工が大いに良い。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、シヤクベツ(尺別)〜シラヌカ(白糠町)。グーグルマップでは約18 kmです。シラヌカでは天文の同好者でる手付同心の吉田元治です。会話は多いに盛り上がったようです。
伊能忠敬と吉田元治との会話(想像)
吉田「これ私が作った天球です。」
忠敬「おお、これは春海子(渋川春海のこと)の方図及び円図を用いたものではありませんか。何とも細工が良いですな」
吉田「それほどでもございません。先生はどのようなものをお作りになったので…」等という会話が繰り広げられており、楽しい一夜になったことでしょう。
寛政12年7月23日(1800年)
朝雨天、四つ頃より晴れる。太陽の南中を観測。夜も晴天であり、測量(天体観測)。原氏の手付石坂重治郎、肝いり前嶋新兵衛らが旅宿へ挨拶に来る。(シラヌカに逗留)
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(コメント)
シラヌカ(白糠町)二泊目。四つ頃(午前10時)から晴れましたので、昼も夜も測量・観測ができ、良いデータを収集だきたのではないでしょうか。八王子千人同心の原半左衛門の部下は忠敬を慕ってくれて挨拶にきており、注目の的となったようです。
寛政12年7月24日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。朝五つ前にシラヌカを出立。海岸四里余りでヲタノシケに着き、中食。そこから海岸三里程で七つ後クスリへ着。当所の詰合は支配勘定菊地宗内殿、御普請役庵原久作殿は他行されていた。御勘定組頭村田鉄太郎殿が当地に御止宿につき、ご機嫌伺に参る。夜に測量(天体観測)。
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(コメント)
本日の旅程はシラヌカ(白糠町)〜クスリ(釧路;釧路市)。今の白糠町役場-釧路市役所は約33kmです。
漁業と交易、交通の中心であるクスリ(釧路)に着。中心地だけあって役人の往来も多く、支配勘定と御普請役は出張中。御勘定組頭がクスリ滞在中だったので、忠敬は早速ご機嫌伺いに赴いています。佐原で名主を務めただけあって、お役人の機嫌を取っておくことが大事と心得ているのでしょう。
寛政12年7月25日(1800年)
朝から八つ前まで曇天、八つ頃雨天。朝五つにクスリを出立。海岸及び新開山道を二里行き、カチロコイで中食。そこから新開山道及び海岸三里程を経て、八つ後コンブムイに着。クスリから四里以上であり、遠い道のりである。本宅に止宿。夜は大風雨であり、翌暁まで続く。
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(コメント)
本日の旅程はクスリ(釧路)〜コンブムイ(昆布森;釧路町)。今の釧路市役所-釧路町役場昆布森支所は15 kmです。
日記だと二里+三里=五里(約20キロ)となるはずですが、今のルートだと15キロと短くなります。日記では「新開山道」を通ったとあり、この山道のルートが直線ではないためでしょう。忠敬が「四里以上であり遠い」というのは、この山道のことではないかと思われます。
寛政12年7月26日(1800年)
朝から九つ頃まで薄曇り、雲間に太陽を観測する。八つ頃から中晴れ、夜もまた同じ。測量(天体観測)。(コンブムイに逗留)
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(コメント)
本日はコンブムイ(昆布森)に逗留。箱館を出てからの地名は、ほとんどがカタカナです。まずはこれがどこに当たるのかを調べるのですが、地名が消えてしまっているところもあったり、思いもかけない漢字であったりします。コンブムイ⇒昆布森ですから、まだ比較的わかりやすい方です。
寛政12年7月27日(1800年)
朝曇り、午の刻前より晴天。朝五つ前出立。新開山道を行き、海岸へ出る。また新開山道をいき、また海岸へ出る。再び山へ上るところでシヨンデキに着く。中食。ゼンホウジに七つ半に着。コンブムイより六里というが実際は五里廿八丁。本宅に止宿。夜に測量。同心の関谷茂八殿、丹羽金助殿が夜に入ってから、ゼンホウジに到着された。
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(コメント)
本日の旅程はコンブムイ(昆布森;釧路町)〜ゼンホウジ(釧路町仙鳳趾村)。今の釧路町役場昆布森支所)-釧路町役場仙鳳趾生活館までは23 km。現代のルートだと山の中を突っ切るルートになっていますが、測量日記では新開山道⇒海岸⇒新開山道⇒海岸⇒山道とあり、山道と海岸ルートが混在していることが分かります。
寛政12年7月28日(1800年)
朝曇り、四つ後より雨天。人足もおらず、海岸沿いの通路は歩くには困難。アツケシへ渡海できる船を要請。八つ半頃にアツケシから渡船到着したが、雨天ゆえ出発は見合わせ。(ゼンホウジに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はゼンホウジ(釧路町仙鳳趾村)に逗留。アツケシ(厚岸町)へ行きたいチーム伊能ですが、人足がいないため、渡海ルートを検討。八つ半(午後3時)には船は到着したのですが、雨のため本日の渡海は見合わせになりました。
寛政12年7月29日(1800年)
朝四つ半頃まで雨天、その後雨やむ。空も少し晴れ気味となったので、中食を取った後直ちに乗船。関谷、丹羽氏と共にアツケシへ。アツケシまでは海上三里、七つ頃着船。船中では晴れ、暮より曇天。アツケシの詰合は御勘定太田十右衛門殿、御普請役戸田又太夫殿、木津半之丞殿で三名の同居役所である。当方は仮家に止宿。
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(コメント)
本日の旅程はゼンホウジ(釧路町仙鳳趾村)〜アツケシ(厚岸町)。今の釧路町役場 仙鳳趾生活館-厚岸会所跡(北海道厚岸翔洋高校)までは陸路で23 km。海上ルートだと三里(12キロ)。同船した関谷、丹羽氏は同心で、一昨日ゼンホウジに到着している役人です(7月27日条)。
寛政12年7月晦日(30日)(1800年)
朝から晴天、大西風吹く。暮合より風は弱まる。夜に入って小雨。夜八つ頃まで測量。(アツケシに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はアツケシ(厚岸)に逗留。天候と測量の記事だけです。厚岸は天然の良港であり、外国船の通り道となってきました。ラックスマン来航事件を引き起こしたラックスマンも、厚岸を経由して松前に上陸しています。厚岸は「三名の同居役所」との記事となっているのも(7月29日条)、このあたりの事情があるのかもしれません。