南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

伊能忠敬、江戸から蝦夷地の地図を作成し、提出(寛政12年12月21日)

2022年12月21日 | 伊能忠敬測量日記
#伊能忠敬測量日記 より
寛政12年12月21日(1800年)
伊能忠敬、江戸から蝦夷地の地図を作成し、御勘定所坂本傅之助に渡す。大絵図21枚及び小絵図1枚は高橋至時に届けるために浅草の天文台に持って行かせた。同絵図は、天文方高橋至時から若年寄堀田摂津守に直々に渡されるからである。

(絵図作成の経緯)
 伊能忠敬測量隊は10月21日に江戸に着き、その後所用をこなしていましたが、11月初めから図面の作成にとりかかりました。
 12月20日に図面をしあげ、21日に御勘定所に提出。天文方高橋至時が若年寄堀田摂津守に直々に渡すための絵図も、同日に浅草天文所にもっていかせています。
 伊能忠敬測量日記の該当箇所には次のように書かれています。
<蝦夷地から日本の地図の作成に11月初めから昼夜取りかかった。津宮の久保木太郎右衛門、門倉隼太、平山郡蔵、栄などが手伝ってくれた。ようやく12月20日ころまでに出来上がり、21日に御勘定書に持参して、坂本傅之助に渡した。
 大絵図21枚(11枚は日本で、10枚は蝦夷地)及び小絵図1枚(日本から蝦夷を合わせた図で大絵図の十分の一)は、高橋先生から堀田摂津守にお揚げになるというので、21日に浅草(の天文所)へ遣わした。>

(コメント)
 伊能忠敬は10月21日に江戸に戻ってから、のんびりする間もなく地図作成に取りかかっています。
作成は「昼夜」にわたり、1ヶ月半ほどで大絵図21枚、小絵図1枚を作成していますから、かなりの突貫作業であったと思われます。
図面作成を手伝った人の名前が記されています。
・津宮の久保木太郎右衛門:久保木清淵(くぼき せいえん;1762年~1829年)のことではないかと思います。津宮村(香取市津宮)は佐原村の近隣の村です。
・門倉隼太:伊能忠敬と共に蝦夷地測量に同行したメンバーの一人。高橋至時の弟子なので、忠敬とは兄弟子、弟弟子の関係になります。蝦夷地測量隊のメンバーは、伊能忠敬以外に4名いますが、その中では唯一地図作成に加わっています。
・平山郡蔵:伊能忠敬の親戚。平山群蔵の弟の平山宗平が蝦夷地測量に同行したメンバーでした。地図作成には兄の平山郡蔵が参加しました。郡蔵は第2次測量からは測量メンバーの一人となっています。
・栄:伊能忠敬の四番目の妻。長年にわたり謎の人物とされてきましたが、1990年代に女流漢詩人大崎栄であることが研究により判明しました。



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寛政12年10月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編 (完結)

2022年11月02日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年10月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年10月22日(1800年)
朝六つ(午前6時)過ぎから夜まで、蝦夷御掛である松平信濃守様ほか11名へ帰府届を提出した。道中足が痛くなり、雇駕籠で回り、夜五つ(午後8時)頃家に戻った(駕籠料900銅)。
#伊能忠敬 #測量日記

(帰府届)
私儀、蝦夷地測量の件、御用が済みまして昨21日に帰着仕りましたので、お届けいたします。
津田山城守知行所下総国佐原村元百姓
  浪人 伊能勘解由
十月廿二日
この書付を次の方々へ差し出して回覧した。
松平信濃守(木挽町、築地)
以下11名略
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
前日昼過ぎに蝦夷地からの長旅を終えて深川の自宅に戻った忠敬ですが、本日は一日かけて役人に挨拶廻り。帰着した旨の届けを蝦夷地担当の役人等関係者に提出しました。江戸に戻って気が緩んだのか、道中足が痛くなり、雇駕籠を使っています。
⇒松平信濃守以下11名についてはブログ参照

伊能忠敬の帰府届・寛政12年10月22日 - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉伊能忠敬は蝦夷地測量を行い寛政12年10月21日に無事江戸に到着。翌22日には早朝から一日かけて帰府届を蝦夷地担当の役人に提出しています。掛りトップの松平信...

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寛政12年10月23日(1800年)
浅草の天文台(司天台)に行く。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
浅草にあった天文台(原文:浅草司天台)は天文方の役所でもあります。天文方トップは、師匠の高橋至時。忠敬は昨日は終日役人に挨拶回りでしたから、江戸到着3日目にしてゆっくりと師匠らと話しができました。幕府の役人三橋藤右衛門から依頼されたレポートの添削も受けたことと思われます。

寛政12年10月24日(1800年)
(編集より)本日、伊能忠敬先生は休筆です。幕府の役人三橋藤右衛門から依頼されたレポートの清書をしていると思われます。
#伊能忠敬 #測量日記

三橋藤右衛門、蝦夷地測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課す - 弁護士TKのブログ

【三橋藤右衛門、蝦夷地測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課す】(はじめに)今回紹介する書簡は、寛政12年(1800年)の9月4日付測量...

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寛政12年10月25日(1800年)
三橋藤右衛門様に蝦夷旅行中書くように仰せつけられた天文来歴の書付を本日お渡しした。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
三橋藤右衛門(三橋成方)は蝦夷地取締御用掛(現代風にいえば北海道開発庁の幹部?)。勉強熱心なのか、蝦夷地測量中の忠敬にレポート提出を要求し、忠敬は復路でレポート作成に追われるということがありました。江戸到着4日目で無事宿題を果たした忠敬でした。


三橋藤右衛門に提出したレポートは測量日記に書き写されており、どのようなレポートだったのかを作成したかが分かります(一部の現代訳につきブログ参照)。それにしても忠敬はマメです。

日本の暦学(伊能忠敬から三橋藤右衛門へのレポート) - 弁護士TKのブログ

(はじめに)伊能忠敬は蝦夷地に測量旅行を行いましたが、蝦夷から江戸に帰る際に、幕府の蝦夷地取締御用係の三橋藤右衛門(成方)から、世界及び...

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寛政12年10月26日(1800年)
(編集より)本日、伊能忠敬先生は休筆です。
#伊能忠敬 #測量日記

寛政12年10月27日(1800年)
御領主(津田)様は蝦夷地のことを以前からお聞きになりたいというご意向をもっておられたところ、本日「明日来るように」との仰せがあった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
忠敬が「御領主様」と書いているのは、忠敬が住んでいた下総国佐原村(現千葉県香取市)を知行していた津田山城守のことです。忠敬は隠居しており「元百姓で浪人」の身分ですが、津田公のバックアップも受けていたようです。

寛政12年10月28日(1800年)
御領主(津田)様に参上し、蝦夷地のことにつき数刻にわたって申し上げた。三橋(藤右衛門)様に差し上げた書付を松平信濃守様にもご覧いただくように、津田様にお願い申し上げた(もっとも、このことは御領主津田様から内意のあったことである)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
伊能忠敬は、佐原の領主津田公から呼び出しを受けて津田公宅に参上し、蝦夷地のことをレクチャーしました。三橋藤右衛門様に差し上げた書付というのは、暦の来歴を旅の中で書き上げたものです(10月25日条)。これを三橋と同様蝦夷地担当役人の松平信濃守様にもご覧いただくというのが、津田公の狙いでもあるようです。

測量日記(蝦夷地測量編)はまだ続くのですが、毎日記されているものではないので、これにて伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編は終わりとなります。




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寛政12年10月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年10月31日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年10月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年10月11日(1800年)
曇晴れ。朝六つ後に越河を出立。貝田、藤田、桑折を経て、瀬ノ上で中食。同所から二里ほどで福嶋城下(板倉内膳守、三万石)に八つ半頃に着き、止宿。夜晴天風あり、測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は越河(こすごう;白石市)〜福嶋(福島;福島市)。地図では24 km。本日から現在の福島県に入りました。福島に泊。福島藩は藩主板倉内膳守三万石。今は県庁所在地ですが、江戸時代はさほど石高はありませんでした(福島県で最も石高があったのは会津藩23万石)。江戸到着まであと10日。

白石市立越河小学校 to 福島城跡

白石市立越河小学校 to 福島城跡



寛政12年10月12日(1800年)
朝から晴天。朝七つ半後に(福嶋城下を)出立。清水町、八丁目、油井町を経て二本松城下(丹羽左京大夫、十万七百石)に八つ前に着き、止宿。夜測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は福嶋(福島;福島市)〜二本松城下(二本松市)。地図では 21km。今の福島県を南下し、二本松まで来ました。二本松藩の藩主は丹羽左京大夫であり、十万石強です。福島藩は三万石であり、二本松藩の方が石高では上でした。
江戸到着まであと9日。

福島城跡 to 二本松城跡

福島城跡 to 二本松城跡



寛政12年10月13日(1800年)
朝から晴天大風。七つ後に(二本松城下を)出立。杉田、本宮、高倉を経て、福原で中食。日出山を経て、須加川に七つ頃着き、止宿。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は二本松城下(二本松市)〜須加川(須賀川市)。地図では 38km。今の福島県を南下しています。江戸到着まであと8日。

二本松城跡 to 須賀川城跡(二階堂神社)

二本松城跡 to 須賀川城跡(二階堂神社)



須賀川では松尾芭蕉は7泊しており、奥の細道には歌も複数記されています。このことは伊能忠敬も知っているでしょうが、測量日記ではノーコメントを貫いています。

須賀川と芭蕉|須賀川市公式ホームページ

須賀川市公式ホームページ

須賀川市公式ホームページ



寛政12年10月14日(1800年)
朝から四つ頃まで晴天、その後八つ前まで曇天、以降晴れ。朝七つ半後に須加川を出立。笠石、新田を経て、小田川で中食。そこから一里廿七町で白川城下(松平越中守、十一万石)に八つ頃つき、止宿。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は須加川(須賀川市)〜白川城下(白河;白河市)。地図では25km。白河藩の藩主は松平越中守(松平定信)で十一万石。松平定信は1793年に老中を辞任し、このとき(1800年)は白河藩主でした。江戸到着まであと7日。

須賀川城跡(二階堂神社) to 白河小峰城跡

須賀川城跡(二階堂神社) to 白河小峰城跡



寛政12年10月15日(1800年)
朝曇り、四つ過ぎから雨、八つ半頃から晴れ。朝七つころ、白川を出立。白坂を経て芦野で中食。そこから二里十一町四十二間半で越堀に八つ頃着き、止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は白川(白河市)〜越堀(那須塩原市)。地図では26km。福島県を抜け、栃木県に入ってきました。江戸到着まであと6日。

白河小峰城跡 to 越堀

白河小峰城跡 to 越堀



寛政12年10月16日(1800年)
朝から晴天、七つ半過ぎ(越堀を)出立。大田原、佐久山(同所で中食)を経て喜連川に八つ半頃に着き、止宿。夜晴天、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は越堀(那須塩原市)〜喜連川(さくら市)。地図では30km。江戸到着まであと5日。

越堀 to 喜連川

越堀 to 喜連川



寛政12年10月17日(1800年)
朝から晴天。朝七つに(喜連川を)出立。氏家、白澤を経て宇都宮(戸田能登守、7万7850石)に着き、止宿。宇都宮には九つ(正午)前に着いたので、宿場で中食。夜晴れ、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は喜連川(さくら市)〜宇都宮(宇都宮市)。地図では27km。正午前に目的地宇都宮着のため、中食は宿場でとりました。宇都宮藩の藩主は戸田能登守、7万7850石と記録しています。江戸到着まであと4日。

喜連川 to 宇都宮市

喜連川 to 宇都宮市




寛政12年10月18日(1800年)
朝から晴天だが微雲あり。朝七つ頃に(宇都宮を)出立。雀宮、石橋、小金井、新田(同所で中食)、小山を経て、間々田に九つ半に着。夜曇り晴れで、晴間に測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は宇都宮(宇都宮市)〜間々田(小山市)。地図では34km。江戸到着まであと3日。

宇都宮市 to 間々田

宇都宮市 to 間々田




寛政12年10月19日(1800年)
朝七つから七つ半まで雨。五つ後晴れ。七つ半過ぎに(間々田を)出立。野木、古河城下(土井大炒頭、七万石)、中田を経て幸手に九つ半後に着き、止宿。夜晴天、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は間々田(小山市)〜幸手(幸手市)。地図では25km。幸手から今の埼玉県です。江戸到着まであと2日。

間々田 to 幸手市

間々田 to 幸手市



幸手宿

幸手宿「宿場あるき」について|幸手市

コース・開催日(2022年の予定)【幸手宿宿場コース】1月29日、2月26日、3月12日、4月23日、5月28日、6月18日、9月17日、10月22日、11月26日、12月17日(土曜...



寛政12年10月20日(1800年)
朝から曇り、七つ半頃(幸手を)出立。杉戸、粕壁、越ケ谷を経て草加に八つ頃着。夜大曇りで深夜雨のため、測量できず。本日七つ頃、佐原舟の惣五郎が草加まで出迎えに来てくれたので、共に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は幸手(幸手市)〜草加(草加市)。地図では31km。江戸が近くなったため、早くも出迎えの者(佐原舟の惣五郎)が草加で待ち構えていました。江戸到着まであと1日。

幸手市 to 草加市

幸手市 to 草加市



寛政12年10月21日(1800年)
朝六つ(午前6時)過ぎに出立。曇天。草加から千住まで二里八丁。千住に着くまでに大勢の人の出迎えを受ける。高橋先生から御使い札をいただく。千住で酒宴、昼食。九つ(正午)出立。(浅草の)司天台へ立ち寄る。八つ(午後2時)頃、深川の自宅に着いた。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ついに江戸到着!8月7日に最北端ニシベツから折り返して2ヶ月半かかりました。草加から千住までで測量隊を出迎える人が多く、忠敬も感無量だったのでは。千住での迎えの酒宴は当時のお約束。本日の日記のフルバージョンはブログでご紹介します。

伊能忠敬、蝦夷地旅行を終え、無事江戸に着く-寛政12年10月21日の日記フルバージョン - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉伊能忠敬は蝦夷地測量まで測量を行い8月7日にこの旅行の最北端ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)にたどり着きました。同所から折り返...

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日本の暦学(伊能忠敬から三橋藤右衛門へのレポート)

2022年10月25日 | 伊能忠敬測量日記
(はじめに)
 伊能忠敬は蝦夷地に測量旅行を行いましたが、蝦夷から江戸に帰る際に、幕府の蝦夷地取締御用係の三橋藤右衛門(成方)から、世界及び日本の暦法についてレポートを提出するようにとの要請を受けました。蝦夷から江戸に帰る際にも測量を行っているので、測量の合間をぬって書かれています。
 長くなりますので、ここでは日本の暦法部分についての書付をご紹介します。

【天文来歴の書付(日本部分のみ)】
 過去日本でどのような暦が使われていたのかは、今に伝わっておりません。
 日本書紀等の書物を読みましても、外国の暦法を用いたという様子も見えませんので、日本独自の暦法というものがあったのではないかと思われます。そのような独自の暦法が今日にまで伝わっていないことは残念に存じます。
 持統天皇のときには、中国の劉宋の時代に作られた暦である元嘉暦が使われておりました。
 その後、当の時代には儀鳳暦、大衍暦、五紀暦等が作られ、日本でも用いられてきました。
 清和天皇のときには宣明暦が用いられ初めて後、貞享元年までの800年余りというもの、この宣明暦のみが用いられてきました。
 しかし、長く用いられてきたことから、二十四節気の時が実際と二日余りのずれが生じてきてしまいました。
 そこで、安井算哲が幕府からの命により、元の授時暦をベースに貞享暦を作りました。貞享2年のことでございます。
この貞享暦が日本で初めてつくられた暦であり、暦学はこのときから開けていきました。
貞享暦は宝暦初めに改暦があり、寛政巳年(寛政9年:1797年)にはさらに改暦があり、現在使われている寛政暦となります。寛政暦は、清朝で用いられている暦象考成後編に依拠しつつ、修正を加えたものです。
寛政暦での日食、月食の時刻や七曜運行の度数は正確であることは、私も自身の測量で実感しております。
この寛政暦は、以前の暦の問題点が是正されており、かなり制度が上がっています。これは、近来暦学が大いに開け、測量や天体観測の諸法が精密になり、測量機器の製作も繊細になって遺漏がないようになっていることが理由です。
もっとも、現行暦法は帝都での数値を記載しているため、東都や奥羽或いは九州長崎等の地では、日食の時刻も分数にはずれがあります。また、節気、月食、五星凌犯等の時刻や昼夜の長さ等についても、帝都と東都では異なるものです。
帝都のみではなく、他の地域でも諸国での食の時刻、昼夜の長短等を暦に書くことができれば、そのことが長崎から唐土紅毛にまで自然と伝わり、我が国の暦術が細密であると知られ、異国人も感心するのではないかと思われます。
 蝦夷御用地は北緯42度から44度にあるので、北緯43度として、日月食、分時刻、節気、昼夜の長短を寛政暦に加えたいと考えております。諸国及び蝦夷地を最新の精密な測量機器で測定し、緯度及び方位を各場所ごとに細密に測量したうえで、国図を作成したく思います。そうすれば、御府内(江戸)から蝦夷地各所の海陸の真の方位や距離がわかり、安房・上総・下総・常陸などの海辺から蝦夷地への海路までも悉く判明し、万一のときの御用にもお役に立ちます。
 これまでのとおりですと、冬に新暦ができますが、それでは蝦夷地には新春に間に合いませんので、略歴などを別版として秋には蝦夷地へ送っていただきたいと存じます。
 また、蝦夷地は北緯が高く、昼夜の長短が異なりますので、蝦夷地の昼夜の長短を暦に付け加えていただければ、蝦夷御詰合の自鳴鐘の時刻も正確となり、改善されるのではないかと思います。         以上
申十月 伊能勘解由

(コメント)
 天文暦学の件について伊能忠敬のレポートが作成された経緯は次のとおりです(いずれも寛政12年(1800年)のこと)。
8月19日 三橋藤右衛門は部下に命じて、伊能忠敬にレポートの作成を要請するように伝え、部下は伊能忠敬宛の書面を作成しました。三橋藤右衛門は8月までは函館におり、9月には函館を立って、江戸に向かいました。
9月4日 伊能忠敬は、エトモ(現室蘭市)で上記書状を受領しました。
10月8日 伊能忠敬は仙台に着きました。この間、レポート案を作成しをえており、同日付で師匠である高橋至時宛にレポート案をご覧いただきたいとの書状を江戸に出しています。
10月21日 伊能忠敬は江戸に到着しました。
10月23日 伊能忠敬は浅草にあった天文台に赴いています。このときに師匠の高橋至時に会い、レポートの直しを受領したと思われます。
10月25日 三橋藤右衛門にレポートを提出しました。おそらく23日に師匠にあってから、昨日にかけて清書をしたものと考えられます。

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伊能忠敬の帰府届・寛政12年10月22日

2022年10月22日 | 伊能忠敬測量日記
〈はじめに〉
伊能忠敬は蝦夷地測量を行い寛政12年10月21日に無事江戸に到着。翌22日には早朝から一日かけて帰府届を蝦夷地担当の役人に提出しています。掛りトップの松平信濃守以下11名に回覧しており、全員の名前が測量日記には記されています。帰府届及び全員の名前をご紹介します。

【帰府届】
私儀、蝦夷地測量の件、御用が済みまして昨21日に帰着仕りましたので、お届けいたします。
津田山城守知行所下総国佐原村元百姓
  浪人 伊能勘解由
十月廿二日
この書付を次の方々へ差し出して回覧した。
松平信濃守(木挽町、築地)
石川左近将監様(霞関)
坂本傅之助様(下谷中御徒町)
三橋藤右衛門様(飯田町堀留)
羽太庄左衛門様(築土明神下五軒町)
鈴木甚内様(根津七軒町)
水越源兵衛様(白山)
細見権十郎様(白山)
寺田忠右衛門様(下谷御徒町御先手組屋敷)
村上三郎右衛門様(下谷三枚はし)
津田様
村田鉄五郎様(本所御台所町)

(コメント) 
・帰府届にある「伊能勘解由」は伊能忠敬のことです。隠居前は、「伊能三郎右衛門」を名乗っていましたが、この名前は伊能家の当主の名のりであり、隠居により伊能忠敬の長男(伊能景敬)が名乗っています。隠居時に「勘解由」と名乗ることを決め、文書は一貫して「伊能勘解由」名義で
です。
・伊能忠敬は測量を自主事業としてやっていたかのように理解されている向きもありますが、この帰府届を見れば、蝦夷地測量の件は「御用」、つまり幕府公認の事業であったことは明らかです。書付を回覧した
松平信濃守以下11名はプロデューサーのようなもので、ここに名前が記されてあるのは、映画のエンドロールのクレジットのようにも見えます。


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伊能忠敬、蝦夷地旅行を終え、無事江戸に着く-寛政12年10月21日の日記フルバージョン

2022年10月21日 | 伊能忠敬測量日記
〈はじめに〉
伊能忠敬は蝦夷地測量まで測量を行い8月7日にこの旅行の最北端ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)にたどり着きました。同所から折り返し、江戸を目指すこと2ヶ月半、寛政12年10月21日に無事江戸に着きました。滅多に個人の思いを日記に披露しない忠敬ですが、長旅を終えて個人の思いを吐露しています。同日の日記をフルバージョンをご紹介します。

寛政12年10月21日(1800年)
(草加を出立し千住で酒宴)
朝六つ(午前6時)過ぎに出立。曇天。草加から千住まで二里八丁。千住に着くまでに大勢の人の出迎えを受ける。高橋先生から御使い札をいただく。千住で酒宴、昼食をなす。
(千住から自宅まで及び感想)
九つ(正午)出立。(浅草の)司天台へ立ち寄る。八つ(午後2時)頃、深川の自宅に着いた。
閏4月19日に江戸を出て、今日神無月の21日まで半年と2日間の旅行であった。往古から遥かに遠いことを津軽・合浦・外ヶ浜といった。外ヶ浜に行くのも生涯のうちでは難しいであろうと思っていた。ましてや外ヶ浜から大海を隔てた寒冷の地、蝦夷国の奥までいけるとは思わなかった。二百里余りかなたのニシベツまで往復し、供として連れて行った四人とも一日も病気になることなく無事に江戸に着くことができたことは、誠に給わった命令と先祖の霊のおかげであり、有難いと感じる。

〈コメント〉
この時代、遥かに遠いことを「津軽・合浦・外ヶ浜」と言っていたと書かれています。これらは本州の北端の地名です。北海道は日本とはみなされていなかったようです。外ヶ浜から大海を渡り蝦夷国のそのさらに奥の方までいくことができるとは伊能忠敬も思っていなかったのでしょう。日記では淡々と職務をこなす様子が書かれており、その積み重ねがこの大事業を可能にしたのでしょう。


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寛政12年10月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年10月17日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年10月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年10月朔日(1日)(1800年)
朝から晴れ、昼曇る。三橋(藤右衛門)氏への新暦伝来の草稿作成や象限儀を磨く必要があり、(盛岡に)逗留。盛岡までの先触を受け取ったので、止宿日限を書き添えて先触及び添触を仙台城下留めで出す。案文は三厩の際の先触と同じである。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
チーム伊能、本日は盛岡に逗留。とはいえ、ノンビリしている暇はありません。①三橋藤右衛門(幕府のお偉いさん)から出された宿題のレポート、②象限儀の手入れ、③先触及び添触の手続きと様々なことをしなければなりません。特に①のレポートはなかなか大変そうです。

寛政12年10月2日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。朝七つ半過ぎに(盛岡を)出立。郡山二日町(上町ともいう)を過ぎ、石鳥谷で中食。一日市町、川口町を通リ、七つ頃花巻川口町に着き、止宿。夜晴天、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、盛岡城下(盛岡市)〜花巻川口町(花巻市)。地図では36キロ。終日晴天で天気は安定しています。チーム伊能も淡々と歩を進め、花巻に到着。日記の記事は必要最小限で簡潔です。

盛岡城跡 to 里川口町

盛岡城跡 to 里川口町



花巻川口町は宮沢賢治が生まれた町です。

寛政12年10月3日(1800年)
朝から八つ頃まで晴れ、そのあと曇る。朝七つ半に(花巻川口町を)出立。鬼柳を通り、金ヶ崎で中食。水澤に八つ半ころに着き、止宿。この日の夜は曇天であったと思う。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は花巻川口町(花巻市)〜水澤(奥州市)地図では約30キロ。当時は不定時法なので、七つ半は日の出約一時間前のこと。うっすら明るくなってきたときに出立し(七つ半出立)、日のある頃に(八ツ半)次の宿に到着するのが旅の基本です。

里川口町 to 水沢駅

里川口町 to 水沢駅



水沢は高野長英の出生地(1804年生)。水沢には高野長英記念館があります。

寛政12年10月4日(1800年)
朝から晴曇り、夜は晴天。七つ半後に(水澤を)出立し、前澤を通り、一ノ関町に八つ頃に着き、止宿。同町は田村紀三郎が藩主、三万石。この夜測量を行った。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は水澤(奥州市)〜一ノ関町(一関市)。地図では約25キロ。止宿場所は一関藩、藩主は田村紀三郎(当時16歳)で三万石。田村紀三郎は後に「田村宗顕」と名乗ります。一ノ関は現在は岩手県ですが、当時は仙台藩の支藩でした。

水沢駅 to 一関市役所

水沢駅 to 一関市役所



寛政12年10月5日(1800年)
朝から昼まで晴天。七つ半に(一ノ関町を)出立。有壁、金成、澤辺を経て、月館(築館とも)に八つ半頃に着。夜は白雲で、雲の合間から測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は一ノ関町(一関市)〜月館(栗原市)。地図では約27キロ。2日から四日連続で出立は七つ半(日の出約1時間前)です。一ノ関は岩手県ですが、有壁から宮城県。月館(旧築館町)まで進んできました。本文の「(築館とも)」は忠敬が書いており、地名にどのような漢字を当てるか一定していなかったことが分かります。

一関市役所 to 栗原市立築館小学校

一関市役所 to 栗原市立築館小学校



寛政12年10月6日(1800年)
朝から晴れ、夜は曇る。朝六つ前に(月館を)出立。高清水、荒谷を経て、古川で中食。三本木を経て、七つ半過ぎに吉岡に着き、止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は月館(栗原市)〜吉岡(大和町)。地図では約39キロ。本日は朝六つ(日の出時)に出立しており、いつもより少し遅い旅立ちです。その為到着もいつもより遅く七つ半(日の入りの一時間前)着。

栗原市立築館小学校 to 吉岡宿本陣案内所

栗原市立築館小学校 to 吉岡宿本陣案内所



本日泊まる吉岡宿は2016年に、映画『殿、利息でござる!』に当時の宿場町の出来事が取り上げられました。これは「国恩記」という江戸時代に書かれた記録に基づいた映画です。

寛政12年10月7日(1800年)
早朝少し晴れ、測量。六つ前雨、五つ過ぎから晴れ。吉岡を出立し、富谷新町、北田を経て、九つ半に仙台城下国分町に着き、止宿。夜晴れ、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は吉岡(大和町)〜仙台国分町(仙台市)。地図では約22キロ。本日は距離が短いため、九つ半(午後1時)には仙台到着。中食についての記載がないことから、中食を食べる前に仙台に着き、夜までは少しはのんびりできたのではないかと思われます。夜は晴れたので、測量(天体観測)を行っています。

吉岡宿本陣案内所 to 国分町

吉岡宿本陣案内所 to 国分町



寛政12年10月8日(1800年)
朝から晴天、九つ頃から少し曇る、夜は薄曇り、測量。本日、森岡(盛岡)から仙台留めで出した先触を受けとり、止宿先を書き添えた(先触の案文は盛岡から出したものと同じ)。また、従前の添触の写しや浅草司天台の高橋先生への書状が先触と共に届くように手配した。
三橋氏より仰せのあった天文暦学一件についての書面も旅行中認めたので、高橋先生にご覧いただくよう手配した。四つ頃、町役人にこれらを渡した。(国分町に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は所用をこなすため仙台国分町逗留。①先触、添触の処理、②師の高橋至時への書状の送付手配、この書状には③三橋藤右衛門へのレポート案も同封。レポート案を師匠に見てもらい添削を受けるためです。筆マメな忠敬は、高橋至時への書状を記録しています。⇒ブログに現代訳を掲載しました。
#伊能忠敬 #測量日記

伊能忠敬、帰路仙台から師匠高橋至時に書状を出す - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉伊能忠敬は蝦夷地測量で国後島を目指していましたが、残念ながら国後島にはたどり着けず、ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)から折り...

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寛政12年10月9日(1800年)
朝から曇晴れ、八つ過ぎ小雨、夜も曇天。朝七つ半に国分町を出立し、長町、中田、増田を経て岩沼で中食。岩沼大明神に参詣し、佐原の油屋四郎兵衛の墓へ立ち寄った。槻木を経て、舟迫に七つ頃着き、止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は仙台国分町(仙台市)〜舟迫(柴田町)。地図では約30キロ。「舟迫」は現代では船迫(ふなばさま)と表記します。

国分町 to 〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目

国分町 to 〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目



忠敬は途中岩沼(岩沼市)で岩沼大明神に参詣しています。現在の竹駒神社。明治以前は以前は武隈明神といわれていました。名称が変わったのは、国家神道の流れの中で、明神思想が否定されたため。明治以降は稲荷神が主祭神とされました。

また、岩沼では佐原の油屋四郎兵衛の墓へ立ち寄ったとあります。この点については、千葉県図書館さんのリサーチがありますが、はっきりしたことはわからないようです。

『伊能忠敬測量日記』によると、寛政12年10月9日に宮城県岩沼の竹駒明神にお参りした後に「・・・佐原... | レファレンス協同データベース

レファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。参加館の質問・回答サービスの事例、調べ...

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寛政12年10月10日(1800年)
早朝測量。晴曇り。朝七つ後、舟迫を出立。大河原に朝六つ前に着いた。大河原宿の入口で鈴木公にお会いして江戸への帰府届の儀を伺う。本陣で村上三郎右衛門殿にお会いし、津田公に頼まれたご挨拶をした。金ケ瀬、田宮を経て、白石で中食。斉川を経て、越河に八つ半過ぎに着き、止宿。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は舟迫(柴田町)〜越河(白石市)。地図では約26 km。途中、大河原宿で津田公(佐原の領主)に頼まれた所用を済ませてから越河宿(現在は越川と表記)まで歩を進めています。

〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目 to 白石市立越河小学校

〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目 to 白石市立越河小学校



挨拶をした「村上三郎右衛門」は旗本 。伊能忠敬は往路でも会っています(5月9日条)。このときは村上が江戸へ向かう途中でした。今回は忠敬が復路、村上は箱館に向かう途中のようです(三橋成方と交替で箱館の奉行所に詰めるため)。
 「津田公」は佐原の領主で、蝦夷地測量についても伊能忠敬を何かとバックアップしていました。


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伊能忠敬、帰路仙台から師匠高橋至時に書状を出す

2022年10月08日 | 伊能忠敬測量日記
〈はじめに〉
伊能忠敬は蝦夷地測量で国後島を目指していましたが、残念ながら国後島にはたどり着けず、ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)から折り返すことになりました。
師匠の高橋至時への書状は、①現在の状況の説明、②幕府の役人三橋藤右衛門からのレポートの添削依頼にあります。
①については、ニシベツで折返し、現在は仙台におり、10月21日には江戸に到着する予定であると書かれています。
②については、「蝦夷地にて三橋藤右衛門様から、天文の来歴、唐土紅毛からの伝来に着き、江戸に着くまでの間に書き認めるようにとのご依頼をいただきました」と書状で説明されているとおりで、この幕府の役人からのレポートの宿題をクリアするために高橋至時先生のお力を借りたいというものです。

【寛政12年10月8日(1800年)伊能忠敬から高橋至時への手紙】
一筆啓上。先生に置かれましてはますますご安泰のことと存じます。
測量の御用の件は従前にも愚簡により申し上げましたので、その後のことをご報告します。
ノコベリベツ、アンネベツを通り、ニシベツまで参りました。ニシベツでは、ネモロ御詰合の役人が出張中でしたので、ネモロには行かずに遠測ですませ、アツケシに帰りました。
8月13日にはアツケシを出立し、9月11日には箱館に帰着しました。箱館を14日に出立し、17日には松前に着きました。翌18日は順風で三厩に無事着き、20日に三厩を出立。道中できるだけ各場所で測量し、今日仙台城下に着きました。長旅でありましたが、ここまで一同無事ですので、ご安心ください。
 仙台は明9日に出立、9月20日には草加泊、21日には江戸に戻る予定でおりまして、先触もそのように出しました。先触とこの書状とは、千住宿から御役所まで届くよう手配いたしましたので、ご高覧の上お手数ですが、深川の隠宅(自宅)まで届くようご手配いただければ幸いです。
一 蝦夷地にて三橋藤右衛門様から、天文の来歴、唐土紅毛からの伝来に着き、江戸に着くまでの間に書き認めるようにとのご依頼をいただきました。三橋様は既に江戸にお戻りです。帰路測量の合間を縫って草稿を書きました。前後も混乱しておりますが、ご高覧の上、なにとぞご添削くださいますようお願いいたします。御面倒をおかけいたしますが、三橋様からのご指示ですので、よろしくお願いいたします。
 ところで、蝦夷地各所で御詰合の役人の方は、「蝦夷人に漁労の時候を指図したいのだが、新しい年の暦が延着してしまうようでは困る。できれば前の年の秋中には略暦でもよいので入手したいものだ。」と口々に仰っていました。このようなことは、三橋様から若年寄様に仰っていただくほかございません。三橋様宛の私の書面にはこのようなことは書いていないのですが、この点もお含みおきいただきまして、併せてご添削くださいますよお願い致します。

〈コメント〉
・伊能忠敬は村役人を長年務めていただけあって、上司である高橋至時への報告も無駄がありません。
 ニシベツから折り返す理由は、寛政12年8月7日付けの日記では詳細に記されていますが、ご紹介した高橋至時への書状では、「ニシベツでは、ネモロ御詰合の役人が出張中でしたので、ネモロには行かずに遠測ですませ、アツケシに帰りました。」と簡単に説明しています。

伊能忠敬、北海道ニシベツから引き返す:寛政12年8月7日日記フルバージョン - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉伊能忠敬は蝦夷地測量で国後島を目指していましたが、残念ながら国後島にはたどり着けず、ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)から折り...

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・今後の予定として、「仙台は明9日に出立、9月20日には草加泊、21日には江戸に戻る予定でおります」と書いており、そのとおりに江戸に到着しています。忠敬の頭の中では旅程のプランニングが出来上がっており、そのとおりに軽々と実行しています。



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寛政12年9月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年10月03日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年9月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年9月21日(1800年)
朝から曇天・小雨であり、夜も同じ。朝七つ半に平館を出立。平館の村々の役人の案内を受ける。蟹田、蓬田(同所では止宿の家がある)、油川を過ぎ、青森に七つ半過ぎに着。
出立した道中で疲労を覚え、少し病気のようであるので、青森に逗留することとし、追触を出す。この夜、津軽家の江戸屋敷松野茂右衛門殿から7月18日付書状を受け取った。
〈追触の内容〉
一 昨21日に青森に着いたところ、病気であるので、本日22日は青森に逗留し、23日に出立するので、そのように心得て、止宿及び人馬の手配を執り行ってください。 以上
 申9月22日     伊能勘解由
           青森から森岡まで
村々名主・問屋・年寄 中
(コメント)
本日の旅程は平館(平舘;外ヶ浜町)〜青森(青森市)。平館の村役人は親切でチーム伊能を案内してくれました。本日も約40キロ歩いており、さすがの忠敬も疲れを覚えたようです。青森にて逗留予定。

外ヶ浜町役場 平舘支所 to 青森駅

外ヶ浜町役場 平舘支所 to 青森駅


   
寛政12年9月22日(1800年)
前夜から朝飯後まで雨、四つ頃から止んで曇天、夜まで度々小雨。(青森に)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は予定どおり青森で逗留。終日雨の降る日でしたので、休息には丁度良かったかもしれません。休日はこの一日だけで、明日からはまた江戸を目指して歩き続けます。
                       
寛政12年9月23日(1800年)
朝から晴天、暮より曇り、その後晴れ。朝七つ半青森を出立。野内を通り、小湊に九つ半に着。止宿。この夜晴れたので測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は青森(青森市)〜小湊(平内町)。地図上では約26 km。往路では野辺地〜青森まで一気に行っていますが、忠敬の疲れを考慮してか、野辺地より手前の小湊で一泊。

青森駅 to 小湊駅

青森駅 to 小湊駅



寛政12年9月24日(1800年)
朝から晴れ。朝六つに出立。太陽の南中を観測する。九つ前に野辺地に着き、止宿(小湊から五里廿九丁十三間)。夜曇ったが、雲間に測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は小湊(平内町)〜野辺地(野辺地町)。日記では五里廿九丁強(23km強)。野辺地は現在は青森県ですが、江戸時代は盛岡藩。北前船で賑わっていた湊町です。

小湊駅 to 野辺地町役場

小湊駅 to 野辺地町役場



寛政12年9月25日(1800年)
朝から晴天。朝六つに(野辺地を)出立。九つ半ころに七ノ戸に着き、止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は野辺地(野辺地町)〜七ノ戸(七戸町)。往路では五戸〜野辺地まで約46キロを一日で行っていましたから、ここでも短く刻んでいます(地図上では15 km)。日記もごくごく短いです。

野辺地町役場 to 七戸町役場

野辺地町役場 to 七戸町役場



寛政12年9月26日(1800年)
朝五つ頃まで晴れ、その後曇る。朝七つ半(七ノ戸を)出立。藤嶋を経て、五ノ戸に九つ後に着き、止宿。夜晴れて測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント) 
本日の旅程は七ノ戸(七戸町)〜五ノ戸宿(五戸町)。地図上では31 km。忠敬も元気が出てきたのか、距離が伸びています。夜に測量(天体観測)も行っています。

七戸町役場 to 五戸町役場

七戸町役場 to 五戸町役場




寛政12年9月27日(1800年)
朝五つ後より風雨、朝六つ後に(五ノ戸を)出立。浅水を経て、三ノ戸に九つに着き、止宿。宿は山邊源兵衛方である。夜も風雨であったが、雲の中測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は五ノ戸(五戸町)〜三ノ戸(三戸町)。地図上では22 km。往路では三ノ戸はスルーしたのですが、帰路では三戸宿に泊まるからと宿の主人山辺源兵衛と約束をしており(5月6日条)、その約束を果たして三ノ戸に止宿しています。「宿は山邊源兵衛方である」とさりげなく書いていますが、約束は忘れていないとの忠敬なりの表現でしょう。

五戸町役場 to 三戸町役場

五戸町役場 to 三戸町役場



山辺源兵衛との約束(5月6日条)。



寛政12年9月28日(1800年)
朝六つ半(三ノ戸を)出立。五つ過ぎから雪降る。金田の市まで来ると雪はますます降り五六分まで積もった。ここで中食。雪はその後やんだが、(平山)宗平と(伊能)秀蔵は道を間違えたようで追いついてこない。
かなり待ったが来ないので、金田市の村役人に依頼して、門倉(隼太)氏と共に先に行く。福岡を経て、一ノ戸に七つ後に着く。ほどなくして、(平山)宗平と(伊能)秀蔵も一ノ戸に着いた。夜も雪が少々降ったが、雲の中を測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は三ノ戸(三戸町)〜一ノ戸(一戸町)。地図上では22 km。ついに雪が降ってきてしまいました。五六分といいますから、2センチ弱くらいでしょうか。雪のせいもあるのか、平山宗平と伊能秀蔵は道を間違えてしまい、途中別々になってしまいました。

三戸町役場 to 一戸町役場

三戸町役場 to 一戸町役場



寛政12年9月29日(1800年)
朝六つ後に(一ノ戸を)出立。五つ頃雪が降り、七つ頃また雪が降った。一ノ戸から三里程で小憩。ここで中食としたが、この時も雪。七つ半後沼宮内へ着いた(一ノ戸から八里強)。止宿。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は一ノ戸(一戸町)〜沼宮内(岩手町)。八里強(32 km)。本日も雪が降り続く中での旅。夜も雪の中、天体観測(昨日もそうでした)。雪の中を30キロ以上歩き、夜に天体観測までしており、忠敬の体調は完全に戻ったようです。

一戸町役場 to 沼宮内代官所跡

一戸町役場 to 沼宮内代官所跡



寛政12年9月晦日(30日)(1800年)
朝から暮まで晴れ。朝七つ半出立。四里余りで渋民。ここで中食。そこから五里弱で盛岡城下(南部大膳太夫・十万石)に七つ頃着。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は沼宮内(岩手町)〜盛岡城下(盛岡市)。地図上では35キロ。当時盛岡は南部藩十万石の城下町です。南部氏は大膳太夫を名乗っていました。本日盛岡に到着で、江戸にはあと20日ほどで到着する予定です。

沼宮内代官所跡 to 盛岡城跡

沼宮内代官所跡 to 盛岡城跡



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寛政12年9月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年09月26日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年9月11日(1800年)
朝から薄曇り、夜も同じ。朝六つ後大野村出立、九つ前箱館に着。道のり五里。直ちに御役所へ届出、御添触れも返却する。小林新五郎殿が取り次ぎに出られた。江戸へ帰る際の添触れをお願いした。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ついに箱館に到着!
本日の旅程は大野村(北斗市)〜箱館(函館市)。道のりは五里(約20キロ)。箱館では役所での手続きを行うため、九つ(正午)前に到着しています。約20キロを行くのに半日で済ましてしまう相変わらずの速さ。

大野小学校前 to 元町公園

大野小学校前 to 元町公園



役所では着到届をし、箱館までの御添触れを返却。また、箱館〜江戸までの役所から添触れを発行してもらいます。
往路では着到届は日記に記録されていましたが、復路は記録されていませんでした。
⇒参考 往路の着到届

函館到着の際の伊能忠敬の届け - 弁護士TKのブログ

伊能忠敬は第一次測量の際に北海道(当時の言葉では「蝦夷地」)を訪れます。幕府の蝦夷地統治の拠点である函館(当時のは「箱館」)に到着したの...

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寛政12年9月12日(1800年)
午前晴れ、午の中の刻から曇る。その後は晴れたが、夜は曇り。夜少し測量。
朝飯後、御番所よりお呼び出しがあった。

 帰府の添触れを渡すので、八つ半時までに罷り出なさい。以上
 九月十二日
上包 伊能勘解由殿      御番所

#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
手続き待ちで箱館に逗留。
昨日、忠敬は役所に江戸へ帰る際の添触れをお願いしていましたが、本日出来上がりました。呼出の書状が届いてから、出頭する決まりのようです。先触れと添触れも日記に記録されていますが、長いのでブログに譲ります。

帰路箱館からの先触・添触(伊能忠敬・測量日記) - 弁護士TKのブログ

帰路箱館からの先触・添触(伊能忠敬・測量日記)(はじめに)伊能忠敬の測量日記に記載されている箱館からの先触及び添触を紹介します。【寛政12...

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寛政12年9月13日(1800年)
朝から曇天、九つ後小雨、夜大風雨。夜、津軽家の笹森勘解由勘定奉行宛に箱館帰着を告げるため、竹内甚左衛門へ書面を遣わした。(箱館に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
箱館にて止宿。笹森勘解由は津軽家の勘定奉行、竹内甚左衛門はその部下で箱館に詰めています。往路で三厩からは津軽候の御役船で渡船していますので、津軽家(弘前藩)にも帰着届けを出しておく必要があるのでしょう。今日まで箱館逗留で、明日に出立です。

寛政12年9月14日(1800年)
(昨夜は大風雨であったが)六つ前に雨はやむ。昨日竹内甚左衛門へ箱館帰着の報告の書面を遣わしたが、本日朝返事が届いた。朝五つ頃箱館を出立。ほどなくして雨、午後まで降る。戸切地にて中食。三谷、富川を通り、茂辺地に七つ半に着。止宿。夜晴れて風あり。寒さ甚だし。測量するには適さず。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
箱館を出立。松前を目指します。
本日の旅程は箱館(函館市)〜茂辺地(北斗市)。地図上では約21 km。旧暦9月中旬にもなり、夜は晴れたものの、かなりの寒さで天体観測をするには適さないのも無理はありません。

元町公園 to 茂辺地小中学校

元町公園 to 茂辺地小中学校



寛政12年9月15日(1800年)
朝から晴天、六つ頃出立。三ツ石を通り、喜古内で中食。知内へ七つ頃着。止宿。夜中も晴れたので、測量を行う。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は茂辺地(北斗市)〜知内(知内町)。地図上では約30 km。本日の宿泊地「知内」からは松前藩領です。松前から知内までが松前藩領で、知内川を境として、御用地(幕府領)となります(5月21日条参照)。

茂辺地小中学校 to 知内町役場

茂辺地小中学校 to 知内町役場




寛政12年9月16日(1800年)
朝から晴れ曇り。六つ後出立。四里半行き、一ノ渡で中食。そこから二里半行き、七つ時に福嶋へ着。止宿。夜中晴れ、測量。
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
本日の旅程は知内(知内町)〜福嶋(福島町)。道のりは四里半+二里半=七里(約28キロ)。夜晴れたため「測量」(天体観測)。昼は毎日30キロ近くを測量し、さらに夜に天体観測。忙しい日々です。

知内町役場 to 福島町役場

知内町役場 to 福島町役場



寛政12年9月17日(1800年)
昼は曇り晴れ、夜は晴れ。朝六つ半福嶋を出立。アラヤにて中食。道のり五里で松前城下に八ツ半頃着。宿はカラツナイ町の升屋吉右衛門の弟傳右衛門。福嶋からの行程であるが、一里程行き吉岡、そこから半里程で吉岡峠。吉岡峠は白カミ峠ともいい、海岸は白カミ岬である。吉岡峠は大峠であった。松前に着いた時に、役人と栖原屋小右衛門が出迎えに来てくれて、宿へも顔を出してくれた。栖原屋小右衛門は、箱館会所の御用聞きである栖原屋庄兵衛の子。夜晴天、測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
松前に到着!蝦夷地測量旅行の最終地点。ここから本州の三厩に明日渡船の予定です。箱館からは三泊四日の行程でした。
本日の旅程は福嶋(福島町)〜松前(松前町)。道のり五里(約20キロ)。途中、吉岡峠(別名白カミ峠)を通るのが、現代の道路とは異なるところ。

福島町役場 to 松前城跡

福島町役場 to 松前城跡


寛政12年9月18日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。本日朝飯後、松前で弁天の前山に登り、大嶋・小嶋等を測量。正午過ぎに風が吹いてきたので乗船し、出帆。乗船の際は松前侯から侍二人が見送りにきていただいた。この船は、松前候の御役船である。(往路の)三厩から箱館・松前へは津軽侯の御役船であった。着船の際は、船頭に酒を遣わす予定であったが、この日は順風だが風弱く、船行はかどらず。夜四つ頃三厩へ着。海上七里というけれども、五里未満ではなかろうか。
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
ついに三厩(本州)に到着!
往路では風待ちで三厩(青森県)に長逗留を強いられたチーム伊能ですが、復路は順風が吹き、松前での風待ちは午前のみ。風待ちの際も山に登り、測量を行っています。
渡船。風が弱いため正午過ぎに松前を立つも三厩到着は夜四つ(午後10時)。お疲れさまでした。
 往路(三厩⇒箱館を狙うも吉岡着)は津軽藩の御役船でしたが、復路は松前藩の船。松前〜三厩は海上七里(約28キロ)といわれていたようですが、五里(約20キロ)未満ではないかとの疑問を呈しています。

寛政12年9月19日(1800年)
朝から晴天、夜は薄曇り。今朝御勘定組頭村田鉄太郎殿が三厩を出立したので、午の刻前に先触と共に添触の写しを添えて出す。(三厩に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は三厩に逗留。往路では渡船の風待ちのため三厩に長逗留を余儀なくされましたが、逗留は本日のみの予定。
①本人の先触、➁役所の添触(ご証文)、③村役人から各宿への添触が、当時の公用旅行者の三点セット。公用旅行には欠かせないものであり、忠敬の測量日記ではこの点の言及が頻繁にあります。

寛政12年9月20日(1800年)
朝から薄曇り、昼は小雨、夜は中雨。朝六つ後三厩を出立。今別村を通り、母衣月で中食。ここの海にはシヤリ石があり、今別の海辺には津軽石がある。七つ頃、平館村に着き止宿。三厩から村々の役人の案内があった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
いよいよ本州最北端から江戸に向けての旅が始まりました。本日の旅程は三厩(青森県外ヶ浜町)〜平館(平舘;青森県外ヶ浜町)。津軽地方の村役人さんは非常に親切で、チーム伊能の道案内をしています。これは往路でも同様。人情に篤い土地柄です。

外ヶ浜町 三厩支所 to 外ヶ浜町役場 平舘支所

外ヶ浜町 三厩支所 to 外ヶ浜町役場 平舘支所


本日の日記ででてくるシヤリ石は、舎利石のことでしょう。忠敬は、舎利石と津軽石を区別していますが、現代ではこの区別がされているのかよくわかりませんでした。現代では「錦石」と呼ばれています。

青森県の伝統工芸品(錦石)

錦石 (にしきいし) "Nishiki"StoneProducts磨きぬかれた光沢が美しい津軽石「錦石」「陸奥の錦石」として名高い青森の錦石は、碧玉、めのう、玉髄などの石英...

青森県庁ホームページ



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